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もう後戻りする気はありません(3)


「今日から旦那は4泊の旅行に行ってる。動くなら今しかないと思って、昨日のうちに証拠も掴んだの。でもいざとなったら、やっぱり怖くなって……」


「もしかして、証拠を手に入れる為にその怪我を?」


「うん。古いスマホで会話を録音してたんだけど、途中で怒って押し倒されちゃってね」


「怪我の具合いを確認してもいいですか?」


「うん、いいよ」

 


 包帯を外した華奢な手首には、握り締められた痕が、指の形までくっきり残されていた。こうした内出血は柔道で度々経験してきたけど、負傷者側も必死に抵抗しないと起こらない。これに至った経緯なんて想像したくもなかった。

 愛華さんは表情を曇らせつつ、淡々と話を続ける。


 

「去年流産して以降、人が変わったように乱暴になったの。新しい生命を救えなくてしんどかった時期に、罵られたり無理やり犯されたりして、いつも死ぬことばかり考えてた」


「その頃にうちの店に来てたんですね」


「そうだよ。キミが傘をくれた夜は、欠陥品って言われて家を飛び出した後だったけど、生きる希望をもらったの。こんなにあったかい人のことなら、もっと知りたいって思えたから」


 

 頬を伝う涙が切ないのに、精一杯の作り笑いを浮かべていた。

 彼女が俺に拘った理由をようやく理解し、直後に耐え続けた苦しみが胸を燃やして突き動かす。意志とは無関係に手がざわめいて、冷静さを維持するのも困難だったが、彼女の努力を無駄にするわけにはいかない。深呼吸してなんとか気持ちを抑え、目の前の人だけに集中した。

 


「証拠の中身って聞かせてもらえますか?」


「……うん。そばに行ってもいい?」


「えぇ、もちろんです。くっついてたって構いませんよ」

 


 見覚えのないスマホを取り出した彼女は、それをテーブルに置いた後、無言のまま一目散にしがみついてくる。再生と共に恐怖が蘇りそうで、(すく)んでしまうのだろう。

 指示を仰いでパスコードを入力し、恐る恐る画面の中心部に触れると、音声が流れ始めた。中のやり取りはあまりに(むご)いもので、握った拳の感覚が麻痺してくる。

 


『ねぇ、いつまでこの関係続けるの? もう充分尽くしたでしょ?』


『またその話すんの〜? 明日から楽しい旅行なのにさぁ、気分壊されたくないんだけど』


『あれから10ヶ月も経つんだよ? 結構前からいい人も見つけてるよね?』


『あのさぁ、俺が愛華の為にどれだけ金と時間を(つい)やしたと思ってんの? 恩人を悪者扱いするとか、人としてどうかと思うよ? やっぱお前ってただの人形なの?』


『不妊治療は感謝してる。だから今まで(かず)くんの言う通りにしてきた。まだ足りないなら、せめて期限を決めて。もう解放してよ!』


『なに開き直ってんの? 足りなかったのは愛華の努力だろー? 不健康な生活のせいで赤ん坊が死んだんじゃねぇか!!』


『あ、あの時はつわりが酷かったから——』


『はぁー? 今度は言い訳かよ。自己管理もまともにできねぇ、養われるだけの出来損ないは、貰い手がいただけでもありがてぇだろうが!!』


『ちょっと、やめてよ!! 痛いから手を離して!!』


『顔しか価値ねぇんだから黙ってろよ!!』


 

 ここまで聞いて停止ボタンをタップした。この先は耳に入れる必要がない。すでに胸糞悪いなんてもんじゃないし、ガタガタ怯える愛華さんが可哀想だ。

 最後の方でイスが倒れる音がしたから、暴力を振るわれていたのだろう。手首と首の軽傷で済んだのは不幸中の幸い。反射的にそう感じた自分が、悔しくてやり切れなかった。

 淀みゆく心を誤魔化すように彼女を抱き返せば、漂う香りと伝うぬくもりが癒しになる。だがこの身体に背負うものは、身の毛がよだつほど残酷で重たい。和くんと呼ばれていた夫のやり方は洗脳と同じだ。圧力をかけて相手を支配し、責任の所在まで(なす)り付けている。

 ならば救う方法はこれしかない。

 


「愛華さん、俺の声は届いてますか?」


「うん。ちゃんと届いてるよ……」


「よかった。さっきも言いましたけど、あなたがそばにいてくれれば俺は満足です。不幸にしてしまうとか、そういう心配は必要ありません」


「……でも、他の人を選べば、普通の幸せが手に入るんだよ?」


「それこそ俺の望みじゃない。あなたじゃなきゃ意味がないんだよ」


「そんなの、キミが知らないだけかも——」


「そこまで言うならもう決めた。俺、就活してフリーター脱却する。たくさん稼いで良い治療を受ければ、可能性はあるはずでしょ? だから……結婚を前提に俺と付き合ってください!」


 

 瞼をギュッと閉じながら、吠えるように言い放ってしまった。愛華さんの声が自信なさげで、ぬるい慰めなんて通用しないと思い、大きな衝撃で上塗りするしかなかったのだ。

 全てを(さら)け出した俺は、慎重に目を開いていく。ぼやけた光の奥には、頭を上げてキョトンと見つめている愛華さん。

 彼女は左手で俺の頬に触れると、愛くるしい微笑みを浮かべた。

 


「……そういう大事なことは、しっかり目を見て伝えてほしいな」


「は、はい……愛華さん、俺の恋人になってください。ゆくゆくは、その………結婚も考えてもらえればと……」



 あまりの照れくささに()()()()()()告げると、スっと顔が寄ってきて、そのまま唇が重なり合う。涙に濡れて張り付くような、それでいてとても優しい、心を直接感じられるキスだった。

 誰にも渡したくない。俺の手でこの人を守っていきたい。改めて決意が固まった頃、口を離した彼女が笑顔で返事をくれる。

 


「はい。あたしが蒼葉くんを絶対幸せにする♡」


「ちょっ、えぇー!? 今のセリフは俺に言わせてくださいよ〜」


「だってあたしの方が5つも年上だもーん。就活は焦らず、本当にやりたいことを見つければいいよ。離婚しちゃえば扶養も外れて、あたしもいっぱい働けるからさ♪ 助け合っていこ!」


「愛華さん……やっぱめっちゃ好きです」


「キミがあたしを好きになる前から、あたしはずっとキミのことが大好きだったよ♡」


 

 人生の絶頂期って、こんな場面で使うのだろうか。やっとスタートラインに立てたばかりなのに、言い様のない幸福感が湧き溢れて、後ろを振り返る気にもならない。

 思い立ってスマホを掴むと、バイトのグループチャットにメッセを送信した。見ていた愛華さんは、慌てた様子で尋ねてくる。

 


「えっ、なんで!? 明日と明明後日(しあさって)に用事ってどしたの??」


「明後日が元々公休なんで、これで三連休にします。せっかくですから、俺達も遊びに行きましょうよ!」


「……別に対抗しなくていいのに〜」


「違いますよ。俺が浮かれ過ぎて、仕事する気分にならないだけっす」

 


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