さっそく誤字
いただいた感想への感想返しで、さっそく誤字を出しているカヤです。そんな自分を笑い飛ばそうと思って始めたエッセイですが、やはりへこんでおります。誤字め!
さて、何を間違えたかと言うと、「コミュニケーション」を「コミニュケーション」と書いてしまったわけです。これはつづりを思い出せば問題ないはずなのですが、なぜか間違える。
それはなぜか。
学生時代には問題なくできていたこの単語、実は社会人になってから一度「コミニュケーション」とうっかりやってしまい、それを指摘されて「そんな基本的なつづりも知らないで」とバカにされたことがあるのです。
それ以来、この言葉を使おうとするとまず浮かぶのは単語ではなく、「バカにされた」「恥ずかしい」という感情です。「また間違えるのではないか」という恐れもあります。まあ、実際間違えたわけですが。
だから、いまだにこの単語を使う時は、辞書を引きます。最近はスマホで検索します。今回の感想返しでも調べました。かように心理とは複雑なものです。そして調べた挙句間違えると言う結果に。だめだ、笑い飛ばせない。
しかしみなさん。トラウマごときにやられてもいいものか!
ここからは真面目な話です。
一般論ではありませんが、私にはなかなか覚えられない漢字と言うものがあります。例えば看護の看の字。上の横棒が二本か三本かどうしても覚えられないのです。それから価値観。観なのか感なのか、「物事の見方」なのだから「観」ですが、ふと、「感じ方だから感でもいいんじゃない?」と何かがささやくのです。そして混乱する。もっとも、これは使い方で両方あります。
これらは、読み書きの前に、まず「苦手で書けないもの」と言う意識が来て、気持ちが萎縮してしまうのです。
仕方がないので、「苦手で書けないのだから仕方ない。苦手と言うタグをつけよう」という結論に達しました。
タグ付けをすることで、「苦手だから使う時は必ず確認すること」という一作業が入ります。手間はかかるけれども、誤字はこのタグ付けでだいぶ減りました。手書きのほうは。
もうひとつ方法があります。それはイメージをくっつけることです。看護の看の字は、知り合いに「手と目で優しく看るから看護」と教えてもらい、それ以来それを思い出すことで正しく書けるようになりました。頭の中でひと作業しますが、辞書を引くよりはましです。
このイメージは、価値観には使えないのでいちいち調べますが、「コミュニケーション」には使えます。それは、「コミュ障」と言う言葉です。この言葉が出て来た時、それに付随する問題はともかくとして、私は歓喜しました。「コミュ障」という印象的な言葉さえ思い出せば、「コミ」か「コミュ」で悩まなくて済むのですから。
しかし、なぜ今回間違えたか。おそらく、加齢によりタグ付けをすることを忘れたからなんでしょうね……。そしてへこむ中で「そうだった!コミュ障と一緒に思いだす単語だった!」とゆっくり思いだしたというわけです。
言葉は表記と言う目に見えるものだけでなく、実に個人的な背景があるものです。背景には個人だけでなく文化的なものもある。
それを小説やエッセイと言う形で共有するわけですから、きちんと共通で通じるものにする努力はすべきだなあと思うのであります。失敗もするけれども。