1-1 急に自宅のトイレがダンジョンになったらあんたはどうする?
その日、俺の人生はたった一度の放尿で変わった。
なんて馬鹿げた書き出しの作品があったら、あんたはどうする? それが本なら、とりあえず読んでみるか、そっと本を閉じるかするだろう。
だがもし、それが自分の人生なら?
見なかったことにして閉じるなんて、できやしないだろう。
「……」
「あー……」
俺の指の隙間に握られたきかん坊から放出される液体が、目の前の水溜りに落ちてジョロジョロと音を立てる。
それを見つめる美女。まっすぐ見つめ返す俺。
そういうお店でそういうプレイをオーダーした訳じゃない。
そもそもここは店舗じゃなくて、俺の家だ。
正確には、俺の家だったはずの場所だ。
「ふ……」
そして俺が全て出し切った頃、呆気にとられていた美女がようやく口を開いた。
「不届き者ぉぉぉぉぉ!!!!」
◆◇◆◇
俺の名前は錦曽良。24歳のフリーターで、風の向くまま気の向くまま、夢を追い求める若者だ。ちなみに夢は無い。
したい事もなくブラブラしてる、とも言う。同級生が仕事に恋愛にと人生を謳歌しているのを見るとたまに羨ましくもなるが、まあ色々な事情があって、俺はそうはなれなかった。
ともかく、日々を精一杯生きる善良な小市民である俺は、この日最大のピンチを迎えていた。
それは尿意だ。
膀胱の中で荒れ狂う海が今、出口を求めて絶叫しているのだ。
こんな冷静な思考は当然後付けであるし、なんなら今現在、簡単な四則演算すら厳しい。
「出したい」……ただその一点のみが俺の思考のリソースを奪っていた。
もう出しちゃってもいいんじゃないか? そんな悪魔の囁きをなんとか振り切り、這う這うの体でなんとかアパートへ帰り着いたのだ。
今思えば、コンビニに寄っても良かった。でも近くのコンビニの店員、トイレだけ借りようとするとすごいムッとした顔するんだよな……。
安堵と共に、俺は自宅のドアを開け、入り口すぐのトイレに駆け込んだ。
後はジッパーを下ろして放出するだけだ。
「あっ……?」
ふわっと体が浮いたかと思ったら、急に襲ってきた引っ張られる感覚と共に、俺は床を転がった。
いや、床じゃない。これは階段だ。石の階段が下に伸びているのだ。
断っておくと、もちろんこんな珍奇な間取りの部屋を借りている訳じゃない。築40年、家賃4万円の1Kの部屋の中に、階段なんてあるはずがないのだ。
なら、俺がしこたま顔やら背中を打ちつけながら転がり落ちているこの階段は?
思い当たるフシが一つだけある。
だがまずは、思い切り地面に腰を打ち、ついに限界をちょっぴり超えてしまった俺のダムが決壊する前に、どこかへ計画放水を行わなければならない。
起き上がり周囲を見回す。
四則演算は無理でも、「出す」事に限れば思考速度はスパコン並みだ。2位でも構わないから出させてくれという心境なのだ。
ちょうど5メートルほど先に、水が溜まっているのが見えた。
そこへ駆け寄り即ジップオフ。リトルデーモンが顔を出し、放水が開始された。
ジョロジョロ……と小気味よい音を立て放尿していた時。
出会ったのだ、その女に。
「……」
「あー……?」
そして、冒頭へ戻る。
◆◇◆◇
あれは確か、俺が小学生3年か4年の頃だった。
世界の至る所に変異型特殊建造物……俗に『ダンジョン』と呼ばれる物が発生した。
中には数々の攻撃的な生物が棲息し、そしてそれらは地球のどの生き物にも当てはまらない特徴を持っていた。いわゆる、モンスターというやつだ。
まるでゲームのようだが、事態は深刻だった。
