銃声
二作目です。
あれは、よく晴れた夏のある日のことであった。彼――仮にPとしておこう――は、その日の朝、数人の仲間とともに、市街へと進入した。彼らを捕まえようと、警備隊が目を光らせてはいたのだが、その警備隊の中にも仲間がいたため、特に問題なく市街へと入ることができた。彼らは、ただ単にここに観光なり、仕事なりできた数人の若者を装っていた。
彼らは、談笑しつつ市街の中心部を貫く道路の歩道を歩いていき、あまり目立たないところに集まった。そこでリーダーの男、Iは、各々にその役割を申しつけていった。Pは計画が失敗したときの予備の役割を与えられた。
程なく、Pは仲間と離れて再び歩き始めた。そして、計画が実行される可能性のある市街の主要な道路を見て回った。休日であるせいか、あるいは隣国の、この地を支配する帝国の皇太子夫妻がここを訪れるせいか、あるいはその両方なのかは良く分からないが、いつも以上に街に人があふれているようにPは思った。Pは、あまり人込みにいたくはなかったので、足早に通り過ぎていく。
しばらく市街を見て回り、事前に一応見てきた地図との一致を確認した。一息つくべく、歩道に設置されたベンチに座った。相変わらず人が多くて喧しいが、幸いなことにPのいる辺りには人が少なかったため、少し気持ちは楽であった。遠くで音楽隊の陽気ながら厳かな音楽が鳴っている。Pはそれを若干苦々しく思いつつも、しばし目を瞑って体を休めた。
後数時間で、この国が何か大きく変わるかもしれない。そのことに自分が関わっている。そう思うと、何となく自分は偉大なことを成し遂げようとしているのだと思った。と同時に、自分は何かとんでもないことをしでかそうとしているのではないだろうか、と思った。Pには、政治だの経済だのといったことにはほとんど知識がないし、関心もない。そんな彼でも、自分が今いる、そして自分の支配された祖国のあるこの半島が、近くの巨大にして強大な帝国の勢力争いの場になっていることは何となく感じ取っていた。自分たちがなそうとしている事が、途方もないことにつながる。そんな気がしないでもなかった。
「……そんなこと、知ったことか」
ふと、呟きがもれた。そう、そんなことはどうでも良い。肝心なのは、この計画を成功させるか否か、である。それ以外には何もなかった。この計画を成功させることができれば、横暴を極めるあの帝国をこの地から叩き出せるかもしれない。そのためなら、どんなことでもする。それがPや、その仲間たちの共通の目的だった。
「…………っ!」
疲れがたまっていたのか、少し寝てしまっていたらしい。あたりを見渡すと、先ほどよりも喧騒は大きくなっているようであった。遠くで鳴っていた音楽隊の音が、近くに聞こえる。おそらく、皇太子夫妻の車列が到着しているのだろう。彼はベンチから立ち上がり、小走りで、車列の通るであろう太い道路へと通じる小路を急いだ。
ふと、自分の体中から汗が噴出していることに気づいた。固く握られた拳も汗だらけであった。何しろ、もう少しで歴史が変わるかもしれないのだ。自らの祖国が、同胞の民族たちが支配から解放されるかもしれないのだ。緊張しないほうがおかしかった。自分はあくまでサポート役でしかなかったが、それでも歴史の表舞台に立っていることには変わらない。期待と不安が緊張に包まれてPの体を貫いていく。袖で額の汗をぬぐい、なおも走り続けた。
Pが開けた道路に出たところで、遠くのほうでバーンッという音が響いた。音楽隊の音楽がぶつ切りに途絶えた。街は一瞬静寂に包まれたが、すぐに、喧騒が漣のようにこちらに伝わってきた。人々が、あるいは声を潜めて、あるいは大声で何事か、何があったのか言い立てた。
「……やった、のか……?」
この音は明らかに何かの爆発物が破裂する音であった。皇太子夫妻が訪問するというこの日にそんな音がするということは、もう原因は一つしか思いつかなかった。そう、爆弾テロである。
IをリーダーとするPらのグループは、今日この日にやってくる、彼らの民族にとって屈辱の記念日であるこの日を、敢えて選んでやってくる、支配者気取りの、横暴で、強欲で、腐敗した帝国の後継者である皇太子夫妻を暗殺するためにこの街にやってきたのであった。
その同志であるPの仲間が、暗殺を敢行したのである。ついにこの地から支配者は消し払われたのだ。Pは圧倒的な達成感で満たされた。これで、我が民族は遂に支配から独立できる。そう信じてやまなかった。
また安心感も彼を包み込んだ。確かに、歴史に名は刻まれないのかもしれない。民族の英雄とはなれないのかもしれない。しかし、彼の願いは完遂された。それだけで良かった。
