悪役令嬢役を頼むので
俺は小さい頃は体が弱く、療養のため空気のきれいなホーフェンシュタインにある別荘で過ごしていた。
ホーフェンシュタインは緑豊かなのどかな所で、山羊や牛の乳は搾りたてで、バターやチーズもおいしく、食が細かった俺も少しづつ食べられるものが増えていった。
軽い運動程度ならできるようになってくると、街の子供たちが一緒に遊んでくれた。その中には領主の娘、ヴェローニカもいた。自分より二つ年上だった。
領主とはいえ、我が家の別荘よりもこじんまりとした家に暮らし、使用人も数人で、家のことも含めて何でも自分たちでやる気質の人達だった。
領主夫人は病で亡くなっていたが、父と娘は仲良く、いつも助け合っていた。
自分が父母と離れていることもあり、時々夕食にも招待してもらった。家にいたら永遠に触れることのなかっただろう農機具の手入れや家畜の世話なんかも教わることができて、新しい知識が増えていくのが楽しかった。
八歳になるとぜんそくの発作も起こらなくなり、体も丈夫になったので親元に戻ることになった。
別荘でも家庭教師がついていたが、貴族のありようは実践でこそ学ぶものが多かった。
なまじ、無邪気な年代を過ぎた中途半端な時期に人前に出始めたのもいけなかったのかもしれない。
どこかの家のパーティに呼ばれ、声をかけられたが、本音は冷やかし、興味本位、家のつながり欲しさ、そして弱みを探る眼。下手に心を許すと傷つけられることも多く、いくつかの失敗の末、相手の本性を見極める大切さを知り、必要以上に神経質で不機嫌なそぶりをすることを覚えた。
そうしたものを身につけていなければ、舐められ、騙され、貶められる世界が好きにはなれなかった。
十一歳になった頃、小さい頃に世話になったポルシュ子爵家との縁談があった。
ヴェローニカの婚約者になる。それはむしろ大歓迎だった。
王都で見かけた令嬢と呼ばれる人達は、自分よりも家柄を見る傾向があり、美しい所作と美しく着飾ることを喜びとしていて、それに心惹かれることはなかった。
父も俺が王都流の生き方に不器用なのを判っていたのだろう。話は進み、間もなく書面を交わす寸前まで行っていたのに、兄がやらかした。
三番目の兄とは六歳年が離れていた。兄にも婚約者をあてがわれる予定で、クラインベック伯爵家の長女、エルゼ嬢と話が進んでいた。そこへきて付き合っている女性との間に子供ができたというのだ。
家同士の婚約は内々ながら決まっていて、断るならそれなりの代償を払わなければいけない。三男とはいえ外聞もよくないことから、急遽俺にこの婚約話が回ってきた。俺は十二歳になっていた。
必死になって父に頼んだが、決定は覆らなかった。
ポルシュのおじさんも「仕方がないよ、こっちはしがない子爵家だからね」、そう言って苦笑いをしただけだった。
後から、兄の醜聞は恋人と離れたくないが故の兄の画策した嘘だということが判った。その恋人は男爵家の令嬢で、父はそれを知っていながら男爵家とのつながりを面白く思わず、兄に新しい婚約者をあてがおうとしていたのだ。
兄はその恋人と結婚し、婿養子に入った。兄の狙い通りになった訳だ。
結局、欲しいものは自分で手に入れるしかないのだと知った。
婚約者となったエルゼは、一目見ただけで、あ、こいつ合わね、と思った。
それはお互い様で、エルゼも俺が兄の代理だということを知っていて、プライドを傷つけられていたようだ。
同じ学園に通ってもほとんど話すこともなく、毎月のお茶会という名の交流も、三十分程度同席するとすぐにお開きになった。
俺たちが険悪なのは両家の親も判っていたが、今更どうにもならなかった。
ところが、思わぬところからチャンスがやってきた。
俺の友人、アーベルがエルゼに好意を抱いたのだ。しかも、エルゼもまんざらじゃない。
友人の婚約者と言うことでずいぶん我慢強く遠慮していて、その反動かもっとエルゼを大事にしろと事ある毎に説教された。
大きなお世話だった。とっととかっさらってくれればいいのに。そうすれば、自分は自由になれる。
エルゼもまた、大事にされたいのは俺じゃない。
気がつけば、利害は一致していた。
このことがきっかけになり、相容れない婚約者は同じ企みを持つ同志に変わった。
俺たちはきっとこの婚約を取り消し、それぞれの思いを遂げるのだ、と。
少し長く休みが取れれば、欠かさずヴェローニカに会いに行った。
