第2話 「カタブツにまつわるエトセトラ」
<1>
焼刃家においていつものようににぎやかな時が流れているのと同時刻(のみならず)、そこの頭首である煌侍の幼馴染である鎌坂瑛時の自宅では、全くそれとは正反対の落ち着きと静寂が支配しているのが常であった。この日もご多分に漏れずそうなるであろう事は、彼の関係者なら誰一人として疑わない必然だったのだ。
鎌坂家は、いわゆる一般家庭とは少々その構造が異なっており、街から少し外れた高台に位置している。家の裏側はすぐ森や山となっていて、そこに小さいが立派な社が建立されている。
そこの神主は瑛時の祖父であり、たった一人の姉はそこの巫女であり、瑛時自身は社の対極に建てられている道場にて、学業のかたわら、鎌坂家にのみ一子相伝で伝わる剣術を極めんと精進する毎日である。鎌坂家は世俗とはかけ離れた生活を送っているので、なぜ自分が煌侍と長く付き合えているのだろう、と瑛時は常々疑問に思わずにはいられない。
不意に瑛時は冷たいフローリングの道場の床で正座しながら、自嘲の笑みを漏らした。彼はその年齢及び今時の大学生には至極珍しく、自他ともに認める「堅物」なのであった。これが最も自分に合った生き方なのだと定めてはいても、時々自分がふと煌侍のスタンスや明るさを実践してみるとどうなるのだろうか、なんて考えてみたりする。
「さわやか煌侍に凛々しい瑛時」、などとしばしば評されたりもする。身長だけをとってみてれば、煌侍は182センチで瑛時は183センチ、瑛時の方が見た目の印象的にはシャープで、顔付きも柔和な煌侍に対し、瑛時はやや精悍で彫りが深い。
「あいつはスマートさを外見で使い果たしちまったのさ」と言って、煌侍はよく瑛時をからかう。幼稚園、小学校、中学校、高校と同じだった二人、大学はそれぞれの目的によって別々に進んだのだが、お互いの大学も近く、単位互換制度なんかでしょっちゅう顔を合わせている。
雑念を頭から振り払い、愛用の木刀を右手に瑛時が立ち上がった時、道場の入り口にふと人の気配を感じて振り返ると、そこには剣道着をガッチリとフル装備した小柄な人影が、己の竹刀を手にゆっくりと姿を現した。
鎌坂家の剣術では過去一切の門下生を置く事もなく、他流試合なども一切行なっていない。それでもどこからか情報が流れるのか、時々道場破りというか何と言うか、少々時代錯誤な連中が押し入ってくる事がある。そんな時はここの継承者たる瑛時が丁重に叩きのめし、二度と気の迷いを起こさないようにしてさしあげる。
「やれやれ。プライベートな時間は他人の物と言えど、尊重すべきだと私は考えるがな。最近とみに不粋な輩が多くていかんな」
この男の普段のしゃべり方がこれなのである。まったく理屈っぽくて若さに欠ける。別段彼は時代劇マニアというわけでもないのだが。
<2>
相手の剣道アーマーは、瑛時の非難を全く気に留めた様子もなく、素早い身のこなしで道場内へとスルリと滑り込むと、瑛時の正面まで歩みを進め、その手の竹刀を身体の正面に構えた。土足でないのが、唯一感心と言えば感心である。どうやらその辺は考えているらしい。
もはや宵闇の挑戦者の意図は明白であった。眉をひそめ、敵となった相手の一連の所作を見つめていた瑛時だったが、少々興味が湧いて相手の挑発に乗ってやる事にした。少なくとも、今まで相手にしてきた名ばかりの剣豪や全国大会優勝者などの連中よりもよっぽど楽しめそうだ、彼はそう判断した。
「不公平は主義ではない。ハンデはなしだ」
木刀から竹刀へと獲物をチェンジさせながら、相手の出方を見るためにも意趣返しで言ってみたが、敵さんは意にも介さず一歩も動こうとしない。この静か過ぎる道場内で呼吸音すら発しないのは大した物だが、瑛時はほんの少し不機嫌になった。
(普段口数の少ない私が、自らこんなに話し掛けているというのに、この反応とはな)
無論、相手は瑛時という人物の人となりを知っているはずもないので、口には出さずにおいたが。やや苦笑。
「一本勝負で良いのか?」
やや語調が鋭くなってしまった。敵はやはり今回も無言の内にうなずいた。ここまで徹底して黙秘権を行使しているとなると、何やら言葉を発するわけにはいかない理由でもあるんだろうか。いや、今はそんな事を考えている時ではない。雑念を振り払うため、瑛時は一瞬だけ肩の力を抜いた。
次の瞬間、突風が瑛時に向かって吹き付けてきた。瑛時が試合の開始を宣言する前に、道場破りが裂帛の気合とともに襲いかかってきたのだ。
鎌坂家一子相伝剣闘術においては、超実践的スタイルであるがゆえに防具類は一切その身に装着しない。当然、剣道における面などもないので、顔面にマトモに攻撃を受けては生命に関わる。物心つく頃にはそのような状況下で鍛えられてきた瑛時、それゆえに不意を衝かれたとしても、並の剣士よりははるかに冷静でいられる。踏んだ修羅場の数が違うのだ。
さすがの瑛時の眼力をもってしても、少々相手の力量を見誤っていたらしい。沈黙の襲撃者の踏み込みは思いのほか速く、予想以上の接近を許してしまった。思わず自嘲の笑みが漏れる。そう、余裕は実はかなりある。
完全に捉えたと確信した会心の一撃を、竹刀を構えてもいない相手に三歩ほども手前でかわされたアサシンは、明らかに動揺の色を見せた。こんな事は初めての経験であったのだろう。剣道の高段者であろうとも、そのタイミングでは避けきれなかったに違いない。それを!
