湧水と流しそうめん
これは今からおよそ五十年前のお話です。
「本当に、お世話になりました」
「葛屋敷」の最後の住人である娘は十九年間過ごした家に向けて、深々と頭を下げました。
弟分の八尋が家を出て以来、一人葛屋敷くらしていた娘でしたが、ついに嫁ぎ先が決まったのです。
娘はこの家で生まれました。娘の母もこの家で生まれました。
娘の家族の他にもたくさんの子供がこの家で生まれ、育ち、そして巣立っていきました。
出て行った者たちは自分が葛屋敷の出身であることを口にはしません。それは言ってはならないと祖父から強く言い聞かせられています。祖父たちは「神様」とそれを約束したのです。
この屋敷の最初の住人である祖父たちは、かつて悪い神様に捧げられた生贄でした。でもその神様は、旅の女侍によって退治されました。
子供たちは親の元に帰ることができました。めでたしめでたし。
このお話は現在では「退魔師藤葛の伝説」として、原縁市にある公民館に行けば誰でも見ることができます。
しかし事実は伝説とは少々異なります。
神様が退治されたからと言って、生贄に捧げられた子供たちには帰る場所はありません。神様を倒して帰って来たなんて言って、困窮する村人たちに受け入れられるはずはありません。
それどころかきっと、罰当たりなことをしたとして殺されてしまうことでしょう。
美しい女侍は、行き場のない子供たちに言いました。
「この道をまっすぐ行った先に大きな家があります。貴方たちはそこで暮らすといいでしょう。でもその家の事は、自分たち以外誰にも言ってはいけませんよ」
言われたとおりに進むとそこには確かに大きなお屋敷がありました。中にはお金と食べ物まで。子供たちは助けてくれた女侍の名に因んでその家を葛屋敷と呼び、お互いに支えあって暮らしました。
これは現在からは百年も前、娘が旅立つ日から数えても五十年も前のお話です。
しかし実は娘自身、幼い時分の月夜の晩に葛屋敷の住人ではない美しい女性に遇ったことがあります。ぽんぽんと何処からか響く太鼓の音は、住人ならば誰でも聞いたことがあります。
昔はもっといろいろとなことがあったのだと、今は亡き祖父たちは口々に自分の出会った不思議を自慢したものです。
一番小さい子供が熱を出した時に、道に迷ったお医者様が葛屋敷を訪ねて来たとか、町にいた身寄りのない子を連れ帰ってきたら何故か茶碗と毛布が一つづつ増えていたとか、朝起きたら泥棒がぐるぐる巻きになって庭に転がっていたとか。
しかし一番の不思議はやっぱり、この葛屋敷に来る前の出来事で。
「本当の神様が、儂らを助けてくれたんだよ」
老人たちの話は、いつもそうやって終わるのです。
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さて連日大盛況の喫茶こくり家。本日はさらに多くのお客様にご来店いただいております。
と、申しますのも夏休みも終わりに近づいた日曜日と言うのもさることながら、広いお庭での流しそうめん大会が行われているのです。
店主と裏庭の竹が協力して作り上げた、ピタゴラスな大立体パノラマ流しそうめんコースター「ヌアレヤマ」はお子様達にも映え狙いのお客様にも大人気。
大変ありがたいことですが、いつも以上に手がかかるメニューということで、紅珠とクロに加えて臨時バイトで凪紗と若木もつきっきりで手伝ってくれています。
「クロよ、先に食事を済ませるのじゃ。儂は手が離せぬ」
「畏まりました。お先に失礼いたします」
主より先にご飯とは恐縮ですが、ここで従わないのはかえってお店の負担になります。クロは大人しく従業員テントへと向かいました。
兵太郎も手が離せませんので、本日の賄いは自分で作るぶっかけそうめん。
作ると言っても用意してある具材を好きにのっけてつゆを掛けるだけ。そして乗っける具材には見えないところでは随分手間がかけられています。
トマト、キュウリ、ナス。夏野菜たちはそれぞれ単品でも美味しい一品料理。
トマトはぬっしーウオッチャー御用達のトマトの出汁付け、きゅうりはお塩と昆布で浅漬けに。ナスは焼いてから皮をむいて和風だしに付け込んだ焼きびたし。
