垂れ幕男
この夜、俺は野球場に来ていた。野球など興味がないにもかかわらずだ。
それは草野球にしろ、このプロ野球の試合にしろ変わりない。
むしろプロ野球には昔、試合時間の延長だとかで後続の番組を潰された恨みしかない。
そもそもが長いんだ。九回もするな。三回にしろ。それで全員出番は回るだろう。
譲歩して六回だ。延長戦はなし。サッカーのPKみたく代表を決め
ホームランを、あるいはボールを遠くまで飛ばした方が勝ちとか
もしくは延長の七回目から三塁をホームベースにしろ。
決着がつかなければ八回は二塁を九回は一塁を。
そしてダラダラ歩くな。キビキビ動け。
長いんだいちいち。さっさと投げろ。ガム噛むな。顔が腹立つ。
なんてことは言い出せるはずもない。どことどこが対戦するのか覚える気もないが
もうじき試合が始まる、この客の熱気。笑顔。そして……
「チッ、あの女、チッ、クソがよぉ……」
野球好きで腐れ縁の悪友の小谷を前に野球批判などできるものか。
因みに、こいつの機嫌が悪いのは女にフラれたからだ。
そして俺がここに居るのもそれが理由。チケットが一枚余ったからだ。
来たくはなかったが、電話越しに『行くよなぁ!』と詰められ
つい、その勢いに『ああ、うん……』と返事をしてしまった手前、仕方ない。約束は約束だ。
「ああぁクソがクソクソがよぉ、チッ、チッ、チッ
シネ、シネ……へへへ、デッドボール直撃しろ、へへへへ」
どうやら選手が痛みに悶え、苦しむ姿を想像してストレスを発散しているようだ。
しかし、悪い笑みだ。こいつが本当に野球好きか疑わしくなってきた。
「早く始めろダボ共がぁ……タラタラすんなぁメタボ腹共がよぉ……」
早く始めろというのは同意だが……。
しかし、まあこの悪態がこっちに向かないだけマシと思おう。
……と、お。ようやく始まるようだ。さて、なんやかんや言っても現地観戦だ。
それなりに楽しめ……
なかった。現在三回裏だが互いに得点は無し。
出塁はしたが一塁止まり。こうも楽しめないのはやはり俺に問題があるのか。
せめて選手の名前や年齢、その人物像や背景を知っていれば
もっとのめり込み、応援できたかもしれない。
「チッ、もっと打てやぁ……てめぇ、親を楽させたくて田舎から出てきたんだろうがよぉ
三振してヘラヘラしてんじゃねぇぞぉ。チッ、都会に染まっちまったかボケカスがぁ……」
やっぱりそうでもないかもしれない。小谷は時々発作のように大声で選手を罵っては
またチャージするかのように舌打ちに戻る。
フラれた鬱憤を晴らしているのだろうが、隣にいるこっちの気分は良くない。
と、今、ピッチャーマウンドに上がった選手の名前には聞き覚えがあるな。
どうしてだろうか。
「おうおうおえおーうぅ! 三股ピッチャーのご登場だぁ!
殿様出勤とは良い御身分ですなぁ! 昨晩、さぞ夜更かしされたんでしょうなぁ!」
ああ……何かのニュースサイトで見たんだ。
別に遅れてきたわけではないだろうに……。
しかし、よくもまあ、大声で野次なんか飛ばせるものだ。
少し、うらやま……ん? なんだ? 休憩か?
