第3話 「コージ君とエージ君」
<1>
「瑛時さん、大変申し訳ありません。例によってお兄様がいつもの調子ですので、もうしばらくお待ち下さい」
「苦労が絶えんな、君達も。ああいう兄を持つと」
現在の時刻は午前7時15分。焼刃家のリビングルームでは、大学の朝一の講義に出るために煌侍を迎えに来た瑛時が待ちくたびれていた。こういう事態を想定して早めに来ておいて正解だった、と思いつつ。
「お兄様に関する事すべて、私達姉妹三人とも、苦労なんて感じた事は過去に一度もありません。これからも決してないでしょう」
瑛時の目の前のテーブルに、今まさに置かれようとしていたティーカップ内の紅茶の水面に若干の波が生じた。どうやら彼は焼刃家の次女・魅霧のご機嫌を損ねてしまったらしい。
「ああ、そうだったね。いや、失言だった」
ようやく笑みを返して去る彼女の背中を見やりつつ、瑛時は「やれやれ」と内心で溜め息をついた。焼刃家の中で最も常識人とされ、対外的な評判では「鉄壁の完璧さ」を誇る魅霧でさえ、こと兄の事となると十数年の親しい付き合いである瑛時に対してすら、この有り様なのである。
瑛時はこれまで彼女達三姉妹に、それとなく「もう少し兄と距離を置いてはどうか?」と進言してきたのだが、その度に長女の絢華には「そんな事するくらいなら死んだ方がマシ」と、次女の魅霧には「キッパリ、ハッキリ、しっかりとお断りします」と、三女の暦には「そんなの半瞬すら考えたくもない」と、それぞれ返答されてきた。で、とうとうこの鎌坂瑛時ですら根負けしてしまったと言う次第なのである。
「しかし煌侍の奴、今日はまた一段とひどいのではないか?」
「そうですね、今朝の当番は絢華姉さんなんですけど、だいぶ苦戦しているみたいなんです。それでさっき暦ちゃんが助っ人に行ってくれました。でも、それにしても遅過ぎるみたい」
右手の人差し指を口元に当て、魅霧は微妙に首をかしげた。
焼刃家の母である琳は一種の睡眠の難病を抱えており、仕事に気を入れている時以外はほとんど眠っていると言っても過言ではない。よって当然、家事全般にノータッチであり、子供達四人でまかなっているのだが、絢華はドジってばかり、暦は段々大雑把になって行く傾向があり、煌侍は母親譲りの慢性睡眠不足で午前中はほとんど使い物にならない上に極度の機械音痴。結局は魅霧が一人でやった方が能率が上がる結果となり、他の三人は隅の方で邪魔にならないように小さくなっている事もしばしば。
そんな母親の遺伝子を一人で受け継いでしまったのが煌侍で、母ほどはひどくはないものの、再三再四述べているように、昼過ぎまではグッタリしている事が多い。これまでの学生生活を彼が何とかやってこられたのも、三人の妹の尽力による所がほとんどなのかも知れない。
煌侍が大学生になって彼女達の負担も減りはしたのだが、やはり大学に午前中から行かねばならない日は大変である。撫でてかいぐって優しい言葉をかけ、目覚めのキスの雨を降らせて、それでようやく薄目を開ける。そこから半眼になる→上半身を起こす→とりあえず座らせる→何とか立たせる、といった一連の行程に先程の行動を繰り返さなければならず(どういうわけかこの男、騒音や衝撃にはまったく反応しないのだ)、さらに着替えや歯磨きや髪のセットや朝食なども一人では満足に出来ないので、家から学校が近いからいいとはいえ、三つ子の姉妹は自分達の事もそこそこに出発の時間ギリギリまで兄の世話にフル回転、母親はすでに勤務先で生活しているので考えなくて良いのだが、その分以上に手のかかる兄がいるわけで。大慌てで「行ってきます」のキスをして、次々に玄関から飛び出して行く三人を、「悪いなあ。こんな事じゃいかんよなあ」と自己嫌悪に陥りつつも、どうにもなりそうもない体質の兄・煌侍。
焼刃家の家事は基本的には交代制である。が、現状としては前述の理由により、魅霧大明神の恩恵に他の三人が負んぶに抱っこである。手が空いている時は各自がヘルプに回る。煌侍もモチロン積極的に参加する。が、彼を起こすというのが、実は一日の内で一番の大仕事だったりする。
<2>
――突然、階段を慌しく駆け降りて来る音がリビングまで届いた。その音ともに、三女の暦がリビング目掛けて飛び込んで来た。髪はやや乱れ、息遣いが荒い。瑛時へのあいさつも形だけ、といった形になる。
「だーっ、魅霧姉さぁん、ヘルプに来てぇ。今朝のにいさんってば手強いわぁ」
「やっぱり、そうなの……」
「私の事は放って置いて良いから、早くあの大きい子供を引っ張って来てくれ」
瑛時に気を遣って即決できずにいる魅霧に、瑛時がそう声をかけた。彼女は小さく笑うと一礼し、「さ、暦ちゃん、行きましょう」と妹を連れて二階へと急行して行った。
