山の神様の御使い
「お待たせしました。朝食はモンテクリストでございます」
言っている間もクロはお料理から目が離せません。だってすごくいい匂い。それにとってもおいしそう。
モンテクリストとは、クロックムッシュとフレンチトーストを足して二で割らないようなお料理です。
「すごい……」
「また随分しゃれたもん出てきたな」
卵と牛乳に浸して焼いた二枚のフレンチトーストでハムとチーズをサンド。表面には黄色地に茶色の美しい焦げ目、半分にカットされた断面から見えるハムととろりととろけだすチーズ。
卵と牛乳をたっぷり吸いこんだパンに、ナイフが抵抗なくするりと入りハムに当たって止まります。ちょっとだけ力を加えて下まで刃を届かせて、切り分けた分をフォークでぱくり。
!
焼き目はほんのり香ばしく、そこにバターの風味が加わります。しっとりふわふわの甘みのある生地からとろけだすチーズ。奥にはハムの塩気と食感。
見た目も一級なら味も超一級。まさに朝食のご馳走です。
「ここに蜂蜜を掛けるのがおすすめですのよ」
「藤さん」が自分の言葉に従ってたっぷりと蜂蜜を掛けました。
「ううんおいしい。この甘じょっぱさがたまりませんわ」
その顔の幸せそうなこと。ハムとチーズに蜂蜜? とも思いましたが、「藤さん」に引っ張られ、颯と凪紗も真似てみます。
まずはちょっとだけ。一口大に切り分けたモンテクリストに蜂蜜を垂らしてぱくり。
「!!」
甘みが加わることで卵と牛乳の味わいがより引き立ちます。これだけでも感嘆に値するご馳走。そして意外にもチーズとハムの塩気とも蜂蜜はよく合うのです。
「うめえなあ。あさっぱらからこんなに贅沢なもん食っていいのかね?」
思わず呟く颯ですが実は原価はそれほどでもありません。パンは昨日の売れ残りですし蜂蜜は純国産極上品ですが蜂たちが集めてくれるので実はタダ。かけているのはお金ではなく手間暇です。
「ね、おいしいでしょ」
カウンターの中から兵太郎が嬉し気ににへらと笑いました。
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さてゆっくりと豪華な朝食をとりましたら、喫茶こくり家のオープン時間も近づいてまいります。
「本当に何から何までお世話になってしまって」
「ごちそうさん。色々ありがとな。お店の邪魔にならないうちに退散するよ」
「ううん邪魔にはならないんだけど。お客さん来ないですから」
へらへら笑い浮かべる兵太郎に颯は苦笑い。本当に大丈夫なんでしょうかこのお店。
「そうそう颯殿に一つ聞きたいのじゃが。猪や鹿というのは法律上勝手に捕ってはならんのじゃったかな?」
紅色の着物の方の女将さん「紅さん」が颯に聞きました。
「ん? ああそうだな。この時期だと許可がいるのと害獣駆除目的として数が決められてるな。とはいっても猟師も少ないし鹿も猪も増えたからなあ。手が足りないってのが実情だ」
「うむ。実はうちも鹿や猪が多くて困っておるのじゃ。そこでうちで駆除したものを颯殿が撃ったことにしてもらうことは可能かの?」
「あん? なんだ、自分たちで罠でも仕掛けて捕ろうってのかい?」
問われて颯は首をひねります。許可なく野生動物に危害を加えることはそれだけで罪に問われる可能性があります。法律と言うのは厄介です。増えて迷惑しているからといって勝手に駆除はできません。
「まあバレなきゃ構わないだろうし、バレるってこともないだろ。連絡さえくれれば構わんよ」
「ありがたい。よろしく頼むのじゃ」
「ただ食うってんなら自分で加工は勧めないぞ。必ずうちに回せ」
魚とは違い素人が野生動物を捌くのは大変危険です。味が落ちると言うレベルの話ではありません。人の命にもかかわりかねない大事なことです。
自分の中の目をつぶる部分とつぶれない部分をはっきりと明示した颯に「紅さん」は嬉しそうにわらいます。
「なんとありがたい。実はそれをお願いしたかったのじゃ。クロよ、猪は用意できるか?」」
「あん? 用意?」
訝し気に声を上げる颯に意味ありげな笑みを見せると、紅珠はその視線をお手伝い少年クロへと移しました。紅珠の視線を受けたクロは片膝をつき、頭を垂れます。
「申し訳ございません紅様。只今近くに猪はおりません。ご用意には時間が掛かります」
「あん? 何の話だ?」
まるで時間があれば用意できると言っているように聞こえます。颯は冗談だと笑おうとしましたが、「紅さん」はさらにクロに向かって聞きました。
「ふむ。ならば鹿はどうじゃ?」
なんとその時不思議なことが起こりました。
ぴん!
恭しく膝をつくクロの頭に、突然耳が生えたのです。
「はぁっ!?」
「えっ!?」
思わず声を上げる颯と凪紗。普通の人が見たならどこかに隠し持っていたコスプレグッズをつけたのだろうと思うでしょうが、この二人はそうではない可能性に即座に思い至ります。
「それならば小さな群れが近くに来ております。お命じ頂けましたらただ今すぐご用意して御覧に入れます」
「うむ。では頼むのじゃ」
「畏まりましてございます!」
ぼん。応えるクロのお尻に今度はしっぽが生えました。だってしかたがないのです。目の前のおいしそうなモンテクリストは我慢できても、この感情の高鳴りはとても抑えきれないのです。
やっとやっと、お役に立てる時が来たのです。
「然して紅様」
「うむ?」
「鹿は何匹ご用意いたしましょうか?」
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昔と比べ鹿も猪も随分と数が増えました。やもすれば生態系が崩れかねないほどです。
理由は簡単。 「天敵がいなくなったから」。
そうかつてはいたのです。鹿や猪にも天敵がいたのです。この国にも集団で狩りをする純正の肉食獣がいたのです。
百年以上前、人と獣の両方に被害をもたらす恐ろしい疫病により人と彼らは隔てられてしまいました。人は彼らを憎み、害獣として駆逐しました。しかし獣としての彼らを一字で「良い獣」と書くように、彼らは古くは益獣とされていたのです。
昔々。
彼らは「山に住む恐ろしいモノ」であると同時に猪や鹿から「田畑を守るモノ」でもありました。豊穣神や山の神の使い、あるいは神そのものとして人は彼らを恐れ敬っていました。
獣としての彼らは百二十年ほど前に滅んでしまったとされています。でも妖としての彼らは今も私たちのすぐ傍に生きています。
だってほら。彼らの名前を知らない人なんていないでしょう?
彼らの名は大口真神。
あるいはもっとシンプルに、大神。
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「な、なんだクロちゃん。あんたまさか妖怪なのか……?」
驚き声を上げる颯に、耳としっぽを生やした幼い少年はすっくと立ち上がって言いました。
「颯さん凪紗さん、黙っていてごめんなさい。僕はクロ。兵太郎と奥方様達にお仕えする、狗狼族の裔です」




