中国語の拡散について
劇的な発見はなく過去発見して放置していたものをいろいろ組みあわえていこうと思う。古い話だが、古代中国西部と東部では骨が違うそうだ。その違いは私の推定の真逆だった。東が大きくて、西が小さいと思っていた。中国は寒冷適応以外の人種は小さくアボリジニネグリトに似ている。
DやCが大半で、またはその混血となる。寒冷適応した北部人だけ特殊な骨格を持っていた。現在寒冷適応の代名詞となってるハプロの代表であるOはおそらく寒冷適応してない。そこで西武は小柄だと思っていた。全く逆だった。
この謎を解こうとしていたら過去知ったことがつながってきた。私が想像していた黄河を下流から上流へって農業の拡散は多分違っている。どうも突然西の農業が始まるように見える。その正体は、N1A2系の内蒙古ルートでの拡散じゃないか?と思われる。モンゴル高原にもおそらく拡散している。だが遺跡がないので、その点は櫛目文土器の拡散でしかわからない。
櫛目文土器はN1A系が拡散としたと思われる。ただN1A1とN1A2はやや違う動きを見せている。N1A1の相方の母系はおそらくDが中心。これらの母系は遼河文明に残って担い手となる。次にN1A2の母系は西に向かい同時に南下して彼女たちが中国人の北方形質の原因となってるとみている。
以前は、隣国となるN1Bの集団と混血したとみていたが、それは多分あるのだが、それらの集団との混血は少なかったと思われる。彼らは比較的小柄だったとされてるため混血率が低かったとみている。ただし顔がもろ北方モンゴロイドであるため混血してるのは間違いない。旧石器時代までのネグロイド的形質ががらりと変わってしまうためすぐにわかる。
以前から疑問だったこれらの人種とO2が混血したら元のネグロイド的形質がもっと出ると思っていた。これが根本的に間違っていた。彼らはすでに別のルートで拡散したN1A2系と混血して北方モンゴロイドに変化していた。しかも当方のN1B系の集団より体は大きかったとされている。
中国人の形質はむしろ西部の混血集団によって強く出たものと思われる。思ったより古く南方系が北上してるため東部系は南方系が混じってる可能性も高い。そのため小柄な集団になった可能性が高い。
O2は農業の初期からすでに北方集団との混血によって大型化して北方モンゴロイドの形質を強く持っていた可能性が高い。骨以外にも内蒙古の農業の歴史は古く中原を飛び越え西部に一気に農業が広がったのは原始的な農業集団が北部の今は草原ルートを使って拡散したためだと思われる。
そもそも遊牧はかなり後の寒冷化の時期に定住農民が家畜の草を近隣に回って食べされる農業がそのまま移動式に変わったのが大きい。その後西方からR系の遊牧集団によって乳製品の利用と馬が伝えられてさらに発展したものになる。元々は同じ定住型農耕民なので、同一の文化を持つ民族だった可能性は高い。
ただややこしいのは、後にN1A1はフィンロシア住民となり、N1A2はさもえーどなどウラル山脈住人になる。ただしN1A1も途中のウラルに残っている。N1A1だけが北欧までいった点で違うだけになる。両者の母系が定住生活になったとなる。現在でもウラル語を使うため、当時もそうだったのか?となると、どうもこの母系と父系で別れた感じがある集団は、もともと言語が違ったのじゃないか?と思えて。そのため中国語にウラル語の痕跡がないのじゃないか?とみている。謎の言語なら中国語に残ってる可能性がある。
N1BやN1A2の黄河文明農耕民はどうも民族としては現代消えてしまったとみなされている。それも中国語に言語的影響が少ない理由になる。それが最近チベット族の成立に謎の民族の遺伝的影響があるのが言われていて、それが初期黄河農耕民だと言われている。チベット族の伝統的シンボルに魚模様があるらしいのだが、これヤンシャオの土器の模様ににてるらしい。
実際チベット人にはN1Bがとても高く出る。ただこの話がむつかしいのは、NOはおそらく東南アジアから北上したと予測されてるため、雲南あたりにたっぷり古いN1Bが残ってる可能性が高いためになる。このあたりとてもややこしい。
NとO2を見ているとどうしても天山山脈の北部を通った北方ルートを想像してしまう。ただO2はわかりやすいほど南方からの北上がわかる。だがNは南下と北上の区別がこのN1Bでつけにくい。チベット族はそもそも東から西へ高原に入っていったのがわかっているため、元々高原に残っていたD系と混血して今のチベット人になった。日本人ととても似ている。
