第九話 地底の宴 - Bパート
湊は、ダライア・ダリアンの自叙伝に書いてあった、巨人娘との関係についての話を思い出す。
ダライア・ダリアンは作家志望だった。様々な物語を書いては出版社に持ち込んだが、当時の流行作品は美しく抒情的な文体で彩られた社会派の物語だった。それとはてんで違う、とてもシンプルな文体と娯楽に徹した作風の彼の作品は、受け入れてもらえなかった。
のちに好評を博すこととなる劇の原型となる物語であっても、売れる見込みがない、とされてしまった。
作家としての就職活動に難航しながら、親の遺産を持て余す中年男性。そんなダライアの趣味は、町から離れたところで野宿をしながら酔いつぶれることだった。それは虚無からの逃避でもあった。
ある夜、森のなかで酒を飲み、酔っぱらった彼は寝静まった村に入ってしまい、祭壇の穴に落っこちた。偶然、そのとき穴から空を見上げていたオードリーにキャッチされて一命をとりとめた。
死の恐怖と、現れた巨人娘を前に完全に酔いが醒めたダライアは、オードリーにお礼がしたかった。オードリーは、あんまりにも退屈な日々を過ごしているから、何か面白いことをしてほしいと彼にいった。彼はそれを受けて、出版社に持ち込んでも断られてしまった自作をオードリーに渡した。
しかし人間には読める文字サイズでも巨人にとっては細かすぎるものだった。ダライアはどうしたものかと考えて、朗読で物語を伝えることにした。オードリーはそれを楽しみながら、地底生活で接したことのない物事があると、適宜それについて質問した。彼は身振り手振りで説明をした。井戸を掘るジェスチャーや、キスのジェスチャーを、オードリーは興味深そうに見つめた。
ダライアの書いた物語には、歌を唄うシーンがあった。それについて訊かれると、彼は即興で、それらしい歌を唄いあげた。オードリーはそれを楽しみ、物語が終わると、こんなふうにいった。
『ただ言葉を聞かせるだけでなく、身体を動かしたり歌を唄ってくれたりしたから、ぜんぜん身に覚えのない世界の話でも、すごく楽しかったデス。とっても面白くって、幸せデス』
ダライアはオードリーのその言葉から、声やジェスチャーや歌唱など、文字のみでない多様な表現で物語を伝えることの価値に気がついた。それが演劇の価値であることにはすぐに気がついた。
ダライアは演劇について考え、もっと多くの人々がアクセスできるべきではないか、というようなことを思った。
当時、劇団が結成されることこそあったが、劇団とは各地を移動して上演しおひねりをもらって去っていくものだった。人々は劇団がやってくることを受動的に待つしかなかった。それではオードリーのように、劇団がふらっとやってくる可能性の低い場所に暮らしている人間は劇を楽しむことができない。
だから、ここに行けば確実に観劇ができる、という場所を、定位置を生み出せば、多くの人々を退屈から救うことができるのではないか?
それはダライアにとって数年ぶりに芽生えた将来の目標だった。彼を支配していた退屈な虚無から解き放つ思いつきだった。
ダライアはオードリーへの感謝の念を込めて、このような約束をした。
『オードリー。いつかあなたを迎えに行く。そして、毎日新しい物語を楽しめるような、退屈の欠片も落ちていない世界に連れていく』
(……でも、大劇場ができたときには、魔女ブーのせいで迷いの森になっていた。ダリアンヌの人々は、町の重要人物になっていたダライアを森に向かわせることを許さなかった。ダライアは寿命で亡くなった)
オードリーのもとに辿り着く。オードリーは人間サイズのまま、自叙伝をぎゅっと握りしめながら読んでいた。
「ご飯らしいですよ、オードリーさん」
「オードリーは食事いらないデス」
「そうですか。つるぎがプリンっていう甘くて冷たいもの作ってくれてるらしいですけど」
「……行きマス」
オードリーは本を地面に置いて立ち上がった。湊は並んで歩きながら、ダライアの自叙伝の感想を聞いた。オードリーはこまごまと思ったことを話しながら、最後にいった。
「それにしても、まさか魔女ブーが、オードリーとダライアさんのことまで邪魔していた、だなんて。本当に、魔女ブーを殺してくれてありがとうございマス」
「どうも」湊は会釈する。「ところで、気になっていたんですけど。オードリーさんの存在が本になってみんなに読まれている状況って、まずくないんですか?」
「隠さなきゃいけないのは、ヘップバーンのことデスから。オードリーは、ダライアさんにもそのことは教えませんでシタ。だから、ダライアさんを鳥のエサにする必要はありまセン」
「鳥葬なんですか? ラストン族って」
そんな会話をしながら、ふたりは広い部屋に着いた。みんなですでにたくさんの皿を囲んでいた。
柔らかくひらひらとした肉に甘い果実ソースをかけて焼いて、洗った葉野菜の上に乗せる。厚みのある肉には塩をまぶしてミディアムまで炙る。瑞々しい果実は皮を残して均等に切り分ける、あるいは粒にわけて盛りつける。主食は麺を細く切ってほどよく茹でたもの。人数ぶんの、出来合いのミルクプリン、ワインと水。