かけるのは焼きナスとトマトを漬けていた出汁を合わせた特製の冷やしつゆ。野菜から出た出汁が合わさってそれだけでも美味しい冷やしスープ。
刻んだみょうがと張り切り青じそはお好みで。冷めてもおいしい鶏天がセット。
「ふう、すっきりします。麦茶もおいしいです」
しっかりと体が冷えるのがわかります。四肢に妖力がみなぎっていくのを感じます。食べ終えたクロは兵太郎のご飯は凄いなあといつもながらに感心し、再び流しそうめん会場へと向かいました。
暑い中頑張る店員たちの身体をしっかり冷やしてくれるこちらのぶっかけそうめん。誠に申し訳ございませんが、メニューには載っておりません。
とはいえこの賄いそうめんに使われているトマト、キュウリ、ナス、鶏天、麦茶は流しそうめんコースター近くの狸耳のついた大きなテントにたくさんご用意しております。流しそうめんご注文のお客様は麵と共にこちらも食べ放題でございます。
尚、そうめんや麦茶に使っている水はその辺から湧きだしてきたおいしい水です。
え、水ってその辺から湧き出るの? ええ、こくり家ではそうなんです。
こくり家でもつい最近までは普通の水道水でしたが、今では料理にも飲み物にもこの湧水を使っています。
と、いうのも、先日庭で梟みたいな変な鳥が「ほーれ、ほーれ」と鳴くので、不思議に思った兵太郎がそこを掘ってみるとなんと水が湧いてきたのです。
兵太郎は大そう喜んでそれを料理や飲み物に使うことにしました。
湧き出してきたのを見た瞬間に兵太郎がえへらえへらと桶を取りに走るくらいですから安全無害で大変おいしい水なのですが、ちゃんと保健所からもOK貰ってます。某職員様、いつもお世話になっています。
尚、この時「ほーれ、ほーれ」と鳴いていた変な鳥は「水水ヅクの堀水さん」という名前を貰い、猛禽系の茶髪ツンツンのお兄ちゃんになりました。今はカウンター席でから揚げ定食を食べています。
流しそうめんに大きく人手を割いたため、店内とテラス席はリーダー藤葛の指揮の下、表情も出てきてお姉さまに大人気の分身クロ三兄弟、それに狸型配膳ロボットで回しています。行ってくるポン! 頑張るポン!
広い店内ではありますが、何かあればやなり放送がはいりまして、すぐに藤葛が駆けつけますのでご安心を。
さてこの大忙しのこくり家の注文の全てをたった一人で作っているのが店主の兵太郎です。
カウンター内を踊るように動き回りながらいっぺんにいくつもの料理ができていく様は実に見事。
あ、動画撮影は構いませんが顔が入らないようにご注意を。これ以上夜のお客さんが増えては困ります。うっかり映り込んでしまった際には自動的に削除させていただきます。
最近は奥さん達や家来だけでなく、店主にもマニアックな人間のファンが付きまして、カウンター席から兵太郎の手元に熱い視線を注いでいます。
あれは自分頼んだ料理かな? いやいやこんなに混んでるんだからいくらなんでもそんなにすぐには……。
「はあいオムライスお待たせしました~。このままスペシャルに参りますね」
おおっと歓声が上がり、周囲のお客様たちの視線が集まります。
「おっ、オネガイシマス」
心の準備より先にオムライスが出てきてしまった中年男性のお客様が顔を真っ赤にして頭を下げました。
恥ずかしがり屋のお客様には申し訳ございませんが、スペシャルオムライスを頼まれた方に注目が集まってしまうのはしかたありません。
しゅるしゅるしゅる!
オムライスの上に現れたのは、少し下がった眉尻にわざとずらして描かれた眼鏡。困ったような、でもどこか嬉しそうな男性のはにかみ顔。
「あ、ありがとうございます」
お客様がより一層困ったような、より一層嬉しそうな、まるで似顔絵そのままの顔でお礼を言うと、周りのお客様から大きな拍手が贈られました。
ちりんちりん♪
はいまたお客様です。
「いらっしゃいま……。あれ、英ちゃん」
新たに入ってきたお客様を見て、びっくりした兵太郎は化けちょうちんみたいに目を大きく開きました。
「よお、兵太郎」
入ってきたのは夕甚 英。英は兵太郎の学生時代の友人です。
そして。
兵太郎を騙してこの家を売りつけた張本人でありました。




