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見える恐怖

 宇三は自室へ駆け込むと、ガチャリと鍵をかけて閉じこもりました。


 幸い此処には何もいません。恐ろしい視線を向けてくる塾生も、得体のしれないチンピラもおりません。



 落ち着け、落ち着け、落ち着け。


 大丈夫。落ち着けば大丈夫。全部元に戻る。元に戻れる。


 いや戻れるはおかしい。別にどうにもなっていないのだから。


 大丈夫、私は大丈夫。……大丈夫、だよな?


 気を抜くと浮かび上がる恐ろしい考えを宇三は必至で追い払います。


 しかしそうは問屋が卸しません。呼吸を整え、恐怖と混乱から立ち直ろうとする宇三を、さらなる恐怖が襲います。



「うぇっへっへっへぇ」



 安全地帯のはずの自室の奥、突如の不気味な笑い声に、宇三は弾かれた様に振り返りました。



「ヒイッ!」



 そこにいたのはよれよれのスーツを着た無精髭だらけのおじさんでした。



「お前かあああ?」



 ただならぬ威圧感を放ちながら、おじさんは戸口の宇三に近づいてきます。誰とかどうしてとか、もうそれどころではありません。誰何(すいか)の余裕などありません。


 鍵を開けて逃げ出そうとして、しかし外にはあの恐ろしいチンピラと、もっと恐ろしい塾生たちがいて、そもそも手が震えて鍵を開けることなどできなくて。



「翠川の家に、火を放ったのはあ、お前かあああああ?」



 おじさんは焦る宇三へと手を伸ばしてきていました。



「違う、私じゃない、あれは塾生たちが、あの三人が勝手に……ひぃいいいい!?」



 言い訳をしようとして宇三は気が付きます。おじさんはこちらに近づいてきているのではありませんでした。


 そこから一歩も動くこともないまま、その体がどんどんと大きくなっているのです。



「こくり家をおお、兵太郎さんを襲えってけしかけたのは、おおおおおおおおおおまあああえかあああああああああああ!」



 おじさんは見る見るうちに伸び上がり、見上げるような大入道となりました。畳ほどはあろうかという毛むくじゃらの手が宇三をつまみ上げます。



「違う、私じゃない。私は頼まれたんだ。命令されてやっただけなんだ」


「うそをおおおお、つくなあああああああ」



 びりりりと、雷が空を震わすような声。


 バスケットボールのような巨大な目ん玉がぎろりと摘まれた宇三を睨みつけます。



「ひぃいいいい、嘘じゃない、本当だ。脅されてやっただけなんだ。私はあんなことしたくなかったんだ。頼まれたんだよ」



「へえ、誰に?」



 問われて声の方を見れば、大入道につまみあげられる宇三の傍らに先ほどのチンピラ風の男がふよふよと浮かんでいました。


 このチンピラも得体が知れませんが、少なくとも大入道よりはマシ、話が通じそうです。



「た、助けてくれ、お願いだ!」



 宇三は藁にも縋る思いでチンピラに助けを求めました。しかし大げさに首をすくめてチンピラは宣います。



(ヒト)に一方的にものを頼むなんて常識知らずな野郎だなあ。先に質問したのはこっちだぜ? 俺はこくり家を襲えなんて罰当たりなこと言ったのは何処のどいつなのかって聞いてるんだがねえ」



「し、知らない」



 咄嗟に出た言葉は嘘と言うわけではありません。「上」について宇三が知っているのは噂程度の話です。それに噂とはいえしゃべったとなれば宇三はただではすみません。


 しかしその誤魔化しを含む返事は、相手のご機嫌を損ねたようです。



「……へえ?」



 チンピラはちらりと大入道を見やりました。宇三は慌てて弁明します。



「やめろ、やめてくれ。本当にしらない。だいたい私なんかじゃ逆らうことができない恐ろしい男なんだ。しゃべったなんて知れれば私は死ぬよりもひどい目に!」



 ケケケケケ。


 傘をかぶったチンピラの笑いに、宇三は自らのさらなる失言を悟りました。



「そうかいそうかい、そいつはそんなに恐ろしいかい。だったら恐ろしさ比べで負けるわけにはいかねえなあ。川恐(カワウソ)の名が泣くってもんだ」


「違う、待ってくれ。話を聞いてくれ]