『ただいま、試合を一時中断させていただいております』
なぜ? と、その理由はすぐに分かった。
今のアナウンスにどんな反応を示すことやらと見た小谷のその視線の先
バックネットを客の一人がよじ登っていたのだ。
男のようだが顔は隠してある。靴は……足袋だ。
ゆったりとした黒のズボンに上は白い服。
そして、あの胸の赤色はなんだ? ああ、リュックか。
中には何が、と、思うのはこれが突発的なものではないような気がしてならないからだ。
あの動き。謎の男はバックネットをサクサクと登り
あっという間にてっぺんに近い高さにまで到達した。
『お客様、危険ですのでバックネットからお降りください、危険です』
会場のアナウンス。女性が淡々とそう繰り返すが効果はない。
両チームの選手が帽子の鍔を指で上げ、口を開けて男を見上げている。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ、ひはははは、落ちて骨折れろ!」
小谷の悪態をつく対象が選手からあの男に変わったのはまあいいとして
他の客も同様に怒りを露にしている。
早く降りろ! 何考えてんだ! 馬鹿! 試合の邪魔だ! と、怒号が飛ぶ。
中には楽しそうに笑っている者や、指笛を吹く者。
大半の者はスマートフォンを向け、街中に出た猿を撮影しているようなそんな空気感。
野球場の大きなモニターには、お前だよお前、と言っているように
男の姿が映し出され『お降りください』と懸命にアナウンスが続けられている。
集まった警備員も下から見上げ、降りてきなさいと言っているようだ。
登り、捕まえるのは困難だろう。たとえ、三、四人で押さえようとしても
暴れられ、一緒に落ちることになるかもしれない。
彼らも怪我や命を懸けるほどの給料は貰っていないはずだ。
「さっさと落ちろや! おら、警備員! 殺せ! それが仕事だろ!
あ、てめぇ! 調子に乗ってんじゃねーぞ! 誰にも相手にされない社会弱者がぁぁぁ!」
と、男が手を振ったことに激昂する小谷。
しかし、なんだ? あの男、なにかモゾモゾとし始めた。
ああ、どうやら前掛けしている赤いリュックから何かを取り出したようだ。
あれは……筒、いや、垂れ幕だろうか? 白い、ああやはり巻いてあるようだ。
なるほど、上から何かを掲げようという訳だ。
まさか【頑張れ!】とか選手やチームへのエールではないだろな。
だとしたら相当の馬鹿だ。
他には……そうだ。さっき小谷が
女性スキャンダルを起こしたらしい選手の批判をしていたな。
もしかしたらそれかもしれない。その批判。【紳士たれ!】的な。
いや、それよりも政治的主張。もしくは宣伝……はないか。
っと、お、垂れ幕が下り……。
【五億円事件、犯人逮捕!】
は?
「はぁ? んだよそれ! アイツの三股を批判しろやぁ!
ボケカスゴミコラァ! モテやがってよぉぉぉ!」
小谷が男に向かって吠えた。あの男と例の選手、どちらに対しての怒りか
何なら自分をフッた女が尻尾を振る、寝取り男かは知らないが
念仏のように絶え間なく汚い言葉を口にし続けている。
ま、それはいいとして五億円事件とはまた随分、昔の話を持って来たな。
そのことからあの男の異常性、世間との乖離、粘着的な気質が窺える。
「股をかけるなら世界にしろやぁ! メジャー行け、メジャー!
クソがよぉ! 海外の女を相手してろやぁ!」
そう、五億円事件とはかなり昔に起きた銀行強盗事件で
犯人は逃げ果せ、一応まだ時効ではないが迷宮入り。
未だに捜査が続けられているかもわからず自作自演だっただの警察とグルだっただの
実はそんな事件なんて起きていなかっただの、都市伝説が流れる始末。
「クソッタレがよぉ! 逮捕するなら浮気した奴をしろやぁぁぁぁあのクソ女がぁ!」
その犯人が逮捕? 有り得ない。願望か?
他の観客もどこか期待を裏切られたのか
そしてそんな自分を恥じ、球場内に罵声が飛び交う。
「さっさと降りろ!」
「つまんねーぞバカ!」
「さむーい!」
「落ちろボケ!」
「クズ!」
「……あれ?」
「待って」
「え?」
「おい、これ」
「マジ?」
と、何か様子が変だ。観客たちがスマホを見つめ出した。
それにつられて俺もスマホを取り出すと
五億円事件犯人逮捕。
確かにネットのニュースサイトにはそう書かれていた。時間は……つい今しがただ。
ざわつく球場内。しかし、そう驚くことではないかもしれない。
どこからか情報を得ただけのこと。警察関係者かマスコミ関係。
それで垂れ幕を準備し、発表した。
……いや、何のために? 目立ちたがり屋の馬鹿か? 自己顕示欲の奴隷か?
と、なんだ? まだあるのか? 男がまた垂れ幕を……
【地震来たる!】
ははっ、まさかそんなことが……
「きゃあ!」
「うおっ!?」
「地震だ!」
「デカいぞ!」
「マジか!」
……収まった、が。これは偶然なのか?