この達成感と安心感を確固たるものとすべく、彼は爆発音のあった現場へと走り出した。他の住民らも同じように走り出す。あるいは夫妻を心配して、あるいは、夫妻の死を喜んでのことであろう。しかし彼にとってそれは関係のないことであった。ただただ走り、現場へと向かう。
☆
人並みを掻き分けて、何とか現場と思しき場所へとPはたどり着いた。切れがちであった息を必死に整えて、あくまで偶然通りかかった通行人を装う。周囲には火薬と硝煙の匂いが充満していた。道路や、建物の壁には焼け焦げた跡があり、警備の者たちが見物人を怒鳴りつけて周囲を警戒している。Pは、警備隊に見つからぬように、そして状況を確認すべく、そばにいた中年の男に自然な形で話しかけた。
「……なんか、すごいことになっていますね。何かあったのですか?」
「はあ? あんた、知らないのか? さっきここで爆弾テロがあったんだよ! この街にいらっしゃった皇太子様たちに向かって、こう、爆弾が投げつけられたんだ! もう、偉い騒ぎだよ」
彼は笑みを抑えるのに必死だった。今にも喜びを爆発させそうだった。その歓喜、希望で宙にも浮かびそうであった。震える声で、その喜びを確かなものとすべく男に問いかける。
「そ、そうなのですか? で、えーっと、その皇太子様たちはどうなったのです?」
「ああ、犯人どもの腕が悪かったんだろうな。ちょうどタイミングがずれて、皇太子様の車の後ろの車に直撃したんだ。後ろの車の人たちは怪我をしたようだけど、皇太子様たちは無事のようだ。皇太子様の車はものすごい勢いで走り去ったよ。まあ、一安心だな。……おい、あんた大丈夫か? ものすごく顔色が悪いようだが。まあ心配する気持ちも分かるが、とりあえずは無事だ。安心してよいだろうよ」
「あ、は、はい。えと、失礼いたします」
Pの高揚感はとっくに消え去っていた。男の話は途中からまったく頭に入っていなかった。今にも倒れそうになりながら、ふらふらとその場から歩き出した。
(……そんな……。爆弾担当は、確かCだったか? 奴は確か投擲が大の得意だったはずだ。なんで外した? いや、今はそれどころではない)
一刻も早く今後の身の振り方を考えねばならなかった。まず間違いなくCは拘束されている。そうすると、その口から自分のことも漏れてしまいかねない。そうすれば、自分の逮捕も時間の問題であった。皇太子の殺害を企図した自分たちのことだ、どんなに楽観的に見ても処刑は間違いない。こんなところで死ぬわけにはいかない。
Pは、何とか気持ちを落ち着けて、車が走り去ったという方向へと足を向けた。意識は朦朧としていた。普通なら倒れていてもおかしくないのであろうが、その精神力で必死に足を動かした。
周りの住民の話を漏れ聞く限り、皇太子夫妻の車は猛スピードで市街中心部にある市庁舎へと向かったらしい。悲観的な気持ちであったが、それでも一縷の望みにかけて必死で市庁舎へと進んだ。
何とか、市庁舎へたどり着いた。市庁舎は、Pの希望を打ち砕くかのように、厳重という言葉では言い表せないほどの厳重さで警備がなされていた。いたるところに銃で武装した警備が配置され、近づく住民を威圧していた。とてもでないが、あの市庁舎に入ることなどできるはずがなかった。そもそも、近づくことすらも危険であった。
Pは、沈痛な面持ちで市庁舎を離れていった。
☆
しばらく市庁舎から少し離れた場所を、散歩をしている体で歩いていたが、皇太子夫妻が出てくる様子はまったくといっていいほどなかった。Pは、ふと、朝から何も口にしていないことに気づき、どうせすることもないだろうと考えて昼食を取ることとした。
辺りを見渡すと、ちょうどよさげな軽食屋があったので、そこに入った。窓際のカウンター席に通され、椅子に座る。そこそこ好きな、フライされた魚のサンドゥイッチを注文した。ほどなくして、ウェイトレスが運んできた。ウィトレスは少し怪訝な表情でPを見つめていたが、Pが軽く睨むとすぐにどこかへ行った。
Pは、ようやく少し落ち着いてきたもののやはり焦りを隠せなかった。あのまま皇太子夫妻が市庁舎にとどまっていたとしたら、どんな手段を使っても手は出せない。今持っている拳銃で突入したとしても、警備を一人か二人殺せるだけで、とてもではないが皇太子の下までたどり着くことなど出来ないだろう。
かと言って、このまま彼らが出てくるまで待っていては、捕まった仲間の口から自分が逮捕されかねない。Cは、真面目で明るい男ではあったが、尋問、拷問に耐えられるような精神力を持っているような男ではなかった。