ダンジョンの出現場所は、物理法則を無視する。地下鉄が通ってようが、ビルの上階であろうが、まるで別次元にでも繋がっているかのように元あった空間が消失してしまうのだ。
決められた入り口以外は人の出入りや壁の破壊も受け付けない。
そんなダンジョンの出現場所に不運にも居合わせた人々は、元の空間ごと消えてしまった。
ダンジョンの中を隈なく捜したとしても、その人たちは痕跡すら見つからず、完全にこの世から消えたかのような有様だった。
その日以来、世界中の人々が、いつ自分のいる場所がダンジョンになるか、心の底で怯えながら生活する事になった……。
……のだが、人間とは逞しいもので、世界の雰囲気は暗くなるどころか、ダンジョンから見つかる財宝に価値があると知った人々は、個人やチームで研究し、ダンジョンを攻略し始めたのだ。
そして程なくして、ダンジョンが完全に攻略される事で、そこに囚われていた人々が無事に帰ってくる事も分かった。
今や人々は恐怖ではなく、希望や欲望を糧にダンジョン攻略に勤しんでいる。
こうして、ダンジョン出現から1年もしないうちに、『エクスプローラー』と呼ばれる事となったダンジョン探索者たちとそれを統括する機関が生まれた。
そしてエクスプローラー達による探索・採掘・救助活動により、日々ダンジョンの全容が明かされつつあるのだ。
で、だ。
そんなダンジョンなんかとは無縁だと思っていた俺の人生が、とうとう転機を迎えてしまった。
まさか自宅の、しかもトイレがダンジョンと化すとは。
しかもその先にいたのが……。
「…………」
ぶすっとした顔の青髪の美女。耳は尖っていて、魚のヒレのような膜が張っている。
肌は青く、人型ではあるが、とても人間には見えない。
だが、そんな事は小さな問題だ。とてもこの世のものとは思えない美女だというのが問題なのだ。
彼女どころか女友達も連れ込んだことのない部屋に、全身青いとはいえ美女がいるこの状況。
しかも大事なモノを見られている。これはもう実質ねんごろと考えて良いのではないだろうか。
「あの……お茶とか」
「結構です」
「っスか……」
よし、楽しく会話できたな。な!
……気まずい。男友達みたいな女しか周囲にいないので、どうも会話を弾ませる事ができない。
いや、弾むわけもない。何故なら目の前の彼女は、大変にお怒りであるのだから。
「あり得ない、こんな……だいたい、普通あんな所であんな……人間の雄は皆こうなの……? あり得ない……」
ブツブツと呟きながら、俺の話には耳を傾けてくれない。
たまに話しかけてもキッと睨むような反応を返すのみだ。
その辺で立小便したことは悪いと思うけどさあ……。
「あんた一体何者なんだ? なんたってダンジョンに……」
「……私はウンディーネ。水の母精、命の支配神、ウンディーネです」
「はあ……?」
「リアクション薄っ!? な、なんなの、あなた。人の泉を穢しただけでなく、その反応……普通なら猛省し、命を絶って詫びるものじゃないの!?」
「そ、そんな重罪!?」
立ちション=死刑とか、凄まじい法だぞ。というかなんだその『ぼせい』とか『しはいしん』って。偉いんだろうか。
「とにかく、あなたのせいで私の泉は穢れ、おかげで私はこの有様です。この責任、どう取るつもり?」
「は? さ、さっきから好き放題怒ってるがなあ……ここは俺んちだし、あそこはトイレなんだよ!」
「誰の泉がトイレよ!!」
「ごっ!?」
ゴギンッ、という音と重い衝撃。チカチカした視界に、やたら物騒な刃物を突きつけるウンディーネが映る。
え、なんだこいつ。いきなり武器で頭殴ったのか!? 殺す気か!
