反田果樹園
お母さんに連れられてやってきた少女が、桃をとるのにふさわしいとは言えないひらひらした服で脚立に上るのを見ると、何とも微笑ましい気持ちになります。
女の子と言うものは幼いころからおしゃれと言うものに敏感です。
きっと出かける時にもひと悶着あった上でお母さんの方が根負けしたのでしょう。
うちの娘と一緒です。
「おっかあ、そっちじゃなくて隣の赤いのを詰めて」
「こっちの角度の方が可愛いの!」
「もう、早く袋はずして! 色がつかなくなっちゃう!」
全く手間のかかること。ハイハイと答えて言われた通りに……。
…………?
あれ? 娘?
いえいえ、そんなはずはありません。うちには女の子はおりません。うちの子供は男の子だけ。しかも二人とも立派に成人しています。孫だって大きくなって、顔を見せに来ることもなくなってからもうずいぶん経ちます。
ではこれは誰との会話の記憶でしょう? もしかして夢か何かを本当の出来事と思い込んでしまっているのでしょうか。
夏休みが近づいたからか、小さな子供を見たせいか、おかしな想像をしてしまったのかもしれません。全く年は取りたくないものです。
…………。
ふう。
反田農場のおっかさんがついため息などついてしまったところに、どたどたと大きな足音が駆け込んできました。
「おっかあ、おっかあ! 虫が、おっきい毛虫がいるの!」
やれやれ、まったく騒々しい娘です。感傷に浸ってる暇なんかありゃしない。
パフェになりたいなんていっちょ前なことを言い出すくせに、こういうところは子供のまんま。桃はそのまま食べるのが一番おいしいっていうのに。
とはいえ毛虫をほっておくわけにも行きません。全く手のかかる娘です。
自嘲に歪みかけた口元に苦笑を浮かべて、おっかあは立ち上がります。
「ハイハイ、今行くから」
答えて家を出た頃には、誰と話をしたかなんて忘れています。それどころか話したことすら覚えていません。相手は「いる」とは言えない存在。覚えていることはできません。目覚めた後の夢の記憶のごとしです。
しかしまた同時に「いない」とも言えない存在です。
だから、また何かの折に彼女はふと思い出すのです。
いないはずの娘との、あるはずのない不思議な会話を。
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反田果樹園。
たんたんころりんの案内で紅珠とクロが駆けつけますと、広い果樹園の真ん中で倒れていましたのは経営主らしい中年の女性でした。紅珠がたんたんころんの姿から予想した通りです。
たんたんころりんによれば反田のおっかさんに特に持病はないとのこと。
ならば倒れた原因は脱水か低血糖とあたりと見当をつけて屋内へと運び込み、誠に勝手ながら家の中を漁りまして、冷蔵庫で見つけた桃のジュースを飲ませました。
その後もう大丈夫と言うおっかさんを宥めすかし、遅れて駆けつけた兵太郎のおんぼろ車で近くの診療所へ。道中藤葛が先方に状況を説明しておりましたので、到着してすぐに急患として見ていただくことができました。
お医者様の見立てもやはり軽い脱水症状であろうとのこと。
朝起きてすぐちょっとだけのつもりで水分もとらずに仕事を始めてしまったのがついつい長引き、低血糖と水分不足のダブルコンボとなったようです。
念のために水分と栄養の入った点滴をしてもらいましたが、小一時間ほどでそれも終了。
「まさか自分が脱水症状なんて起こすと思わなかったわあ」
あっはっは。
おっかさんが元気に笑います。
「ったく、周りには食べごろの桃がいっぱいだっつうのに水分と糖分の不足なんて。たいしたことがなくて済んだからこその笑い話だぞ」
連絡を受けて駆け付けた市役所勤めのおとっさんも呆れ顔です。
「まあまあご主人。大事なくて何よりでございましたわ」
「お母さんがご無事で良かったです!」
「皆さん本当にありがとうございました。ったく。この方々が通りかかってくれたからよかったものの」
反田のおとっつあんが兵太郎一行にぺこぺこと頭を下げるのもこれで何度目になるのやら。あまり感謝されすぎても居心地の悪いものですし、おっかさんにもお休みが必要でしょう。そろそろお暇すべきところですが、その前にもう一つ厄介な問題が残っています。
ここまでのなんやかんやで姿が見えるようになってしまった農場で留守番しているあの妖怪について、お二人に説明しなくてはなりません。
たんたんころりんは反田農場の桃の木の意識が集まって自我を持った存在ですから、反田農場を離れることはできません。
もとより彼女はこの夫婦とずっと一緒に暮らしておりました。しかし姿があるのとないのでは一緒に暮らすことの意味は大きく異なります。夫婦がたんたんころりんを受け入れてくれるといいのですが。
「そういえば皆さんは何故うちにいらしてたんです?」
「うむ、そのことなのじゃがな、御主人」
タイミングが良いのか悪いのか、反田のおとっつあんの質問にどう答えるべきでしょう。千年という時を生きている紅珠といえど簡単には答えを返せません。
「ああ、たんたんころりんさんが教えてくれたんです。お母さんが倒れちゃったって」
「ちょ、お前様!」
紅珠が迷っている間に横から兵太郎がのほほん答えてしまいました。
あっちゃあ。
「たんたんころりん?」
聞いたことがない名前に夫婦は顔を見合わせた後そろって首をかしげます。
「はい。お母さんの事、凄く心配していたんです。早く帰って元気な姿を見せてあげて下さい」
反田夫婦の困惑にも気が付かず、兵太郎はそれはそれは嬉しそうににへらと笑いました。




