小豆洗いの後継者
新井 恒明は御年56歳。趣味は山歩きとキノコ狩り。
と言ってもそれはずいぶん昔の話で、四十の後半くらいからは山まで足を運ぶこともなくなりました。そういえば極稀に出会えるヤマドリダケなどはもう何年食べていないことか。寂しいことではありますがそれも仕方がありません。
体力的なこともありますが、何より仕事の責任が重くなったというのが大きな原因です。
恒明が創業70年を超える老舗和菓子工場、新井堂本舗の社長を引き継いだのはちょうど10年前。恒明は伝統ある新井堂の三代目になります。
初代店主、新井千之助は多くの人を魅了する新井堂の味を作りあげた偉大な人物ですが、幼い頃の恒明にとっては優しいおじいちゃんでした。
お話が上手な人で色々な昔話を知っていました。なかでも妖怪のお話は恒明も大好きで、良くせがんで聞かせてもらったものです。
その祖父が男手一つで育てた恒明の父の晴彦も才能ある人物であり、二代目として会社を大きく成長させました。
そしてその祖父と父の血を引く恒明もまた、有能な人物でした。
多様化するお菓子業界の波に和菓子製造は苦戦を強いられる中、高級和菓子としての祖父の味を守りつつ、安価なお土産品なども手掛け苦境を切り抜けてここまでやって来ました。
地味な見た目が定番の饅頭に、地元原縁市のゆるキャラ「はらぺこくん」を可食フィルムで色鮮やかに描いた人気商品「はらぺこ饅頭」も恒明の発案によるものです。
業界では成功者と言っていい新井堂ですが、しかしそれでも経営は苦しいというのが実情です。
なんとかさらなる打開をと模索していたところ、恒明は湖のヌシの噂を耳にしました。
なんでも原縁市にある縫霰湖という湖で怪獣が目撃されたというのです。怪獣には「ぬっしー」という名前が付けられ、メディアが取り上げることもしばしば。
このぬっしーなる怪獣が実際にいるのかどうかはさほどの問題ではありません。そんなことより地元に現れた話題の種を利用しない手はないでしょう。
「はらぺこくん」のノウハウを持つ新井堂ですから、キャラクターをモチーフにしたお菓子の製造はお手の物。キャラクター像が固まれば既存の製造ラインですぐにでも生産可能です。
しかし一つ困ったのはネットの動画のどれを見ても「ぬっしー」の姿は映っていないということでした。
見たという人は大勢います。でもなぜかその写真や動画はないのです。これではイメージの沸きようもありません。
ならばいっそと本当にいるのかどうかもわからない怪獣を探すため、恒明ははるばる山の中奥深くにある縫霰湖へとやってきました。
縫霰湖の周りには平日の昼間だというのに数組の張り込みの者たちがおりました。目的はきっと同じでしょう。恒明もそれに混じって湖を観察することにします。
しかしすぐに失敗に気が付きました。
「暑い……」
今は七月。それなりに高さのある山の湖のほとりとはいえ暑いのです。
良く観察してみれば周りは食料や飲み物、暑さ対策グッズ、テント等長時間張り込み用の装備を整えたガチ勢です。
思いついてすぐ飛び出してきてしまいましたので、カメラと言えばスマホだけ。スーツ姿で飲み物すら持っていないとは。かつては山歩きを趣味としていた自分が山にこんな格好で来てしまうとは何たる失態でしょう。
しかも周りは体力のある若者ばかり。五十をとうに超えた恒明にとって太陽と湖面の照り返しはなかなか辛い。
小一時間程度粘ってみましたがもう限界です。これ以上は熱中症になりかねません。しっかり準備をして出直そう、と湖に背を向けた瞬間でした。
ざっばーん!
大きな水音に恒明は慌てて振り返ります。しかし湖面には大きな波紋が残るばかり。
「くっ、よそ見した」
「なんでカメラずらした時に……」
「録画失敗してる? なんで?」
その瞬間、多くの者が監視していたにもかかわらず何故か湖面にカメラを向けていたものはおりませんでした。そして多くの人が偶然湖面から目をそらした瞬間の出来事でした。
今のがヌシだったのか? それとも別の何かだったのか?
決定的瞬間を見逃してしまったことに恒明は歯噛みしますがこれ以上長居するわけにはいきません。恒明は再び帰路につきました。
車に戻ると時間はお昼を大分過ぎていました。お腹もすいてきましたがそれよりなにより水分を補給しなくては。健康診断の時も医者からくどく言われているのです。
しかしここは山の中。自動販売機でもあればいいのだけど。
そう思いながら車を走らせていると道の脇に大きな岩が見えてきました。隣には緑の葉をつけた若木が岩にしなだれかかるようにして生えています。
岩の前には大きな看板が出されておりまして「喫茶こくり家→この先500m」と書かれています。
こんなところに喫茶店? そう思いつつも車を進めてみると、やがて祖父のしてくれた妖怪譚の「迷い家」を思わせる古くて大きな家が見えてきました。
大丈夫かな。狐や狸に化かされているんじゃないだろうな。冗談交じりにそんなことを思いつつ、向かった喫茶店の入り口には今日のおすすめメニューが記されています。水分が取れて何か食べられればなんでもいいのですが一応確認を。
ええっと、なになに?
『ヤマドリダケと鶏肉のクリームソースのスパゲティー』
「は?」
一瞬目を疑った恒明でしたがまさに一瞬のことで。
次の瞬間には恒明は喫茶店へと飛び込んでいました。
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「はあ、社長さんですか」
出された名刺を見て店主がぽけーっと呟きます。その店主の右の肩のあたり、にょん、と一つ首が生えました。
「新井堂本舗さんというと地元の和菓子屋さんでしたわね」
にょん。左の脇のあたりにもう一つ首が生えます。
「どうやらこちらとしても詳しい話を聞かせていただく必要がありそうじゃの」
首に続いて全身も登場。一体いつから隠れていたのでしょう。店主の背後から現れた二人の絶世の美人が、恒明に向かって深々と頭を下げました。
「新井様、私兵太郎の妻で名を藤葛と申します。よしなに」
「儂は紅珠。同じく兵太郎の奥さんじゃ。社長殿、よろしくお願いするのじゃ」