一階には瑛時一人がポツンと取り残された。二階では何やら転げ回るような激しい物音がする。対称的に一階は水を打ったかのような静けさが支配していた。
「また煌侍の寝起きの抱きつき癖か……」
ポツリとつぶやき、温かい紅茶をすする瑛時。うるさいのを嫌う彼なのだが、なぜかこの家をよく訪れる。もしかして自分はこういう家庭に憧れを抱いているのだろうか、と考えてみる事もある。確か璃矩や姉である維那にもそう指摘された事があった。
それから約二分後、三人の妹達に両脇をガッチリと抱えられ、捕獲された宇宙人のように煌侍が連行されて来た。着替えと洗顔は済ませて来たらしいが、寝癖が漫画「ドラゴンボール」の超サイヤ人のようになってしまっている。壊れ物のように食卓の椅子に座らされた彼は瑛時を見付けると、「グーテン・モルゲン……」とボケたままの口調で朝のあいさつらしき言葉を発した。
「まったく、何が『グーテン・モルゲン』だ。少しは成長を見せたらどうだ」
全くの無駄と知りつつ毒づく瑛時だが、攻撃目標の煌侍というと、何ともフラフラと朝食を口へと運んでおり、どこかにこぼれたり付着する度に、三人の妹が入れ替わり立ち代わりで素早く兄の口の周囲などを拭いてやっている。それを見てガックリと頭を垂れる瑛時。ああ、情けない。
「煌侍!私は先に外へ出ているからな。お前もできる限り早く出て来い。いいな?!」
煌侍の返事も待たず、玄関へと急ぐ瑛時。彼はその経験により、これから焼刃家の毎朝恒例の儀式である、三姉妹と兄との“「行ってきます」のキス交換会”が開催されるのを知っているので、その場に居合わせる事を避け、さっさと退散したという次第なのである。
モタモタと自力で腕時計を巻き付けた煌侍。そしてまず、「はい兄さん、ハンカチとお財布と携帯♪」の絢華とキス。次に「ホラにいさんカバンね。落とさないでよね」の暦とキス。締めくくりに「お兄様、お弁当です。お気を付けて下さいね」の魅霧とキス。
「我が命、我がすべて、最愛なるオレの妹達にして恋人達よ、たとえしばらく離れたとしても、オレの愛は常におまえ達を包み込んでいる。では、名残は尽きないが行ってくる。帰って来たら熱烈な“『ただいま』のキス”をしような」
こういう時だけは朝でもシャキッとする煌侍。三人娘の「いってらっしゃ~いっ」の声を背に受け、ようやく彼は発進する。毎朝毎朝飽きもせずにこんな事をやっているのが焼刃家の兄妹。これが当人達にとってはたまららなく幸福、かつ貴重な時間だと言うのだから、外野の人間としては「付き合ってられん」と言うしかないのである。
自宅の鉄門を抜けた煌侍は、すっかり痺れを切らしていた瑛時に襟首をむんずと掴まれ、そのままズルズルと引きずられて行く。
「えーい、もう間に合わん。走るぞ煌侍!」
「……おぉ~う」
言うが早いか、いきなりトップスピードで駆け出す二人。……これは内緒の話だが、彼ら二人は常人には想像もつかない独自の鍛錬の結果、オリンピック選手を軽く超える速度で走る事が可能でなのである。その噂を聞きつけた全国の陸上競技連盟のお偉いさん等々が、これまでに大挙して幾度となく彼らを勧誘にやって来た。が、その度に煌侍は「妹達との時間が減るから絶対ヤダ」と、瑛時は「剣術の鍛錬の時間が減るので断る」と突っぱねて来た。
彼ら二人のそんな才能を惜しむ声は未だに多いが、諦めきれなかったのはそういった連中だけではない。煌侍と瑛時は皆さんの予想通り、他のありとあらゆるスポーツにずば抜けて長けており、小・中・高と各体育系クラブの試合で無所属の二人は(様々な便宜と引き換えに)助っ人として活躍して来たので、何と大学へのスポーツ推薦入学の話だけで、二人合わせて34校もの勧誘があった。知る人ぞ知る伝説のコンビはそれらの話を全て蹴り、煌侍は「少しでも早く帰宅できるように」と自宅から一番近い大学を選び、瑛時は姉の勧めもあって璃矩と同じ大学に決めた。だが現実には、今でもそれぞれの大学の各クラブやサークルからの「入部してくれ」コールに悩まされていたりする。
「よし煌侍、良いペースだ。やればできるではないか」
風を切って並走し、駅までの道のりを急ぎつつ、隣の煌侍に声を掛ける瑛時。
「ぐぅ」
「――はあ?!」
<3>
「『ぐぅ』ってなあ、おまえ……。『ぐぅ』って、ええ?!」
我が目を疑う瑛時。何と非常識にも、煌侍は眠ったまま、彼と同じスピードで街中を縦横無尽に駆け抜けていたらしい。
「おい、起きろ煌侍!目を開けんか、コラッ!」
「……ほわ?」
「……『ぐぅ』の次は『ほわ?』か。つくづく恐ろしい奴だな、おまえという奴は。二十年経っても全く把握出来ん」
