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お友達のご来店

「よお、兵太郎」



 入ってきたのは兵太郎の学生時代の友人であり、兵太郎にこの家を売った夕甚(ゆうじん) (えい)でした。


 英は兵太郎と目を合わせることなく、前かがみの姿勢のまま目線だけできょろきょろと落ち着きなく混雑した店内を見回します。


 どうやら単にお客さんとして来たというわけではなさそうです。



「英ちゃん。今日はどうしたの?」


「お、おう。今日はお前の為にいい話を持ってきてやったぜ」


「いい話?」



 兵太郎は困ったように眉を顰めました。あんまりいい話じゃなさそうだな、と思ったのです。



「俺がこの家を買い戻してやる。しかも売ってやった時と同じ金額でだ。どうだ、いい話だろう?」


「ううん?」



 兵太郎は首をひねりました。いいはなしじゃないどころか、随分無茶苦茶な話です。


 現在のこくり家は二階建てのおしゃれ快適大型喫茶店。建物だけを見ても英が兵太郎に売りつけた時とはまったく違います。


 それにこくり家は今や原縁市でも有数の観光施設です。お土産物屋さんが何とか商品を置いてもらえないかと頭を下げに来るくらい。土地代も三か月前とは比べるべくもありません。


 確かに兵太郎に売られた時は相場の倍以上のぼったくり価格でしたが、そのぼったくり価格と比べてもざっと見積もって十倍以上の資産価値があるでしょう。


 元値で買い戻してやるなんて、お話にもなりません。



 ……等というような勘定は、兵太郎にはできませんが。



 でもやっぱりこの家を売るわけにはいかないのです。ここは兵太郎が二人の奥さんとクロという、家族と一緒に暮らす大切な家です。


 そもそもこの家は藤葛であり、この土地は紅珠です。いくら積まれたって大事な奥さんを売るわけがありません。



「なあ兵太郎、よく考えろよ」



 そんな兵太郎の内心を知ってか知らずか、英は話を続けます。



「よく。、考えろ現実を見ろ。今は、上手くいってるように見えるかもしれないが所詮は、一時の浮かれ騒ぎで山の中の古屋敷でこんなのが長続きするわけがないしお前がこれから転げ落ちるのを見るのはツラい、しそうなったら此処を売った俺、にも責任があるから俺は心配してるんだよそう心配なんだ、だから俺が元の値段で買い戻してやるから奇跡的に浮かれてられる今のうちに手を引けばお前、の傷も浅くて済む」



