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第二十五話 読めない人の署名も、本人のものです

民代表記録所設置契約・第三案が暫定採用された翌朝、王都契約相談支所の掲示板には新しい紙が貼られた。


 ――契約講習会のお知らせ。

 ――署名前確認七項目を、実例を使って説明します。

 ――字が読めない方、字を書くのが苦手な方も参加できます。

 ――参加に契約署名は不要です。


 最後の一文は、エリスが必ず入れるよう主張した。


 講習会に参加するための契約書。

 記録所へ相談するための登録書。

 無料で読んでもらうための同意書。


 そうしたものは、必要な場合もある。

 しかし、入り口に契約書を置けば、それだけで怖くなる人がいる。


 王都では今、契約に対する関心が高まっている。

 同時に、契約に対する恐怖も高まっていた。


 これまで読まずに署名していたものが、実は危険だったかもしれない。

 親方や商会や神殿に任せていたものが、自分の生活を縛っていたかもしれない。

 だから読まなければならない。


 けれど、読めない。


 その不安が、支所に押し寄せていた。


 エリスは講習会用の資料を机に並べた。


 一枚目。


 ――署名前確認七項目。


 一、誰と契約するのか。

 二、何について契約するのか。

 三、いつからいつまで続くのか。

 四、お金や物はどう動くのか。

 五、できなかった時、何が起きるのか。

 六、やめたい時、どうすればよいのか。

 七、誰かに代わりに任せる部分はあるのか。


 難しい言葉を避けた。


 契約相手、対象、期間、対価、違約、解除、代理。


 王宮の法務官なら、そう言うだろう。

 だが、最初に必要なのは専門語ではない。


 どこを見ればよいのか。

 何を質問すればよいのか。

 分からない時に、分からないと言ってよいのか。


 そこからだった。


「補佐官殿」


 カレンが資料を一枚持ち上げた。


「この絵は何ですか」


「署名前確認票です」


「いえ、この絵です」


「契約相手を表す握手の絵です」


「握手というより、二人が腕相撲をしているように見えます」


 エリスは少し沈黙した。


「……修正します」


「こちらは?」


「解除条項です。出口の絵にしました」


「扉が牢屋に見えます」


「それはそれで、契約の危険を表しているような」


「講習用です。怖がらせすぎないでください」


「はい」


 エリスは絵入り資料を見直した。


 字が読めない人にも説明できるよう、七項目にそれぞれ印をつけることにしたのだ。握手、箱、暦、硬貨、警告、出口、代理人。


 だが、絵は難しい。


 契約書の誤字なら見つけられる。

 竜語の補助記号も読める。

 しかし、分かりやすい絵を描く才能は、あまりなかった。


 ノアが横から遠慮がちに言った。


「絵図は、職人組合の方に頼んだ方がよいかもしれません」


「そうですね」


「補佐官殿の絵は、味がありますが」


「味」


「契約上の正確性はあります」


「絵に契約上の正確性があるのですね」


 カレンが淡々と言った。


「褒め言葉としては苦しいですね」


 エリスは資料を整えながら、小さく息を吐いた。


 契約教育。


 言葉にすると簡単だ。


 だが、実際に始めようとすると、考えるべきことは多い。


 字が読める人。

 読めない人。

 少し読めるが、専門語は分からない人。

 代筆が必要な人。

 声を出すのが難しい人。

 家族や親方の前では本音を言えない人。

 貴族や商会を恐れて質問できない人。

 自分が何に署名したのか、今さら知るのが怖い人。


 契約を開くということは、ただ紙を公開することではない。


 その紙を前にして、人が自分の名前を取り戻せるようにすることだった。


「講習会の参加者は」


 エリスが尋ねると、ノアが名簿を差し出した。


「予定より増えました。港湾労働者十二名、職人見習い八名、奉公人六名、救護院関係者四名、下級神官三名、商人組合から二名、農村代表数名」


「数名?」


「ハルゼ村のロイ村長が、近隣村の方々も連れてこられたようです」


「王都まで?」


「はい。『南畑の件を繰り返したくない』とのことです」


 エリスは頷いた。


「分かりました」


「それから」


 ノアは少し言いにくそうに続けた。


「王太子殿下も参加されます」


 カレンが眉を上げる。


「見学ではなく?」


「再教育課程の一環として、一般講習に参加するそうです」


 エリスは一瞬、資料をめくる手を止めた。


 王太子ユリウスが、契約講習会に参加する。


 それは、王都の人々にとって大きな意味を持つだろう。


 契約を読むのは、平民だけの勉強ではない。

 魔力のない者だけの補習でもない。

 王太子でさえ、学ばなければならない。


 その事実は、契約教育の最初の講習にふさわしい。


 同時に、緊張も増える。


「特別席は用意しません」


 エリスは言った。


 ノアは頷いた。


「通常席でよいと、殿下側からも連絡がありました」


「護衛は」


「会場外に二名。会場内には入りません」


 カレンが少しだけ感心したように言った。


「少しは学んでおられるようですね」


「まだ少しです」


 エリスが言うと、カレンは軽く笑った。


「補佐官殿も容赦がありませんね」


「記録上の評価です」


 講習会は、旧市議堂の小ホールで行われた。


