枯れ尾花、正体見れば怪異なり
ちりんちりん。
入り口のドアに設置された鈴が鳴ります。
「藤さん、保健所の人が来たよー」
冴えない男が呼びかけると、二階に上がる階段の奥から「はーい只今」と声が聞こえました。
ぞくん。
その声に、音也の中の妖怪たちがざわざわと騒ぎ始めます。
そんな馬鹿な。今の声は。
そんなはずはないのです。
あの日の出来事が真実だったとしても。あの場所がここだったとしても。
いいや、それだったら尚のこと。あの人が普通に現れるなんてことがあるはずがないのです。だってあの人は妖怪。本物の怪異のはずなのです。昼間のカフェにいるはずがありません。
でも同時に心は叫びます。
自分があの声を聴き間違えるはずがないと。
「あらあら。間に合ってよかったですわ。保健所の方に時空の歪みは見せられませんもの」
ぱたぱたと言う音とともに、その人が階段から降りてきます。
藤色の着物に身を包んだ、艶と気品を併せ持つそれはそれは美しい女性。
「いらっしゃいませ。私、兵太郎の妻でございます」
その人は音也の記憶そのままに、優しい笑顔と美しい声でそう言ったのでした。
この人が奥さんと言うことは、のじゃろりの方はやはりファザコン気味の娘だったのでしょうか。でもそんなことはどうでもいいのです。
出会えたことは、幸運と言っていいのかもしれません。現に自分の心に住み着いた妖怪たちを理解してからは、もう一度会いたいと願わなかった日はないくらい。
でも再会は、音也の望んだ形ではかないませんでした。
なんとその人は、ただの「人」として音也の前に現れたのです。
この人が綺麗で優しいただの人だということはつまり、あの時出会ったのは妖怪ではなかったということです。
全てが幼かったころの音也の作り上げた妄想だったとしたなら、長く青春時代の自分を苦しめ、やがて今の自分を作るに至った呪いとは一体何だったのでしょうか。
古杣が、ヨナルデ・パストーリが、音也の中から消えていきます。
まるで足元が崩れていくかのような、いえ自分の存在そのものが揺らぐような感覚。
幽霊の、正体見たり枯れ尾花。
幼き日に出会った不思議など所詮こんなもの。確認できないからこそ不思議は不思議であり、いつまでも美しいのです。
音也は強く落胆しました。
落胆して、しまいました。
人は子供の頃ですら何かもっともらしい理由をつけて怪異からは目を背けようとします。大人になればなおのこと。目の前にある怪異を怪異として受け入れてしまうなんて、よっぽどの愚か者のすることです。
ちょっと考えればあるいは何も考えなかったら、すぐにわかるのに、ね。
「店主は兵太郎ですが、設備のことは妻の私が一番把握しておりますので、お話は私がうかがいますわ」
記憶の中のお姉さんと同じ姿と同じ声。内心強く強く打ちのめされながらも、音也は保健所の職員としての責務を全うします。
「了解しました。こちら確認おねがいします」
音也は「お姉さん」に、身分証を見せました。
「あら、貴方」
しかしその人は身分証には目もくれず、音也の顔をしげしげとのぞき込みます。
「まあまあ、そうでしたか」
お姉さんはなんだか嬉しそう。どうやらお姉さんも音也のことを覚えているようです。二十年前の音也はほんの子供だったというのによくわかるものです。
そうでした。自分はこの優しいお姉さんに助けてもらったのです。お姉さんが妖怪ではなかったからと落胆するなんて……。
え、あれ?
「お姉さん」?
やっと音也も気が付きました。
改めて、目の前にいる美しい人を見やります。その人は二十年前と全く変わらぬ姿。あの頃の自分にとっては手が届かない優しくてきれいなお姉さん。
普通、幼い少年がいくら望んだところで憧れの綺麗なお姉さんに追いつくことはできません。お姉さんだって人間。少年を待っていることなどできないのです。
しかしこれはどうしたことでしょう。やもすると、この「お姉さん」、今の自分よりも年下では?
ざわりざわり。いなくなったと思った音也の中の妖怪たちが騒ぎ出します。
ああ、ああ、なんということでしょう。やはりアレは夢ではなかったのです。やはり自分は本物の怪異に出会っていたのです。
いえ、それどころか今この瞬間、目の前にいるこの「お姉さん」は人間ではなく。
うふふふふ。
「お姉さん」が意味ありげに笑います。
その瞳が、藤色に妖しく光って。妖艶な唇を真っ赤な舌が妖しく舐めて。
ああ、お姉さんは、お姉さんは確かに目の前にいるのに。
「今日はよろしくお願いしますわね」
その声は確かに、音也の耳元で聞こえたのでした。
「ひゃ、ひゃいいい♥」
憧れのお姉さんとの再会に、音也と古杣とヨナルデ・パストーリはこぞって声を上げました。
***
カフェの外観は提出された図面とは大分変わっているものの、設備自体は事前に提出された書面通り。かくして監査は問題なく終了です。
けっしてあこがれのお姉さんとの再会に舞い上がって手を抜いたとかではありません。
「では、許可証が出来上がりましたら郵送いたします。届きましたら営業を開始していただいて問題ありません。到着まで一~二週間かかると思います。ご了承ください」
ホラこのように、音也は仕事はきっちりこなすのです。
「あらあら、結構かかるのですね。お手数をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。開店しましたら是非いらしてくださいね」
「ひゃい♥」
声が上ずってしまうのは仕方ありません。寧ろ音也は頑張っています。
「藤さん、全部任せちゃってごめんねえ」
「いえいえ。良いのですよ兵太郎。私が勝手にいじってしまった部分もありますし」
店主だという冴えない男が「お姉さん」と話しています。きっとこの男は「お姉さん」の正体を知らないのでしょう。
男を見る「お姉さん」は幸せそうですし、音也も余計なことは言いません。きっとこの男もいつか、怪異として怪異と出会うことがあるのでしょう。それはこの男の物語です。
「ではこれで失礼いたします」
お店を出ようとすると、お姉さんの子供たちが見送りに来てくれました。
「保健所の方、どうぞお気をつけてお帰り下さい」
「今後ともよろしくお願いするのじゃ」
子供たちは丁寧にお辞儀をしてくれます。子供たちだってまさかお母さんが妖怪だなんて知らないでしょう。
この中で自分だけが、「お姉さん」の正体を知っているのです。
子供たちに丁寧にお辞儀を返し、お店の外に出たその瞬間。
「ご来店お待ちしておりますわ」
「ひゃいいい♥」
耳元で聞こえたその声に、音也がへたり込まなかったのが不思議なくらいでありました。
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かくしてこくり家は保健所の監査を見事クリアし、開店へむけて大きく前進いたしました。
この後、ASMR界の精鋭、「睡魔の王」「幽玄夢幻」たる古杣と「夜魔の支配者」「堕天夢想」のヨナルデ・パストーリが相次いで新作を発表し、いずれも過去作を超える大ヒットとなるのはまた別のお話。
二週間かかるはずの許可証が三日後にこくり家に届くのも、また別のお話。




