◆ 3 ◆
◆ 3 ◆
『今』を、さらにさかのぼって。
あなたが日本を訪れるよりもずっと前。
あなたがわたしの元へ向かう旅が始まるよりも前。
ラキヤがあなたと出会ったその場面も、わたしは見た。
ラキヤ。わたしの狂おしく愛おしい妹。
北アメリカ大陸の西海岸にある街。
かつて『天使の街』の名を冠した街。
辛うじて活動を続けるレジスタンスたちの勢力圏にあったから、人の姿も比較的残ってはいたけれど。それでもやはり半分以上が崩壊した街。
粉塵の雲から降り続ける汚れた雨の下。
あるビルの屋上で。
ひび割れたコンクリートに直接。
ラキヤは大の字になって、仰向けに寝ていた。
ラキヤは、雨を避けるためのフードつきの外套を着込んでいた。けれど、その外套はあまり意味を成していなかった。
むき出しの顔や腕に、そのまま降り注ぐ有害な雨。
そして。
ぶすぶすと、煙をあげるラキヤの肌。
汚れた雨の雫がその身に降るたびに、ラキヤの皮膚は焦げて、ぼつぼつと穴が開き、ぶすぶすと煙があがっていた。
わたしたち姉妹の体は流れる水が苦手で、雨に触れると炎を上げて失われていく。
なのに。
ラキヤは、それをそのままに放置して、仰向けに体を投げ出して寝ていた。
ああ。なぜあの子は、自分を大切にしないのだろう。
人間とは違う強靱な再生力が、雨に打たれるたびに痛んで燃えて失われる体組織をすぐに治して、迫り来る死を頑強に遠ざけていた。けれど、確実に、ラキヤの体は痛手を受けていた。
ラキヤは、自殺するつもりだったのだろうか?
けれど、ラキヤは笑っているように見えた。
唇のあるべき場所も雨に打たれるたびに焦げて黒く変質して欠け、所々がむき出しになった歯も、歯茎が焦げ落ちているせいで乱杭歯と言うのもはばかられるほどに歪んで。一部の歯は既に抜け落ちていたけれど。
それでも。
その口元は、笑っていた。
そう見えた。
そんなときに、あなたがそこに現れた。
あなたはこのとき、この街に拠点を置くレジスタンスの一員だった。
その中でも、まだ若く血気盛んなグループの一員。
あなたのグループのリーダーは、レジスタンス全体の頭領であるフロディ・グラブラクスの息子で、スペードと名乗っていた。あなたは彼の部下であると同時に、腐れ縁の友人だった。
スペードに率いられて、あなたと仲間たちは『狂った魔女』を討伐するためにここに来ていた。
パツァスの一派でさえも手を焼く、無軌道な『狂った魔女』。敵の敵は味方、とはいかず、誰の味方にもならない危険な魔女。パツァスの一派に追い立てられ、この街に流れてきた魔女。
それが、あの子。ラキヤ。
レジスタンス全体の頭領の息子でありながら思ったように功名を得られず、魔女殺しの功績を求めていたスペードに連れられて、あなたはそこにいた。
屋上へ続く階段の終着点。屋上へと開いた出入り口の陰。
あなたの横には、グループリーダーのスペード。
階段の下には、スペードの部下。つまり、あなたの仲間たち。
離れた別のビルの屋上には、狙撃銃や、物を飛ばすタイプの念力など、遠距離から攻撃する手段を持った別の仲間たち。
仲間たちには聞こえないように小声で、あなたはスペードに言った。
「勝算はあるのか?」
距離の離れた他の仲間たちからは自信満々に作戦の確認をしているように見える顔で、スペードは小声で答えた。
「フン、魔女だかなんだか知らんが、単なる狂犬だろう。
この人数なら勝てるさ。
もし勝てないなら……逃げればいい。
なあに、他の連中を囮にすれば、オレたち二人ぐらいは逃げられるさ」
「それでも逃げられなければ、次は俺を囮にするのか?」
「おいおい、オレを信じられないってのか?