 王宮ではなく、支所でもなく、市民が入りやすい場所。

 昨日の民代表会議と同じ建物だが、今日は大広間ではなく、机を円形に並べた小さな部屋が使われた。


 正面には黒板。

 その横に、署名前確認七項目の大きな紙。

 机の上には、練習用の契約書。


 講師席は高くしなかった。


 エリスは、参加者と同じ高さに立つことにした。


 人々は緊張した顔で席についていた。


 港湾労働者たちは腕を組み、周囲を警戒するように見ている。

 職人見習いたちは、机に置かれた羽根ペンを触っては戻している。

 奉公人らしい若い女性たちは、部屋の端に固まって座っていた。

 救護院の老院長は穏やかな表情だが、隣の若い看護係は不安そうに紙を見つめている。

 ロイ村長は、近隣の農夫たちと一緒に前の方に座っていた。


 そして、王太子ユリウスは後方の席にいた。


 華美な服ではない。

 王家の紋章は小さく、目立たない。

 それでも、彼が王太子であることは誰の目にも明らかだった。


 人々はちらちらと彼を見ている。


 ユリウスは落ち着かない様子だったが、席を立たなかった。


 その少し後ろには、ラウルもいた。


 灰印の腕章はつけていない。

 だが、灰色の天秤印を小さく胸元に留めている。


 彼は、観察するように会場全体を見ていた。


 エリスは黒板の前に立ち、深く息を吸った。


「本日は、契約講習会にお越しいただきありがとうございます」


 ざわめきが収まる。


「最初に確認します。この講習に参加するための契約署名は必要ありません。今日、ここで何かに署名しなければならないこともありません」


 その一言で、何人かの表情が少し緩んだ。


「途中で分からなくなった場合は、質問してください。声に出して質問しにくい場合は、紙に書いても構いません。字を書くのが難しい場合は、隣の方や係員に伝えてください」


 エリスは、黒板に大きく書いた。


 ――分からない時は、止まってよい。


「契約書を渡されると、すぐに署名しなければならないと思う方が多いかもしれません。ですが、分からないまま署名しないことは、失礼ではありません。むしろ、大切な確認です」


 ユリウスが、わずかに目を伏せた。


 エリスは見なかったふりをした。


「今日は、契約書を見る時にまず確認する七つの場所を練習します」


 彼女は七項目を説明した。


 誰と契約するのか。

 何について契約するのか。

 いつまで続くのか。

 お金や物はどう動くのか。

 できなかった時、何が起きるのか。

 やめたい時、どうすればよいのか。

 誰かに代わりに任せる部分はあるのか。


 それぞれを、実例で説明する。


 パン窯を借りる契約。

 港で荷を運ぶ契約。

 薬草を納める契約。

 奉公契約。

 土地の担保契約。


 参加者たちは真剣に聞いていた。


 だが、聞いているだけでは身につかない。


 エリスは練習用契約書を配った。


 表題。


 ――共同パン窯利用契約。


 内容は簡単そうに見える。


 職人街の共同パン窯を、住民が利用するための契約。利用料は一回につき銅貨一枚。利用時間は朝の鐘から昼の鐘まで。壊した場合は修理費を負担する。


 しかし、危険な条項をいくつか入れてある。


 利用者は、窯の管理者へ利用登録を委任する。

 登録解除は管理者の承認を必要とする。

 利用料未払いの場合、管理者は利用者の台所道具一式を担保として預かることができる。

 管理者が必要と認める場合、利用者の名前で燃料購入契約を結べる。


 エリスは言った。


「この契約書の危険なところを探してください。正解は一つではありません」


 参加者たちは紙を覗き込んだ。


 字を読める者が、隣へ小声で読み上げる。

 読めない者は、印のついた確認表を見ながら、どこに何が書かれているかを探す。


 最初に手を上げたのは、港湾労働者だった。


「利用料未払いで台所道具一式って、取りすぎじゃないか」


「はい。利用料が銅貨一枚なのに、台所道具一式を担保にするのは釣り合いません。担保の範囲が広すぎます」


 次に、奉公人の女性が小さく手を上げた。


「登録解除に、管理者の承認がいるのが変です」


「よく気づきました」


 エリスは頷いた。


「やめたい時に相手の承認が必要だと、やめられなくなる可能性があります。解除方法は必ず確認してください」


 職人見習いの少年が紙を指した。


「管理者が必要と認める場合、利用者の名前で燃料購入契約を結べる、というところも危ないですか」


「非常に危ないです」


 エリスは黒板に書いた。


 ――代理権。


「誰かが自分の名前で契約できる、という条項は特に注意が必要です。何を、いくらまで、いつまで、誰と契約できるのか。範囲が書かれていなければ、署名してはいけません」


 ラウルが、静かにこちらを見ていた。


 灰印の包括名義使用条項も、これと同じ構造だった。


 民のために、必要なら名前を使う。


 その「必要」を誰が決めるのか。


 そこが問題なのだ。


 次に手を上げたのは、意外にもユリウスだった。


 会場が静まる。


 彼は少し居心地悪そうにしながらも言った。


「利用者、という言葉の定義が曖昧ではないか」


 エリスは少し驚いた。


「どの部分ですか」


「第一条では、利用者は『共同パン窯を使う者』とある。だが第五条では、利用者の台所道具を担保にできるとある。家族で使っている場合、署名した者だけなのか、家全体なのか分からない」