たまたま、夫妻が出てきたとしても、その警備はさらに厳重になっていればやはり手など出せない。たとえば、群衆が寝静まった夜に、夜陰に乗じて逃れられては、手は出しにくい。これもまた難しいのであった。
(いよいよ手詰まりになってきやがったな……こうなりゃ、逃げたほうが良いかもしれないぞ……)
Pはふとそう思ったのだが、すぐにその思考は捨てざるを得ないことに気づいた。いくら警備隊に仲間がいるとは言え、流石にこの状況では市内の封鎖が行われているだろう。しかも、テロの対象は支配国の皇太子殿下である。是が非でも犯人を捕らえようとするに違いなかった。仲間でもこの流れに異を唱えることなど出来はしまい。
たとえ突破したとしても、その先必ず逃げられるとも限らない。警察当局は地の果てまで追いかけてくるだろう。いつか捕まることは火を見るより明らかであった。
(それに……)
追いかけてくる相手は警察だけとは限らない。自分たちの所属する組織は、極めて結束が固いことで有名である。つまり自分のように、組織を裏切り逃げようとする者には容赦しないのである。Pは下っ端であるためあまり実感はなかったのだが、噂にはよく聞いていた。
今逃げれば、裏切り者として警察のみならず組織の仲間からも執拗に狙われることとなる。Pには、そんな追跡から逃れられるほどの能力はなかったし、そんなことができるとも思えなかった。
Pには、この状況を打破する方策が全く思いつかなかった。ただただ時間ばかりが過ぎていった。頭が全く働かず、空転ばかりしているようだった。手に持ったままのサンドウィッチはすっかり冷たくなっていた。
☆
Pは、何か信念をもって行動を起こすタイプの人間ではなかった。農村で、九人兄弟の末っ子として生まれた彼は、兄の助けを借りて学校に通うことができたのだが、さりとて何か明確な目標があるのか、と言えば、なかなかそのようなものは見つからなかった。
Pは、成績は良い方であった。時には、校長から直接褒められることすらもあった。Pは少し気後れというか、気恥ずかしさのようなものがあったが、それだけであった。その成績に目を付けたのか、彼には様々な人間が近づいてきた。中でも、Tは熱心に彼に近づいてきた。Tは、PやTの属する民族が、如何なる苛烈な支配を受けているのか、これに抗するためには民族の団結が必要であり、最終的には支配者である帝国が打倒されねばならないことを懇切丁寧に説いた。
Pは、Tの語る思想についてはそれほど関心がなかったが、Tの人柄にはいたく惚れ込んだ。この人となら、何か面白いこと、すごいことができるかもしれないと思った。それから彼は、民族主義にのめり込み、仲間とともに思想を流布することに努めた。反帝国を唱える組織に積極的に参加し、幾度もデモに参加した、それにより学校は退学となったが、もはや彼にとって学校など何の価値も見出していなかった。そしてPは、紆余曲折を経て今回の皇太子暗殺計画に参加したのであった。
「……俺はなんでこんなところでこんなことをしているんだろう」
口から、ふとそんな言葉が出た。Pは驚いて口をふさいだ。それから、深いため息をついた。最初こそ意気揚々と、この国を、民族を解放し、何かを変えることに躍起となっていた彼であったが、最近ではあまりそのようなことに関心が無くなっていた。自分たちが何をしても変わらないのではないか、そんな気にしかならなかったのである。
いや、それすらも詭弁なのかもしれなかった。彼は確かに、祖国を愛し、同胞を愛する青年であった。しかし、だからと言ってその思想をもとに何かを成し遂げようとするほどの深く強い思いまでは心になかった。自分は結局何か面白いことをしたかった、それだけであるようにも思ったのだ。
この計画に参加したのも、今思えば成り行き以外の何ものでもなかった。要は、誘われたから参加した、ただそれだけのことであった。そしてその何気なく参加したに過ぎない計画の失敗によって、自分は絶体絶命のピンチに陥っているのである。自業自得と言えばそれまでであったが、Pは納得できなかった。
自分の人生は、どこで間違ってこんなところに迷い込んでしまったのか。何か自分は神に目をつけられるようなことをしたのだろうか。神はなぜ自分にこのような仕打ちを与えるのか。Pの心は黒く濁っていった。もう、何もかもどうでもよくなってきた。Pは、ふとその懐に拳銃を忍ばせていることを思い出した。もう、これで何もかも終わらせてしまおうか。そんな気分にもなっていた。
☆
