一 転生妃は、筋肉の夢を見る
へくちゅ、と可愛らしいくしゃみの音がする。夏紗の後宮の奥の奥。
外を飛び舞う花の粉に誘われるように、彼女は目を覚ました。春眠暁を覚えずとは、さて、この世界でも通じる言葉だったか。
あのひとと会う夢を見たせいか、遠い世の記憶と今の世の記憶とがごちゃごちゃになっている。へくちゅ、またくしゃみが出る。
(わたくしのことを、どなたか噂でも? 主上なら嬉しいけれど……)
まだ化粧をしていない朝。少女らしいあどけなさの残る眦を涙が伝う。ちなみに花粉症ではない。風邪でもない。今世の自分は健康体だ。
どくどくと鳴る心臓を落ち着かせるよう、自らに言い聞かせる。ここは、あのひとのいる世界ではないのだと。
彼女がくしゃみをしようと咳をしようと、背をさすってくれる恋人はもういない。彼の逞しい背におんぶされることはもうなくて、彼と口づけることも二度とない。
(生まれ変わったのですから、仕方ありません)
ふう、と彼女は息をつく。吸って、吐いて、記憶のごちゃごちゃを整える。まるで幼子の頃のようにとても眠い。月の障りのせいか、体が重い。心が重い。
後宮という華やかな巣箱のつまらなさは、白く清潔なばかりの病棟といい勝負だ。
(ひとりぼっちは退屈です)
赫糸の姫の噂をまだ知らない、引きこもりの妃が、ここにひとり。
名を、来 桜綾という。歳は十八。生まれもつ異能の名は〈糸〉。
(主上の筋肉が見たいなぁ)
尚服局の女官だった頃よりは上等な、けれどあの頃より寂しい部屋で。ふかふかの寝台をごろんと転がり、桜綾は思う。
自分の匂いしか残らない敷布に頬を寄せ、彼の手の感触を恋しく感じて、高望みだと知りつつも。
(あの方の、筋肉が、見たい……)
お布団を抱きしめて目を瞑ると、一夜の光景が瞼の裏に浮かんだ。ここでない寝所で皇帝と出会った、初めての冬の夜のことが。
『……――桜綾』
彼女の黒き瞳に映るは、彫刻のように整った逞しい体つき。筋骨隆々の美しい殿方が、桜綾の黒髪にそっと手を触れて。それで、あれで……
(あぁ眼福――っ!)
ときめきで叫びそうになった口元を押さえ、桜綾はじたばたする。あんなにご立派はお体の殿方は、この世界では他に見たことがない。
初めは怖かったけれど、夢のようだった。思い出すだけでも涎が垂れそうになる。華奢な手のひらのなか、むふふと笑みがこぼれるのは止められない。
(思い出に美化された筋肉の尊いせいでしょうか? きゅんきゅんします……。ああ、主上の大胸筋は今日も素晴らしくいらっしゃるのでしょうね。はぁぁ)
桜綾は、家柄の良い娘ではない。そもそも親の顔も知らぬ捨て子である。特別に華やかな見目の娘でもない。
花街の妓楼で育ちながら妓女見習いの禿にされることもなく、おまえに客はとれぬと言われ、幼女の頃は小間使いをしていたほどだ。その育ちから、教養についても、やはり他の妃らよりズレている。
読み書きはでき、詩歌を口ずさんだり二胡を弾いたり、舞い踊ったり、碁や象棋を打ったり……も一通りできるが、花街でも後宮でも何か評判になるほどではない。
誰の目にも留まらない、一番にはなれない。どれも半端ものだと己を評する。
(望んではいけない身分なのに、わたくしったら悪い子ですね。強欲さんです。でも、主上にお会いしたいのです……ああ! 会いたい! お会いしたい!)
誰がどう見ても、国母には相応しくない。でも化粧映えはする。だからここにいる。
家柄も容姿も賢さも不十分なのに、妃のふりを中途半端に成功して失敗したから。
(顔を見たいとまでは望まないから筋肉……! 筋肉を見たいわ……!)
桜綾は脚をばたばたさせ、また寝台の上をごろんごろんと転がった。
慕わしい彼は、きっと今宵も、桜綾でない誰かの閨に足を運ぶのだろう。
想像すると、胸がきゅうっとなる。ちくちくする。
(桜綾は、どうせ一度きりの女ですもん……)
皇后のいない現在、帝の女が集う後宮には、正一品の四夫人を始めとして数十人の妃嬪がいる。後宮に暮らす女の数は、女官を合わせると千を超える。
正五品・才人の位にある桜綾は、うっかり一晩だけ皇帝の寵をいただき、それがきっかけで女官から妃へと相成った。
後ろ盾も何もない、ぎりぎり妃嬪の一員と言える妃である。吹けば飛ぶような弱っちい立場の後宮妃である。
(もう一度でいいからあの肉体美を拝みたい……拝みたい……)
桜綾は、恋なるものをよく知らない。皇帝の筋肉はまた見たいなぁと思うけれども、これが恋なのかはわからない。自信がない。
妃、来桜綾、十八歳。
すでに子どもを生んでいてもおかしくない歳ではあるが、生むのは遠い話となろう。初夜では孕まなかったうえに、皇帝のお渡りはあれ以来ないのだから。
そう、桜綾は甘く考えていた。
(もしも今度があったら、恥ずかしがらずに触れさせていただきたいわ。ああ、あのムキムキのお体に……触れたい……っ)
初夜の日の皇帝は、ひどく優しかった。
彼の微笑みは、記憶のなかの誰かさんとよく似ていた。
(昔、どこかで……なんてね、うふふっ)
素敵な筋肉の妄想に浸り、ごろごろし疲れた桜綾はすやすや眠る。怠惰な二度寝だ。
畏れ多くも皇帝の筋肉を拝見したいという邪な欲を抱きつつ、次の日も次の日も、桜綾は健気に後宮暮らしを続けた。
彼に言われたように、絢爛豪華でありながら、後宮という花園にあっては埋もれるような普通の化粧と衣裳で日々を過ごした。
そうしてお手付きになった日から、早数ヶ月が経ち――