会って話すことは、芋の出来が悪いだの、栗が豊作だの、水源の湖に白鳥が来ただの、たわいもない話ばかりだった。それなのにヴェローニカの手作りのお菓子をごちそうになりながら、ずっとこんな風に過ごしたいなあ、と思い、彼女が遠慮なく「手伝って」と言えば、どんなことでもこなした。
ホーフェンシュタイン領の中にも、ヴェローニカに好意を持つ者は少なくなかっただろうが、なんと言っても領主の娘だ。それ相応の身分がない者は好意を持っていても皆遠慮し、そこそこ身分がある者は好意をより高い身分を持つ者に向けていた。
ヴェローニカには、自分に婚約者がいることは秘密にしていた。
ポルシュのおじさんには、自分が婚約者とお互い合意の上、婚約を解消する準備があることを告げていた。
もしきちんと婚約を解消できたら、チャンスが欲しい。
できればヴェローニカと一緒になりたいが、そこまでは言わない。せめてそばにいて力になりたい。家を出るので家令として雇って欲しい。
ポルシュ家の執事のじいさんが近々引退を考えていることも知っていた。その後釜になることを掛け合ったのだ。
初めは無謀な申し出と思われていたが、家の執事からも学び、必要とされる科目は学校でも上位の成績だった。ヴェローニカが「お願い」と称して投げかけてくる雑用は大抵難なくこなせる。足りない部分も多いだろうが、やれる自信はあった。
ホーフェンシュタインに行く度に進捗を話し、本気を伝えると、
「期限は卒業までだよ。それ以上は待てないからね」
そう言って、数件あったらしいヴェローニカの縁談を断ってくれていた。
中にはそれなりに条件のいい話もあったらしい。それを断らせ、一般的な適齢期から少しづつ外れようとしているヴェローニカに対し、申し訳ないという気持ちは不思議と湧かなかった。ただし、失敗は許されない。そのプレッシャーは半端なかった。
俺以上に本気だったエルゼは、卒業まで半年を切ったところで、父親に自分の気持ちを打ち明けていた。
エルゼの父は娘に甘く、娘がライヒシュタイン家の三男との婚約話を突然変更され、代わりの四男とは相容れないことにそれなりに心を痛めていたらしい。うちの親とはずいぶん違う。
エルゼさえ本気で、相手も本気なら、アーベルの実家であるヘンケル家であってもかまいはしないが、今更格下のクラインベック家からライヒシュタイン家に婚約の解消を申し出るのは、それなりの理由がなければ難しい。そこをクリアできるならやってみたまえ、と言った。若者達のお手並み拝見、と言ったところだ。
俺はますますエルゼを無視するように振る舞い、エルゼもアーベルにその愚痴を聞いてもらいつつ、仲を深めていった。
ついに、アーベルに自分の気持ちを打ち明けた、と聞いた時には、同志でありながら「負けた」と思った。
婚約解消と同時に、自分の思いもまた達成しようと画策するその手腕。周りの者も、婚約者である俺があんな態度だし、アーベルの方がお似合いだ、と、二人の中を公認するムードが高まっていた。そうなるよううまく立ち振る舞っていたのだ。やっぱりこの女、恐ろしい…。
「その程度のこともできないで私の夫になろうなんて。十年早いわ」
なんて言うもんだから、
「じゃあ、アーベルはそういうことできるんだ」
と言ったら、
「アーベル様はいいのっ」
と言って、顔を赤くしていた。
そういうかわいい顔もできるとは知らなかった。あと五十回そんな顔をされても、惚れるまでは至らなかっただろうが。
父には黙っていたが、母には事の次第は伝えておいた。
自分は学園のみんなの前でエルゼに婚約破棄を告げる。エルゼには別の男がいる。俺は多分父から勝手なことをしたと勘当されるだろうけど、承知の上だ。卒業後は家を離れ、ホーフェンシュタインのポルシュ家で執事見習いとして働く事を告げると、
「何か、押しが弱いわねえ。そこはちゃんとあなたの側にも婚約をお断りする事情を見せとかないと…」
と少し眉間にしわを寄せ、ふとひらめいたかのように、
「そうだ。それなら、ヴェローニカちゃんを恋人役にして、王都でお披露目しちゃえば?」
と、とんでもない提案をしてきた。
「あの子、デビュタントも欠席だったわよね? きれいなドレスを着せて、その名前を広めちゃえばいいじゃない。それもあなたといい仲だって」