だがそれはそれとして、だ。
お前の『異能』が必要になるかもしれん。銃を忘れたなんてオチは無いよな?」
「忘れるわけがないだろう。ここにある」
銃。
あなたは腰に吊した銃に手を当てた。
そして、あなたは他の仲間たちの様子を確認するために、彼らのいる階段の下に顔を向けた。
そのとき。
階下からこちらを見上げる仲間たちの顔が、驚きに変わるのを見た。
そして、スペードの持っていた通信機から、別のビルの屋上で待機していた遠距離攻撃班の慌てた声がするのを聞いた。
「おい! 奴が消えた! 屋上にいない! そっちからは見えるか!?」
瞬間、あなたとスペードは振り返った。
屋上で仰向けに寝ていたはずの、こちらに気づいているとは思えなかったラキヤが、そこに立っていた。
雨に焼け落ちた眼窩。
うつろな、眼球の無い眼窩。
鼻は欠け落ち、唇を失った口は牙がむき出しで。
けれど。
「おい、スペード! 指示を寄越せ!」
無線機からの声と、階下の仲間たちがスペードの指示を仰ぐ気配を感じたのだろう。部隊の頭を潰すという、明確な意志を持って。
次の瞬間。
ラキヤの焼け焦げた手が、スペードの頭を壁に叩きつけて潰していた。
彼の手から、通り名の由来であるカード、彼の武器でもあるトランプカードが、何も役目を果たせないまま、バラバラと落ちた。
それを見ながら、あなたは咄嗟に階段を転げ落ちていた。
わたしは安堵した。ああ、ラキヤがあなたを殺してしまわなくてよかった。
ラキヤがスペードの頭を潰したとき、ラキヤから見たあなたとスペードの位置は、そう変わらなかった。むしろ、あなたのほうがスペードよりも若干近い位置にいた。ラキヤが意図してスペードを狙わなければ、あなたがまず殺されていただろう。
ラキヤから距離を離して階段を転げ落ちるあなたと入れ替わりに、階下にいた仲間たちがラキヤに殺到した。スペードの死を見て動けずにいた者も、他の仲間たちがラキヤに殺到したのを見て、すぐ後に続こうとした。
念力に長けた者が、ラキヤの体を潰そうとして。
小銃の扱いに長けた者が、この狭い空間でも正確無比にラキヤに銃弾を浴びせようとして。
異人すらも切り裂くナイフの達人が、ラキヤに斬撃を浴びせようとして。
けれど。
あの子を殺すことはできなかった。
ラキヤが顔を向けると、念力は逆流し、念力術者の青年の体がぐちゃっと潰れてハンバーガーほどの大きさの圧縮された肉塊になった。
小銃を持った男は、あっという間に距離を詰められ、頭を薙ぎ払われた。
ナイフを持った女性は、腹から肩まで爪で裂かれ、そのまま勢いで壁に叩きつけられた。
あなたとスペードを含めてこの場に七人いたレジスタンスたちは、あなたが階段を転げ落ちて踊り場で体を強く打ちながらもどうにか体勢を立て直して階上に顔を向けるまでの間に、あなた一人を残して全滅していた。
そして。
階段の上から、ラキヤはあなたに向かって飛び降りてきた。
雨のせいで焼け落ちたままの眼球。
眼球の無い眼窩だけれども、ともかく、ラキヤはあなたに顔を向けて。
それを見て、あなたが叫ぶ。
「くそっ! いい加減に……っ!」
あなたが銃を構えるよりも早く。
ラキヤの右手があなたの喉元を掴み、ラキヤの左手が銃を持ったあなたの右腕を掴んでいた。
わたしは悲鳴をあげそうになった。未来視で見ているわたしの声があなたに聞こえるわけがなくとも、それでも。
あなたもきっと、死を覚悟したのだろう。
けれど、あなたがそう覚悟したであろう瞬間も、その次の瞬間も、その次の数秒を経た後も。
ラキヤは動かなかった。
ただ、首をかしげていた。
眼球の無い眼窩には視覚は無く、同じく欠け落ちて形の無い鼻も嗅覚は失われていたはずだ。だが聴覚はどうだろう。わたしにはラキヤがあなたの声に反応したように見えたし、あなたもそう思ったのかもしれない。
あなたは高温のラキヤの手で押さえつけられたままの喉から声を絞り出して、言った。
「お前……何を考えている?
なぜ俺を殺さない?」
「あ”ー」
まだ組織再生の追いついていないラキヤの喉から、間延びした声がもれた。
もうしばらく、ラキヤは動かなかった。眼球の無い眼窩であなたを見つめたまま。
彼女が何を待っているのか、やがてあなたにもわかったはずだ。
雨に打たれていたせいで焦げ落ちていた、その目。
それが再生するのを待っていたのだ。
ようやく、その眼球が元の形を形作って。
赤い瞳の光が再生したとき。
同じく再生したばかりの可愛らしい唇から、牙を見せて、にっと笑って。
彼女は言った。
「やっぱり。
声で分かった。
カザン♪」
カザン。
あなたの名前。