宇三の必死の願いはしかし、チンピラには届きません。



「まあどっちでもいいんだよ。ソイツに俺たちが手を出すわけにはいかねえ。おおい、伊達の親父よう。プチっとやっちまっていいってよー」



 チンピラが大入道に向かって手を振ります。おおお、おおおおおおおおううううううう。大入道は轟くような声で返事をしました。



「嫌だ、嫌だあああ! やめろ、わかった、話す。何でも話す。だから助けてくれえ!」



 大入道はつまんだ宇三をスナック感覚でぽいと洞窟の入り口のような大口へと放り入れて―



 ぷちん。



 そして宇三の意識は途切れました。




******



「ったく。荒事は苦手と言っといてよ。アンタ俺を止めるためについてきたんじゃなかったのかよ」


「したって川内よう。こいつははあ、兵太郎さんば襲うってよう、そういう相談してたんだあ。どうにも許せなくてよう」



 呆れた声を上げる川内に、伊達はうえっへっへえとバツが悪そうに笑いました。



 二人の足元には宇三が口から泡を吹いて転がっています。


 目を覚ました後、宇三は恐ろしい世界を生きることになるでしょう。


 自分にしか見えない恐ろしい化け物が跳梁する世界は、多くの人を欺いてきた右三に相応しいでしょう。それ自体は構いません。知ったことではありません。


 ただそれはそれとして。



「ったくやりすぎなんだよ。気持ちはわかるが冗談じゃねえや。コイツの後ろにさらに命令したヤツがいるって聞いた時は正直ホッとしたぜ」


「なあにいってんだ。俺のトコのに来た時ははあもうだいぶやっちまってたでねえか」



 颯に手を出したという三人を、川内は許すつもりはありませんでした。紅珠は山での人死には許さないと言ったのです。川内はそれを忠実に守り、山から出た時点で事を成すつもりでいました。


 伊達に諫められてしぶしぶと従うことにしたのですが、狙いが兵太郎だとすると全然話が違ってきます。


 勿論許せないのは変わりませんが、重要なのはそこではありません。許す許さないの問題ではありません。



 こくり家の女将の獲物に手を出すなんてそんな恐ろしいこと、考えるだけで身の毛がよだつと言うものです。



 紅珠の情深さは二人ともよく知るところ。しかし大妖狐紅珠はただ優しいだけの神ではありません。



「紅珠様は勿論だが、藤葛様だってよう」


「ああ、んだ。藤葛様もはあ偉いお方だあ」



 そしてまた藤葛も愛深く、それ故に恐ろしい大妖怪です。


 宇三の言葉が本当ならば、その「命令した男」とやらは宇三が経験した以上の恐ろしい報いを受けることになるでしょう。




 今をさかのぼること百年前。


 大正の末期と言う、都会では電灯が普及し、蒸気機関車や自動車が現れている一方、田舎にはまだ闇が色濃く残されていた時代。


 現在の原縁市に相当するこの辺りでは藤葎(ふじむぐら)という大妖狸が神を騙り、我が物顔で暴れ回っておりました。


 藤葎の祟りなのかそれとも単なる偶然なのか、そこに大飢饉が重なりました。


 人は荒ぶる神を鎮めるため、何処かの村で聞いてきた「成功例」に従って、自ら進んで神に生贄を差し出しました。


 その様子を当時の川内は苦々しい思いで見ていました。


 もしも紅珠が健在だったなら、あんな狸など文字通りのワンパンで打ちのめしてしまったことでしょう。


 しかしこの時ワーカホリックな縫霰山の神は度重なる飢饉から山と人々を守るために力を使い果たし、深い眠りについておりました。


 神を騙り、捧げられた贄を喰らい、信仰と恐怖を集めた藤葎(ふじむぐら)に対抗できるモノはおりませんでした。



 そもそも生贄を差し出すことを決めたのは人間たちです。


 その行為に自己満足以外の意味はないのに。それどころかむしろ藤葎の力を強めるだけだというのに。


 ただ何かしたという実感を得る為、人々は生贄を捧げました。


 仕方ないと諦める所でしょう。人の世の無情と自身の無力を嘆くところでしょう。


 いえそれどころか、嘆く必要すらありません。



 だというのに。




 ―「その名前、気に入りませんわね」



 ふらりとその地を訪れたその女退魔師は一刀のもとに藤の人喰い狸を斬り伏せると、贄として捧げられた行き場のない子供たちを連れ、何処かへと姿を消したのでした。


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