屋敷の怪異と恐れ知らず
—あの古屋敷には化け物が出る。
そんな噂を聞いて人々は震えあがります。しかし男にはピンときません。聞けば音だけの怪異だとか。何を恐れることがあるのでしょう。
首をかしげる男に人々は言いました。
「そうまでいうなら屋敷で一夜を明かしてみせるがいい」
そんなことはできないだろう、そんなつもりで言ったのでしょうが男にしてみれば別段強がりでもありません。周りに言われるままに屋敷に泊まり込みました。
その夜。
男は屋敷の一室に布団を敷いて寝ようとしておりました。寝転がって空き屋敷の天井を眺めていますと何処からともなく音が聞こえてきます。
しょき、しょき、しょき。
まるで小豆を研ぐような音でした。音はすれども正体は見えず。
ははあ、これが噂の怪異かな?
「確かに不可思議なことではあるが。別段怖いこともないわなあ」
男がそうつぶやくと、音はピタリとやみました。
もしかして機嫌をそこねてしまったのでしょうか。だとしたらしょきしょきには悪いことをしたなあ。
そんなことを思いながら男はぼんやり天井を見つめておりました。
しばらくそうしておりますと、再び何処からか音が聞こえはじめます。。
しょきしょきしょき、しょきしょきしょき。
「やあ、戻って来たのか。さっきはすまないことをしたね」
非礼を謝ってみましたが、またしょきしょきはピタリとやんでしまいました。音が聞こえなくなると静けさが際立ちます。
「ああ気にしないで続けておくれ。なんだか目が覚めてしまってね。すこし音がある方がこちらとしても寝られそうな気がするんだ」
…………。
しょきしょきしょきっ! しょきしょきしょきっ!
再び屋敷に不思議な音が響きます。気のせいかさっきより荒々しいような。何か気に障ることでもあったのでしょうか?
やがてしょきしょきという音に混じって人の声が聞こえ始めました。
「あず……と……うか、ひと……って……おうか」
それは恨めし気な女の声でした。声は小さく微かで何を言っているのか聞き取れません。
「あず…………うか、…………おうか」
「なんだい、良く聞こえないよ。もっとはっきり言っておくれ」
「うるさい、こっちにもペースってもんがあるんだ。黙って聞いてな!」
突然屋敷に大きな声が響きます。なんだ大きな声も出せるんじゃないかと男は思いましたが、その剣幕の凄さに首をすくめ、黙って従うことにしました。
「あず……と……うか、ひと……って……おうか」
最初は何を言っているかわかりませんでしたが、声はだんだんと大きくなっていき、やがてはっきりと聞こえるようになりました。
「小豆を研ごうか、人をとって喰おうか」
流石にとって喰われては敵いません。男は慌てて言いました。
「そのどちらかだというのなら、小豆を研いでいてくれないか?」
男が答えると、どこからともなくはああ~~っという盛大なため息が聞こえてきました。恨めしげな声は言います。
「あんたはなんだかやりにくい。とっとと出てってくれんかね?」
「そう言われても困るなあ。この家で一夜を明かすと村の者と約束したんだ」
「そんなのはこっちの知ったことじゃない。この家の主人は私だよ。主人が出ていけと言ったら出ていきな」
「朝になれば出ていくさ。それよりなんだかのどが渇いたな。あんたがこの家の主人だというのなら、茶の一杯くらいご馳走してくれないか」
「…………」
しばしの沈黙ののち、ごとんと頭の上で大きな音がしました。
体を起こして見てみればなんと枕元には淹れたての茶とにおいしそうな牡丹餅。
「これはこれは。なんだか催促したようですまないね」
男は何を恐れることもなく牡丹餅に口を付けました。その美味しいこと。
粒の一つ一つがふっくら。薄い皮はかすかに食感を残して抵抗なく破れます。ほろりあふれ出る餡の控えめな甘さが、半分形を残してつかれた餅のむちっとした食感になんともよく合うのです。
男は驚いて目を見張りました。
「なんと美味しい牡丹餅だろう。これはあんたが作ったのかい?」
「当たり前だろう。あたし以外の誰が作るっていうんだい」
「こんなおいしい牡丹餅をつくるあんたはさぞかし美しいに違いない。どうか姿を見せてはくれないか?」
「…………」
またしばしの沈黙。そして—――。
その日から男は、夜な夜な屋敷に通うようになりました。
男の名は新井 千之助。
後に、和菓子屋新井堂本舗の初代社長となる男です。




