恐怖からの帰還
「あっしははあ、鶏見ないとなんねえんで。残念ですが今日はこれにてお暇ばさせてていただきます」
「俺はなんだホラ。野暮用?でさあ」
楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
食事の後、伊達の親子と川内は残念ながらお泊りを辞退して帰っていきました。
温泉が湧き出して打たせ湯(高さ4m!)も追加された広いお風呂でゆっくりしていって欲しかったのですが仕方がありません。
「おいおい、高さ4mの打たせ湯って……。ちょっと待てそこじゃねえ。え、温泉? 今温泉って言ったか?」
さらりと告げられた情報に颯がぎょっとします。4mに気をとられて突っ込みを忘れなかったのは流石です。
「一大事じゃねえか。温泉なんざそんなポンポン湧くもんじゃねえだろ?」
「うむ。野槌の奴が地下から引っ張って来ての」
「へ、へえ。野槌がね」
野槌というのはミミズの大親分のような妖怪です。長さだけならヌシにも匹敵する大きさで紅珠とは旧知の仲。温泉はそんな野槌からの粋な結婚祝いと言うわけです。
「裏庭に沸いたからここが源泉じゃな。とりあえず届け出だけはしてあるのじゃ」
「湯量もそれほどではありませんし、処理施設も簡易なもので済みました。弱アルカリ性単純泉だそうですわ。保健所の方が好意で調べてくれました。自律神経の安定、ストレス緩和、睡眠の質の向上、皮膚の保湿、軽度の湿疹・あせもの緩和、傷、打ち身、筋肉痛・関節痛の緩和、疲労回復、冷え性の改善等と効果があるそうですわよ」
「はは、とんでもねえなおい……、って今更か。よっしゃ。んじゃ早速入らせてもらうぜ!」
長いこと妖怪と暮らしていただけあって、人間にしては割り切りの早い颯でありました。
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さて、凪紗に脅かされて逃げ帰っていった悪党たちですが。
休むこともできず真っ暗な山道を素っ裸でただひたすらに夜通し歩き続けることになりました。と、申しますのも少しでも足を止めると、何故かすぐ近くでぼこんがこんと恐ろしい音が鳴るのです。
あの人の姿をした恐ろしい化け物が戻って来たのではないかと思うと休んでなどいられません。
何処をどう歩いたのかはわかりません。怯えながらも夜通し歩いた彼らは、幸運にも明け方近くになって街につくことができました。実はお山で遭難されても面倒なのでラップ音たちが誘導していたのです。優しい。
白んでいく空の下、山を抜けた彼らは改めて自分たちが素っ裸であることに気が付きました。それまでは真っ暗でしたし、ガンガン鳴って怖かったしそれどころではなかったのです。
悩んだ末彼らは葉や蔦で色々隠すことを思いつきました。
しかしどういうわけかそのあたりに生えておりました植物が悉くウルシ、ハゼノキ、ヌルデ、イラクサ等の触れてはいけないモノたちでした。
彼らはその名前の植物に触れてはいけないということは知っていました。ただ、目の前にある植物と触れてはいけない植物とが結びつくことはありませんでした。
人目を避けてかゆみに耐えて、やっとの思いで塾の共同生活スペースとなっている建物にたどりつくと、玄関先に何かがこんもりと積もって山になっておりました。
何だろうと近寄ってみた彼らは、改めてゾッとします。
その山は、昨夜彼らが乗っていた自動車だった物でした。
成果なしで帰った上供用車を壊してしまった彼らは責任を追及されるでしょう。ことによると花蕾の地位を追われることになるかもしれません。
しかし今の彼らにとって、最早それはどうでもいいことでした。
こぶし大に刻まれた車がうずたかく積み上げられているという異様な光景は彼らにとって、昨夜のことが全部夢ではないことの紛れもない証拠でした。
生活棟では早朝にもかかわらず塾生たちは既に起き出しており、ひどい姿で帰宅した三人に口々に声を掛けてきました。
興味本位、足を引っ張る材料探し、中には純粋な親切心からのものもあったのかもしれません。
三人はその一切に取り合わず、衣服を身に付けた後無言のまま示し合わせたように、少ない荷物をまとめ始めました。
そんな彼らの元にいつもは瞑想の為に早朝は部屋に籠っている彼らの師、宇三 草士が現れました。
「やあ君たち、昨日は戻らなかったようだね。ひどい格好で帰ってきたと聞いたが、向こうで何があったんだい?」
昨日までなら師が大切な瞑想を切り上げてまで自分たちの元に現れてくれた事に感動して打ち震えるところですが、今日はとてもそんな気分になれません。
それどころではないのです。
「おいおい、だんまりかい。ああ、何か不測の事態が起きたのだね。それでなすべきことを成すことができす失意の中にいるというわけか。しかし花蕾ともあろう君たちがそのような態度では……」
「うるさい、全部お前のせいだ!」
宇三の言葉を遮るように叫んだのは青二でした。
「おまえが、猟師を襲えなんて言うから! 喫茶店を襲撃しろなんて言ったから! 全部全部お前のせいだ!」
あまりの出来ごとに成り行きを見守っていた塾生たちは唖然として固まります。
襲え? 襲撃?
最年少の花蕾である青二の口から飛び出した物騒な単語に、ざわめきが広がります。とくに「種」や「芽生え」の者たちの動揺は大きいようです。
「落ち着きなさい青二クン。他の塾生が驚いてしまうだろう? 喫茶店というと昨日の話だね。たしかこくり家とか言ったか。何か行き違いがあるようだが、私は罪もないのに殺される生き物の哀れを嘆いただけだよ。君たちはそれに憤って話し合いに向かったのだろう?」
「違う、違う、違う! やめろ、違う違うんです、俺じゃない、俺じゃない、 本当です、全部お前のせいだ。 全部こいつが、お前だ。あの化け物に遭うはずだったのはお前だ。お前のはずだったんだ!こいつなんですそれなのに!」
そこまで叫ぶと青二はぷつりと電源が切れたように静かになり、再び荷造りを始めました。ただ事ではない青二の様子に宇三は肩をすくめます。
「そんなに感情を高ぶらせるなんて君らしくもない。雑兵クン、弥津子サン、君たちからも何か言ってやってくれよ」
宇三の言葉に塾生たちの視線は雑兵と弥津子に向かいます。しかし真っ先に青二を諫めるべき雑兵と弥津子は宇三の言葉に一切の反応を返しません。完全な無視。まるでわずかにでも関わりたくないとでも言いたげな態度です。
「一体どうしたというんだい? 花蕾の中でも最も真実に近い君たちだというのに」
流石に宇三も鼻白んだようでした。
しかしそれどころではないのです。構っている暇はないのです。いえそれどころかもしも「ソレ」にいらぬ誤解をされてはたまりません。
周りからは支離滅裂に聞こえただろう青二の叫びは、口には出さずとも雑兵と弥津子の叫びでもありました。
玄関先にはばらばらになった車がうずたかく積み上げられていました。
それはすなわち、自分たちより前に化け物がこの場所に来たという事に他ならならず―
ことによると、今も尚。