「そう。そんじょそこらの輩とは、見据える世界が違う」
瑛時は低くつぶやいた。その表情はあまりにも真に迫っており、相手は挑発されたのかどうかすらも区別がつかずに当惑していた。が、すぐにその迷いを断ち切り、一転して嵐がごとき連撃を繰り出して来た。どうやら手数に物を言わせて、瑛時に隙が生じるのを待つ腹づもりらしい。圧倒的な波涛が瑛時に押し寄せる。
「鎌坂家一子相伝剣闘術の極意は、流水が如き滑らかなる動きに在り。水はあらゆる力に対応してその姿形を変え、やがては其れを支配する」
竹刀の流星雨の中を、瑛時は呼吸一つ乱さずに軽やかにくぐり抜けて行く。その足さばきは足音すら立てず、まるで舞踊のように、しかし高速で。もはやそれは常人の動きではなく、素人目には「魔人」とすら映るかもしれない。とにかく尋常ではない。
「さて、そろそろ逃げるばかりではない所を見せておくとするか」
<3>
歩みを不意にピタリと止め、受けの体勢を整えた瑛時。左手の人差し指で「来い来い」をする。それにカッとなって、かさにかかって攻めかかって来た相手の攻撃を、利き腕ではない左手一本で持った竹刀で軽々と受け流し続ける。それは並の重さ、強さ、スピードではないのだが、微妙にその力のポイントをずらして殺してしまう技術に長けた鎌坂家一子相伝剣闘術の前にあっては、そよ風に等しい。
攻め疲れか、一瞬の間が唐突に訪れた。疲労の色濃い相手だったが、呼吸をそのわずかな間に整えたあたり、やはり只者ではない。敵の残りの体力から鑑みて、全身全霊を注ぎ込んだ渾身の一撃に賭けていることが、瑛時には容易に想像がついた。そして、その一撃が何であるのかも。
――来た!電光のような突き。まぶたの裏まで焼け付くかのような烈火のごとき突き。乾坤一擲の一突きは、今までのどの攻撃よりも速かった。
ここで瑛時は初めて相手に対して正対した。そうせざるをえなかった、とは言い過ぎか。瑛時の眉間目掛けて一直線に、寸分の違いもなく伸びて来た竹刀の先端を見切り、空を突かせると、右手に持っていた己の竹刀で電光石火に薙ぎ払う。これまでに彼が刃を交えてきた相手ならば、ここで自らの武器を宙に放り出していたことだろう。だが、今回の相手は数段格が違う。空中へと逃れようとする竹刀に飛び付いて、断じて放すまいとする。その執念はまったく敬服に値するが、そこに致命的な隙が生まれてしまう結果となった。
「鎌坂家一子相伝剣闘術奥義、光背閃!!」
乾いた打撃音が木造の道場内に響き渡る。竹刀を腰元の位置に戻した瑛時が待つ事きっかり15秒後、敗者は自らの武器を取り落とし、両膝を力なく床へと突いた。そして、次に取った行動とは――
「いっったあ~いっ!!」
両手で頭頂部を押さえながら、その人物が高らかに上げた声は、男の物では決してなかった。絶対なかった。それはまさしく、少女の持ち物であった。
「……はい?」
鎌坂瑛時はこの時間、今まで生きてきた約二十年間の人生の中でも、恐らく最も間抜けな表情をさらしていた。世間に名だたるクールガイが聞いて呆れる醜態である。何やら全身に張り詰めていた力が、どこかへバサバサと羽ばたいて逃げて行ってしまった。生きた「呆然」の標本と化した瑛時。頭の中では、混乱と当惑が絶賛カーニバル中。
やがて少女剣士は自分の面をもたついた動作で外し、何やらすねたような仕種で再び頭を押さえ、涙目でさすり始めた。よく観てみると、肩が小さく細かく上下していたり、よく聴いてみると、鼻をすする音も耳に届いて来た。こうしてみると、その後姿はひどく小さく見える。
どうやら宵闇の襲撃者の正体は、十代半ばほどの少女だったようだ。ほどかれて小刻みに揺れるセミロングの艶やかな黒髪や細い肩を目にすると、何やら瑛時の心に罪悪感めいた代物が湧き上がって来た。
「大丈夫か、君?……あれ、さっきのはだな、全く本気で打っていないのだが……。本来ならば九発同時に放つ技を、面の一発しか当てていないし、その……」
誰が聞いても言い訳めいている。瑛時自身も、なぜこれほどまでに動揺してしまっているのか、全く理解に苦しむ。普段・本来の自分からは遠くかけ離れてしまっているのを自覚して、またそれがさらなる戸惑いを生み出す。果たしてその瑛時の弁解めいた台詞も、彼女の丸められた背中に届いているのかいないのか。
<4>
道場の柱に備え付けてある時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく響いて聞こえる気がする。時の経過が重たい。空気が気まずい。どうすればよいものやら、今の瑛時にはさっぱり見当が付かない。冷静沈着と即断即決を信条としていた彼は今、どこにもいない。と言うか、何か悪い事でもしてしまったのだろうか?
