3-1 少女の物語
着席を促すブザーが鳴る。もうすぐ開幕の時間だ。ざわめいていたホール内に少しずつ静寂が広がってゆく。
だが、少女にとっては、望まない静寂であった。彼女はもっと騒がしく、楽しげな場所が好きであったし、じっと観劇などせず外で走り回っている方が性に合っていた。
つまらなさそうにパーカーの紐を弄ぶ妹に、姉はそっと声をかけた。
「明日は一緒にサッカーしたげる」
「ホント?」
「ホント。だから今日は、ママとパパのためにちょっとだけ、我慢しようね。2人とも、結婚記念日で楽しみにしてたの」
大好きな姉にそう言われては、妹もこれ以上わがままを言えない。仕方なく、座ってステージの方を向いた。
が、すぐにむず痒くなってくる。
姉の袖をくいくいと引っ張り、耳元に囁きかけた。
「姉さん、トイレ行ってくる」
「ん? 1人で大丈夫?」
「平気」
もう10歳だし子供ではないのだと、わずかばかりの抗議を籠めた声色を返し、妹は席を立った。
ホールを出た少女はトイレとは違う方向へ進んだ。
もちろん、外へ出るための口実でしかない。適当に時間を潰してから戻るつもりだ。
だがすぐに、外も外で面白いものがない事に気が付く。
シアターの内装は綺麗なのだが、如何せん堅い雰囲気のものばかりで、少女の興味をそそる物は見当たらない。
少女はうんざりしたように溜息を吐いた。
ふと窓の外を見ると、街頭の液晶や人々の生活の明かりが宝石のように輝いていた。
しばし夜景に目を奪われる。
不幸な女性の一生を描いたミュージカルより、外の夜景の方がよほどキラキラしていて面白い。
きっと、この景色を見飽きる頃になれば、大人しく観劇だってできるのだろうし、面白さだってわかるはずだ。
そうなれば両親や姉とも一緒にいられる時間が増える。
だからその時が来るまでは良さがわからなくたって良い。そう、少女は考えていた。
あまり長く席を外すと家族が心配するので程々で戻る事にする。が、ホールの方が騒がしい事に気づき足を止めた。
人々が何やら、ホールのドアを開けて騒いでいる。
何か事件だろうか。嫌な予感がした少女は人混みへ駆け寄り、中を見て息を呑んだ。
そこには、あるべきはずのものがなかった。
ドアを開ければ座席が、ステージが見えるはずだ。開演前は暗くなるが、足元には小さなライトだってある。
なのに、そこにあったのは、先の見えない暗闇へ続く大きな階段だけであった。
「お父さん……お母さん……!? 姉さん!! 梓弓姉さん!!」
少女……穂浪真琴が人の波をすり抜け、階段を駆け下りた。転びそうになるのを堪えながら一段も二段も飛ばして駆ける。
そんなはずはない。自分達に、そんな事など起きるはずがない。
たとえ近しい誰かにそんな不運があったとしても、自分達だけには降りかかるはずがない。
何故なら自分達は、普通に暮らしていたから。両親も、姉も、何の罪もないのだから。
そう信じていた心は、大理石のような広間と赤い空を見て吹き飛んだ。
空だ。屋内に広がっているはずもない、空がある。
夕焼けよりなお赤い、血のような空が広がっている。
その空には巨大な影が群れをなして舞っていた。
「おい、子供が入って行ったぞ!」
「大丈夫か、君!」
後から追いかけてきた大人達もまた、その光景に驚愕していた。
誰かの「ダンジョン……」という呟きが聞こえた。
目の前に立っていた巨大な石像が動き出す。一歩、一歩、地響きのような足音を鳴らしながらこちらへ歩み寄ってきているのを目にした時。
真琴は気を失った。
◆◇◆◇
ガバッと跳ね起きた真琴は、そこが自分の部屋である事を認識した後、汗で張り付く前髪をくしゃくしゃと掻きながら長い溜息を吐いた。
あの日から8年。夢は悪夢しか見ない。
8年という月日は、まだ子供であった自分にはあまりにも長かった。
当時16歳であった姉、梓弓よりも年上になってしまったのだ。
今、真琴は家族が囚われているダンジョンへ入場する権利すら持たない。こんな調子では、再会する頃には老婆になっていたっておかしくない。
もちろん誰かを恨めしく思う事はない。あの場所に囚われた人々にも家族はいて、そしてその家族は、必死に攻略しようとしているはずなのだ。
硬いベッドから身を起こし、キャビネットの写真立てを取る。
真琴の住む6畳のアパートはテレビすら置かれず、ほとんど生活感のない、ある種異様な空間であった。
それこそ寝て起きるだけのスペースで、唯一人間味のある物は小さなベッドと、キャビネットに置かれた写真立てだけだ。
「……」
8年。
8年掛けて、ようやく攻略の糸口を掴んだ。
ダンジョンが出現してから十数年の中で、おそらく誰も手にした事のなかったであろう力を持った人間が現れた。
錦曽良。
今は自分の延命に腐心する彼を味方に引き入れるか……あるいは早急に、ウンディーネのような特殊な力を、自分も手に入れる必要がある。
他にも同様のモンスターがいるのなら、是非契約をしたい。
「うちのトイレも、ダンジョンにならないだろうか。ふ……あり得ないか」
一応覗いてみて、自分の馬鹿馬鹿しさに思わず自嘲した真琴は、服を脱ぎ、シャワーを浴び始めた。




