二 筋肉拝見欲は、爆発する
(しくしく、しくしく、しくしく……)
桜綾は、心のなかで啜り泣く。
皇帝は、桜綾のことなど、さっぱり忘れてしまったようだった。出会い方こそ突飛だった桜綾も、数多の美しい妃嬪のなかに咲いてはあっさり埋もれたようだ。
(あんなふうに入内させたのだから、一度くらい、会いにきてくれてもいいのに)
素直さを美徳のひとつと数えられる桜綾は、今日まで彼の命令通りに過ごしてきた。
模範的かつ量産型な恰好をし、できるだけ外に出ず、自分の部屋に引きこもってきた。
もちろん埋もれて当然だ。目立とうともしない引きこもり女が愛されようなどおこがましい。他の頑張る妃嬪たちに知られたら笑われよう。
が、こうも会えないと切なくなってしまう。
あんなにも素晴らしく好みの愛おしい筋肉を知ってしまったのに、ずっと触れられない、見られない。妄想するばかりだ。夢に見るばかりだ。
(筋肉……主上の筋肉……うぅ、見たい……触りたい……筋肉を求める化け物になってしまいそう……)
寂しかった。会いたかった。触れたかった。話したかった。筋肉が見たかった。筋肉を愛でたかった。
あの張りや艶は忘れようにも忘れられない。いっぱいいっぱい夢に見た。前世の夢もたくさん見た。
桜綾の欲は、ついに爆発した。
(――よし! あの方に着せる▓▓▓な服をつくろうっ!)
▓▓▓は自主規制。とても皇帝に向けてはいけない言葉である。貞淑たれと求められる妃の口に相応しい言葉でもない。妓楼で覚えたか前世で覚えたかは忘れた。
(桜綾はもう頑張りました! おとなしくしているのには飽きました! なので! ▓▓▓な服をつくります! わーい! ▓▓▓!)
それは、紛うことなき現実逃避だった。
彼女がどんなに丹精込めて仕立てたところで、皇帝が着てくれる可能性はごく低い。
皇帝の衣裳には細かな決まりがあり、彼のお召し物をつくる女官は他におり、桜綾の自由奔放な服が許される隙など見つからない。
彼女の望む▓▓▓な服では、お日様の下はまず歩けない。せいぜい、閨で媚びたら羽織ってくれるかな、くらいの期待しか抱けない。
そもそも今後お渡りがあるという自信もない。もう二度と抱かれないかもしれない。会えないかもしれない。
(一夜の夢をいただけたら、もう身に余る幸せですもの。このまま寂しく後宮で散っても、わたくしはあの方を恨みませんわ)
今世も、こういう運命だったのです。と。ほんのり感傷的になり、ふっと笑う。
誰にも見られない、孤独で可愛らしい笑みだった。
(とにかく! 主上が可愛らしく赤面しちゃうくらい、ものすっごい衣裳を仕立ててやるんだから! この桜綾の奇抜な美的感覚に溺れてくださいまし!)
かくして桜綾は、彼女らしい服づくり活動を再開することとなる。
……ところで、この娘。
来桜綾は、いわゆる波乱体質であった。
赤ん坊の頃に妓楼の前に捨て置かれ、本当の親を知らない。後宮とはまた違った女の鳥籠で育ち、生きてきた。後宮に連れてこられたきっかけは誘拐で、まあいろいろあって今ここにいる。
そして、彼女には――どこか遠くの世界で生まれ育った、他の人生の記憶がある。
妓楼の小姐たちとの会話から察するに、それは前世の記憶というやつで、桜綾はどこかの誰かの生まれ変わりの転生者なるものらしかった。
今の世より時代を先に進んだっぽいかつ異国っぽい世界から、かつての桜綾の魂は飛んできたらしい……と、なんとも不思議な話だ。
そんな異世界の知識と独自の美的感覚を活かし、花街に居た頃の少女桜綾は、妓楼向けに斬新な衣裳や化粧品をつくることで飯を食っていた。
彼女は立派な筋肉を愛しているが、それに匹敵するくらいに服づくりも愛している。
やっと見つけた理想の筋肉から引き離されて我慢を重ねた桜綾が、欲を暴発させて大好きな服づくりに走り出すのは、もはや必然のことだったかもしれない。
(さあ、主上の筋肉の魅力を百倍にする衣裳をつくりましょう……!)
これまでひっそり慎ましく咲いていたのに、と。
いきなり満開の花の笑みで飛び出してきたから驚いた。と。
後に眦を染めた皇帝から告白されることを、この時の桜綾はまだ知らない。
筋肉を愛する転生妃は、まだ、皇帝の愛に気づかない。