◆ 6 ◆
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あなたの『今』の旅も、終わりが近づいてくる。
ユーラシア大陸の内陸部、死の砂漠と呼ばれた地域を、あなたは数ヶ月かけて西へ西へと歩き続けて通り過ぎた。
やがて広がるのは、汚れた色の、かつての森林地帯。
『やり直す前の世界』では、この時代にもまだ多く木々が残っていた地域。
けれど『今』、『やり直した先の世界』では、その木の多くは腐って立ち枯れている。
世界を覆う暗い粉塵の雲からは、陰鬱な汚れた雨が降る。
あなたはラキヤにフードをかぶせ、旅を続ける。
砂漠地帯を抜けたことで昼夜の極端な温度差は緩和されたが、その代わり、昼間からずっと底冷えのする日々が続く。
きっと、燃えるような体温を持つラキヤの熱い手はあなたにとって、とても心強かっただろう。
立ち枯れた森林地帯を過ぎると、人の街の廃墟が多く見かけられるようになる。
だが、あなたはそこを黙々と通り過ぎ、必要以上に目を向けることはない。
平和な生国から来て街の野犬におののいていた『やり直す前の世界』のあなたは、もういない。
壊れた街路に時おり転がって放置されたままの死体にも、見慣れた物として目もくれない。
それが、『今』のあなた。
さらに数日を、あなたは歩き続ける。
かつては広大な内海が広がっていたはずの場所に出る。
今、海岸は後退し、内海は縮小し、代わりに沼地が広がっていた。
かつて内海の名前の由来となった黒い水は、暗い雲の下、濁った濃度の高い沼地として残っていた。いっそう陰鬱な色で。
ラキヤの、楽しそうな声が聞こえる。
「あはは♪」
「おい、転ぶぞ」
あなたは思わずラキヤの高温の手を取って支える。
すると、ラキヤはその手を基点にして、躍るようにぐるりとあなたの周りを楽しげに回る。
あなたは微笑する。
「なあ、ラキヤ。
君のお姉さんのいる場所にだいぶ近づいてきたはずだが……。
君も、ここらに住んでたんだよな?
ここいらの景色に見覚えはあるか?」
「すっかり変わったねー♪」
浅い沼地の水を、防水加工済みの厚手の靴で楽しげに踏んで水しぶきを跳ね上げながら、ラキヤはあなたの周りを躍るように回り続ける。
「人がたくさん住んでたんだけどねー。
もう誰もいない♪
私はカザンがいればそれでいいけど!」
「……。
もうすぐ君の姉さんに会えるはずだけど、嬉しいかい?
君の姉さんってどんな人だい?」
「嬉しいよ♪ ずっと会ってなかったんだもん!
お姉ちゃんがどんな人かっていうとー……」
ラキヤは無邪気な子供のように、悪戯っぽく、あなたに笑う。
「カザンが知らないんだったら、知らないままでいいよ♪」
「気になるね」
「気にしなくていいよ♪」
そこまでしゃべった時。
唐突に、ラキヤが沼地の水を楽しげに跳ね上げる足を止める。あなたはそれに気づき、声をかける。
「ラキヤ、どうした?」
「……」
ぎりぎりと、苛立たしげに歯をむくと、ラキヤはあなたの手を取り、走り出す。
「急いで!」
「なんだ!?
どうした、パツァスの配下に見つかった、のか?」
「……」
ラキヤは答えず、走りながら、憎憎しげな目で周囲を見る。
その視線を追いながら、あなたも沼地の景色に目を走らせる。
見ると。
沼地の少し離れた場所に、ぽつんと、黒い木。
一枚の葉も無い、黒い木。
さっきまでは、そんな木は生えていなかったはずだった。
それに、その黒は不自然な黒。光の届かぬところに現れる陰の黒でもなく、光の遮られたところに現れる影の黒でもなく。そこだけ光をすべて食い尽くして失わせたような、塗りつぶしたような黒。
さらに目をやると、数十メートル離れた先にも、いつの間にか同じ黒い木があった。走るあなたたちを囲むように散らばって六本、六角形を形成する位置に立っている。
あなたとラキヤは走って、そのうちの二本の黒い木を頂点とする一辺を抜け、その六角形の中から抜け出す。
と。
新たに、右斜め前に一本、左斜め前に一本、気づけばもっと横の右に一本、左に一本の黒い木が、音も無く、見る間に地面から生えてくるのがあなたにも見えた。駆け抜けたはずの一辺の頂点を形成する二本の木と併せて黒い木は合計六本。それ以外の木は、いつの間にか消えていた。
再び、六本の黒い木を点とする六角形の中にあなたたちはいる。
ラキヤがますます強く、ぎりぎりと歯をむき出して軋らせる。
黒い木。
パツァスの配下の中でも特に悪名高い名前を、あなたは思い出す。
「ヴァルーエフか!」
その声が聞こえたのか、それとも偶然か。
前方に見えていた黒い木の傍に、影からズズズと音を立てるようにして、巨大な黒い男の姿が地面から浮かび上がってくる。
二メートルを超える高い身長。筋肉質な体が横にも広がってさらに威圧感のある、男。
その体の全てが黒色で出来ている、黒い覆面をかぶった、男。
黒の男。
黒い木の群落を操る、黒の男。
あなたは、黒の男の名前知っていた。直接会ったことはなかったけれど。
クロヴヤンカ・ヴァルーエフ。それが黒の男の名前。
ラキヤも、黒の男を知っていた。あなたと会う前に、ラキヤは直接彼と会ったことがあった。ラキヤが東ヨーロッパから北アメリカ大陸に流れ着くまでの間に出会っていた、敵。
ラキヤはぎりぎりと歯をむいて、ヴァルーエフをにらみ、警戒して立ち止まった。
ヴァルーエフはラキヤを見て、覆面の奥で笑う。
すると、あまりに真っ黒で遠近感が見失われる姿のその腹から、笑いによって噴出したかのように、黒い粘液のようなものが、びしゃびしゃと辺りに散らばり落ちた。
「ひャひャひャ!
