分身の術
そこに突然びゅんとつむじ風の様に、真っ黒い人影が飛び込んできました。影は幼い子供の姿をしており、肩に自分よりも大きな鹿を担いでいます。
「あ、お帰りクロちゃん」
鹿を探しに行ったクロが帰って来たのだと思った兵太郎が影に声を掛けますが、しかし答えは在りません。
「あれ? クロちゃん?」
影は無言のまま地面に鹿を置き、兵太郎に向かって恭しく膝をつくとどろんと消えてしまいました。昏倒しているらしい生きた鹿だけが残されます。
「あれえ? クロちゃんだと思ったんだけどなあ」
影はクロと同じ気配がしました。でも影は影です。黒目がちなくりくり目も、ぼさぼさながら撫で心地のいい髪もありません。となるとあれはクロではありません。これはどうしたことでしょう?
絵妄魈たちが寄ってたかって兵太郎の頭の上に「?」を描きます。
びゅん。
兵太郎が不思議がっていると、再びつむじ風が吹きました。
風と共に現れた影は先ほどと同じように担いでいた鹿を地面に置き、兵太郎と奥様たちに向かって恭しく膝をつくとどろんと消えてしまいます。
びゅん。
「兵太郎、クロがただいま戻りました」
「あ、クロちゃん! おかえり」
三度吹いた風と共に現れたのは今度こそクロでした。先の二体の影と同じく昏倒した鹿を担いでいます。
「クロちゃん、今クロちゃんとよく似た妖達がね」
「兵太郎、それはボクの分身です」
クロは鹿を地面に置くと、得意げにうおんと一声吠えました。
するとどうでしょう。クロの背後にクロの姿をした五体の影が現れたではありませんか。狼は群れでの狩りを得意とします。クロは妖力でその特性を再現したのでした。影たちは主の主である兵太郎に向かって恭しく膝をついて頭を下げたのち、どろんと消えてしまいました。
「わ、凄い。クロちゃんは分身の術が使えるんだねえ。それでいっぺんに三匹も捕まえてきてくれたんだ」
兵太郎だってもちろん分身の術は知っています。小学生の頃にはクラスメイトと共に一生懸命反復横跳びの練習をしたものです。そういえばあれからずいぶん経ちましたから、一番上手だったよしのぶ君は今頃分身の術ができるようになっているかもしれません。
「いや、お前様はできるじゃろ分身の術」
「兵太郎は少なくとも二人、いえ三人はいるんじゃないかと思いますわ」
料理をしている時の兵太郎の動きは異常です。右を見てフライパンを振っている兵太郎がいて、左を向いて葱を刻んでいる兵太郎がいれば奥様達が分身の術を疑うのも無理はありません。
「これがオオカミ様の御力……」
「クロちゃんが捕ってきたのかい? 今? 分身の術で? たいしたもんだなあ」
凪紗と颯は地面に置かれた三体の鹿をしげしげと見やります。いずれも昏倒しているだけで生きています。このままにしておけばやがて目を覚まして逃げ出すのでしょう。
「このまま僕が颯さんのおうちまでお届けしようと思いますが、それで構いませんか?」
「じゃあお言葉に甘えて運んでもらうか」
鹿が車の中で急に意識を取り戻しては大変です。かといってここで処置するわけにも行きません。そういう描写のセルフレイティング設定してませんからね。
「では私たちはオオカミ様が捕ってこられた鹿が目を覚まさないうちにお暇させていただきます。何から何まで世話になってしまいました。重ね重ねありがとございます」
「楽しかったよ、ありがとな。肉はすぐに食っても旨くねえからよ。寝かして食べごろになったら持ってくる。後、俺らにできることがあれば何でも言ってくれ」
親娘は何度もお礼を言って、こくり家を後にします。
その後を鹿を背負ったクロとクロの影が追いかけます。車よりクロの方が早いのですが、追い越しても仕方ないですからね。
さてお隣さんを見送りまして、喫茶こくり家本日も間もなく開店でございます。
1900年代の頭には絶滅したとされる日本の狼ですが、実は2000年代に入ってからも目撃情報があるそうです。映像もあるようなのですが野犬説もあり断定は難しく、UMAみたいな扱いです。UMAそのものですかね。
耳が短いのが特徴です。もし見かけたら是非ご一報ください。