延々と思索にふけっていたせいか、ずいぶんと時間が経っていたようであった。Pは思い出したかのようにサンドウィッチを頬張る。思ったほど旨くはなかったが、それなりの味だと思い食べ進める。
ふと、窓の外がやかましいことに気づいた。外では群衆が昂奮して何か騒いでいるようであった。デモか何かだと思い特に気にしなかったが、ふと、つい先ほど聞いた音楽隊の音楽が鳴り響いていることに気づいた。音はどんどんとこちらに近づいてくる。Pはこの音が何を意味しているのか、未だに確証が持てなかったが、とにかく、持っていたサンドウィッチを口へ押し込み、胸に忍ばせている重みを確かめつつ、会計を済ませて店を飛び出した。
Pは、沿道を埋め尽くす人垣を見て、遂に確信を得た。つまり、市庁舎に引きこもって出てこないと思っていた皇太子夫妻が、先ほどと同じように人々に手を振りながらのこのこと姿を現したのである。まさに千載一遇の好機であり、飛んで火に入る夏の虫とはこのことであった。大いなる始まりと小さな終わりを胸に秘めつつ、Pは計画遂行を決意した。
Pは皇太子を歓迎する群衆に溶け込み、熱狂する群衆の一人であるかのように、皇太子夫妻の乗る車へと近づいた。人垣を押しのけ、車に触れるくらいの近さまで近寄る。そして妨害なく襲撃できるタイミングを探った。
ついに、皇太子夫妻を真正面に見据える位置についた。夫妻と目が合うが、すぐに離れる。Pは最前列の群衆よりも更に一歩前に出て、胸からすっと拳銃を取り出し、構えた。夫妻は未だ気づかず、周りの人間たちも、ただならぬ事態を認識しつつも、何もできない。
パンッ!
一発目の銃弾は、皇太子夫人の腹に直撃した。夫人は崩れ落ち、腹からみるみる血が噴き出す。夫人は苦悶の表情を浮かべてこちらを一瞬にらみ、完全に倒れた。周囲は一瞬の静寂に包まれる。まるで時間が止まったかのようであった。
パンッ!
二発目の銃弾は皇太子の首を撃ち抜いた。皇太子もまた崩れ、首から勢いよく血が飛び出た。皇太子はあらゆる怨嗟の感情を浮かべつつ、どこを見るともなく倒れていった。
止まっていた時間は動き出した。絶叫と怒号が周囲を包み込んだ。警護の者と群衆が一緒くたになって皇太子夫妻に群がり、周囲は大混乱に陥った。Pはそれに紛れて混乱の中心から逃げ去った。
人が少しだけまばらになったところで、彼はポケットに入れていた毒を口に突っ込んだ。何も考える暇がなく、プログラムされた機械のように毒を呑み込む。しかし、体が毒を拒絶し、すぐに吐き出す。直ちに手に持っていた拳銃を頭に突きつけようとしたが、これを見ていた人々が、奴が犯人だ! ひっ捕らえろ! と口々に叫んでPに襲い掛かり、拳銃は奪い去られた。
周りから口々に何事かが叫ばれる。ほとんど罵詈雑言であったが、ほんの少し賞賛の声があったように、Pには聞こえた。もっとも、もはやPにはどうでもよかった。自分はついに成し遂げた。この世界を大きく変える歴史的な出来事を成し遂げたのだ。そんな思いでいっぱいであった。少し前の悩みなど、もはや何の意味もない。何とも言えない達成感がPを支配した。
Pは群衆に引きずられるように、連行されていった。
☆
帝国政府は、Pの出身国である共和国に対して懲罰的宣戦を目論み、共和国政府に対して十か条の最後通牒の四十八時間以内の無条件受け入れを要求した。共和国政府は、二項目を除いてこれを受け入れたが、無条件でないことを理由にその数日後、帝国は共和国に対して宣戦布告をした。共和国の同盟国である東方の帝国が総動員令を発し、これに対応して帝国の同盟国である西方の帝国もまた総動員令を発令し、隣国に侵攻した。
当初は短期間で終わると思われた戦争は、幾つもの新兵器と新戦術の出現により膠着状態に陥るとともに、全世界にその影響が広がっていった。そして最終的に戦争は四年と三か月にわたって展開され、およそ千九百万人の犠牲者と、同数以上の負傷者が生じるに至った。そして、四つの巨大な帝国が地上から消滅し、代わりにこれまでの歴史では見たことのない思想を奉じる国家が誕生した。
さらに、この戦争の戦後処理の失敗は新たなる世界大戦をも生みだし、およそ六年にわたる戦いにより数千万人の犠牲者が生じた。世界秩序は激変し、二つの巨大な国家が人類を滅ぼす力を有して互いに睨み合うこととなった。
Cによる爆弾攻撃が成功したとしても、また別のグループによる襲撃が成功したとしても、また別の要因によっても結果は変わらなかったかもしれない。しかし結果的に、Pの二発の銃声は、全世界において一億人に迫る犠牲者を生み出し、世界の風景をいっぺんさせたのである。
終わり