電車の中でも煌侍は、立ったまま瑛時にもたれかかってスヤスヤと眠る。しかもアイマスクを装着して。その理由とは、「オレの寝顔は妹達のみが鑑賞する権利を有する」からだと言う。最初の内は瑛時もこれにいちいち腹を立てて、その度に煌侍の頭を払い除けていたのだが、今ではすっかりあきらめてそのままにしている。好奇の視線は無論好ましくないのだが、そういう連中には一睨みをくれてやる。だが、なぜそれで女性からはキャーキャー言われるのかが皆目見当がつかない。煌侍よりもさらに瑛時には、自分の容姿に対する執着心が薄いので、絶好のそっち系のネタにされているなど、全く頭にないのであった。
電車の乗り換えの時や階段の上がり降りの時にも、煌侍は全く目を開けようともしない。右手でしっかと瑛時の上着の左肘の位置を握っているのであるが、これまでにただの一度も蹴つまづいた事すらないのはひたすら不思議である。瑛時としては、服が伸びたり引っ張られて首が詰まったりしなければ、とりあえずそれで許容しておく。まあ、これも諦めの結果であるが。
下車する駅に着いたら、今度は瑛時の大学への一本道を猛ダッシュしなければならない。煌侍は、行く道の空気を全て吸い込み尽くさんばかりに大口を開けて欠伸をしながら走っている。もう瑛時は、隣の奴の方はもう見ずに走る事にした。こちらが驚いて転倒してしまう危険性があるからだ。
大学に着き、二人が第一時限目の講義が行なわれる教室へと入った頃には、すでに授業開始4分前であった。彼ら二人が到着すると、教室中の女子生徒達から「キャーッ」と言う黄色い歓声と溜め息が、男子生徒諸君からは「チッ」と言う舌打ちの音が起こるのが常である。二人が受講する講義はなぜかどこかしらか漏れており、それに合わせて登録を行なう女生徒が多数確認されている。
人気講義のためか座席はほぼ埋まってしまっているのだが、いつも最後部の出入り口横から三席は必ず空けられている。学生心理の常識から言えば、そこは真っ先に確保されてしまう場所であるのだが、そこは熱心な煌侍&瑛時ファンの女生徒達が一番隅で爆睡する煌侍と、その“おもり”の瑛時のために獰猛な番犬のように確保しておいてくれるのだ。よってさらに煌侍&瑛時は男連中からは嫌われる事になるのだが、二人とも別に好かれようとも思っていないので、「番娘」達に礼を言ってさっさと着席して自分達の世界へと入る事にする。
煌侍は早速自分のための「年間予約席」にかじりついて、カバンからいそいそと「ただ今、睡眠学習中☆」と書かれたさっきとは別のアイマスクを取り出してそれを装着すると、スポーツタオルを枕にして机に突っ伏して眠りの世界の住人となる。ちなみにそのアイマスクの文字は、長女・絢華嬢の筆による物である。
瑛時と煌侍は一つ間を空けた席に座る。彼らの間の椅子には荷物が置かれ、璃矩が来た時のためにと守られている。瑛時は、璃矩がいない時には煌侍以外の人間と話す事はまずない。彼がそれを望まないからだが、女の子連中の方が璃矩がいないのをこれ幸い、と彼を放っておかない。だからそんな時には、「静かにしていないと煌侍の奴が不機嫌になる。私は寝起きのこいつとやり合うのは御免こうむりたいのでな。私がここで番をしていないと何をするかわからんしな」、と煌侍をダシにして逃げるのだ。「普段私に迷惑ばかりかけているからな。こういう時ぐらいは役に立ってもらわねば割りに合わん」と瑛時は言い、その煌侍はそういった場面中には、机の下で瑛時の膝を人差し指の先でツンツンと突付いていたりする。
一時限目の講義が終わり、休み時間に入った。すると、今まで一度も顔を上げなかった煌侍がピクリと動いた後、すぐ横の出入り口の方をアイマスクをゆっくりと外してボーッと眺めやる。瑛時もそれに気付いて同じ方を見やる。次の瞬間、秋橋璃矩が「ハァイ」と右手を軽く上げ、右まぶたを閉じてウィンクしつつ姿を見せた。何事かと思って見守っていた女子連中は途端に不機嫌になり、男どもは「おおう!」と低い歓声とどよめきを上げる。さっきとは反応が正反対になっているのが単純な構図で笑える。
<4>
「あら煌侍、ちゃんと間に合ったみたいね。それに起きてるし、感心感心」
「璃矩、感心する相手が違う。されるべきは煌侍ではなく、その妹とこの私だ」
確保されていた定位置に腰掛ける璃矩に、瑛時がすかさず抗議する。
「わかってるってば。すねない、すねないのよダーリン」
「…私は別にすねているわけではない。加えて釘を刺しておくが、そのような浮ついた呼び方はよせ。背筋が痒くなる」
「なぁによ~っ、せっかく言ってあげたのにさぁ。煌侍なら喜んでくれるよねー?」
