第十一話 女神 - Aパート
蜷川つるぎの研修に付き添うなかで、菜花湊も菜花湊なりに、経験を積んできた。つるぎがいなければ切り抜けられなかった危機ばかりとはいえ、旅に出る前と比べれば、経験値はかなりたまった――と、湊は思っている。
それにいまは、聖剣『イニミ・ニ・マニモ』がある。つるぎが創って全神王が強化した。なんでも一刀両断できる、最強の剣である。試練のダンジョンに閉じ込められていた一か月間、キャルゼシアに持たされていた剣はゴーレムの身体に歯が立たない代物だった。そんなものを使ってゴーレムをどうにかさせようとしていた、あの修行はなんのためのものだったのか? 湊はいまでも疑問に思う。
あのときとは違う。ゴーレムに叩きのめされ、死にかけてはキャルゼシアに遠隔回復され、立ち上がらなければ首輪を絞められたあのころとは。苦痛と否定を浴びせられ、孤独と無力さをひたすらに感じさせられ、涙が止まらなかったあの日々とは違う。
(ちがうのに)
違うというのに、菜花湊は、遠方のゴーレムを見た瞬間、震えが止まらなかった。
その拳を視界に入れると、殴られたときの感覚、壁面に叩きつけられたときの恐怖が蘇った。身体が暴虐を覚えていた。いま握っている聖剣が通用するとは、なぜだか思えなかった。切りつけることを考えると、それがちっとも意味を成さなかったあの瞬間の切なさが邪魔をして、前向きになれない。
そして、うんざりするほど感じた、このダンジョンの閉塞感。目に焼きついた薄暗闇と篝火、壁の模様。そこにゴーレムの姿が合わさると、湊はタイムスリップしたような心地だった。あるはずのない、重い修行セットが圧し掛かった。グザイで買った、つるぎとお揃いのペンダントは、どうしてか首輪な気がしてならなかった。
呼吸が浅くなる。首輪が絞まったときの感覚を想起した。口のなかいっぱいに広がる血の味を想起した。肩の骨が外れたときの寒気を想起した。
『涙を流して震えるか。なんと情けないのう。それでは、世界どころか何を護ることもできないじゃろう。不屈の闘志を持たぬ男など、生きている価値もないぞ』
幻聴――キャルゼシアの声。
『どうしてそんなに軟弱なんだよ? ゴキブリも触れないなんて男のくせにみっともない。なよなよして気色悪いったらありゃしない。厨房に立ちたい、花が好き、家のなかで恋愛小説なんか読んでる、これが息子? 悍ましくて吐きそう。こっちが泣きたい、そんな気持ち悪い子に育つんなら産まなきゃよかった。男らしくない男なんかみんな嫌いだよ、お前は誰とも幸せになれない。嫌なら男になれよ』
幻聴――母親の声。
関係ない、はずなのに。
「……違う、なんで、……僕は、……おかあさん、ごめんなさ」
「謝らなくていい。大丈夫だから。大好きだから」
湊の口を手で覆って、つるぎが現れる。
「……つるぎ」
「汗かいてる。お水要る?」つるぎはコップを生成して水の魔法で冷たい水を注いだ。
「ありがとう」
「怪我はない?」
「うん、まだ」
「そっか。よかった」湊の頭をひと撫でしてから、つるぎはぎゅっと抱きしめる。「帰ろう」
「……いや、でも、この奥に。魔王を倒すのに使う、剣があるらしくて」
「あ、そういうこと? じゃあ、一緒に行こう」
つるぎは湊の手を握って、歩幅を合わせて進む。道を塞ぐゴーレムを、つるぎは一瞬で消し去った。
「それにしても、前に消したはずなのにね、ゴーレム」
「ダンジョンにいるのは、あの一体じゃなかったのかも」
「ああ、そっか。ゴーレム以外もいるかもしれないし、気をつけて行かなきゃね」
「うん」
「わたしが護るから」つるぎは湊の手の甲にキスをする。「何も気にせず怖がっていてね」
「ありがとう」
しばらくして最奥に到着すると、そこには小屋があった。小屋の近くの湖のようなものは、よく見ると湯気が立っていた。マグマで温められた水のようだった。おかげで蒸し暑かった。
「おやおや、珍しいお客様だね」
といって、小屋のなかから背の低い老爺が出てきた。
「初めまして、蜷川つるぎと申します。あなたは?」
「何、ただの隠居さ」老爺はつるぎと湊をじっと見る。「そちらの男の子は?」
「菜花湊です」と湊はいった。