完全栄養ゼリーばかりの生活をしていた地底家族にとって、それはまさにごちそうだった。メルとキャシィは器に注いだワインを見ながら、まだ魔女ブーがやってくる前、たまに森の外に行った者が働いて買って帰ってきていたことを思い出した。塩もミルクも、ラストン族にそういう遊び人がいたから森のなかでも知ることができたのだ。
様々な者がいるから、様々なものを知ることができたのだ。メルはそう思うと、ラストン族はまた増えたほうがいい、という気持ちを改めて強めた。
「それでは、未来がもたらされたことを祝して」メルがいう。「全神王様に、女神様に、天使様に、聖なる竜に、魔女の犠牲となった魂に、献杯」
オードリーはミルクプリンを噛みしめるように味わったあと、聖竜の近くに帰っていった。そもそも食事はとってもとらなくてもよい、お腹の空かない生き物である。甘みやひんやりを楽しめたら、それでよいようだった。
しかし踵を返すと、オードリーはつるぎにいった。
紙束を手に。
「改めて、ありがとうデス、つるぎサン! いっぱい、劇団、呼ぶデス!」
それはダリアンヌの大劇場に出すための手紙用紙だった。
むろん、公演依頼の際にはお金がかかる――つるぎは、少なくとも十回は呼べそうな額を、オードリーに渡した。
笑顔のオードリーに手を振りながら、つるぎは酒を口にする。
「あんなに嬉しそうなオードリー、初めて見た」とアンドレアがいった。
「オードリーは元々、感情的な人ではないからね」メルはアンドレアの腕のなかのロバートを変顔で笑わせながらいう。「余計な感情を抱いたら、巨人としての仕事に支障を来す、という話だった気がする。ダライア・ダリアンをあれだけ気にしていたのも珍しいことだった」
「ダライアさんが、オードリーさんの感情を刺激するほど、面白い劇を披露したということでしょうか」つるぎはリーナに許可をもらってロバートの頬をぷにぷにつつきながらいった。
「それに加えて、使命のためだけの不老不死という、途方もない退屈に、未来の楽しみを与えてくれたことが――ダライアへの特別視の理由となっているかもしれません」メルはそういってから、あくまでも推察ですが、と加えた。
「オードリー自身がどう思っているのだか、きっとオードリーにもわからないのではないかと思います。役目のために永い刻を生きてきた彼女の内心のことは、我々にも推し量れません。ただ、喜ぶふりをするような者ではありませんから、今日とても楽しかったということだけは真実でしょう」
そしてそれは天使様がたが魔女ブーを殺してくださったからです。
メルがつるぎにそういうと、つるぎは苦笑いをした。
「なんだかこれ、身体がポカポカ」とリーナはいった。
「お酒ですね。初めてですか? 無理しないで楽しんでくださいね」とつるぎ。
「酒も懐かしいものです。十歳の祝いに呑んだっきりですな」とメルがいい、キャシィは笑顔で頷いた。
「リーナ、酒と肉を交互に口にするとなんだか楽しいよ」とアンドレアは酒の肴という概念を発見していた。「ほら、ロバートも飲んでみる?」
「あ、駄目です駄目です。赤ちゃんには身体に悪いのでやめましょう」と湊はロバートと呼ばれた赤子の口元に接近するボトルを手で遮った。
「そうなんですか。ありがとうございます、天使様」アンドレアは素直に従い、礼をいった。
飲み会みたいだ、と湊は思った。そしてこの食事の席にあって、リーナたちの表情が今日初めて会ったときよりも気兼ねのない喜色のあるものに見えた。
「実に愉快です」メルはふにゃりと笑む。「こんなに快い、不安もなく恐怖もなく、幸せで、自由で、気持ちのよい日は、一生来ないんじゃないかと、本当は、思っていました。ですが、訪れました。我々の夜明けです。
これもすべて、天使様がたが、にっくき魔女を滅ぼしてくださったからです!」
「魔女が生きていたら、今日のように……」キャシィは少し泣きそうになりながらプリンを見つめる。「今日のように、穴から外に出て、新しい服を着て、ゼリーではないものを食べて、未知の娯楽に触れることができて、……そんな日は、絶対にありえなかったでしょう。
ありがとうございます、つるぎ様。救いを、ありがとうございます」
「リーナの知らない楽しいことばっかりで、今日、すごく楽しい~!」酔いが回って赤ら顔のリーナは隣のつるぎに抱きついた。「知らなかった、外の世界があるのは知ってたけど、それがこんなに面白かったなんて! 美味しいもの、素敵なもの、いっぱいあるなんて、そして、とっても優しいなんて! きらきらしてた、ダリアンヌってすごい!」
「俺も、今日、すごくわくわくしました。……穴のなかで子供を育てるだけで終わるのかなって思ってたんで、ありがたいです。今日のこと絶対忘れられません。それにリーナも、パパもママも嬉しそうなのが、俺もすごく嬉しいんです。ありがとうございます、天使様。魔女を殺してくれて、ありがとうございます」アンドレアはいって、頭を下げた。
多大なる感謝が、雨のように降り注いだ。




