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プロローグ

 1944年 ポーランド


 ルブリン郊外にあるルブリン収容所――地元の住人からはマイダネクと呼ばれている――とは別に存在する秘密収容所の所長、カール・ヘルマン・ヴァイスは自分の部屋にある、ありとあらゆる書類を暖炉の中へ投げ捨てていた。暖炉の中にある炎は、薪を燃やし自身の存在を保ちながら、捨てられる書類を一瞬で灰に変えていた。彼の部下たちは、地面に埋めてあった死体の数々を掘り起こしながら、別の穴にまとめながら、一定の数になるとガソリンをかけて、再び燃やしていた。

 彼らがこうして慌てているのも、すべて赤軍のせいだ。

 かつてドイツは、西欧を制覇し、大英帝国を苦しめ、同盟国とともにソ連に攻め込んだ。首都陥落は目前だった。誰も彼も、ドイツの快進撃の前では敗北するしかなかった。

 だが、今はどうだ?

 かつて西欧を制圧したドイツの姿はあるか?

 そんな栄光は消え去った。

 快進撃を続ける赤軍の前では、ドイツはただ、後ろに下がるしかない。だが、その後ろには英米が待ち構えている。彼には、ドイツの敗北は目に見えていた。もう、この国には赤軍を追い返す力などない。

 カールは拳を握り締めた。

 彼は作業を止め、デスクの引き出しから酒を取り出した。それをグラスいっぱいに注ぎ、口の中へ一気に流し込んだ。喉が熱くなるのを感じ、もういっぱい注ぎ、飲んだ。

 赤軍が迫っていることなど、彼にはどうでも良い。

 だが、この収容所での出来事だけは、知られたくない。

 外にある死体を連合国は彼の仕業だと思うだろう。彼の罪深い行為だと。

 だが、彼は外にある死体には何も手を出していない。部下にも抹殺命令を下していない。脱走を試みた愚か者の死体を除けば、外にある死体には銃弾はおろか虐待の痕跡すら見つからないだろう。彼とその部下は、この収容所に送り込まれる囚人には、よほどのことがない限り暴力を行使していないのだから。

 カールは酒を飲んだ。

 ここの囚人を死体に変えるのは、むしろ――

 廊下を渡り、ここまで悲鳴が届いた。

 カールは頭を上げた。赤軍が来たのだろうか? いや、それなら銃声かキャタピラの音がするはずだ。何の音もなく、スラヴ人が侵入できるはずがない。

 ホルスターからワルサーPPKを抜いた。木製のドアを開き、廊下へと出た。警備しているはずの部下2人の姿はなく、外で作業をしている者たちの声以外は、何の音もない。廊下の奥へと進み、階段を下って1階につく。だが、階段はさらに下へと続いていた。彼は1階の止まることなく、階段を下り続けた。一段、一段、下へと進むごとに、光が自分から遠ざかっていることを感じた。いつもポケットにしまってある十字架を握り締めた。神よお守りください、と呟いた。階段の先にあったのは、厚い鉄の扉だ。ドアノブを回した。扉はあっさりと開く。彼は扉を全開にし、PPKを構えながら、部屋の中へと入った。

 部屋の中は、黒そのものだ。一切の光がなく、一切の色がないただ黒い闇。

 この闇の空間の中にいるだけで、彼は普段聞こえない心臓の鼓動の音さえ、聞こえるように感じた。汗が額から流れるのを感じ取り、銃を構える腕が震えているのを悟った。

 瞬間、部屋に明るがついた。

 部屋は手術室のように質素なものだ。中心に置かれた背もたれのない木製の椅子以外に家具はない。

 そして、その椅子に〝それ〟は座っていた。

 カールは〝それ〟と向き合い、深呼吸した。

「少佐」これが〝それ〟の第一声だ。

「それは軍の階級だ」

「たかが階級にこだわるな」

「吾輩を国防軍と一緒にしては困る」

「一緒だ。国防軍も親衛隊も所詮は変わらない存在だ。確かに忠誠心の相手は違う。一方はドイツで、もう一方はちょび髭だ。だが、結局は同じ存在だ。どちらも血を流す、人を殺してな。それとも――」