こうして手をこまねいていても何も解決はしない。ようやく意を決した瑛時は、うつむく少女の正面へと回り込み、恐る恐るしゃがんで、謎の少女道場破りの様子を窺って見る事にした。すると、その気配に気付いた少女が、ハッとして勢い良く顔を上げた。飛沫のように宙を舞った涙のしずくが砕かれた水晶の欠片を思わせ、彼女を美しく飾った。そこには、目の肥えた瑛時にさえ一瞬息を飲ませる吸引力があった。
しかし次の瞬間には平常心へと精神回路を切り換えた瑛時、誰かさんの怒った顔が脳裏に大写しになって、思わず苦笑いの表情を作る。そんな瑛時の一連の行動を見つめていた少女は、涙を止めて不思議でたまらない、といった困惑の色を満面にたたえた。
精神世界から現実世界へと復帰を果たした瑛時は、ふと何かに気付いて彼女をまじまじと注視する。そして何やら考え込む。水平にした左腕の上に右ひじを乗せ、右手の人差し指と親指で尖ったアゴの先端をつまむ。彼が物思いに耽る時のいつもの癖だ。
「私の思い過ごしかも知れんが、確かにどこかで君の顔を見かけた憶えがある」
それを聞いた謎の少女は、思いがけない言葉に花が開いたかのような笑顔を見せかけたのだが、そう言った瑛時がそのままの姿勢で4分20秒を浪費してしまっているので、すっかり拍子抜けしてしまった。
「あの、森岡阿亜樹です、わたしの名前……」
とうとう痺れを切らせ、彼女の方から自己紹介に及んだ。
「うむ。その個性的な名前にも確かに聞き憶えがある」
それからさらに三十秒が経過。やがて突然、瑛時は右手で自分の右膝を乾いた音を立てて叩き、勢い良く顔を上げた。
「おお、そうだ。以前煌侍の家で観たスポーツドキュメント番組で特集されていたんだった。ようやく思い出せた。良かった。暗雲が晴れた気分だ」
普段、鎌坂瑛時という男は、ほとんどテレビを観ない。嫌いなわけではないのだが、大人数でおよそ建設的ではないバカ騒ぎをしているバラエティ番組などを目にすると、激しい頭痛を覚える性質なのだ。ではなぜ、その番組を目にする事になったのかと言えば、ある日曜日の昼下がり、所用で瑛時が煌侍の家へと出かけた時に、煌侍が三人の妹達に囲まれて優雅にアフタヌーンティなぞを飲みつつリビングで観ていたのを、瑛時も居合わせたからだ。
無意味なコマーシャル嫌いでもある瑛時がそっぽを向いてしかめっ面をしている所に、煌侍が背中越しに声を掛けた。
「おい瑛時、んな所でシケた顔してねえでこっち来いよ。ホラ、あれ、『剣道界に最強アイドル誕生!男子高段者にも無敗の天才美少女剣士・森岡阿亜樹』だってよ」
そんな煌侍の呼びかけにも、「フン、なんと俗なタイトルだ。大方、人気先行の客寄せパンダだろうが」とまるで興味を示さなかった瑛時であったが、暦が「へえ。なかなかの足の運びじゃない」と言い、魅霧が「ええ。しっかりと軸が正中にあるわね。大したものだわ」と言うのを耳にしてテレビの方へと身体を向けた。煌侍直伝の格闘術の優秀な生徒である二人の事は、瑛時も高く評価しているのだ。だが、煌侍の話は話半分にしか聞かない。あいつはしょっちゅう担ぐからだ。
二人の妹の横で、長女の絢華はと言えば、「うわあ、この子スゴイねー」と無邪気に拍手をしている。それを微笑ましげに一瞥した瑛時だったが、次の瞬間にはテレビ画面に身を乗り出して見入ってしまった。
「うーむ。この子はできるぞ。そんじょそこらの肩書きだけの剣豪では恐らく太刀打ちできまい。そうか、こんな将来有望な女性剣士が出現した事は、実に喜ぶべきだな」
悩む時と同じポーズで大きく瑛時がうなずくのを、煌侍と三人の妹達はクスクスと笑いながら見ていたものだ。「だから言ったのによ」、と煌侍。常々瑛時は、「今の武道界はビジュアル至上主義に成り下がってしまった」と嘆いていたので、今回のニュースは素直に嬉しかったのだろう。
<5>
感慨深げに思い出に浸っていた瑛時だったが、とある疑問が鎌首をもたげてきて、再度現実世界へと引き戻って来た。両腕を胸の辺りで組んで、険しい表情になる。
「しかし君、なぜ一言も話さなかった?武人としての礼節を著しく欠くばかりか、文明人としても評価に値せんな。君の正体が判明してからの今になって言うのも何だが、私は君の事を昨今には珍しい逸材だと観ていたのだが、正直失望を禁じえんな。非常に残念だ」
この男、根っからのカタブツである。本人はそれを頑なに否定するのだが、十代半ばの少女相手に、真顔でくどくどと説教を垂れているのが何よりの証拠である。
「だって……年端も行かない女の子だって分かっちゃったら、絶対、本気で仕合ってくれないって思ったから……」