「うむ。璃矩ならば特別に許可しよう。さあ、苦しゅうない。存分に『ダーリン』と呼ぶがいい」
「やかましい!おまえは寝てろ!」
璃矩が二人の間に加わった事により、煌侍と瑛時の関係は、今までとは全く異質の、活き活きとした年齢相応の明るさを見せる。璃矩を間に挟んだ三人の世界は、完全に他の者の接近を許さない雰囲気を作り出していて、周囲の生徒達は男女ともに羨望とひがみ根性がない交ぜになった表情で彼らを遠巻きに見やっている。
幼馴染であり、その上三人は特殊で強固で太く長い信頼の絆で結ばれている。恐らくこの三人でなければ理解はできまい。彼らを指して「リアル版『タッチ』だ」などと評する声も多々あったのだが、三人そろって「縁起でもないからやめろ!」と激しく嫌がったので、それらは徐々ににしぼんでいった。
璃矩がなぜ煌侍ではなく瑛時のパートナーとなったかについては、いずれ別の機会に語る事としたい。
この日の講義は、朝から一、二時限ともに煌侍は瑛時と璃矩の通う大学での受講であり、しかも同じ教室で続いて受けられるので、それなりに彼はご機嫌らしい。二時限目の開始のベルが鳴り出したのと同時に、額の位置に上げていた愛用のアイマスクを下ろして就寝準備の煌侍。先程の一時間半の間ずっと同じ体勢で眠って疲れているので、今度は首の向きを反対側に変える。つまり、璃矩には嫌でも煌侍の寝顔が目に入り続けるわけで、睡魔の誘惑と戦うのがなかなかに大変なのである。
「ったく煌侍ったら、子供の頃から全然変わんない寝顔してるわね。あー、忌々しいくらいに気持ち良さそう。わたしも寝ちゃいたーい」
「そうしたいのならばしても構わんが、後々苦労しても知らんぞ」
「あら、手助けしてくれないの?」
「一応釘を刺しておいただけだ」
「……すぴぃ」
煌侍の寝息に、思わず吹き出しそうになる二人。
「『すぴぃ』だってさ」
「今朝は『ぐぅ』と『ほわ?』と言うのがあったぞ」
「何それ?こいつ、笑わせてくれるわね。ホラホラ、煌侍君~」
自分の後ろ髪の毛の先をつまみ、それで煌侍の鼻の下をくすぐる璃矩。気持ち良いんだか気持ち悪いんだか、の複雑な苦悶の表情を見せる眠り男。
「悪乗りもそのくらいにしておけよ、璃矩」
「そうね。すっかりにらまれちゃってるし。今日はこれくらいで勘弁しておいてあげますか」
璃矩をにらんでいるのは教師ではなく、周囲の女子連中である。実は彼女は、すこぶる同性の友人が少ない。飾らない言動や圧倒的なルックスに加え、「超絶いい男に挟まれている」ので、攻撃の的には最適なのであろう。まあ、璃矩自身もそんな感情がわからないわけでもないし、別に弁解してまで好かれたいとも思っていない。焼刃家の三姉妹や維那、最近仲間に加わった阿亜樹達がいればそれで充分である。
余談ではあるが、煌侍の寝顔は非常に人気が高い。大学に入ってからはアイ(愛)マスクを着用しているのでその魅力は半減しているのだが、中・高生時代はさすがにそうする訳にもいかず素顔だったので、彼自身の知らない所でいつの間にか「焼刃君の天使の寝顔生写真」なる代物が、学内の女子生徒の間で高値で流通していた事があったり、授業中に彼の寝顔を観ようとする女子が後を絶たず、遂には煌侍は教師に呼び出されて「二度と授業中に寝るな!」と厳重注意されたりしたのだが、当の本人は大あくびをしつつ「いや、寝るのが惜しいくらいの授業内容だったら寝たりしないんで」と素で返したものだった。
さらには母親である琳が呼び出され、親子そろって生徒指導室行きになった。しかし、彼女は息子よりもはるかに強力な居眠り症候群にかかっている、もっともっと難敵であった。今にもくっ付きそうなまぶたを必死に擦りつつ、「いいじゃあありませんの。この子のせいで先生のお給料が減ったりする事はないんでしょう?ねえ~っ、煌ちゃん。じゃっ、お話がそれだけなら帰りましょ。ああぁぁ、あたしも眠い」と言い放ち、担任教師の口を約4分間に渡って開けっ放しにさせた、という伝説がある。
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時は過ぎて正午。午前中の講義もようやく終了、次々と教室から外へと生徒達が飛び出して行く。学生食堂へと走る者、近くのコンビニへと急ぐ者と皆それぞれなのだが、煌侍、瑛時、璃矩の三人には動く気配がない。それもそのはず、彼らは今時の大学生には珍しく弁当持参なのである。煌侍は自分のバッグから一つ、璃矩は二つを取り出し、彼女はその内の一方を瑛時へと手渡す。
「おうおう瑛時君、今日も今日とて愛妻弁当ですな。三国一の果報者として一言コメントをいただけますかな?」