「ああ、じゃあ予言の勇者かい。そしたら、通りなさんな」
老爺は湖のなかに手を入れる。すると、何もない壁が自動ドアのように開いた。湖のなかのスイッチを押すことで、隠しドアを開いたのだった。
「案内するよ」
という老爺の後ろを、つるぎと湊は着いていく。
隠し通路の向こう、デパートのエレベーターくらいの広さの空間。
そこには、九つの錠のかかった鎖で雁字搦めにされた、棺桶のような箱がひとつあった。
「この箱を開けて『ヴァレンタイン』を手に入れることができた者が勇者……ということらしいぜ。どうする?」
老爺がいうと、湊はすぐに動いた。
聖剣『イニミ・ニ・マニモ』を使って鎖をすべて断ち切り、箱を開けた。
「これですか?」
紅色の美しい刀身を持つ、豪奢なロングソードを拾い上げて、湊はいった。
「なんとあっさりと」老爺は苦笑していう。「うん、それだよ。持っていくといい」
「これが『ヴァレンタイン』」湊は並べて置いてあった鞘に納めながら、「でも、聖剣があるのに必要なのかな? 本当に」と疑問を呈した。
「まあ、スペアはあったほうがいいんじゃない?」つるぎはいった。「それじゃあ、この剣はいただいていきます。ご案内いただきありがとうございます」
「ああ、達者で。そうだ、きみ……蜷川つるぎ」老爺はいう。
「なんでしょう?」
「ひょっとして、新しい女神の子かな?」
「あ、はい。研修中ですが」
「それじゃ、これだけ覚えて帰るといい。
神であっても、独りで叶えられることなどたかが知れていること。そして、愛があるくらいじゃあ救いきれないものが、この世界にはあふれていることを」
「ああ、わかりますそれ。ほんそれって感じです。
でも、わたしだけだったとしてもいますぐ動かないといけなかった場面も、愛がなかったせいで到ったかなしみも、数えきれませんから。
愛は大前提で、そのうえでそのとき早くやるべきことをやりながら、自由や夢の叶えかたを考えることも頑張ろうと思います」
「そうかい。それじゃあ、余計な口出しだったか」
「いいえ、大前提に立ち返ることは大切なので。ありがとうございます」
もう一度礼をして去っていくつるぎと湊に、老爺はゆるりと手を振った。
階段を登って試練のダンジョンを出ると、そこは不死鳥の城の地下室だった。地下室から出てみれば、パトスとフェニックスがふたりを待ち構えていた。
「よくぞご無事でお戻りになられましたね、貴様ら」とパトスは張りつけた笑みでいった。
「あれ? パトスさん」湊は襟を指さす。「どうしたんですか? 血で汚れていますが」
「女神つるぎが暴れたのですよ」フェニックスはしかめっ面で答える。「汝を助けに行くといって聞かなかったのです」
「パトスさんの制止を突破したくて、強硬手段に出てしまって……申し訳ありません」とつるぎは謝る。
「どうせ悪いとは思いになっていないのでしょう? 勇者様のためにキャルゼシア様を殺めたように、平然としたものでしょう」
とパトスはいった。湊が何かいおうとしたのを察して、つるぎは制する。
つるぎ自身が罪についてどう捉えているかをここで力説したところで、パトスがそのまま受容するとは思えない。どころか、口論に発展してしまうかもしれないとつるぎは考えていた。
だから、ここは穏便にやりすごすべきだと――そう思った。
「女神つるぎ。汝は、そちらの勇者と恋愛関係にありますね。パトスから聞きました」
「はい」
つるぎが頷くと、
「いうまでもないことですが、汝が女神であるならば、その関係は解消するべきです。
覚悟はおありですね?」
と、フェニックスはいった。
湊はそれを聞いて、つるぎの顔を見た――つるぎはさして動揺する素振りもなく、
「解消はしません」
きっぱりと、そう答えた。
「女神はすべての民を平等に愛し、護らなければなりません。すべての民から信仰される責任とはそういうものです。そして女神とはいついかなるときも、天界と下界のために、滅私の心で尽くさねばなりません。女神の権能がもたらす尽きない体力はすべて、女神としての仕事のためだけに充てられなければなりません。
その覚悟がおありでないならば、覚悟が済むまで、瞑想をしていただきます」