 〝それ〟はカールに笑みを見せた。

「どうしても一緒にされたくないのならいいだろう、一緒にしないでおこう。国防軍は、この偉大なる、ドイツのために日夜、米英とソ連を敵にしている。一方SSは抵抗する力もないユダヤ人や障害者、ジプシーやスラヴ民族を喜んで痛めつけ、そして相手が反撃しないのをわかっていて拳銃を抜いて銃殺する。確かに一緒ではないな。ライオンと鼠の違いだ」

 カールは頭に血が上るのを感じた。PPKを〝それ〟に向けた。

「吾輩を侮辱するな!」

 〝それ〟は大げさに驚いた。

「おやおや、鼠にも誇りはあったかな?」

「吾輩は鼠ではない! 我輩は偉大なる指導者とドイツに忠誠を誓った誇り高き親衛隊だ! あんな下等生物と一緒にするなっ!」

 〝それ〟は立ち上がった。一瞬でカールの目の前まで進み、両手でカールの頭を掴んだ。カールは目を見開いた。自分の立場を忘れ、感情的になって反論したのが命取りだと思った。PPKを〝それ〟の胸に向けてはいたが、引き金を引くことはできなかった。

「ライオンと鼠の話を知っているか? ライオンは鼠を捕まえたが、鼠の必死の命乞いに耳を貸し、見逃してやった。鼠は恩返しを約束するが、ライオンは鼠如きが何を生意気なというような事を言って馬鹿にする。しかし後にライオンは網で捕まるが、鼠はそれを食いちぎってライオンを逃がす話だ。つまり――」

 〝それ〟はカールの唇に指を当てた。

「どんな小さな力も、時には大いなる力を助けるものだ」

 そう言って〝それ〟はカールから離れ、椅子に座った。カールは安堵のあまりため息を漏らし、力が抜けた。

「尤も、お前が助けるライオンは軍ではない」

「国防軍ではない? では、吾輩は何を助ける?」

 〝それ〟は目を見開き、周囲を見渡しながら、まるで聞かれたくない秘密の会話をするように小さな声でカールに囁いた。

「俺だ。俺を助けて欲しい」

 カールは耳を疑った。

「お前を? この吾輩が? 何を馬鹿なっ! お前は吾輩が知らない大いなる力を宿しておる。それに対し吾輩はただの人間だ。銃を持たなければお前と対等になれないか弱い存在だ。しかしドイツは敗北の道を進んでおる。そんなドイツの、ただの一兵でしかない吾輩が、お前をどう助ければ良い? むしろ、助けてもらいたいくらいだ」

 〝それ〟は両手を小さく広げ、笑みを浮かべながら首を振った。

「少佐、俺の力を大きく見ないで欲しい。お前たちの俺に対する評価は過大だ。俺はお前たちが思っているほど万能ではないし、完全に死を克服したわけでもない。それに友達もいない」

 〝それ〟は立ち上がり、カールの両肩を掴んだ。カールの顔が歪んだ。

「お前は社交的だ、カール。組織内のコネもあるし、上官のパーティーにも誘われる。それに、どこかの工場を経営している実業家から、毎回良い酒をもらっているではないか? 俺にはそんな社交性はない。それに社会常識もない。だから、お前の社交性と社会常識を宛にしている。この俺の力と、お前の知があれば、できないことはない」

 カールは相手の目を見ながら深呼吸し、慎重に質問を考えた。

「何を企んでいる」

「お前の言う通り、ドイツは戦争に負ける。先の大戦でも負け、今の大戦にも負ける。ドイツはただでは済まないだろう。二回の世界大戦で世界の敵になったのだからな。それに、あのちょび髭は降伏する気もない。そんなドイツの運命は2つ。一つは――可能性はないが――奇跡が起こって、なんと連合軍を押し返す! もう一つは、占領されるまで抵抗を続ける。だが、抵抗すればするほど、この国の国力は失う一方だ。それに、必ずどこかの、あるいは複数の国に占領され、管理されるはずだ。俺は負け犬の小屋に住みたくはない。だから、出ていこうではないか」