予想外のお説教を食らい、阿亜樹は身を引いて目を点にし、まばたきをしきりに繰り返している。何やら瑛時の逆鱗に触れてしまった事が分かった。
「鎌坂家一子相伝剣闘術を決して軽んじるな!剣を携えて正対した以上、女も子供も老人も病人も怪我人だろうと一人の剣士だ!」
仁王立ちし、全身から怒気を噴出させる瑛時。彼の己の流派に対する誇りの持ち方は尋常ではない。恐らく常人では想像もつかない領域に位置している。
以前、全国的に名の通った格闘家が偶然瑛時の祖父の社に訪れ(ここは、知る人ぞ知る武術を極めんと志す者にとっての聖地でもある)、視界の端に捉えた道場を、その場にいた数十名の取り巻き連中の前で虚勢を張って小馬鹿にし、さらに余計な一言を愚かにも付け加えてしまった。
「あんなチープな道場でやってる剣術なんざ、どうせお嬢様テニス並のオカマチャンバラだろうぜ」と。
それが最悪にも、運悪く祖父の手伝いをしていた瑛時の耳に届いてしまった。祖父や姉が「いけない!」と思う間もなく、一瞬の内にその一軍との距離を詰めた瑛時は、それに気付いて身構えた合計十三人の取り巻きを神速でもって薙ぎ倒し、その中心にいた格闘家に「前言を即刻撤回せよ」と迫った。相手はそれを少々気圧されながらも鼻で笑った。瑛時の最後の我慢の糸は、それでプッツリと完全に切断されてしまった。
獅子の咆哮と共に襲いかかった瑛時。姉の通報で駆けつけた煌侍が止めに入らなければ、その高名な格闘家の脳漿は木っ端微塵に霧散していた事であろう。
だが、その後“事件”は決して表沙汰になる事はなかった。格闘家サイドが名前に傷が付く事を恐れたのだ。そればかりか、「今回の件はどうかご内密に」と菓子折り付きで平謝りに来た。以来瑛時は己の精神的未熟さを恥じ入り、精神修行により一層の力を入れるようになった。
再起不能寸前にまで打ちのめされた格闘家は、現場復帰するまでに二年四ヶ月を要し、二度と瑛時宅近郊には寄り付かなくなり、そこ付近での興行は必ず欠場するのが常となった。この“事件”の真相は、煌侍の他数名しか知らないが、格闘技業界内においては、「奴はどうやら素人にボコボコにされたらしい」との噂がまことしやかに広まった。
――何があったのかは分からないけど、瑛時の過去には何か大きな出来事があったらしい、と直感的に阿亜樹は悟った。と、同時に少し身震いがした。
「ゴメンなさいっ!あたし、ちっとも事情なんか知らなくて、本当にすみませんでした!勉強不足のクセに道場破りなんかしちゃったりして、どうお詫びしたらいいのか、あたし……」
「詫びなど必要ない。同じ過ちを二度と繰り返さなければ良い事だ」
言うと同時に瑛時は立ち上がった。それを見た阿亜樹はさらに狼狽する。
「あ、あのっ、どちらに行かれるんですか?」
「先程の一件で『軸』がすっかり乱れてしまったので森へ入る。君も早急に帰宅するように。いい加減、時刻も遅い。こちらとしてもあらぬ誤解を招く事は望まん」
瑛時の鋭い視線に見下ろされた阿亜樹は、何かを必死に伝えたそうな表情を見せかけたが、慌てて下を向いてそれを隠した。瑛時は敏感にそれを察したが、深入りする気は全くなかった。正直言って、一刻も早くこの茶番に幕を下ろしてしまいたい。それでも最後に阿亜樹を一瞥すると、瑛時は大股に道場の出入り口へと歩き出す。しかし、不意にその足が急停止し、彼はその場で完璧な形の正座をした。
<6>
一体突然何事か、と阿亜樹がその方向を見やると、そこには一人の巫女装束の女性が立っていた。
「姉様、申し訳ありません。気の流れを少々乱してしまいました。私もまだまだ精進が足りませぬようで、己の未熟さを恥じております。姉様のお務めに大変ご迷惑をおかけ致しました」
瑛時は可笑しいぐらいに恐縮しきっているが、阿亜樹はその後方で呆然自失の状況下にいた。だらしなく大口を開けて、深々と感嘆の溜め息の塊を押し出す。
「すンごい。女神様みたい……」
「ただいま戻りました。瑛時、そう気落ちしなくても構いません。わたくしはただ、大気の震えが今宵は何やらいつもと違う様子なので、観に参ったまでです」
涼やかで透明感のある声。艶やかな漆黒の髪は、腰の位置よりもまだ下まで伸びている。きめ細かい肌は透き通るかのように白い。が、切れ長の両の瞳には形容し難い深く強い輝きが揺らめいており、観ている者に威圧感さえ与える。この女性こそ瑛時の実の姉、鎌坂維那である。彼女の言葉の一語一語はまるで神託のように聞こえる、と煌侍はよく言う。
維那は音もなく道場の中央へと歩を進めると、阿亜樹の正面に静かに正座し、瑛時にも「ここへ来て座るように」と目で指示する。だが阿亜樹はと言えば、相変わらずきょとんとしていて、まるで状況の推移が飲み込めずにいた。