「いってえ……。す、すんません……」
断じて刃物の圧力に負けたわけではないんだが、とにかく謝っておいた。
「すみません、じゃ済まないのよ! あなた、事の重大さが分かっているのかしら」
知らんがな。
俺は急に現れたダンジョンで一迷惑、トイレが消えて二迷惑、さらに訳の分からない女に詰められて三迷惑のスリーアウトチェンジだぞ。
今後どうやって暮らせばいいんだ。
キッチンか? キッチンで垂れ流すか!?
「コホン……。泉の水は私の力であり、存在そのものです。純粋であるからこそ力を発揮できるの……。それが、他の水と混ざってしまい、私は力を失ったのです」
「他の水?」
「あなたのに、にょ……あああ!!」
「うおっ、危ねえ!? よ、要するに俺があそこで小便したからまずい事になったのか?」
「そうよ!」
キレながら三叉の槍を振り回すウンディーネの様子を、俺は身を低くしながら伺っていた。
「それにあなたも、のほほんとしているけれど、このままだと死ぬのよ!」
「…………んんっ?」
唐突な死亡予告に脳が混乱する。
死ぬって、あの「死ぬ」か?
よくあるあの……いや、マジか。
小便しただけで死ぬってなんだ。
あそこは毒の沼だったりするのか?
「いい? あなたが排尿した事で、あなたの中にある水と、私の水は結びついてしまった。つまりこれは、強制的な契約、半身として身を捧げる事に他ならないの」
いきなり設定を語り出したぞ。そういうタイプなのねウンディーネさん。
どうせ頭に入らなくてダルいから詳しく聞きたくないんだが、死ぬと言われた手前なあ。
「私は力を失い、遠からず消滅します。その時、あなたもまた消える事になるわ」
「はいはい、俺も消えるのね。……でええええっ!? なんじゃそりゃ!」
やれやれという風に首を振るウンディーネ。とてもたちの悪い冗談であるとは思えない深刻そうな顔だ。
俺は酸素の足りない魚のように、パクパクと口を動かすしかない。
恥が多いどころか恥だらけの人生を送ってきた俺だけど、さすがにこの歳で死ぬのは未練がありすぎる。
せめて彼女くらいできてから死にたい。
いや、そもそも死にたくない!
「ど、ど、どうすれば生きられるんですかねえ!?」
「あなた、自分の命がかかってると知ったら必死ね……。別に今日明日消えるという訳じゃないのだから、残された生を謳歌すれば良いでしょう」
「うう……で、余命はどのくらい……」
「3日」
今日明日ではないけど、明々々後日じゃねえか。
「なんっもできね――――――――よ!? 来週のジャンプも読めんわ!」
くそ、なんでこんな目に遭うんだ……!
トイレは無くなる、命も無くなる。踏んだり蹴ったりすぎるんだよ。
こんな事なら家賃と立地に釣られてこんなアパート借りるんじゃなかった……。壁は薄いし冬は寒いしいい事ないのに……。
隣も変な外国人だし、騒がしいし……。
「……はあ」
ウンディーネのため息。おい、ため息つきたいのは俺の方だぞ、ふざけんな。
俺の気などいざ知らず、ウンディーネは多少優しい声で語り掛けてきた。
「そうね。無限の時がある私たちでは、あなた達と生への執着の認識がズレていたのかも。もしあなたがまだ、人間として生きたいのなら……」
「なんかあるんですかあ!?」
「か、顔が近い、汚い……! さすがに鼻水まで混ぜるのはやめて……。コホン。あなたがまだ人間として生きたいのなら、私の言う通りにしなさい。いいですね?」
「はいぃ……なんでもします……。人殺し以外なら……」
「あなた本当に生き汚いのね……」
うるせえ、ほっとけ。
かくして、俺の人生は変わった。
たった一度の排尿で、だ。
どうだ、こんな物語、あんたなら閉じずに読もうと思うか?
俺は本を閉じるつもりはない。
だって、他ならない俺の命が懸かってるんだから。




