夫婦ですから
「さて夜も更けてきた。お前様、そろそろ行くかの」
彫り物が一段落してふうと一息つく兵太郎に、紅珠が声を掛けます。
「え、行くって何処へ?」
「何を言っとるんじゃお前様は」
「兵太郎、こんな時間ですよ。行くと言ったら寝室に決まっているでしょう?」
あれ、もう寝る時間? 壁に掛けられた時計に目をやりますが、まだ早いような?
時計が遅れているわけではありません。この時計はやなりさんたちが管理してくれていますから電波時計並みの正確さです。電池も入っていないのに凄い。
となるとどうやら、寝室に行くと言っても眠るという意味ではないようです。
気が付いた時には既に、兵太郎は両側から奥様達にがっちりホールドされておりました。しかし兵太郎には拘束される理由にとんと心当たりがありません。
「あの、 今日僕何も悪いことしてないと思うんだけど……?」
あっはっは。おっほっほ。それはそれは美しい、奥様達が笑います。
あれ、僕また気が付かないうちに何かやっちゃった? 転生チート主人公のごとく記憶を思い起こそうとしますが、やはり何も 思い当たりません。
「馬鹿じゃなあお前様は」
「おかしなことを言いますのね兵太郎」
「儂らは夫婦じゃからの」
「何もなくてもすることはするのですよ」
なるほど、思い当たらないのも道理です。
「お前様、彫り物も良いがの。たんと精のつく物を食べた後に繊細な指の動きをまざまざと見せつけられては儂はもうたまらんのじゃ」
「ええ、ええ。兵太郎にはお料理の間もずっと誘惑されっぱなしでしたからね」
彫り物にジェラシーを感じていたのは、どうやらクロばかりではないようです。
「えっ、えっ、繊細? 誘惑? 何の話? そしてなんで紅さんがお医者さんに、藤さんが看護師さんになってるの?」
なんということでしょう。気が付けば紅珠は聴診器をつけた女医さんへ、藤葛はナースキャップ付きの看護師さんへと変貌していました。
変身に一文字も使わないとは恐るべし早業。さすが大妖怪です。
「安心するのじゃお前様。公正なじゃんけんの結果じゃからの」
「ご心配には及びませんわ、兵太郎。途中で交代しますので」
「いや僕は誰がお医者さん役かとか後で喧嘩にならないかとかを心配してるんじゃなくて……」
ずるずるずる。
女医とナースに引きずられ、兵太郎が寝室へと消えていきます。
「ねえ藤さん、その道具は一体何?」
「大丈夫。痛くはしませんから」
「ねえ紅さん、どうしてベッドに拘束用のベルトがついてるの?」
「手術中に患者が動くと危ないからの」
「手術? 患者? 二人ともいったい何の話をしているの?」
「大丈夫。兵太郎は手術室の壁の染みで人の顔でも想像していれば良いのです」
「それ普通に怖いんだけど⁉」
そもそもなんで内科医と看護師が手術をするのでしょうか。それは誰にもわかりません。世の中には科学で解明できないことは沢山あるのです。ましてや妖が絡むとなれば。
「クロよ、お前もあまり遅くならずに寝るのじゃぞ」
「お風呂は沸いておりますので、自由に入って下さいね」
「畏まりました。紅様、藤様、おやすみなさいませ」
深々と頭を下げるクロの眼前でばたんと寝室のドアが閉まります。ドアの上に「手術中」というランプが点灯すると、恐ろしいほどの静寂があたりを包みました。
クロはさらに主人たちのお役に立てるように、自室で算数ドリルと字の練習をすることにしました。




