三 桜綾は、頬染めた淑妃を見かける
桜綾妃は、今日も元気に筋肉を愛している。
(お日様の下で燦々と照らされる主上の筋肉が見たい!!)
季節は夏。暑さからちょっぴり頭が弱くなっていたかもしれない。
(昼間に汗ばむ筋肉も素敵です! きっと素敵!)
恋しい筋肉を思い浮かべつつ、侍女を連れ、久しぶりにお外をてくてく歩く。
(筋肉! 筋肉!)
昨日は部屋を飛び出してすぐ侍女に捕まり、ずるずると引っぱり戻された。
桜綾さま!? 悪鬼にでも憑かれましたか!? と突然の奇行にびっくりされたようだ。
後宮医まで呼ばれた。ばっちり健康だった。
(わざと騒いだのではありませんが、おかげさまで、主上から心配のお手紙をいただいてしまいましたね。うふふ)
皇帝からのお手紙が届いたのは、昨晩のこと。桜綾は大はしゃぎして、寝落ちるまでずっと何度も何度も読み返した。
(あの筋張った美しいお手でわたくしのためにお書きくださったのですよね……? あぁ好き……! 片手だけでもいいからまた拝みたい!)
これでいて、桜綾自身に恋心の自覚はない。
(目指せ筋肉拝見! ムキムキ最高! わーい!)
である。お花畑なお妃さまなのである。
「桜綾さま、どうかご無理はなさらないでくださいまし」
「ええ、もちろん!」
桜綾の侍女、林杏と巧玲。
今ここに居るのは林杏で、巧玲はお留守番をしている。
桜綾が妃になるとともにお付きになったふたりは、どちらも真面目でおとなしい。
なんだかんだと桜綾を大切に思ってくれているようで、昨日も桜綾がにこにこと話す皇帝の筋肉話をまるで恋愛相談に乗るかのように優しく聞いてくれた。
なんとまあ、いい子たちである。
(どうやら主上は、わたくしのことを〝病弱な娘〟として女官たちに伝えているようでしたね。ふむふむ。そういえば、そんな設定でしたかも)
本当は、人よりちょっと寝るのが好きなだけで、いつも元気いっぱいもりもり健康! の桜綾なのだが。
(わたくしったら、▓▓▓な妄想に興奮して頭からすっぽ抜けておりましたわ! おっちょこちょい!)
ぎりぎり妃嬪の才人・来桜綾は、昨日までひっそりと後宮の片隅に引きこもっていた。
糸を紡いだり機を織ったり刺繍をしたりと、なんてことない普通のお嬢さまらしい暇つぶしに興じて寂しさを誤魔化した。あと惰眠を貪ったりも。
しかし、もう限界だ。耐えられない。
筋肉を愛で足りない桜綾の欲は爆発してしまった。
――あの方に着せる▓▓▓な服をつくろう! と。
皇帝に手製のものすっごい服を着せようと舵を切った桜綾は、昨日から妄想を膨らませ、せっせと新しい服の意匠画を描きはじめた。
今は創作意欲を掻き立てたいなぁとお散歩をしている。後宮に咲く色とりどりの夏の花を見つつ、帝の女という花々のこともチラチラと観察している。
(あちらにいらっしゃるのは、春蕾さまね。今日もお忙しそう……。お疲れさまです。ご一緒にいらっしゃるのはどなたかしら?)
春蕾は、この後宮を管理する若き宦官である。すらりとした長身痩躯の美しいかたで、彼に惚れている妃嬪や女官もいると聞く。
この数ヶ月、皇帝のお渡りは悲しいことに一度も無いが、彼はときどき部屋に来た。
下っ端妃の様子も見なければいけないとは大変ね、と桜綾はのんびり思ったものだ。
女官の頃から付き合いはあるが、なんというか、妓楼で桜綾をからかってきた小姐たちにどこか似ていて得意ではない。玩具のように遊ばれている気がする、というか。
(春蕾さまは、お顔立ちが主上に似ておりますわよね。と言っても、あの夜のわたくしは)
最中は受け入れるのに精いっぱいで、事後は筋肉に夢中でした……とひとり思い出して頬を染める。
(主上のお顔のことは、お体に比べると、ぼんやりとしか覚えておりませんけれど。なぜか前世の恋人さんに似ている気がしましたわ)
美貌の宦官、春蕾。
そして、彼と一緒に東屋にいる見知らぬ美女。
女は銀の髪と紫の瞳をもっており、国中の美姫が集まる後宮でも目立つ容姿をしていた。色彩からして異国の姫だろう。
着ている衣裳の形は本国仕様だが、素材はより綺羅綺羅しく華やかだ。醸し出される雰囲気といい、桜綾よりはるかに高貴なかたと見える。
ちらりと林杏に目配せすると、優秀な侍女は小声で教えてくれた。
あちらにいらっしゃるのは、新しい淑妃の雪麗さまです。と。
(なるほど、四夫人のお一方でいらっしゃいましたか)
正一品の四夫人、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。
もしも男子を生めば皇后になるであろう、上級妃のおひとりということだった。
皇帝の命令で引きこもっていた病弱妃こと桜綾は、挨拶にも伺えていない。今日、初めて見た。
(それも、新しい淑妃さま、と)
桜綾がお手付きになった事件には、実は、前の淑妃が関係している。
今はもう後宮にいない大胆かつお茶目な美女が、桜綾の人生を大きく変えてしまった。
(まあ、なるようになれですし? 彼女が幸せならいいのです)
悪く言えば〝騙されて処女を奪われて軟禁された〟という桜綾自身の状況は置いておき、明るく捉えようと前を向く。
(誰の首も飛ばなかったこと、主上のお情けには感謝いたしましょうね。まあまあ、わたくしは、あわよくば筋肉も拝見したいところですが。強欲な女ですが)
手慰みに、そっと前髪を撫でつけた。他意はない。
遠くから見る春蕾と雪麗は、それはそれは絵になった。筋肉をこよなく愛する筋肉馬鹿の桜綾にも、この美男美女の尊さはわかる。体がよく見えない着衣でも。
(春蕾さまは、もしかすると宦官ではない……という疑いもあるのですけれど。それでも美しいですわね。――あら?)
じいっとふたりを観察していて、桜綾は、ふと違和感をおぼえた。
春蕾に見惚れてうっとりする女は大して珍しくもないと聞くが、それにしても……。
(雪麗さまのお顔、なんだか赤いわ。そういうお化粧ではないわよね? この赤味のさし方……暑ければ血色が……でも白粉もはたいていて……それに侍女たちは……)
なんだかおかしいなー? と思っていると、春蕾と目が合った、気がした。
(おっと)
にこりと頭を下げ、踵を返す。さすがに淑妃との席を離れてまで桜綾の元に来るとは思えないが、念のため。できるだけ絡まれたくはない。
(淑妃・雪麗さま――ね。あの件を持ち出されて、あの方にも、ということにならないといいけど……)
しかし残念なことに、桜綾は旗を回収してしまう。