フェニックスは、燃える翼とは対照的なまでに怜悧な瞳でつるぎを見つめた。
つるぎはそこに、真っすぐな瞳を返した。
「おっしゃりたいことは理解しております。
女神であるわたしにとって、他の民よりも特別な存在がいること、その是非について、考えたことがないわけではありません。彼を愛するあまりに誰かの命を犠牲にするようなことは二度と起きてはいけませんし、女神として本格的に業務を始めるならば、なおさら絶対にあってはいけないと思います。
しかし、彼がわたしにとって愛しい人である限り、絶対に起こらないと断言することはできません。そしてもしも彼が命を落とすことがあれば、わたしはきっと女神を退位せざるをえない精神状態となるでしょう。その自覚があります」
「それでは、関係解消以外の選択肢はありませんね?」フェニックスはいう。
「いいえ。わたしは彼の手を離しません」つるぎは湊の手を強く握る。
「では、汝自らが示唆した破滅の未来を、どのように回避するのですか?」
「本当に女神を始めてみないことにはわかりません。何ができるか。何ができないか。
それが見定まったとき、必死に模索することとなるでしょう」
「必死に模索? 何をほざいているのですか。汝は女神というものを甘く見ています。そのようなことにリソースを割いている暇はありませんし、その暇があるならば、それは女神の仕事をさらによりよく遂行するために費やされるべきです」
フェニックスの言葉を受けて、つるぎはずっと思っていたことをいう。
「質問です。女神の命が不死でない理由は、女神が精神に異常をきたしてしまって、天界や下界に害なす存在となった場合の対策であると聞いております。正しいですか?」
「はい」
「その対策が措かれたということは、前例があったのですか?」
「……どうなのですか、パトス」
促され、パトスは頷いた。
「異世界にてございました。なにぶん、わたくしが生まれるずっと前のことですので、とうさま……もとい全神王様からの伝聞となりますが。
その異世界もパンゲア界のように女神が干渉するスタイルでの管理が行われていたのですが、女神教以外の宗教が興ってからはひたすらに戦争が繰り広げられました。
戦争もまた人類の発展の可能性であるとして直接介入をしなかった結果として、女神教の信徒間でも思想の対立が起こりました。そして下界から天界に昇った戦死者のなかから、天使試験にわざわざ突破してから天界を荒らす逆恨み者なども現れました。結果としてやるべき仕事が増え、その女神は多忙を極めたそうです。
ある日、その女神は、他の世界の女神との会議を無断で欠席しました。忙殺のなかで予定を忘れたかと思えばそうではなく、会議の予定を伝えようとした大神官を手にかけたあと、天界も下界も滅ぼしにかかる凶行に手を染めました。全神王様が神罰をくだす頃には、すでにすべての天使が殺戮され、大陸は焦土となっていたとのことです。
全神王様はその件を受けて、女神に死の可能性を与え、地上に聖なる竜を置くようになりました」
そのエピソードを聞いて、つるぎは確信を得た。
「ありがとうございます。やはり、そういった経緯だったのですね。
わたしはそれを踏まえて、湊くんとの関係を継続しながら女神の業務に臨みます。
何故ならば、その女神のように精神的負荷で歪んでしまわないように、心の拠り所や逃げ場を残しておかなければならないと考えるからです」
「女神に逃げ場などありませんよ」フェニックスはいった。「そのような前例はありません。常に向き合いなさい」
「わたしが前例になります。わたしの世代から、女神に逃げ場を認めることを当たり前にします」
「女神つるぎ、我儘はいい加減にするのです。いままでのパンゲア界の女神は、そのようなものを必要としませんでした」
「そうだったのでしょうね。そしてそれは、歪みを生みました。
先代女神キャルゼシアの足跡を辿り、わたしはキャルゼシアさんも人間と同じく傷つき、傷によって変えられてしまうのだと理解しました。そして休みのない女神の業務を百年続けたキャルゼシアさんは、湊くんを――勇者を、修行と称していたぶるほどの嗜虐欲の持ち主になりました。これはご存知ですか?」