母に言わせれば、俺がエルゼを気に入らないから婚約を破棄するというだけでは、ちょっと押しが弱い。それより俺にも思い人がいるから婚約を解消するという筋にした方がわかりやすい。
表向きだけでもエルゼが決定的に振られ、傷ついた女性のような印象を与えると、アーベルの決意が強まるはずだ。
最終的には双方両思いの相手がいることで、世間的にも受けが良く、悪評も立たないだろう、…それが母の意見だった。
俺のヴェローニカへの想いを知ってるんだか、知らないんだか…。
全く、女って恐いなあ。
しかし、俺はそのアドバイスを採用することにし、ヴェローニカに「婚約者を振るための悪役になって欲しい」と頼むため、ホーフェンシュタインへ行ったのだ。
さすがに渋られた。
そりゃそうだろう。どう考えても婚約者のいる男に手を出す悪役で、周りからはいいようには思われないし、無茶な計画だと思ったかもしれない。
それでも、婚約者とその友達を思う善良な男の申し出を、ヴェローニカは受けてくれた。…いや、俺への評価よりも、壊れた水車の修理の方がよっぽど魅力的だったようだが。
しかし、俺をそんな誰かのためだけに動くような立派な人間だと思ったんだろうか。
当然、自分のために動いているに決まってる。
ポルシュのおじさんにも婚約解消が成功した時の約束を再度念押しし、悪役を頼みに行ったその足でヴェローニカを連れて王都に戻った。
服も靴もドレスも装飾品も、全て用意済だ。以前、服を送ろうとホーフェンシュタインの仕立屋から聞き出していたサイズがほとんど変わってなくてよかった。
どんな服を着てもかわいいけど、少しでもみすぼらしいなんて噂を流させる訳にはいかないからな。
一度も見せたことのない俺の思い人を見て、打ち合わせに来たエルゼは、
「ずいぶんと素朴な方をお選びになりましたのね」
と、いきなりの先制攻撃。
そうとも。おまえに似てないところが気に入ってるんだ。せっかく呼び寄せて、これから頑張ってもらおうとする人に対して、敬意を表せないもんかな。
それでも、意外なことにヴェローニカにハッパをかけるエルゼは、気心の知れた友達と話す時のように警戒心を持ってなかった。
「今更怯んでもダメよ。私はダグラスから婚約破棄されるの。そして私はアーベル様と堂々とお付き合いするのよ。私の家はライヒシュタイン家でも、ヘンケル家でもどちらでもいいの。でも私はアーベル様でないと嫌。わかってるわね」
ヴェローニカはびびりながらもこくこくと頷く。
「君は私の隣にいればいい。黙って立ってるだけでいいから」
そうとも。俺はヴェローニカがあの場にいてくれるだけで充分なんだ。俺の思い人がヴェローニカだと、誰かに言えるだけでももう嬉しくて嬉しくて…。王都中に周知してもいいくらいだ。
翌日からの王都観光は、事実上デートだった。
見せびらかしたい気持ちでめいいっぱいおしゃれさせて、腕を組んだり、手をつないだり、親密さを周囲にアピールするためと言うと、向こうも全然警戒しなかった。逆に言えば、警戒さえされていない、意識のはるか向こう側、とも言えなくはないが、今はネガティブ発想はやめておく。
約束の水車の修理の手配をすると、真面目なヴェローニカは俺の恋人役を任務としてやり抜くことを決意したらしい。わかりやすいほどのやる気が面白かった。
そして当日。
誰も知らない俺の隣にいる人に、みんな興味津々だった。視線が痛いくらいだ。
ヴェローニカが緊張していたので、わざとおどけて
「大丈夫だ、ちゃんと生きてホーフェンシュタインに帰すから」
と言うと、
「死ぬ設定あり?」
と言われて思わず吹き出してしまった。
学園ではいつも不機嫌な顔をしている俺が笑ったので、周りも驚いていたようだ。
最初のダンスをヴェローニカと踊れたのは、まさに夢のようだ。しかしその間、足を3回も踏まれて、あまりのダンスの下手さに、もうちょっと練習させとけばよかった、と少しだけ後悔した。うまくよけて3回だ。よけるのが下手だったら、20回は踏まれていただろう。
そして、婚約の解消を公の場で告げる時が来た。
これは絶対に失敗できない。
自分でも緊張で汗がにじむのが判った。
「エルゼ、悪いが君との婚約はもう続けられない。私はヴェローニカ・ポルシュ嬢と共に生きることにした。君との婚約は解消したい」
あえて、ヴェローニカの名を口にした。俺の本当の願いだ。
俺がエルゼと婚約を解消したい本当の理由が、今、俺の隣にいる。