「黙れ煌侍。璃矩、今の内からこんなに手間をかける必要はないといつも言ってあるだろう?」
意地悪く冷やかす煌侍に、すぐさま応戦する瑛時。
「そうはいかないわよ。これも花嫁修業の一つと思って、楽しんでやらせていただいてますのよ」
「ちぇー。何だい何だい、二人してノロケやがって。なあ~にが『今の内から』だ。どっちが期待してんのかっつー話だよな」
「今日はヤケに絡むな、おまえ。そっちこそどうなんだ。本日の愛情弁当は?」
仲間外れにされて拗ねる煌侍、ややバツが悪くなりながらも切り返す瑛時。一人終始ご機嫌な璃矩。
「ふふん。やや強引に話題をすりかえられたような気がしないではないが、まあ良かろう。ではでは、そのご期待に応えて早速お披露目と行きましょうかね、焼刃家三姉妹次女・『現代に舞い降りた神話の女神』こと魅霧ちゃん特製の本日のビックリドキドキ・スペッシャルランチ!」
「おおお!!」
のぞき込んでいた璃矩と瑛時、そして弁当箱の蓋を空けた張本人の煌侍の口からも驚嘆の声が押し出される。「魅霧to煌侍」のサインが入った弁当箱、その蓋を持ち上げた瞬間から、中より眩いばかりの黄金色の光があふれれ出したかのような、そんなグルメ漫画な輝きが放たれている色彩の数々。すでに兄・煌侍は、感激のあまり声を失ってプルプルと小刻みに震えている。
「まさかこれほどまでとは……。もはや形容する言葉が見付からん」
「人間業じゃないわね……」
本日の昼食は妙な静けさに満ちたイベントとなっていた。煌侍は感涙にむせびつつ全神経を総動員して魅霧作による愛情弁当を味わっているし、瑛時は魅霧の兄に対する想いの凄まじさに圧倒されてしまっていたし、璃矩は同性としてどこかうそ寒さを感じつつも「今度魅霧ちゃんにお料理教わろ」なんて目論んでいたからだ。
「ねぇ、瑛時」
璃矩が煌侍の目を盗んで瑛時に小声で囁く。
「ん?」
「絢華ちゃん達ってさ、何か最近ますます煌侍にゾッコン(死語)になっちゃってない?」
「うむ。今朝私もそれを肌で感じた。煌侍以外の存在は全く目に入っていないようだ」
「もう兄妹っていう関係なんてお飾りって感じよね。煌侍を見る目が陶酔しきっちゃってるもの」
「世間一般で言うならば『けしからん』どころの話ではないのかも知れんが、彼女達にとっては煌侍が本当にすべてなのだからな。私やおまえなどがとやかく言う事は、もはやあの子達から笑顔を奪い取る結果にしかなりはしないだろう」
「わたしもそう思う。絢華ちゃんも魅霧ちゃんも暦ちゃんもさ、煌侍といる時のあの幸せそうな顔ったらないもの。『ああ、他人のわたしなんかがこの幸せを壊す権利なんかないんだ』って見る度に思い知らされる」
「“こいつ”もその妹達に負けず劣らずだがな」
「……よねぇ」
その“こいつ”こと焼刃煌侍氏は、愛する妹が自分のために作ってくれた弁当を一かけらたりとも残すまいと、必死になって持ち上げた弁当箱の隅を舐め取っている。それを同時に見た瑛時と璃矩は、「やれやれ、こりゃダメだ」と言う表情の苦笑を見合わせた。
やがて美味と愛情とを満喫し尽くした煌侍は、弁当箱を大き目の布に包んでバッグへと仕舞い込むと、水筒のスペシャルドリンクも一滴残らず飲み干し、ピンク色のハンカチで口元を丁寧に拭い去り、両手を合わせて目を閉じる。
「嗚呼、我が愛しの魅霧よ。おまえの愛をオレは胸一杯に味わせてもらったよ。我らが愛の巣へと帰ったならば、オレのありったけの愛及びその他諸々をおまえに注ぐ事をここに誓おう」
「ちょっとぉ、煌侍ぃ、あんたねぇ、時と場所を考えなさいよね」
恥ずかし過ぎる行動を取る煌侍に、猛然と抗議する璃矩。瑛時は今さら全く意味のない他人のフリを決め込んでいる。
「何を言うか。何だったら大統領演説用のスピーチ席をぶん取って、全世界に向けてオレの愛のメッセージを発信してやっても良いんだぜ。インディペンデンスデーイッ!!」
「あーもうっ、わかりましたっ。わたしが悪かったですって!」
「フフン、璃矩君、今後二度とオレの愛の電車道を妨げようなどと言う気をくれぐれも起こさないように。さてさて、そんじゃそろそろウチの大学に行かねえとマジィんで、邪魔者はこれにて退散する事にいたしますかね。じゃっ、後は夫婦水入らずで存分に楽しんじゃって下さいな」
「煌侍!!」X2
「ほっほっほ、息もピッタリ、結構な事じゃて。では、さらばいっ」
言うが早いか、脱兎のごとく教室を走り去る煌侍。冗談ではなく、午後一の講義にギリギリの時間だったらしい。
「たくぅ~っ、煌侍の奴ったら!」
「タダでは何事においても終わらん奴だ」
呆れる瑛時のその隣で、不意に溜め息を吐く璃矩。
「どうした、疲れたか?」
