臨みは抱えて理想さえ越えていく(1)
「ごめん、ごめんね蒼葉くん!! あたしのせいで怖い思いさせて、嫌な気持ちにさせて、独りにさせちゃって……全部あたしが巻き込んだせいだ!! 本当にごめんなさい!!」
幾度となく繰り返しても決して慣れることはないと思っていた、大切な人の悲痛の叫び。それが今や安心感さえ沁みてくる。綺麗な尊顔をぐしゃぐしゃに濡らし、ただひたすらに全霊込めてしがみついてくる恋人の姿に、さっきまでの不安の全てが、庇護欲と愛しさに書き換えられていった。この満ち足りた想いを安らぎと呼ばずに、なんと呼べるだろうか。
変装してカラオケを後にした俺は、まだ日暮れ前の街を無駄に長々と散策しながら、浅間さんにいくつかの道標を授けられた。ちなみに無駄などではなく、必要あっての迂回なのだが。
まず始めに単独で出歩くなということ。次に同じ道と似通った服装はできるだけ控えること。3つ目も当然外出時に限るが、愛華さんとのツーショは避けても、完全な別行動はアウト。ここまでは自分で考えても解る。要するに危機回避は最優先しつつ、相手に何らかの情報があれば、正反対の行動ばかりでも却って疑わしい。ただの仲間内かと誤認させる余白は、まだ残すべきだということだろう。
問題なのは最後の指示だった。状況を知った愛華さんは、俺の身を案じて浅間家で発狂寸前、しかも絶賛大号泣中。今いる部屋は幸い防音仕様らしいけど、鎮めきれない寒川さんから、帰宅途中に救助要請が届く始末。
最早一刻の猶予も無いが、こちらも周囲を探りながら帰らねばならない。そして下手を打てば愛華さんが飛び出し、表に騒ぎが漏れる恐れがある。俺に与えられたミッションは、慎重に忍び込んで手早く慰めろというもの。そんな狂犬みたいに扱わなくても、俺の彼女は誰よりも愛情深くて穏やかな人なのに。
「大丈夫だよ愛華さん。結局顔合わせただけで終わったし、何事も無く帰ってきたでしょ?」
「でも、あの人何するか分かんないから、蒼葉くんが酷いこと言われてるかもって思ったら、そんなの絶対に許せなかったから!!」
「ありがとう。だけど少し勘違いしてるよ」
「勘違い……? 変なこと言ってた……?」
「怖かったのは制御できなくなりそうな自分でさ、あいつが愛華さんを侮辱したのが非常に不快だった。けど俺への関心は薄くて、煽って粗探ししてきただけの印象なんだよね」
「……それならいい。本当に、キミが無事ならそれでいいのに、すごく嫌だった」
そんなこんなで現在がこれである。細腕を首に巻かれて、スベスベの頬を擦り付けられて、こちらは背中を摩り続けている。耳元でわんわん泣かれても、彼女の声ならうるさくない。肩はびしょ濡れになり、たぶん化粧も付着してるけど、離したいとは思わなかった。
帰宅してから抜き足でリビングのドアを開いた際、最初に目に入ったのは寒川さんの背中。通せんぼされるかのように、彼の奥で床に這い蹲る愛華さんの表情が、心臓が止まるほど可哀想だった。
瞬時に気付いて飛びつかれ、必死で俺の為に感情を流してくれて、見ていた浅間さんまで潤んでいた。徐々に緩やかになる鼓動が共鳴し、言葉でさえ必要ない。張り詰めていた糸を弛ますには、これで充分なのだ。
ようやく全員に会話をする余裕が生まれるも、未だに愛華さんは俺の腕の中。この数時間で彼女の素顔を知った寒川さんが、最も困惑した様子なのが面白可笑しい。浅間さんに女の顔の一つであると説明されても、眉を寄せて腑に落ちない心情を吐露するから、ついでに頭を小突かれていた。あちらの二人も好相性だし、くっつけば上手くいくだろうに。
とりあえず今後の予定を詰める前に、和春が来た件についての詳細を共有。次に明日の予定を全員把握済みの上で再共有。ここで表情を曇らせた愛華さんから、疑問が投げられた。
「明後日から仕事なのに、赤茶色の髪って……なんの為にそこまでしたんだろう……?」
「とりまフツーにワンデイ用で染めたんじゃない?」
「あ、そっか! スプレーのやつなら洗えば落ちるもんね」
「理由は警戒心を解いて、店の内部から調べようとしてた線が濃厚。愛華さんからすでに特徴バラされてるってとこも、向こうが読んでたって考えるのが妥当だねぇー」
回答権を丸ごと浅間さんに持っていかれてしまった。とは言え俺はそこまで頭が回っておらず、一緒になって激しく頷いてるんだけど。
しかし天井を見上げて新たな疑問を提示したのは、先程の模範解答者であった。
「にしてもねー、対応が早くて冷静すぎるんだよなぁ〜。来た時間は不自然だけど、愛華さんの動向から関与してる人まで、ほぼ特定した上で準備してた感じじゃんさぁ」
「むしろそれが真相なんじゃない? 同僚辺りに告げ口されて、あえて明月さんを泳がせることで、関係者の尻尾を掴もうとしたとか。両親の話が協議離婚を意識してるから、主導権を握る目的で辻褄合うよ」
「あー、もう離婚は認めっから、最後まで搾り取ったろう——的な? 証拠出されて不利にされても困るし、こっちも証拠入手してついでに敵側に警告しとこうって腹かぁ〜。ってことはバックに弁護士と探偵もおるかもな〜」
「まぁ、警戒しとくに越したことはないね。本当に旅行してたのかさえ疑わしいところだよ」
置き去りにされた当事者達は、口を挟まない方が議論が円滑に進むのだと、すでに察している。浅間さんのはてなマークに目測を示した寒川さんも、その適応力の高さに感服せざるを得ない。いつから協力的になったんだこの人。
などと傍観者に成りすましてる場合ではなく、深く関わり実際に目の当たりにした者として、意見を出さねばなるまい。百聞は一見にしかずと言うが、この古き教えには続きがある。ざっくり言えば、考えて行動して成果にしてこそ意味があり、最終的にみんなの幸せを願うことが全てに優る、といった内容だ。いつも行動で詰まり成果に繋がらないけど、最低でもここにいる三人には報いたい。
脆弱な思考回路をフル回転させ、和春との対面時を思い起こした俺は、頭を抱えていた。
「いや待って。あの男たぶん、愛華さんを手放す気なんて無いんだよ……」
「えっ? 蒼ちゃんそれ詳しく」
「俺に話しかけてきた時、あいつは初っ端家族の行方を訊いてきたんだ。わざわざ外見変えてんだから、杉本さんと同様に他人装って探り入れて、最後に明かす方が効果的なはず」
「確かに勘付かれてるっぽくても、先に白状するメリットは無いねー。ギリギリまで油断させて、実は俺さ〜ってやれば威嚇にもなるし」
「だけど唯一の利点が、自分のモノだって主張なんだよ。その後の発言も、あの薄ら笑いでおもちゃにする気満々だと考えたら……」




