おいてけ果樹園
古来、桃は邪気を払う神聖な果実です。
黄泉返りの際、伊邪那岐大神が投げつけた桃が追いすがる死霊を退けたと古事記にも書いてあります。桃から生まれた勇者が鬼を退治したという「桃太郎」の伝説はあまりに有名です。
反田果樹園に忍び込んだ窃盗団のリーダー油蒸 与十雅は手近にあった桃の木から食べごろの実を一つ捥ぎました。
「へっ、このちいせえ桃に高級品だって札付ければ馬鹿どもが大金出して買ってくんだからなあ」
ヘッドランプの夜間作業用の赤い光に浮かび上がる桃を見て与十雅がせせら笑うのに、同行した貝柄と日鶏が追従しました。
知らないとは恐ろしいことです。
幹に耳あり、枝葉に目あり。此処は大妖怪ころりんの手の内腹の内。
本人の目の前での不埒な輩の悪口雑言、到底許されるものではありません。
覚悟しろ悪党ども。
「食べ物の恨み」は、それはそれは恐ろしいのです。
与十雅は捥いだ実を業務用の青果コンテナに詰めました。
商品ですから丁寧に。まあそこそこで構いません。
多少傷んだ品を混ぜ込んで、訳アリ品だから安くなるんですとでも講釈をたれれば、同じ値段なのに買っていく馬鹿なぞいくらでもいます。ネットで売るならさらに話は簡単です。
さらに二つ目の桃に手を掛けようとして—
ヘッドランプの狭い視界の外から、その腕を何者かにがしりと掴まれました。
「お、おいなにしやが」
一瞬どきりとしたものの、貝柄か日鶏の仕業と思って発した声は、しかし最後まで言い終えることはできませんでした。
ヘッドランプの明かりを向けてもそこには何もいませんでした。赤い光に照らされるのは、初めからそこに在ったモノだけでした。
「ヒッ」
与十雅の腕を掴んでいたのは、初めからそこに在った桃の木でした。
慌てて助けを求めようとした与十雅でしたが、時すでに遅し。二人とも与十雅と同じように、その腕を桃の木に掴まれていました。
パニックに陥る三人の耳に、何処からともなく恨めしげな声が聞こえます。
「おいていけ……」
「おいていけ……」
ぎりり、腕をつかむ力が強まります。
これは桃を盗もうとした報いだとでもいうのでしょうか。
「おいていけ……」
「おいていけ……」
「わかった、おいていく。だから離してくれ!」
与十雅慌てて声に向かって答えます。すると—。
ぎりり。
腕を締め付ける力が一層強くなりました。
「おいていけ……」
「おいていけ……」
「やめろ、返す、返すって言ってるだろ!」
与十雅は必死に叫びますが、腕を締め付ける力はぎりりと尚も強まるばかり。
「おいていけ……」
「おいていけ……」
「だからおいていくって—」
「お前の腕を、おいていけ」
「……へっ?」
与十雅のその声は、暗い果樹園になんとも間抜けに響きました。
ぎりりりりりりりりり!
「ぎゃああああああああ!」
とんでもない力が、悪党どもの腕をひねり上げます。
「おいていけ」
「おいていけ」
「お前の足をおいていけ」
ずるり。地面から生え出した木の根が悪党どもの足をつかんで食い込みます。
「ひぃいいいいい!」
「おいていけ」
「おいていけ」
「おいていけ」「おいていけ」
「おいていけ」「おいていけ」
「おい「おいていけ「お「おいていけ」いけ」」「ておいておいていけいけて「おいていけ」「お「おいていけ「おいていけいけ」」」いけ」おいておいて」「ていおいていけけ」おいていけけけけ」けけけ」けけけけけ」」けけけけけけけけ」けけけけ
「おいていけ」「おいていけ」
「お前の腕をおいていけ」
「おいていけ」「おいていけ」
「お前の足をおいていけ」
「桃の実をもいだ代償に、お前の体をおいていけ」
「桃の実をもいだ代償に、お前の命をおいていけ」
ぽとり、ぽとり。
恨めしげな声が理不尽な要求を突きつける中、桃の実がひとりでに地面に落ちました。
ヘッドランプの赤い光の中、転がる桃がぱっくりと割れてもぞもぞと無数の何かが這い出ます。長いモノ、這うモノ、飛ぶモノ、足の多いモノ、節を持つモノ、棘を持つモノ、毒を持つモノ。
それは無数の蟲でした。多種多様な蟲でした。
「ひぃいいいいい!」
一様に恐怖に顔を引きつらせる悪党ども。身動きできぬ彼らに見るもおぞましい蟲たちが迫ります。
もちろんそんなもの現実には存在しません。大妖怪ころりんが守護する農園に、害虫などいるはずがありません。
盗人たちが見ているのはただの幻。しかし彼ら自身にとっては真実です。
食とそれに連なる人々の苦労を軽んじ貶めたへの報い、それは食の安全が保たれない世界。食よりおぞましき虫が這い出でる、彼らの所業にふさわしき世界です。
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翌朝通報を受けた警察が反田果樹園に駆けつけますと、悪党どもが広い果樹園の真ん中で作業用のロープでふん縛られて転がされておりました。
果樹園の女将の話では、通りがかりの美しい女性が夜中に果樹園に入った泥棒をふん捕まえて縛り上げた上、名も告げず去っていったとのことでした。
警察に引き渡された悪党どもは何故か怯え果てており、非常に協力的に背後関係を証言しました。結果芋づる式に検挙され、窃盗団は壊滅しました。
しかし彼らの上にはさらにその上前を撥ねていた悪党がいるようで、警察は尚も捜査を続けています。
さて反田農園で盗みを働こうとした三人組のその後でございますが。
彼らは果物はもちろん、全ての食べ物を恐れるようになりました。
小さく小さく小さく、自らの手でちぎり、中に何も「いない」ことを確認してからでなくては口にすることができなくなったということです。
食べ物とそれにかかわる人々をないがしろにした彼らはその報いとして、食べ物が安全に食べられるという当たり前を永久に失ってしまったのでした。