「ううん、じゃないよ。やっぱり辛くって。煌侍の想いも絢華ちゃん達の想いも、それが純粋で苛烈なのを知ってるだけにね。ホント、言っても仕方ないんだけどさ、残酷だよね。『運命』とかって陳腐な言葉で枠にはめちゃうのも嫌だし。もっと何か他の形とかってなかったのかな、とかね」
「私もそう考えるのが一再ではないが、煌侍と彼女達のことだ、最初から心配など必要ないのかも知れん。あの兄妹の絆は、私達の想像もつかんほどに強固なのだからな」
「そ、ね」
と、瑛時の右肩に自分の左側頭部を預ける璃矩。
「わたしは、あなたを選んだ」
<6>
時刻は午後の12時45分。食後の運動がてらに、瑛時達の大学から自分の大学への道のりを全力疾走でぶっ飛ばして駆けていたのだが、校門近くで見知った後ろ姿に出会った。煌侍は普通に声を掛けようとしたのだが、すでに勢いが付き過ぎており、止まろうと精一杯努力はしてみたものの、前を行く漆黒のレザージャケットの背中にフライングヘッドアタックを喰らわせてしまった。
身体を「く」の字にして吹っ飛ぶ被害者、頭を擦りつつ立ち上がる加害者。お互い同時に声を発しようとして目が合った。
「誰ですか、いきなり……って煌侍、君でしたか。気を付けてくださいよ、まったく。僕じゃなかったらタダじゃ済みませんでしたよ」
「いやっ、スマン紳佐。こんな早い真昼間の太陽が出てる時間におまえを見付けたんでつい嬉しくてな。ントにどうしたんだ?珍しいじゃねぇの」
「ええ。さすがに出席日数の方が危なくなってきましてね。何しろ君と同じく教授の信望の薄い事、この上ありませんし」
「なるほどなあ……って、おい、やべえぞ、その大事な出席日数がよ」
大学のキャンパスがもうほど近いので、午後一の講義開始のチャイムがここまで聞こえる。途端に立ち上がって慌てだす二人。
「ダッシュだ紳佐!」
「わかりました!って一体誰のせいだと思ってるんです?君のフライングヘッドアタックがなければ、僕は今頃楽々セーフだったんですよ!」
「悪ぃ。借りはツケといてくれ」
「聴きましたよ、その台詞、しっかりと」
不敵な笑みを浮かべる紳佐。
「何だよおまえ、気持ち悪ぃぞ。何か良からぬコト企んでんじゃねえだろうな?」
「さあ、どうでしょう?近い内に全てが明らかになりますよ、お楽しみに」
「??まさかおまえ、そのためにさっきワザと避けなかったんじゃ……」
「いえいえ、何を言い掛かりを」
「あーっ、やられた、チキショウ!いくら寝惚けてたっつっても、おまえがあんぐらい避けらんないの、おかしいと思ったんだよなあ」
ブツブツと不平不満を垂れる煌侍と、「してやったり」の笑顔の紳佐が校門を通り抜けて校内を教室へと急ぎ足で歩くのを、女生徒達の「キャーーッ!!」と言う歓迎の黄色い叫びが包み込む。「二人ともそろってるなんて今日は超ラッキー!」とか「うわぁーっ、背ぇ高ーい!足長ーい!」などの声が乱れ飛び、違う教室の扉や窓から身を乗り出して彼らの姿を一目見ようと躍起になっている。
「まるでパンダかコアラ扱いだな、紳佐?」
「はあ、何なんでしょうね。一体僕のどの辺が珍しいんでしょう?」
「……紳佐、本気で言ってる?」
「……ノーコメントという事にしておいていただきましょうか」
「この野郎、それで逃げたつもりか」
煌侍の示唆する通り、彼、曽根崎紳佐は特異な人物である。身長は189センチになんなんとし、それにふさわしく足の長さも尋常ではない。細身の全身をビッチリとしたレザーファッションで包み、銀の装飾品の輝きが身体のあちこちでまばゆい光を放っている。そして、何より彼の特徴で人目を惹き付けるのは、腰の辺りまで伸びた長髪なのだが、その色は白銀に染め上げられており、光を反射してそれは磨き上げられた鏡面のようだ。頭頂部から足の爪先までの全てが日本人離れしており、一見どころか二見しても使用言語を耳にしなければどこの国の人間なのかすらも判別出来ないだろう。
煌侍と紳佐の付き合いは高校の頃からである。紳佐は転校生であった。その頃から只者ではなかった紳佐。転校生紹介のイベントも、その見た目に惹かれた女子以外は引きまくっていた。相変わらずそれまでは昼寝を決め込んでいた煌侍だったが、紳佐の姿を見た途端にハッとして立ち上がり、紳佐に指をビシッと突きつけて「そもさん!」と怒鳴った。思わず「せっぱ!」と返す紳佐。ズカズカと歩み寄る煌侍。何かを彼から感じ取って待ち構える紳佐。
「ジューダス・プリースト!」と煌侍。
「エキサイター!」と紳佐。
「アクセプト!」と紳佐。
「ファースト・アズ・ア・シャーク!」と煌侍。
「レインボー!」と煌侍。
「スター・ゲイザー!」と紳佐。
「シン・リジィ!」と紳佐。