「私は真実の愛に生きたいんだ」
「…わかりました。今まで、ありがとうございました…」
エルゼのタイミングよく出る涙に、背中に悪寒が走った。
いつもながらぶれることのない、美しいこだわりの礼を見せ、少し駆け足でその場を離れたエルゼ。
エスコートしたアーベルが呆然と立っているのを、隣にいたヴェローニカが足を軽く鳴らし、エルゼの出て行ったドアを何度も指さした。俺もアーベルを見ると、顎でドアを指して、とっとと行け、と合図した。
ようやく我に返ったアーベルが無事エルゼを追ったのを見て、俺とヴェローニカはほっと息をついた。
ほんっとにあいつは、こういうのに弱いなあ。
周りも、ほっとしている奴が多かった。
エルゼとアーベルを応援していた者は結構多い。そうなるように仕向けたんだから、当然だ。
後は二人の問題だ。アーベルに頑張ってもらうしかないな。
裏切り者の婚約者と悪役の令嬢は、周りがうるさくなる前に退散だ。
「じゃあ、俺たちも退散するか」
無事大役を果たしたヴェローニカが、安堵の笑みを浮かべていた。
この大役が終わったら、すぐにヴェローニカをホーフェンシュタインに送る予定だったのだが、公の場で勝手に婚約を解消した俺はもちろん、協力したヴェローニカも屋敷に留め置かれた。
腹が立つのは、父が最初から俺の企みを知っていたことだ。
「まあ、展開に少々無理がないとは言えないが、向こうもエルゼ嬢の意向を重視したいと言ってるし、ヘンケル家も乗り気らしいからな。まあ、円満解消、ということで収めるのも悪くない」
父は偉そうにそう言うと、婚約解消の書類を見せてくれた。
どちらにも瑕疵なく、平和な解消。まさに望んだ結果だった。
自分がこの縁談をごり押ししながら、俺が動くまで黙って見ていたくせに。何だか腹立たしかった。
「で、おまえは勘当されたいんだったかな」
情報源は母か。少々恨みがましく、母を呪おうとしたところに、
「こっちも承諾が出た」
と言って、もう一枚の紙をちらつかせた。
「まずは、執事見習いとして、間もなく引退する執事から仕事を引き継ぎ、ちゃんと仕事がこなせるようになったら、執事に。後には領主の夫として採用しないこともない、とのことだ」
それは、うちとポルシュ家の婚約の書類だった。
「こっちの条件は、ホーフェンシュタイン産のワインとチーズの優先納品だったが、すんなり受けてもらえたよ。おまえにはそれくらいがちょうどいいだろう」
書類を握りしめて、怒りと喜びに手をわなわな震わせ、眉をしかめながら
「あ、…ありがとう、ございます」
と父に礼を言った。何だか無性に悔しく、負けた、と思った。
必要最低限の荷物をまとめ、ヴェローニカが乗り込んでいた馬車に向かうと、
「働き出したら、そうそう来られないかもしれないけど、また遊びにおいでね」
そう言ってヴェローニカがドアから手を差し出してきた。
今日の格好は、いつもホーフェンシュタインで着ている普段着に、うちの侍女が喜んで編み込んだ髪だ。よく似合ってる。ヴェローニカらしくていい。
差し出された手を掴んで握手をすると、そのまま手を離すことなく馬車に乗り込んだ。
「はい、お嬢様。時々友達に戻らせてもらいますよ」
ヴェローニカが戸惑っているうちに、俺が合図をすると、馬車は動き出した。
俺は見送る母に手を振った。
「お…? お嬢様? なんで?」
「私の就職先は、ポルシュ子爵家、執事見習いになりますから。これからもよろしく、お嬢様」
王都で身につけた腹黒さ、存分に披露しましょう。
もう既に婚約者であることは、もうしばらく秘密だ。婚約は他の連中に手を出させないための、ただの虫除けでいい。
親が決めたのではなく、きっと自力で俺を選んでもらえるようにするさ。
お読みいただき、ありがとうございました。
今回も誤字ラとの格闘、6回も読み直してアップしたのに連日の修正、安定まで時間がかかってしまいました。
この話は
悪役令嬢として婚約破棄のために雇われた女が、貶める側の女についている男があまりに軟弱で、思わず飛び蹴りを入れた話
を書こうと思い立ったものです。
確かにドレスで飛び蹴りを思い浮かべたのに、意外とまろやかに仕上がってしまいました。
まあ、飛び蹴りしてたら、ダグラス君とは絶縁、王都追放、エルゼ嬢の嫌がらせによりお家断絶、くらいの愉快な展開になったかもしれません。
2022.9 部分修正しました。