アウドアカレー
兵太郎、紅珠、クロの三人は縫霰山の頂上にある湖、縫霰湖へとやってまいりました。
「綺麗なところだねえ」
いつも通りの間延びした兵太郎の声も、心なしか弾んでいます。
「いい所ですわねえ。ふふ。空気がおいしいですわ」
百年ぶりの外出となる藤葛は大きく深呼吸。
こくり家自体も相当山の中にあるのですが、水辺と言うのはやはり特別。標高が高いせいもあって空気はひんやりと澄んでいて、肺いっぱいに吸い込むと心まで浄化されるような気がします。
周囲の森では様々な鳥がさえずり、時折小さな動物が茂みの中を走る気配も感じられます。
クロはそれが気になるようで、きょろきょろと木々の間を見回しています。クロ自身はすぐに見つけられるのですが、見えるところにいるやつを兵太郎に報告したいのです。
湖の水は済んでおり、浅瀬では水底の小石や水草、小魚がはっきりと見えますが、中央に行くにしたがって急に深みを増し暗い碧色になっています。ここには竜が住んでいるのだと言われたら確かに信じてしまいそう。
「兵太郎、鹿です!」
「あ、ほんとだ」
クロが指さす遠く反対側の岸では鹿が水を飲んでいます。畑に出てくれば厄介な鹿も、こうして湖で見かけるなら美しい景色の一部です。
湖のほとりにはおあつらえむきの大きな岩がごろごろところがっておりました。
適当な大きさの岩で竈を三つ作り、そのうち二つに鍋を、残り一つに細い注ぎ口のついたポットを置きます。
レッツ、アウトドアクッキング!
とは言っても雰囲気だけ。縫霰湖の豊かな自然を汚さないため、最大限に配慮します。
だって山の神様の目の前ですからね。
一つ目の鍋に入っているのは兵太郎が作って狸印の冷凍室で味を損なわないよう急速冷凍したカレーです。温めたらすぐ食べられます。
二つ目の鍋には研いだお米と適量のお水が入っています。こちらもそのまま火にかけます。
「紅さん、お米の方少し火力上げてくれる?」
「了解したのじゃ。こんなものかの?」
兵太郎の指示に合わせて紅珠が竈の中の狐火を加減します。狐火の燃料は山の神本人の妖力ですから、環境への影響はゼロどころかむしろプラス。実にクリーン。
調理の合間に各々丁度いい形と大きさの石を選んで、椅子代わりに竈の周りに持ち寄ります。
クロが大きな石を転がすと、その下に隠れていた小さな沢蟹が慌てたように逃げていきました。
そうこうするうち、あたりにスパイスの良い香りが漂い始めました。カレーが溶けてあたたまってきたのです。
チキンの形がなくなるまで煮込む兵太郎のチキンカレーは兵太郎の得意料理の一つ。妖怪三匹も大好きなメニューです。
兵太郎がお隣さんに乗り込んでいったものですから、時間はお昼をだいぶ過ぎています。当然お腹はぺこぺこ。そしてカレーの香りと言うものは、暴力的に空腹を刺激するのです。
もう三匹の妖怪の頭の中はカレーで一杯です。
ご飯の火を止めて、待つ事しばし。
「お待たせ。じゃあご飯にしようか。ご飯もカレーもたっぷりあるからね」
それぞれがそれぞれの分を好きなだけよそっていただきます。
「ううむ。兵太郎のカレーは絶品じゃが、外で食べるとなるとまた一段と旨いのう」
「空気が良いとお腹が空くというのは本当なのですね。お店にテラス席を作ったのは正解でした。まだ一度も使っていませんけど」
炒めた玉ねぎの甘みとトマトの酸味、たっぷりの柔らかなチキン。スパイスの刺激的な香りが食べるごとに食欲を掻き立てます。
「きゃわん、辛いです。美味しいです。兵太郎、お水を下さい」
「はい、どうぞクロちゃん。あとはこっちもね」
一緒に添えられたお飲み物は珈琲です。
カレーには隠し味に兵太郎珈琲が使われていて、珈琲との相性がとても良いのです。
「兵太郎、兵太郎、青い鳥がいますよ! ほらあそこ!」
クロが指さす先、瑠璃色に輝く羽を持った鳥が湖面すれすれに飛んでいます。その一瞬そのくちばしが湖面に触れました。
「わ、魚を捕ったね」
「カワセミじゃな。うまいもんじゃのう」
「綺麗な鳥ですわね。今度は双眼鏡も持ってきたいですわ」
残念そうに言う藤葛。此処がこくり家ならば双眼鏡の一つや二つ簡単に作り出せるのですが、今は狸流変化術:山ガールのリュックの中は全部妖電池という状態です。
兵太郎カレーでリチャージしたとはいえ、無理はしないでおきましょう。
さてカレーもご飯もたっぷりありますからこのままおかわりに突入したいところですがちょっとだけ我慢。
今日ここに来た目的を果たさなければなりません。
「さて、やるかの」
「紅さん、頑張ってね」
「うむ。任せるのじゃ」
後ろで旦那さんが主に会うのを楽しみにしながらこっちを見ていると思うと、嬉しいような恥ずかしいような気持ちです。
湖のほとりに立った紅珠は、湖面にむかって朗々と呼びかけました。
「縫霰山の神、紅珠が呼ぶ。湖の主よ、姿を現わせ!」
紅珠の声が、しんしんと湖の水面を渡り……。
ぼこり。
湖の中央で、大きな泡がはじけました。