「出て行くって、どこへ?」

「お前、ロシア語はできるか?」

「ある程度は」

「よかった。ではロシアへ亡命しよう」

「ソビエトに!? 無理だ、不可能だ! ソビエトが我々を――いや、吾輩を受け入れるはずがない! 第一、ソビエトへの亡命はドイツへの裏切りになる!」

「言ったはずだぞ? こだわるなっ!!」

 その怒声は、遠くの彼方まで届くのではないかと思うほどだった。

「いいか、俺にとって国やら思想やら階級やら、そんなこだわりなどどうでも良い! 生物の本質は生への執着だ。生きることさえできれば、どこの国にいようが、どんな職業に就こうが、どんな地位に立とうが、どうでも良いのだ。生き残りさえすればよい。生き残るためなら、なんだってする。生き残るためなら手段を選ばない。生き残るためなら、こだわりを持つことは許されない。こだわりを持つ者ほど、早死する。こだわりは、破滅をもたらす」

 そう言って、〝それ〟はカールを放した。肩を解放されたカールは、幾度も両肩を揉んだ。

「お前の考えは聞いたが、どうしてソビエトだ? 英米ではなく?」

 〝それ〟は微笑んだ。

「簡単な理由さ。英語ができない」

「ロシア語は?」

「ロシア人のように話せる」

「しかし、共産主義思想のソビエトは国家として存続ができようか? 共産主義は成功しないと、先輩方は常々口にするが」

「失敗するだろうな。共産主義は、一定以上の経済力がないと成功しない思想だ。ロシアにそんな経済力はない。いずれは破綻するだろうな」

「しかし、どうやってソビエトに亡命する気だ? 奴らはドイツ人を憎んでいる。お前ならまだしも、吾輩がロシアの大地に足を踏み入れれば、収容所に行くか、殺されるかだ」

「そこは任せろ。お前はただ、考える脳になればいい。お前のことは俺が守ってやる」

 カールは考え込んだ。目の前にいる存在は、あたかもカールを必要とするかのような口調で話しているが、しかし秘めたる力は大きい。本当はカールなど必要としない。〝それ〟なら、自らの力でどんなことでもできる。だが、本人が言うように、〝それ〟は社交性や常識とは無縁の存在だ。力を行使さえすれば、どんなことでもやり遂げるだろうが、力を行使しないなら、上には上がれないような存在。

 これは危険な賭けだ、とカールは内心呟いた。

「お前は吾輩を殺さないか?」

「脳を壊してどうする? 脳がなければ、どんな屈強な肉体も無用の長物に成り果てる」

「ソビエトに亡命して、その後はどうする?」

「あの手この手で社会に根付く。まずはそこからだ」

 〝それ〟は手を差し出した。

「契約するか?」

 カールは、その手を見た。

 悪魔との契約か、悪くない。

 彼はその手を握り、握手した。

「これで、俺たちは無敵となった」

 〝それ〟は満足したかのように、幾度も頷いた。

「さて、少佐。出発の準備をした前……おおっと、その前に脳として最初の仕事をしてもらおう」

「最初の仕事?」

「俺の名前を考えて欲しい。この俺にふさわしい名前を」

 彼は頭の中で、ロシアの人名をいくつも思い浮かべた。名前を与える――一見すれば簡単な仕事かもしれないが、この場合は違う。〝それ〟相応の名前を与えないと、下手をすれば切り捨てられるかもしれない。カールは脳内で議論しながら、やがて、1つの名前をたどり着く。

「ウラジミール」

「意味は?」

「平和や世界、そういったものを支配したり征服するような意味合いだったと覚えている。記憶違いでなければ」

「ウラジミール、良い名前だ。今この瞬間、俺はウラジミールになった」

 ウラジミールは両手を小さく広げ、拳を握った。

「行こう、少佐。ロシアへと」

 二人は光射す階段の上へと向かい、一段一段をしっかりと踏みながら、上がっていく。

こんにちは。本作が初投稿となるので、文章や物語に粗が目立つと思いますので、皆様のご意見やご感想などを受け付けております。

是非最後までお付き合いして頂ければ幸いです。

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