「さて瑛時、あなたはもっと女性に対して優しくあるべきです。今後もその態度を改めないのであれば、いずれは大事な人を失ってしまいますよ」
瑛時に向き直った維那が言った言葉は彼を若干当惑させたが、瑛時はその意味を理解したようで、なぜか道場の窓の方に視線を投げかけた後で、姉に対して苦笑と共に頭を下げた。
「煌侍の奴にも似たような事をしょっちゅう言われますが、やはり姉様がそうおっしゃるとなれば重く受け止めねば、と思います」
「ですから常日頃より申しているでしょう。『煌侍君から学ぶ事は多い』と。取り返しがつかなくなってからでは遅過ぎるのですよ」
阿亜樹には、この姉と弟の会話が全くチンプンカンプンである。維那の言う「大事な人」やら「コージ君」とやらは一体誰の事なのだろう?阿亜樹は、自分一人が思いっ切り場違いなのを痛感していた。居心地が悪くて、何だか気分が落ち着かない。
維那がそんな阿亜樹の様子に気付いた。
「失礼。あなたに孤立感を与えてしまいましたね。自己紹介が遅れました。わたくしは鎌坂維那、ここにおります瑛時の実の姉になります。瑛時はなにぶん人間が出来ておりませんので、さぞ不快な思いをなされたでしょう?」
慌てて何か反論しようとする瑛時を左手の人差し指一本で黙らせておいて、維那は柔らかな微笑みを見せた。阿亜樹は「わあ~っ、女神様の微笑みだあ~」と、しばしの間見惚れていたが、そんな事をしている場合ではないのに気付き、不器用に居住まいを正した。
「あ、あの、あたしっ、じゃなくて、わたし、森岡阿亜樹と言います。十四歳です。中学二年生です。えっと、その、今日は本当にゴメンなさい!道場破りなんて物凄く失礼な事をしちゃったりして、あたし、いえっ、わたし、どうしたら良いんだろうっ」
言い進む内に彼女は段々とうつむき加減になっていき、両膝の上に置かれた両の拳にも、必要以上に力が入っているのが分かる。こうして見ると、彼女はやはり若干十四歳の少女でしかないと納得させられる。
「あ、マズイな」と阿亜樹は身を固くした。瞳の奥が刺すような熱を帯びて来た。気持ちの中も「どうしてこんな事しちゃったんだろう」、なんて自責の念ばかりが支配してきてしまう。鉛のような情けなさに打ちひしがれつつあった。
「もうダメ」と阿亜樹が思った刹那、彼女の右の握り拳にヒヤリとした感触が走った。驚いた阿亜樹が顔を上げると、維那の見つめる瞳と視線がまともにぶつかった。その眼光は「泣いてはいけません」と言っている気がして、彼女の涙腺は急速な収縮運動を行ない、肩の力もすっかり抜けて身体が少し軽くなった。そして、自分の拳の上に置かれた物が維那の左手である事に気付いた時、なぜだか分からないが、強烈な敗北感に襲われたのだった。「この人には何一つ隠し事は出来ない」と直感した。
「あの、こんな事を頼むのは図々しいと思うんですけど、あたしの話を聴いていただけませんか?いえぜひ聴いていただきたいんです。お願いします!」
阿亜樹は、口をついて出た自分自身の言葉に自ら驚いた。だがそれこそが、今までずっと抑え続けて来た衝動であったのだと同時に認識した。ずっと誰かに聞いて欲しかった。話して楽になりたかった、森岡阿亜樹の事を。
維那は優美に頷き、瑛時に「あなたもしっかり聴くように」と釘を刺した。瑛時はややあきらめ気味に、両目を閉じたまま大きく頭を縦に振り、その後また先程と同じ位置に視線を送った。阿亜樹はそんな彼の行動に疑問を感じてその場所を見てみたが、夜の闇と月明かりに照らされた木々の葉が認められただけだった。
「では、お願いしますね」
維那の言葉にぎこちなく阿亜樹は首肯し、思いつくままに彼女は自分自身について、それにまつわる諸々の事柄に付いて堰を切ったかのように話し始めた。話の順序もてんでバラバラで、前後したり繰り返し説明したりとなかなか要領を得なかったが、伝えたい、ほんの少しでも良いから分かって欲しい、という彼女の必死さは並大抵の物ではなかった。
<7>
両親は彼女の試合を応援に来る途中、トンネル事故に巻き込まれて他界した事。今は祖母と二人暮らしである事。多くの物を得て来た剣道で成功した事によって、逆のそれ以上に多くの物を失った事。例えば、仲が良かった友達との間に大きな隔たりが出来てしまった事。マスコミに追い回されてノイローゼになったり、自分に望まない勝手なイメージが塗り付けられて行く事への反発。余計なプレッシャーの数々。懐かしい日々への憧れ。エトセトラ、エトセトラ。その小さな身体にはちきれんばかりに悩みを抱えている彼女は、最近頻繁に引退を考えているという。