「サンダー・アンド・ライトニング!」と煌侍。
何やら知らない人が聞いたら、何かの呪文かと思うような問答を繰り返す二人。そして、そこから何かで意気投合したらしく、ガッチリと握手を交わす。何かが今、二人の共通の音楽の趣味を通してこの場で生まれたらしい。それで二人は後に同じ高校に通う事にする。そこで紳佐は瑛時や璃矩とも知己になり、煌侍を通して付き合いが始まりグループの一員となる。
実は、紳佐はさる大病院の長男なのだが、彼は幼少の頃より父親との折り合いが悪く、高校入学と同時に実家を飛び出した。と同時に紳佐は相続権を放棄したという事となり、現在は彼の弟が跡取りとなるべく一流医大を目指して勉強中である。が、紳佐自身はその事を心底喜んでおり、好きなバンド活動により一層打ち込めるようになった。「大学だけはちゃんと卒業してちょうだい」と言う母親たっての願いで、煌侍に誘われて同じ大学へと入学し、現在にいたる。が、元来根っからの夜更かし好きと、現在ほとんど本業となったバンド活動が忙しくなってきた事もあり、大学の方はすっかり休みがちなのだ。
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曽根崎紳佐率いるバンド“ジャッジメントデイ“は五人編成で、紳佐以外の四人は全員女性である。巷で流行の他のバンドとは一戦を画し、言うなればメロディラインを重視した北欧風メタルサウンドに近いのかもしれない。彼らはその風貌からいわゆるヴィジュアル系と同一視されがちなのだが、本人並びにメンバー達もそれを好ましく思っていない。最近ではインディーズシーンにおいてはちょっとは知られた存在となり、自主制作のCDもチャートの上位ランキングの常連となっている。「そろそろメジャーデビューを」と声をかけられる事もしばしばだが、紳佐としてはもうしばらくは今の位置でやっていきたいと考えているのだった。
普段は駅周辺の繁華街にあるライヴハウスをホームグラウンドとして活動を続けているジャッジメントデイなのだが、その実しょっちゅうメンバーそろって焼刃家を訪れている。何と焼刃家の地下一階にはホームバーカウンターとちょっとしたステージが設けられており、下手なライヴハウスやレコーディングスタジオよりも設備が優れているため、彼らの絶好の練習場所になっているのだ。
三姉妹とメンバー達との仲も非常に良く、暇を見付けては楽しげにセッションなどを行なっている彼女達の姿が観られる。そう言った事の延長で、ジャッジメントデイのライヴにサポートメンバーとして煌侍と焼刃家三人娘も飛び入り参加する事もあり、そんな日は観客動員数は爆発的に膨れ上がり、兄としては複雑な心境になってしまう。いつぞやなどは、コーラス隊としてステージに上がっていた絢華、魅霧、暦の三人に、その日噂を聞きつけて観に来ていた大手プロダクションのスカウトマンが、「三人そろってアイドルグループとしてデビューしないか?」といまだにしつこく勧誘してきて兄妹を困らせている。
「あ、そうそう。ハイこれ、煌侍と絢華ちゃん達に」
「おっ、遂に出来たかー。しかもメンバー全員の直筆メッセージとサイン入り。嬉しいねえ」
教室にたどり着いた二人は、女生徒達によって確保されていた席に腰を下ろす。定位置はここでも瑛時と璃矩の大学の時と同じ。ちなみに煌侍と紳佐は、この大学での女性人気のトップを争っているとされている。
「おい紳佐、オレの名前がゲストミュージシャンのトコに載ってるぞ。ミスプリじゃねぇのか?」
紳佐から手渡されたジャッジメントデイのニューアルバムのブックレットの最後のページに記載されているスタッフ欄のゲストミュージシャンの一人として、“KOJI YAIBA”の名がクレジットされているのだ。ちなみに妹達三人の名はスペシャルサンクスとして扱われている。
「ああ、それですか。その事でしたらミスでも何でもありませんよ。僕達五人の気持ちとして受け取って下さい」
「ちぇっ、他人行儀な真似しやがって。ちゃんとしたミュージシャンでもねぇのにこんなご大層な扱い受けちゃあ、本物さん達に悪くねぇかな?」
「ご心配なく。みんなからはちゃんと了承を取ってありますから」
「そっか、なら安心だな。……とは言ったものの、ここまでしてもらっといて何もしないわけにゃあいかぇなあ。オレで良けりゃあいつでも力になるからよ、そん時ゃあ声かけてくれよな」
キラーン!と、そこですかさず、紳佐の切れ長の瞳が鋭い光を放つ。
「では早速」
「冗句だろ、おい?!これも計算づくかよ?」
「いえいえ、今回のは思わぬ収穫と言う奴です。先程の借りの件も含めてぜひお話を」