「……キャルゼシアが、そのようなことを? そうなのですか、パトス」
「キャルゼシア様が勇者様に厳しい修行を強いていたことは事実です。
しかしながら、それはあくまでも、魔王がどれほど強大であっても打ち勝てるような力をつけさせるためです。嗜虐欲とはいいがかりです」
「勇者を躾けるように彼の首輪を絞めるとき、キャルゼシアさんは、笑っていました。にやにやと、弱者を虐げる者の、優越的な笑みでした。わたしがキャルゼシアを殺めたのは、その点が何より許容できなかったからです」
「……証拠のない話はやめましょう、つるぎ様。貴様の見間違いでしょう」
とパトスは肩を竦めた。
「パトスさんは過去に戻れるのですよね。であれば過去に戻って確認していただいても構いません」
「つるぎがいう通りです」湊はいった。「首輪の苦しみに悶える僕の耳に、キャルゼシアの高笑いが聞こえてきたことがあります」
「……いったん、信じましょう」フェニックスはいった。「それで、だからなんだというのですか?」
「キャルゼシアさんは実はずっと、ストレスの捌け口を求めていたのではないですか? それが加虐行為に向くフェーズにきていた。百年の、休みなき業務の果てに、キャルゼシアさんだって限界が近かったんじゃないですか?
どんな女神だって、愛したり望んだり律したり擦り減ったりする心がある。無尽蔵なのは体力だけでしょう? メンタルを癒すものが何もないまま重責ばかりを背負い込んでいては、いずれ暴走してしまっても当然です。
女神が負荷を溜め込んで暴走したときの対処だけを考えるのではなく、なるべく負荷を溜め込まない方策も考えるべきなのではないですか?」
「その方策が、特定の人間との恋愛関係を繋げたまま女神の業務に身を投じることというのですか?」
「あくまで前例で、一例です。孤独の時間にこそ癒される女神も当然いるでしょうし、動物を飼ったほうが癒される場合もあるでしょう。プライベートといえる時間や、普段の業務を考えずに過ごせるような存在を作り、定期的に精神的な休養を取るべきだという話です。もっとも、本格的に始まってからその実現可能性を探ることにはなりますが」
「それでは、女神つるぎ、汝も恋愛関係でなくてよいでしょう。図書館に寄って読書でもすればよいのではないですか?」
「いいえ。わたしには湊くんが必要です。ここまでの旅路も彼が精神的支柱となってくれました」つるぎはいいきる。「そして、どのように休養をとるか、という点については、女神ごとの自由であるべきです。もちろん民をいじめるような真似であればいけませんが、誰にも迷惑をかけないならば、自由に選べなければならないと思います。
女神でも人間でも、どのような心にとっても、自由こそが最高の薬ではないでしょうか」
「女神はすべての民を平等に愛し、護らなければなりません」フェニックスは少し前にいったことを繰り返した。「余暇や遊びの時間が、もしも捻出できるならば、それもよいかもしれません。ですが女神の愛は平等でなければなりません」
「わたしは女神である前に蜷川つるぎです。女神として働くときは平等に愛を与えるでしょう。しかし休養のときは、蜷川つるぎに戻ります。それでいったい、何が問題でしょう」
そういうことではありません、とフェニックスは嘆息する。
「恋人とそれ以外の民のどちらかしか護れないとき、民を選べないならば女神失格です」
「いいえ、誰かを見殺しにした時点で女神失格です。わたしはどちらも護ります。その可能性を見つけます。そのために頭を捻って目を凝らして身体を動かして色んな人の意見も聞いて時間の限り探します。
上手くできなければわたしはわたし自身に失格の烙印を押し、たくさん悔やんで悩んで苦しみます。そして挽回できるようにもっともっと頑張ります。
そうして傷も失敗も抱えながら、誰よりも自由で愛のある女神になります。そして、次の女神の自由も創れるような世代になることを目指します」
どうか温かく見守っていただければ幸いです。
蜷川つるぎはそういって、菜花湊と手を繋いだまま、一礼した。