そんな陰鬱とした毎日の中、剣道の合同練習中にふと耳にした幻の剣術の噂と、そこの若き道場主の凛々しさと勇猛さ。日本でもトップクラスの実力派が結集した中に混じり、剣術界のお偉いさんの方々もいる中で、女性剣士達はミーハー的に、男性剣士達は否定的に交わす言葉を阿亜樹は耳の片隅に拾い集めた。
嘘か真実かは彼女には判別不可能だったが、ちょっとスリリングでミステリアス。勝手な想像を巡らせている内に、膨らんだ好奇心は日ごとに抑えがきかなくなって行き、とうとう阿亜樹は夕方の稽古を抜け出してしまった。
今までの噂話を総合して検討した結果、大体の位置は掴めていたし、途中でハデに迷ってしまったけれど、その時に通りかかった“美形のお兄さん”が親切に道を教えてくれたし――で、ようやくここ鎌坂家の道場へとたどり着いたというわけである。
自分でも理由が分からないまま、阿亜樹はいつしか必死になっていた。「どうしても行かなきゃ」と言う焦燥した義務感に突き動かされていた。そして、道場内に一人静かに座していた瑛時の姿を見付けた途端、衝動的に面を着け、無意識に竹刀を手にして踏み込んでしまったのだと言う。
そこまで一気に語り終え、さすがに話し疲れたようで、阿亜樹は大きく息をついた。すると、彼女の目の前に冷えたスポーツドリンクのペットボトルが突き出された。それを阿亜樹が反射的に受け取って見上げると、視線は窓の外を見やったままの瑛時が立っていた。どうやらそれは、瑛時が鍛錬後の水分補給のために用意していた物らしい。
「あ、ありがとー……ゴザイマス」
阿亜樹がつたない礼を言うと、瑛時は目を閉じたまま一度うなずくと歩き出し、元いた離れた位置に正座し直した。維那は、そんな弟の態度を「仕方ない子ね」と言った表情で見やっていたが、瑛時が何事かを彼女に目で告げると、クスクスと口元に軽く握った拳をあてがって笑った後、「分かっていますよ」と言った。どうやらこの姉弟には余計な会話は必要ないらしく、阿亜樹はそんな二人が正直に羨ましかった。
「それで、いかがでしたか、噂の剣士を実際にその目にした感想は?」
「え?ハイ、とっても素敵です。すっごく強いし」
維那の問いに思わず即答してしまってから、阿亜樹はそれに気付いて耳まで顔面を紅潮させて、再びうつむいてしまった。姉に「だ、そうですよ?」と矛先を向けられた瑛時は困惑した表情を見せ、道場の外壁を叩いた何かの物音に敏感に反応した。阿亜樹は何事かと疑問に思ったが、精神的には全く余裕がなかった。
「さて森岡さん、あなたはこれからどの道を選択しますか?」
維那の突然の問いかけ。面食らう阿亜樹。
「えっ、それってどういう?急にそんな、困ります、あたし……」
事実彼女は本当に困っていた。だがその質問には不思議な吸引力があり、阿亜樹の心内は次第に落ち着きを失っていった。維那の瞳の奥に宿る光を見ていると、自分でも知らなかった自分がどんどんと明らかにされてしまいそうで、阿亜樹は維那という人物に対して、怯えにも似た感情が湧きあがってくるのを実感した。
「あなたが今後、当鎌坂家、この道場、その主たる瑛時にいかほど関わるつもりなのか、とわたくしは訊ねています。他言無用は大前提として、ここでの事は一切忘れて本来の日常に戻るのか、それとも――」
「そんな!そんなの……」
維那の言葉を最後まで聴く事なく、阿亜樹は思わず立ち上がって叫んでいた。それによって彼女は、自らの気持ちの退路を自らの手で断ち切る結果となった。鎌坂家の姉弟は、無言で彼女の回答を待っている。姉は心静かに、弟は全てを姉の手に委ねている様子で。
「あたしっ、お二人に教えていただきたい事がいっぱい、たくさんあるんです。お願いします!これからも会ってお話だけでもさせて下さいっ。あたし、大切な事を見付けられそうな気がするんです。今のままじゃ、きっとダメになっていくばっかりな気がずっとしてて。だから、お願いします!!」
阿亜樹の、それが答え。そして沈黙。木々が風に揺れる音。
「わたくしは構いませんよ。お話くらいでしたらあなたのお役に立てる事もあるでしょう。ただし、大切なお務めがありますので、それ以外の時間にしてくださいね」
全てを温かく包み込むかのような維那の柔らかな微笑み。その瞳の中には、もう先程までの不思議な光は見付けられなかった。阿亜樹の事をどこかで認めてくれたのだろう。阿亜樹はその喜びを静かに強く噛み締めた。
今度は瑛時に維那が目で、彼に答えるように促す。瑛時は真剣な表情で頷いた。
