湖の主
深い深い水の底で、ソレはずっと眠っておりました。
長い間そうしていたので、ソレの意識はもうほとんど世界に溶けかけていました。体の方なんかもうずうっと前に無くなってしまっています。
でもその日。
ソレは、懐かしい声を聴きました。
その声は自分を呼んでいました。
その声に呼ばれて、ソレは自分が何なのか思い出しました。
かくて沢山の物の怪達が集まって、ソレは再び水面に向けて泳ぎだしました。
******
ずずずずずず
湖の中央、深い深い底から何かが上がってきます。
ぬぼーっ、と広く大きく水面が盛り上がって白くて巨大な頭が現れました。
巨大な体に不釣り合いなほど小さな二つの目が、岸辺にいる紅珠を捕らえます。
ぬべええぇええええ!
巨大な体からみても不釣り合いなほど大きな口を開けて喜びの声を上げると、それはこちらに向かってゆっくりと泳ぎだしました。
「あれがヌシ……」
クロが呆然と呟きます。
体長は恐らく7~8メートルにもなるでしょうか。大きな体が水の中を進むたび湖の水がゆったりと波打ちます。
白く真珠の様に輝く肌はぬめりけのある粘液で覆われており、ところどころに黒ずんだ模様が浮かんでいます。
「わああ、大きいねえ。これなら竜神様と間違える人がいてもおかしくないねえ」
兵太郎も目をキラキラさせて、悠然と泳ぐヌシを眺めます。
「竜ですか……。確かに大きいですが。うふふ。竜と言うにはずいぶん可愛らしい顔をしていますね」
くりくりとした小さな瞳に大きな口。大きく長い体に短い手足。藤葛の言うとおり、なんだか愛嬌のあるその姿。
縫霰湖の主は、巨大な白子のオオサンショウウオです。
ぬべええぇえぇええええ!
「うむ、久しいのう。元気そうで何よりじゃ」
すぐ間際まで来て嬉しそうな声を上げる湖の主に、紅珠も笑顔で答えます。
「今日は土産を持ってきたのじゃ」
ぬべっ?
湖のヌシは不思議そうに首をかしげます。
兵太郎が紅珠の隣に立ち、紙皿に並んだいくつものおにぎりをヌシに向かって掲げました。
「ヌシさんこんにちは。僕は兵太郎といいます。ヌシさんのためにおにぎりをたくさん作ってきました。気に入ってくれるといいんだけど」
紅珠の呼びかけで主を目覚めさせ、兵太郎印のおにぎりを食べさせてUMAを偽装してお客様を集める。
それが紅珠の考えた作戦です。
でも偽装っていうかヌシは下手なUMAよりよっぽどTHE UMAなので詐欺ではありません。
「紅様、兵太郎は大丈夫でしょうか。ヌシに食べられたりはしませんか?」
後ろでクロが心配そうに聞きますが、紅珠はくかかと笑い飛ばします。
「心配するでない。前にも言ったが人を喰ったりはしないのじゃ。デカいが大人しい奴じゃよ」
クロはそれでも心配です。あんなに大きな口なら、兵太郎なんか一飲みにできてしまいそうです。
「ヌシさんどうぞー。なんのおにぎりが好きかなー?」
クロの心配をよそに、兵太郎はチュウニー全開で楽し気にヌシに向かって呼びかけます。
ヌシは兵太郎とおにぎりを不思議そうな顔で見比べておりましたが、やがて小さな目を精一杯見開いて嬉しそうに声を上げました。
ぬべええぇええええ!
そして口を大きく大きく開けて……
はむっ!
「え。」
何が起きたのかわからず呆然とする紅珠の隣で、主の大きな口が兵太郎の上半身を飲み込んでいました。
じゅるじゅるじゅる。
棒付き飴か何かの様に、ヌシは実に幸せそうな顔で兵太郎を味わっています。
「あの、紅さん? ヌシは人を喰ったりはしないのでは……?」
「いや喰ってるいうよりアレは……。って言っとる場合ではないのじゃ」
紅珠は慌てて主の口からはみ出ている兵太郎の足をつかんで引っ張ります。
「こらヌシよ。土産はおにぎりだけじゃ。兵太郎は返すのじゃ!」
うんこらせー、どっこいせー!
でも兵太郎は抜けません。
「藤よ、見てないでお手伝うのじゃ」
「失礼。放心しておりましたわ」
紅珠に言われて藤葛も我に返ります。兵太郎の足をひっぱる紅珠を藤葛がひっぱって、奥さん二人息を合わせて、せーの!
うんこらせー、どっこいせー!
でも兵太郎は抜けません。
「紅様、藤様、加勢します!」
「うむ。みんなで引っ張るのじゃ!」
太郎の足をひっぱる紅珠をひっぱる藤葛を、クロが引っ張って。こくり家一同息を合わせてせーの!
うんこらせー、どっこいせー!
ちゅぽん!
やっと兵太郎は抜けました。