「あっちゃあーっ、余計な事言わなきゃ良かったー。あー、マズった!」
右の手の平で両目を押さえ、思わず後ろへ大きくのけぞる煌侍。
「で、その『お話』っつーのは?ライブの助っ人か?」
そのままの体勢で訊ねる煌侍に、意味深な笑みで応じる紳佐。
「んだよ、気味悪ぃなあ。ああ、そうだよな、おまえがそんくらいの恩返しで満足するはずねぇもんなあ。するってぇとお……あーっ!」
椅子から立ち上がって絶叫する煌侍。静まり返る教室内。中年男性教授と男子生徒連中からの冷ややかな数十本のじっとりとした視線。恐縮して着席した彼は、今度は声をひそめて紳佐に詰め寄る。
「てめぇ、この野郎。そういや二週間くらい前に言ってたよな。『今度ラジオ出演が決まったんですよ』って。おい、まっさっか!アレじゃねぇだろうな、ええ、コラ?」
「それです」
にまーっと満面の笑顔を浮かべる紳佐。怒り心頭の余り身を震わせる煌侍。
「お・ま・え・な!確か生番組のスタジオライブだっつってたじゃねーか。できるわけねぇだろうが、正式メンバーでもないオレがよ」
「ですがね、そうも言ってられないんですよ。実は今朝ですね、光晴が左手の人差し指と中指を怪我してしまいまして、間に合いそうもないんですよ。彼女と同じレベルのギタープレイができる人が僕の知る限り君しかいないんですよ」
「つってもよう、オマエな、明後日だぞ明後日。いくら何でもさあ……」
「何を弱気な事を仰ってますか。よっ、和製スティーヴ・ヴァイ!リッチー・ブラックモアJr.!マイケル・シェンカーの再来!明日のイングヴェイ・マルムスティーンは君しかいない!」
「……言ってくれるぜ、ったく。その代わり練習付き合えよな」
「もちろん心得てますとも。今日の講義は僕達これで終わりですから、このまま直で君の家に行って早速練習を開始しましょう。他のメンバーにはすでに連絡済みですし、後は君待ちの状態です」
「紳佐ってばキライ。何があっても二度とおまえには感謝してやんない」
「冷たい人ですね、友達甲斐のない」
「おまえ、悪魔だ。見た目も中身も」
<8>
約一時間後、煌侍は紳佐とともに自宅へと到着。約束していた妹達との“お帰りのキス”もそこそこに、大慌てでギターの練習を開始。ジャッジメントデイの五人に絢華、魅霧、暦の三人も加わわっての煌侍の特訓は明け方にまで及び、次の日も丸一日を費やされる羽目になりそうであった。すっかりご機嫌斜めの煌侍は、この場にいない者へその矛先を向ける。
「そうだ、瑛時の奴が悪い!朝一番からあいつの仏頂面なんぞを見たから、今日はロクな事がなかったんだ。紳佐、今度から厄介事は全部瑛時に押し付けてやれ。どうせオレがこんなに苦労してる今だって、あいつは璃矩と“おしどり夫婦”やってやがるに決まってんだ!」
「どしたの瑛時、風邪?」
「いや、だが、形容し難い悪寒が走った」
煌侍が抗議の声を上げたのと同時刻、鎌坂家の居間では、得体の知れない寒気に襲われた瑛時がいた。それを見たそばにいた璃矩が、ちゃぶ台の上のきゅうすにお茶を注ぐ。
「はい、瑛時、お茶」
「すまんな、璃矩」
大の日本茶党である瑛時は、璃矩が入れたお茶を目を閉じたままゆっくりと飲み下すと満足げにうなずいた。
「最初の頃に比べると格段に上手くなったな」
「でしょ?何たって趣味は花嫁修業ですから」
テーブルに両肘で頬杖をつき、真っ直ぐに自分の瞳を見つめて来る璃矩の視線をまともにしばらく受け止め続けていた瑛時は、やや照れたようにもう一度お茶をすすった。そのままのポーズで幸福感に満ちた笑みを浮かべる璃矩。
「その悪寒の原因って、やっぱり煌侍?」
「以外にいまい」
「そうよねぇ。ちょおっと今日は見せ付け過ぎちゃったかしらね」
「いや、今さらそれをどうこう言う煌侍ではない」
「そかそか、ならいい」
「大方何かの八つ当たりの道具に使われているんだろう」
頬杖を解き、床の畳に後ろ手に両手を突き、自らの体重を支える璃矩。
「だったら迷惑な話ね」
「そう言うな。私は何ともない。それに、奴にはそうする権利があると思っている」
「へっ、何で?」
そこで三度お茶をすする瑛時。それは、何かを告げるために思い切りをつけるための行為であるかのようであった。
「私にはおまえがいるが、煌侍にはおまえがいない」
「瑛時ぃ」
璃矩が瞳を潤ませて何かを言おうとした時、瑛時は立て続けに3度のくしゃみをした。璃矩が慌ててティッシュの箱を差し出す。
「……でもやっぱり迷惑かも?」
「そうだな。今この瞬間から、あいつを甘やかす事は止める事にする」
瑛時が豪快に鼻をかむ音に、煌侍の叫びが重なる。
「あれもこれもそれも、みーんな、瑛時が悪い!!」
<了>