その集団はおそらく元は中原にいた可能性がとても高い。それがチベット人の中の隠れた黄河農耕民となるわけだ。だから当時そこに大量にいたN系がチベット人は中国人より高く出るとなる。そもそもこのN1Bの系統古い。当時の1万年近く前の中国ではすっかり減ってしまった集団のハプロを持っているからチベットのN1Bはそれなりに古い。
北上した当時のN1Bなのか?新しく南下したN1Bなのか?全く区別が私のような素人にはつかない。
そこでほかに何か?と考えてみるとmtDNAのAがなかなかふさわしいことに気が付いた。Aは全体的に中国で高いが特にチベットが高い。これはN1A2系集団にAが高かったのじゃないか?とみている。日本もしっかりでるが全体の割合ではどうしてもDになってしまう。Aは北上したのでもともと南の集団が持っていてもおかしくない。
だがAの分布をみてみるとほぼ北方系だとみていい。Aは南下と北上の区別がつく。中国のAはほぼ黄河農耕民のAの名残だとみている。中原のN民族とO2はあまり混血しなかったのじゃないか?とみている。チベット語もシナ語に近いのでなんとも言えないが、そもそも北方形質や農業を別に持っていたO2集団は中原のN系集団とあまり混血せずとも十分に農業を発展できたのではないか?と想像する。
そうなると中国語がNの影響を受けずにO2集団の言語がそのまま発展したことがすっきり理解できる。ただし、じゃN1A2と混血したときはどうなったのか?それはまあ謎だが、その時は農業開始時期なのでNはそんなに大きな集団じゃなかったのじゃないか?とみている。そのため父系のO2系がそのまま言語の主軸になってしまったのじゃないか?とみている。
中国語の発展が初期じゃなくて中期のヤンシャオの時期だったのもこれで納得できる。ヤンシャオはどうも東部から西部じゃなくて、西武から東部じゃないか?と見えるから。
素朴なヤンシャオの土器モデルは西部から東部へ移っていったのが今だとわかっている。これは東部から西部へって当初のモデルが今は違ったとなる。ただし最初期はアンダーソンが西洋の影響とみていたらしいが、これには私は否定的だ。土器の歴史が圧倒的に西洋と東洋じゃ違いすぎる。一部土器の模様が西洋の影響を受けたならあると思うが、中国の彩色陶器そのものが西洋で生まれたものだってのはほぼ無いとみている。
そのからくりが、北部ルートから広がったN1A2集団が西部に同時期に近く到達していたせいだろうとみている。後の時代まで色濃く残るのだが、雑穀農業は地力の回復が苦しかったのじゃないか?とみている。半定住型農業だったため拡散スピードが速かったのじゃないか?とみている。特に初期は狩猟と絡めて移動型の面が強かったのじゃないか?とみている。
農業の発展が大体採集の延長から発展してるので、その分化が進んでなかった時期だと思われる。
西部で寒冷適応した可能性は?私はかなり独自の説を考えてるのだが、寒冷適応した理由は定住にあるとみている。移動型狩猟民は皆寒冷期に居住地を南下してるんだ。ヤンガードリアス期には内陸西部のO2集団は南下していたのじゃないか?と見ている。暖かくなって農業が活発化すると移動型になったのは変なものだが、これは殷についてたびたび遷都していた理由が地力のせいじゃないか?と言われてるんだ。
歴史時代になってもひきづいっていたそういった部分がそもそも半移動生活を行っていた元東北住民には当たり前の事だったのじゃないか?とみている。
さて後は骨だけからこれを推測したわけじゃない。山西省の北あたりの内蒙古にかなり古い農業をしていただろうとわかる石器を伴った遺跡が最近出たからになる。当然黄河から伝わったんだろう?となるが、それは問題じゃない。黄河文明とほぼ同時期にそれらの遺跡があったという事は、広がったというよりはその前から農業を営む人が拡散していた可能性があるとみている。
今と違って当時は暖かくなってきて寒冷乾燥の草原地帯じゃなくて農業に適した土地だったと聞いている。そのため黄河流域と内蒙古とわける現代的な感覚での区別が違うのじゃないか?とみてるから。農業が始まる前の半狩半農の東北地方の延長で内蒙古まで出てきたのじゃないか?と見ている。
モンゴル高原がどうだったのか?までは分からなかった。これに関しては後の櫛目文土器の登場まで不明と言っておきたい。
玉突き式に東から混血して拡散していったという私の推測は大外れだったとなる。だがまあ新しい見解としてO2は中原N集団と混血する前から別のN1A2集団によって、中原N集団よりも北方形質が強い集団だったという見解になった。同時に農業も彼女らによって東部から徐々に広がったのではなくて、西方から独自に発展したのじゃないか?と見ている。