道化たちの夜明け
「悲しいことだが君たちの中に迷いが生まれたのは事実のようだ。喫茶店の連中に何か吹き込まれたんだね。さあ聞かせておくれ。彼らが君に語った他の命を奪ってもいい理由ってやつを」
師は塾を出ようとする三人に、師である宇三が優しく問いかけます。
「彼らはずっと平和の中にいた。誰にも本気で憎まれず命を賭けず責任も取らずに生きてきた連中だ。だからこそ平気で生き物の命を奪える」「かりそめの平和に浸かり恐怖を知らない者は自分が何をしているかなんて本当にはわからない。彼らは自分が絶対に報いを受けないと信じ込んでいる。なぜなら世界は優しいものだと思い込めるほどに守られてきたからさ」「だが君たちは違うだろう?この世界が本当は平和でないことを知っているだろう?ごく一部の先導者と騙されて平和ボケした大多数の民衆によってかりそめの幻想であることを理解しているだろう?」我々は真に世界を変えようとしている君たちはその最前線に立っているんだああ揺らいだってかまわないさ大多数の人間が信じる幻想に立ち向かうのは困難なことだ一時の揺らぎなどまた立ち上がればいい私たちは世界を目覚めさせるためにここにいるもしも君たちが微睡みに引かれたって私は何度でも君たちを目覚めさせようそれが世界を目覚めさせることにつながるのだから帰っておいで君たちの居場所はそこじゃない」
「恐怖を知らず平和ボケした楽園で踊らされる道化ではなく世界に抗う者としてもう一度やり直そうじゃないか」
もしもあの化け物に出会わなければ、師の言葉は今も胸に響いたのでしょうか。
他の塾生たちのように、涙を流して感動に打ち震えたのでしょうか。
かつて師と仰いだものの言葉は肌に合わない雑音の様にわずかな違和感と共に感情の上を素通りしていきます。
ただ一つだけ。
「恐怖を知らず平和ボケした楽園で踊らされる道化」
意味のない雑音の中で、その言葉だけは理解できました。それが誰を指す言葉なのかははっきりとわかりました。
もう一度やり直す?
とんでもない、狂気の沙汰だ。
世界の正しいあるべき姿?
どうでもいい。バカバカしい。
そんなものより今自分が生きていることのなんと幸運なことか。しかしその幸運だって、ぼやぼやしていれば零れ落ちていってしまうでしょう。
「見たかい君たち彼らのあの変わりようをたしかこくり家とか言ったかなそこの連中に何か言われたんだ甘い誘惑の言葉をささやかれたんだ人は簡単に変わってしまうそれを常に忘れてはならない自分とは何なのかを常に求めねばならないさもなくば世界という流れの中に取り込まれて何にも気が付かず唯々諾々と日々を送る者たちと同じになってしまうそれは恐ろしいことで」
遭ったこともないくせに。
アレに遭って尚生きて帰ったことが、どれだけの偉業なのかも知らぬくせに。
締まっていく扉の向こう、師だった者の支離滅裂な話に真面目な顔で耳を傾ける塾生たちが滑稽に思えて仕方がありませんでした。
実際には彼ら三人の恐れは見当はずれです。
塾まで車を運んだのは凪紗ではなくご褒美を期待する物の怪運送たちですし、当の凪紗は現在こくり家の一室でぐっすり眠りこけております。
前日は沢山食べてお沢山飲んで、ゆっくりと温泉に浸かって夜遅くまで若木とおしゃべりしていましたから無理もありません。
しかしそれは彼らにはあずかり知らぬこと。人は自分の信じる物語を通じてしか世界を見ることができません。
たとえこの地を離れても彼らは闇を恐れるでしょう。この先もずっと闇に潜む何か怯えてながら暮らしていくのでしょう。
それは理不尽な悪意を形としてヒトに向けた彼らが受けるべき、当然の報いです。
ただそれはそれとして、早々にこの地を離れた彼ら三人の選択は正しかったと言えるでしょう。お陰で三人はさらに恐ろしい思いをしなくて済みました。
と、申しますのも山からずっと憑いてきた二匹のケモノが、この時彼らから離れたからです。
一匹は尾の先まで含めて40cmほど。細長くて手足の短い、田舎ではよく見かける小型で割とポピュラーな小型の獣です。
いま一匹はよく似た外見ながら二回りほども大きく、70~80cmはあるでしょうか。ずんぐりとしており体重で見れば10倍近くにもなりそうな、もうこの国にはいないはずの獣です。
二匹は今は人の姿をとり、塾生の中に紛れていました。
「おいおい聞いたか伊達の親父。どうにも妙な具合じゃねえか?」
「んだら川内よう、あいつらが狙ったのははあ颯さんと凪紗さんでなくて、こくり家だったっつうことか?」
鼬と川獺。
共に変化して後数百年の時を生きた、恐るべき二体の大妖怪です。