 前かがみの姿勢、落ち着きなくさまよう視線、一定しない声のテンション、まくしたてるような早口、首にできたひっかき傷。


 心理学とか、行動学とか、難しいことは兵太郎にはわかりません。だから英の行動の意味は分かりません。



 兵太郎がわかるのはその行動のもっと奥、その行動の理由です。



 兵太郎が対峙した相手から得る情報は膨大で、まるで一冊の分厚い本のよう。そして兵太郎はその中の、一番読まなくていい部分から読み始めてしまうのです。



「英ちゃん、困っているの?」



 兵太郎の言葉に英はびくりと固まりました。



「そっか。この家を売ることはできないけど。でもお金なら少しは出せると思うよ」



 英はぽかんとあっけにとられたような顔をしました。しかしそれも一瞬の事。次第に英の顔は引きつっていきます。



「お前、自分が何言ってるのか、わかってるのか?」


「うん? 英ちゃん、だってそれでうちに来たんじゃないの?」



 あれ、違ったかな? とばかりに兵太郎は首を傾げます。てっきり英はお金に困ってこの家を買いたいなんて言い出したのだと思ったのですが、そうではなかったのでしょうか。



「お前、本当にわからないのか? それとも全部わかってて俺を嵌めようとしているのか?」


「ううん?」


「馬鹿なのかお前。俺は、お前を……!」



 思わず声を荒げる英に、目をぱちくりさせる兵太郎でしたが、その後やっとわかったという様ににへらと笑いました。



「ああなんだ、英ちゃんが僕を騙してこの家を売ったっていうお話のこと? うん。紅さんと藤さんに聞いたから知ってるよ」


「!」



 英には分からない個人名を出してへらへらと笑う兵太郎に、英はなにやら底知れない恐ろしさを感じます。


 普段は誰からも馬鹿にされている男に、幼いころから時折感じる得体の知れなさ。


 本当は全部見透かされているような。ことによると騙されているのは自分で、英が今陥っている状況は初めから全部この男の手のひらの上の事で。



「じゃあやっぱりお前、俺を嵌めようとして……!」


「英ちゃん落ち着いて。お客さんがビックリしちゃう」



 思わず声を荒げた英を兵太郎が穏やかに宥めます。



「僕は英ちゃんを嵌めたりしないよ。英ちゃんは僕を騙したのかもしれないけど、でも僕は英ちゃんに騙されてなかったら、どうなってたかわかんない。だから、英ちゃんには感謝してるし、英ちゃんが困ってるなら助けたいと思うよ」



 兵太郎の言葉に嘘はありません。どのみち会社を首同然で退職した兵太郎には他に道はなかったのです。


 途方に暮れていた兵太郎に夢を与えてくれたのは英でした。喫茶店をやったらいいと言ってこの場所を教えてくれたのは英でした。


 その家が藤葛そのものであったこと、その家の近くに紅珠の祠があったこと、この埒外の二つの幸運を抜きにしても、英を恨んでなどいませんでした。


 でももちろんそれは英には理解できません。



「お前それ、本気で言ってるのか?」


「うんもちろん。だって見てよこのお客さん」



 言われて英は改めて辺りを見回します。広い店内を埋め尽くすお客さん。その全員が笑顔です。その幸せそうなこと。


 このこくり家で、笑っていない者と言えば、たった一人、自分だけ。



「ね? これならきっと借金も返せちゃうし……」



 にへらと笑う兵太郎の肩をつかんで、英は絞り出すようにして言いました。



「ちがう、そうじゃない。兵太郎、駄目なんだ。そうはならないんだよ」


「ううん? どうしたの、英ちゃん。そんなに困って……?」



 英がすごく困っているのはわかりますが、何に困っているのかは話を聞かなければわかりません。そうなると兵太郎も一緒に困るしかありません。



「お話し中失礼致します」



 困っている二人に声が掛けられました。



「兵太郎、ヤマドリタケのピザを食べた新井堂本舗の社長さんがどうしてもお礼を言いたいと」


「ああ藤さん。ごめんね話し込んじゃって」



 藤さん。


 先ほど兵太郎が脈絡なく口にした名前です。英が目を向けると、そこにいたのは着物とメイド服をごちゃまぜにしたような藤色の制服に身を包んだ、それはそれは女性でした。


 その美しさに、英は自分が置かれた状況も忘れて見惚れてしまいます。



「いえいえ。良いのですよ、兵太郎」



 美しい女性は兵太郎に向かって優しくにこやかに微笑むと、その視線を英へと移しました。



「英さん、でしたか? 失礼とは存じつつお話は聞かせていただきました。兵太郎はお店がありますので、この先は私がお伺いします。私としても貴方には是非もう一度お会いしたかったのですよ」



 女性はそういいますが、しかし英にはとんと覚えがありません。こんなに美しい人を、一度会っていれば忘れるはずはありません。



「貴方とは以前此処で一度お会いしているのですが、覚えていらっしゃらないのも無理はありませんわ。実はお恥ずかしながら私の方もあの辺りは記憶が曖昧でして」



 言葉を重ねる女性ですが、やはり英には分かりません。英がこの場所に来たのは今日が二回目。一回目の時にこの場にいたのは、自分と兵太郎、それにあの不動産屋と金貸しだけだったはず。


 戸惑う英に、美しい女性は微笑みます。



 ぞくり。



「……っ!?」



 目で見れば間違いなく優しく、柔和で慈愛に満ちた笑顔。しかしどうしたことでしょう、実際にその笑顔から英が感じるのは恐怖でした。


 それも圧倒的な高みから巨人に目を付けられたような、背筋が凍るほどの恐怖です。



「申し遅れました。私は藤葛。兵太郎の妻の一人で御座います」


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