おい、てめェ! メスガキ! こんなとこで会うたァ奇遇だなァ! 前に会ったのは、すっかり世界の反対側だぜ!
思わず、てめェに引っかかれた穴から中身が零れ落ちちまわァ!
ひャひャひャひャ!」
笑い声に併せて、さらに、びしゃびしゃと黒い液体。
ラキヤは彼の笑い声にはつきあわないと決めているらしく、人よりも高温の燃えるような熱を持っている手で改めてあなたの手をつかんで、引っ張る。
再び、あなたたちは走り出す。
ヴァルーエフはすぐには追いかけてこようとせず、さらに笑った。
「ひャひャひャひャ!
さァて、俺様の腹黒い腹の中にご招待、とくらァ!」
ヴァルーエフの足元から広がる黒い粘液。
さらに、六角形の頂点を形成する六本の黒い木の根元からも、黒い粘液。
そしてそこから、黒い木がさらに、何本も何本もと姿を現した。
光を食いつぶす真っ黒い木々が、あっという間に上方へ上方へと伸びて。
数秒も経たずに、周囲は光の無い黒い森へ。
さらに十数秒と経たぬ間に、黒い木を頂点とする六角形の範囲内は、目の前すら見えない黒い闇に覆われてしまっていた。
もはや、森ですらなく、闇の塊。
頭上の枝の合間合間に微かにぼんやりと見えていた日の光も、すぐに不自然に闇へと覆われる。
まるで洞窟の中のような、塗りつぶされたような闇。
わたしの未来視の視覚では、その中のあなたたちの姿はもう見えない。ただ、あなたたちの走り続ける音だけが聞こえる。
あなたたちは、転ぶこともなく全速力で走り続けているようだった。あんなにも群れて伸びていた黒い木にもぶつかる気配がないのは、やはり、そもそもあの黒い木が触れられるような物質ですらないからか。
その中で、ヴァルーエフの声。
「おォい、逃げるのか!
ところで、どこに逃げるんだァ? そもそもてめェら、どこに行こうとしてるんだァ?
俺様に教えてくんねェ? ひャひャ!
わざわざこんな場所に来てんだ、なんか目的あるんだよなァ! 面白い目的が! 教えてくんねェかなァ!
ひャひャひャひャ!」
声は方向に迷う様子もなく、あなたたちの耳に届く。
続いて、銃声。
わたしはどきりとしたが、すぐに、その場で銃を持っているのがあなただけであることに思い当たる。
あなたが、ヴァルーエフの声に向けて発砲したのだろう。あなたの異能を込めた銃弾は軽々しくは使えないから、通常弾で。
わずかに、銃口からのマズルフラッシュの閃光があなたの姿を浮かび上がらせてくれた気がした。その閃光は一瞬で、しかも闇に食われるように不自然に小さな光だったけれど。
ともかくその銃弾は、ヴァルーエフに命中したらしかった。
声。
楽しげな声。
「おォ!? 俺様のドテッ腹に穴がァ!
小せェ穴がァ~♪
ひャひャひャひャ! てめェ、いい腕してんなァ! 正確に俺様にぶち当てたぜ! この闇の中じゃ、俺様に効くわけがねェけどよォ!
知ってるかァ! 知らねェみてェだから教えてやらァ!
闇の中じゃ、俺様は無敵なんだ! いくら俺様に穴が開こうが引き裂かれようが、この闇こそが俺様だ! 俺様は死なねェし、無くなりもしねェんだよ! ひャひャひャひャ!」
「よくしゃべる奴だ」
あなたは、撃っても無駄と判断したのだろう。
銃声も、あなたの声も、その後しばらくは聞こえなかった。
飛ぶようなスピードで走るラキヤの熱い手に引っ張られながら、あなたも走り続けていたはず。
やがて。
あなたとラキヤはようやく、闇の塊の外へと走り出る。
空が粉塵の雲に覆われ続けているとはいえ、それでもそれなりの明るさを持つ昼間の空間へ。
あなたは走り続けながら、背後に抜け出てきた闇の塊に目を向ける。黒い木が密集して生まれた黒い闇の塊は、あなたたちが抜け出した瞬間から分解して崩れ始めている。
だがそれで終わりではなく、代わりに、前方と斜め前に別の黒い木が四本、現れ始めていた。背後に残した闇の塊も、あなたたちに近い位置の一辺を形成する二本が残り、また合わせて六角形の頂点に。
六角形の頂点の黒い木からは、また黒い森が増え始める。
おそらくそんな風にして、闇の塊は移動し続けるのだろう。
走り続けないと、またその闇の中に閉じこめられる。
「強行軍で突破し続けるしかないのか。
あいつの黒い木が無くなる場所まで。どのくらい先か分からないが」
「……」
あなたの言葉にもラキヤは答えず、ただ熱い手であなたを引っ張り、先へ先へと走り続ける。
六角形の黒い森に閉じこめられる前にと、あなたとラキヤは走り続ける。