「剣術に関しては我が流派は一子相伝ゆえ、他人に教える事が出来ん。陳腐な物言いではあるが、得たいのであれば盗め、と言う事だ。それに関しては制限する気はない。姉様が認められた以上、私はもう君に対して必要以上の隔意を持たないつもりだが、私の一存では決められない部分も多い。そこで、アドバイザーにご登場願う」
言い終わると同時に瑛時は立ち上がり、「アドバイザー?」と不思議顔の阿亜樹に声を出さないようにと合図すると、道場入り口の戸に手をかけた。そして、一呼吸置くと勢い良くその戸を引く。すると、「わったった」と一人の人物がつんのめりながら道場へと入って来た。その様子からして、戸にピッタリと耳をくっ付けて、中の会話を盗み聞きしていたらしい。
<8>
すかさず瑛時が素早く手を伸ばし、バランスを崩しかけていたその人物を腕の中にスッポリと抱き止めた。
「らしくないな、璃矩。堂々と入ってくれば良いものを」
瑛時に璃矩と呼ばれたその人物は、彼の腕の中からスルリと脱出すると、髪を豪快に掻きあげ、腰に手を置いた姿勢で怒ったような表情を作った。
「あの展開のどこにわたしが入って行くタイミングがあったのよ?シリアスモード全開だったじゃないの」
阿亜樹は「あっ」と声を上げそうになった。170センチ半ばほども身長があって、めちゃくちゃ長い足がジーンズに包まれていたので、てっきりパッと見で男性かと思ってしまったが、顔を上げて声を発してみれば、間違いようがなく女性であった。
年齢は恐らく瑛時と同年だろう。日本語をこれほど巧みに操っていなければ、東欧人だといわれてもそのまま信じ込んでしまいそうなくらい日本人離れした、ある種彫像めいた整った顔立ちをしている。長めの髪も銀糸がごとき光沢を放ち、その声は音楽的な響きを伝えてくる。加えて、プロポーションがもはや東洋人の持ち物ではない。白のコットンシャツにカーキ色のジーンズという非常にラフな恰好なのだが、それがまるで彼女以外の人間に着られる事を拒んでいるかのようにジャストフィットしている。
それにしても瑛時の周囲には、維那や今登場したばかりの璃矩という女性のような、現世離れした麗人ばかりが集まっているのだろうか。これでは敗北感や悔しさといった感情をぶつける次元ではない。現在「スポーツ界一の美少女」などと騒がれている阿亜樹だが、この二人と同じ場所に居合わせれば、誰一人として自分に見向きもしないであろう事は、火を見るよりも明らかであった。アニメなどでよくある、異世界に突然飛ばされてしまった普通の女の子、それに自分がなってしまったような錯覚に阿亜樹は陥っていた。
「あ、維那さん、こんばんわ~」
阿亜樹が惚けている間に、璃矩は維那と親しげに会話を弾ませている。瑛時を交えてのその三人の光景は、タイトルを付けるのならばそれは「家族」であって、阿亜樹はこの時、自分がすでにどう足掻いても届かない距離にいる事。彼らのベクトルに接するのが遅すぎた事を知った。が、ここの存在を知らずに一生を終えていた事を考えると、その事を後悔する気など微塵もなかった。どうして自分がこんなにも晴れやかな気分でいられるのかも分からないまま、阿亜樹は自分の中の何かが変わりそうな予感を得て、知らず知らずの内に口元に笑みさえ浮かんで来た。
「んー、まっ、大体の所は呑み込めたわ。理解とはまだ別の話だけどね」
気持ちの整理を阿亜樹がつけ終えた頃、璃矩への状況報告も終了したようだった。何しろ瑛時が口下手であるので、だいぶ手間取ったらしい。維那は弟の事にはなるべく干渉しない主義をとっているようで、瑛時が説明に詰まった時に助け舟を出すに留まっている。
「で、この子がここに出入りする事に対して、わたしが許可するかどうかが注目されてるって事なのね?」
「そうだ。おまえに話しておくのが筋だと思ってな」
真面目くさって答える瑛時。あらぬ誤解を招く事を本気で嫌っている様子が妙に可笑しい。いくら言葉遣いや態度が泰然としていても、それが璃矩の前ではひどく子供っぽく見えてしまう。彼もそれを自覚しているらしく、すねたように黙り込む。
すると、璃矩が笑い出した。
「そんなので、わたしが変わるわけないじゃない。瑛時の性格なんてわかりきってるし、わたしがどういう人間かだってあなたが一番よく知ってる事じゃない。自分の決めた事とお姉様の眼力、何よりあなたのパートナーを疑いなく信じなさいって。それともなあに、わたしと会わなかったたった数時間の間に、他の女の子に手を出しちゃう人になっちゃったとでも?」
「なっ、何を言う!冗談が過ぎるぞ、璃矩っ」
「あははっ☆。わかってますわよ、旦那様っ」
璃矩の挑発にムキになる瑛時。それをまた軽くいなす璃矩。瑛時のまっすぐさが逆に夫婦漫才っぽい雰囲気を作り出してしまっている。彼はそんな空気に戸惑い、彼女がポンポンと彼の頭を撫でるように叩く。恥ずかしくてその手を払い除けようとする瑛時と、さらに悪乗りする璃矩。