未だ弛むように揺れるバックネットに掴まったままの男は
風に吹かれる巣の主の蜘蛛のようだ。
そして……やはりか。垂れ幕はまだあるようだ。
次は何だ? あの男は予知能力者? まさか未来人という訳ではあるまい。
いつの間にか、観客も選手も息を呑み、男を見つめている。
罵声も、早く試合を始めろとはもう誰も口にしていない。
男は垂れ幕を手に持ったまままだ動かない。
バックネットの揺れが収まるのを待っているのだろうか
両腕を伸ばし、ネットを掴み、足はすっと伸び
まるで、そうまるで磔にされたキリストのようだ。
ナイター照明が男を照らし、グランドに十字架の影を落としている。
「おぉぉぉい! 次は何だ! 早く見せろや!」
小谷がそう声を上げた。そして、それを皮切りに球場内から次々と声が上がる。
「見せてー!」
「お願ーい!」
「そうだ! 見せろ! いや、見せてください!」
「おい頼むぞ!」
「頑張れー!」
「落ちるなよ!」
「早く次を見せてくれ!」
罵声は声援にそして懇願へと変わった。最後の預言、それが何なのか知りたくて。
バックネットの揺れは収まった。しかし、男は動こうとしない。
そして、痺れを切らした何人かが、いや続々とバックネットの下に集まった。
「見せろよ!」
「もったいぶるんじゃねえよ!」
「三十年後とか言うんじゃねーだろうな!」
「さっさと試合を見せろ!」
「そうだ早く試合、ん? いや、垂れ幕を見せろ!」
「早く予言を出せ!」
「寝てんのか!」
「啓示をくれ!」
「見せねーんなら殺すぞボケェ! 死ねやぁ! シネ! シネ! 落ちて死ね!」
その中には小谷もいた。いや、何なら先頭で、他の観客を扇動しつつ
バックネットをよじ登ろうと躍起になっている。
警備員が必死になってそれらを止めようとするが多勢に無勢。
観客は次々とバックネットを掴んだ。
揺れるバックネット。
蜘蛛の巣へ進撃を開始した蟻の大群。
地獄の出口に群がる亡者。
悲鳴と怒号、それに嬌声が飛び交う。
『危険ですので、皆様、バックネットに登らないでください。お降りください、危険です』
声に疲れと焦りが見える場内アナウンスの声。
バックスクリーンはグッと引き画になり、ネット全体を映し出す。
連なる人々、そして、あ……。
まるで打ち付ける波。
バックネットが重さに耐えられず、落ちた。
悲鳴ごと落下し、観客はグラウンドに放り出され
そして骨を折ったのだろう、痛い痛いと呻く声が
蚊取り線香の煙のように細く、空へ上がる。
「どこだ! 予言はどこだ! 垂れ幕はぁぁぁぁ! クソがぁぁよぉぉぉぉ!
死ねぇ! 全員死んじまえ! 地球滅びろ! 沈め! クソ女! クソ男!」
その中、小谷が足を引きずりながら、あの男を探すが確かに見当たらない。
消えた? 未来へ帰った? 幻?
ここにいる数千、あるいは数万人が見た蜃気楼だとでもいうのか?
いや、あの人数だ。どさくさに紛れ逃走を……。だが、しかし……。
「クソッ……」
俺はそうボソッと呟くと、辺りを見渡し
スッキリしない気持ちのまま、また椅子に腰を下ろした。
しかし、この騒動を見ていたのは数万人どころじゃなかったのだ。
そう、意外なことでもなんでもない。テレビ中継だ。
テレビの前の視聴者はこの珍事をずっと目撃していたのだ。
それも一部始終。その結末までを。
あのバッグネットが倒れる瞬間。男は垂れ幕を手から離していた。
それは落ちながら広がり、リュウグウノツカイのようにヒラヒラと。
そしてその後、垂れ幕も男も姿を消したわけだが
テレビカメラは一瞬だろうと問題なく捉えていたのだ。
【試合は延長1-0で先攻側の勝利】
ネタバレ。実際、あの夜の試合はその通りになった。
そして俺は球場で再開された試合を眺めている間も家に帰ったあともこう思った。
やはり、家でひとりで見るに限る。
「下手糞がぁ、シネ! シネ! シネ! クソだよクソ!
へへっ、ケツ穴野郎がへへへへへ……」