開店への多難な前途
夕食は白いご飯。
鰈の煮つけ、ナスとみょうがのお味噌汁、オクラのお浸し。それに日本茶。
「うまいのう、うまいのう」
「落ち着きますわねえ」
見た目にも美しいカフェメニューも素晴らしいですが、そればかりでは胃と舌が憑かれてしまいます。和食とお茶。これはやっぱり外せません。
夕食が終わり、紅珠と藤葛がお気に入りのデザートを食べたころ、藤葛がずっと思っていたことを口にしました。
「ねえ、兵太郎。ここで本当にカフェが経営できると思っていますか?」
「えっ?」
言われて兵太郎はとても驚いたようです。でもそんなに驚くほどのことでしょうか。
「ふむ。儂も気にはなっとった。ケーキも紅茶も極上じゃったが、客が来なければ金にならぬ」
紅珠も藤葛も妖怪。お金がなくても暮らしていけます。ご飯を食べなくったって別に……。というのは今となっては難しいですが、だからと言って空腹で死んだりはしません。
しかし兵太郎はそうはいきません。生きていくにはお金がかかり、借金だって返さなくてはいけないのです。
「大丈夫だよう。行き詰まったらお金貸してあげるって親切な人が言ってくれてるし」
紅珠と藤葛は顔を見合わせました。この旦那様は一体何を言い出したのでしょう。
「お前様、お前様には既に借金があるのじゃよな?」
「うん」
「その親切な人というのは、それを知っててお金を貸すと言っているのですか?」
「うん。ここ買った時に不動産屋さんと一緒にいて、色々相談に乗ってくれたんだ。困ったらいつでも力になる、お店が軌道に回ったら返してくれればいいからって」
紅珠と藤葛は、それはそれは深いため息をつきました。
「お前様、人が好いにもほどがあるぞ」
「困ったものですわねえ」
此処は山の奥の一軒家。周囲には他に何もありません。
最寄りの商業施設まで車で三十分。その上峠を抜ける国道まで出るには細い私道を通らればならず、当然そんなことをする人はいません。
つまり、人が全く訪れないのです。
たとえここに立派な喫茶店を立てたとしても、儲けを出すことなどできないでしょう。それを承知で金を貸す。そんな相手が真っ当な金貸しであるはずがありません。
どうやら兵太郎にこの家を売った者たちは、兵太郎を騙して金を巻き上げ、多額の借金を負わせただけでは満足していないようです。
自分より馬鹿なヤツ、自分より下のヤツ、自分より弱いヤツからは、いくらだって吸い取って構わない。そういうことなのでしょう。
「ま、その金貸しとお前様の友人のことはひとまず置いておこうかの」
「ええ、ええ。その方々とはいずれきっちりとお話をいたしましょうね」
二匹の大妖は、それはそれは恐ろしい笑みを浮かべたのでした。
「えっと……。やっぱり僕は騙されたってことかな?」
二人の話を黙って聞いていた兵太郎。その声にはいつもの何も考えていなさそうな元気がありません。
「あ、いやお前様」
「いえいえ、兵太郎が悪いわけではありませんのよ」
紅珠と藤葛は慰めようとしますが、 珍しく落ち込んだ様子の兵太郎に上手く言葉が出てきません。
「ううん。ほんとはね。ちょっと気づいてたんだ。でもご飯を作って、それを誰かに食べてもらえて、それで生活できるなんて、凄いことじゃない?」
それは、とてもおかしな言葉でした。
兵太郎ほどの腕があれば、何処かの高級レストランに努めることだって可能でしょう。ゆくゆくは料理長だって夢ではないかもしれません。
でも、若い頃の兵太郎は知らなかったのです。
自分がなんなのか。何が自分の夢なのか。
全てにおいて人より劣る自分に、馬鹿にされながら生きてきた自分に、夢があるなんて思いもしなかったのです。
兵太郎が自分の夢に気が付いた時には、既に歯車の一つでした。その上、他の歯車の様に上手に回ることができない歪な歯車です。
回ることも抜けだすこともできずに軋むだけ。
「僕だっておかしいなとは思ったんだよ。でもできるかも、手が届くかもって思ったら飛びついちゃったんだ。そっか。やっぱり無理なんだ。そうだよね」
項垂れる兵太郎。
「困った旦那様ですわねえ」
「まったくじゃのう」
それを見て、二人の奥様はまた深いため息をつきました。
本当に困った旦那様です。並の奥さんだったなら、きっと愛想をつかして出ていってしまったことでしょう。
しかしより一層困ったことに。
紅珠と藤葛はそんな兵太郎に、ますます惹かれてしまうのです。っていうか弱ってるイケメンとか最高です。
「なんの、お前様は何も心配しなくてよいのじゃ」
「ええ、ええ、ええ。兵太郎のしたいように、やりたいようになさって下さいませ」
「お前様には」「貴方には」
「儂らが憑いておるのじゃから」「私たちが憑いているのですから」