「うらやましいなあ……」
心からのつぶやきが阿亜樹の口から漏れる。と。彼女の両肩に後ろから手が優しく置かれた。維那の物だった。
「願う事ですよ。そして、願う自分をより高めて行く事です。今日だってその足を踏み出したからこそ、ここへ着いたでしょう?」
「はいっ、そうですよね。やっとわたしのスタートラインに立てた気がします。みなさんのおかげです。いくらお礼を言っても言い足りないくらい」
晴れやかながらも瞳を潤ませる阿亜樹と、穏やかな表情で彼女を見守る維那。と、そこへ息を弾ませつつ璃矩がやって来た。鬼ごっこに疲れ果てた瑛時は、不貞腐れた顔であぐらをかいて座り込んでいる。どうやら彼もただのカタブツだけという人物ではない事が分かって来た。リラックス下手、といった所だろうか。
<9>
「そう言えばさ、わたしってば自己紹介がまだだったでしょう?改めまして、わたし秋橋璃矩ね。瑛時とは幼なじみで同じ大学。う~ん、何かお互い第一印象悪くなっちゃってたかも知れないけど、わたしの事嫌わないでやってよ。これからしょっちゅう顔合わせるようになるんだしさ」
と、ウィンクする璃矩。普通は言いにくい事でもサラリと言ってしまう性質のようだ。裏表のない女性って何だか大人っぽい。この差を埋めるのは随分と大変そうだ。阿亜樹は璃矩の中に、一つの理想像を見付けた気がした。
「はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」
「元気ねえ…。あ、握手とかしとく?やっぱこういう時って」
「はいっ!」
璃矩の差し出した右手を、両手で強く握り返した阿亜樹。その勢いにやや押され気味の璃矩。
「体育会系ねえ…」
早まったか、といった表情の璃矩。まばゆいばかりに瞳を輝かせる阿亜樹。また一つ頭痛の種を背負い込んだかのような顔の瑛時。そんな三人を見やって微笑する維那。
「おぬし、女難の相が出ておるぞ」
突然背後からした声に飛びすさる瑛時。するとそこには、ニヤケ顔のもう一人の幼馴染・焼刃煌侍が、腰を浮かせた姿勢で座っていた。
「よ」と右手だけで璃矩にあいさつする煌侍。
「気配を消して近付くな、趣味の悪い!」
憤慨する瑛時だったが、煌侍はケケケと笑う。
「気ぃ抜いてたテメエが悪いんじゃねえか。修行が足りんよな、色んな意味でよ。相手が女の子なのは、香水の香りとかいくらでもヒントはあったろうに」
「ぐっ」
阿亜樹との一件を指しているのだろう。この男、一体いつから見ていたのか。瑛時が反論出来ずにいる間に、煌侍は今度は維那の所に行って丁寧にあいさつしている。維那の方も今までとは全く違う雰囲気で、すっかり気を許した様子で会話している。
「煌侍、何をしに来た?明日の講義はウチの大学で私と同じ朝一からだろうが、さっさと帰って寝ろ」
「そう、それそれ。オレってばまたきっと起きらんないから瑛ちゃんさ、代返お願い☆。電話じゃさすがに悪いから来ちゃった。てへり」
「えーい、気色の悪い!誰が『瑛ちゃん』だ、第一私はそのような不正には一切手を貸さんからな」
「何だよう。おまえだってオレが午前中はシカバネ同然だって知ってんだろうがよ。まったく、璃矩以外には冷たくて嫌んなっちゃう」
「なぜそこで璃矩を引き合いに出す?!ただ私はだな――」
延々と続く、幼ばじみの男二人の言い争い。おかげで女性陣は完全に蚊帳の外になってしまった。が、やがて阿亜樹がその沈黙を破った。
「あのっ、あの人ってどなたなんですか?あの人、わたしにここまでの道順を教えてくれた親切なお兄さんですっ」
「ああ、あいつね。あいつは焼刃煌侍って言って、瑛時とわたしと三人で幼馴染なのよ。家も近いんで、ああしてしょっちゅう来てるってわけ――ってぇ?」
が、答えた璃矩が阿亜樹を見てギョッとする。彼女の両手の指は組み合わされ、熱を帯びた視線が煌侍に向けて放たれているではないか。
「どうかしましたか?」
璃矩の驚きようを不信に感じた維那が歩み寄って来た。真相を知り、「やれやれですね」のリアクション。
「維那さん、この子ってば結構たくましいかも」
「そうですね。過剰な心配はよしておくとしましょうか」
「でもこれってマズイんじゃありません?煌侍のとこは何たってアレだから、近い内にもう一回大失恋を経験する事になりそ」
「その時も今回のようなたくましさが発揮される事を期待しましょう」
「そうですねえ……」
静かな夜のしじまに響くは、二人の男の不毛な口喧嘩。果たして、世は太平なるか否か。
<了>