 会場がざわついた。


 エリスは頷いた。


「その通りです。定義が曖昧です。署名者本人だけなのか、家族や同居人を含むのかを明記する必要があります」


 ユリウスは、少しだけ息を吐いた。


 彼は正解したことを誇る様子ではなかった。

 むしろ、契約書を読むことの疲れを初めて知ったような顔をしていた。


 エリスは黒板に書き加えた。


 ――言葉の意味を確認する。


「南畑のように、一見簡単な言葉でも、定義で範囲が変わります。一部、利用者、管理者、必要、相当、旧地図、慣行。こうした言葉は、必ず確認してください」


 ロイ村長が大きく頷いていた。


 講習は順調に進んだ。


 だが、休憩時間に小さな騒ぎが起きた。


 一人の少女が、会場の外で泣きそうな顔をしていた。


 年は十代後半ほどだろう。粗末だが清潔な奉公服を着ている。手には古い契約書を握りしめていた。


 カレンが彼女を連れてくる。


「補佐官殿、この方が相談したいと」


 少女は深く頭を下げた。


「すみません。講習の途中で」


「構いません。お名前を伺ってもよろしいですか」


「リタです。リタ・ベル」


「リタ様。どうされましたか」


 リタは、契約書を差し出した。


「私は字がほとんど読めません。名前も、ちゃんとは書けなくて……親方の奥様に言われて、印を押しました」


「奉公契約ですか」


「はい。でも今日の話を聞いて、怖くなって」


 エリスは契約書を開いた。


 洗濯と台所仕事の奉公契約。

 期間は一年。

 住み込み。

 賃金は月ごと。

 病気の場合の休養は主人側判断。

 外出には許可が必要。


 この時点でも厳しいが、当時の奉公契約としては珍しくない。


 問題は、後半だった。


 ――奉公人は、主人家の信用を損なう外部講習、集会、相談、記録提出に参加してはならない。

 ――違反した場合、教育費、衣服費、住居費を一括返済する。

 ――返済不能時は、契約期間を主人家の判断で延長する。


 黒い染みが濃く浮かんでいた。


「これは」


 カレンの顔が険しくなる。


 リタは震える声で言った。


「今日ここに来たことが、ばれたら違反になるんでしょうか」


 エリスはすぐには答えなかった。


 契約上は、そう読まれる可能性がある。


 だが、だからといって認めてよい条項ではない。


「まず確認します」


 エリスは言った。


「この契約書に署名する時、この外部講習禁止条項について説明を受けましたか」


 リタは首を横に振った。


「全部いいようにしておくから、と言われました。私は、奉公先が決まるならと思って」


「名前は」


「書けないので、印を押しました」


「読み上げはありましたか」


「少しだけ。お給金と住み込みの話だけです」


 エリスは契約書を机に置いた。


 会場の参加者たちも、休憩を忘れてこちらを見ている。


 ユリウスも立ち上がっていた。


 ラウルは目を細めている。


「この契約には、問題があります」


 エリスは会場全体へ聞こえるように言った。


「第一に、講習や相談への参加を一律に禁止しています。これは、契約内容を確認する権利を不当に制限します」


 黒板に書く。


 ――相談禁止条項。


「第二に、違反時の返済額が広すぎます。教育費、衣服費、住居費とありますが、金額が明記されていません」


 ――不明確な違約金。


「第三に、返済不能時の契約延長が主人側判断となっています。これは、奉公人が実質的にやめられなくなる危険があります」


 ――解除不能。


 リタは青ざめた。


「やっぱり、私はやめられないんですか」


「いいえ」


 エリスははっきり言った。


「この契約の問題条項に対して、異議を申し立てます」


 リタの目が揺れる。


「でも、私、ちゃんと字も書けないし、親方の奥様に怒られたら」


「字が書けなくても、あなたの意思はあなたのものです」


 エリスは静かに言った。


「署名が文字でなく印でも、本人の意思確認は必要です。読めない人だからこそ、読み上げと説明が必要です」


 その言葉に、会場が静まり返った。


 読めない人の署名も、本人のもの。


 当たり前のようで、これまであまりにも軽く扱われてきたことだった。


 エリスは白紙を取り出した。


 ――奉公契約に関する緊急異議および不利益取扱停止通知。


 対象、リタ・ベル。

 契約相手、主人家名。

 問題条項、外部講習・相談禁止、不明確な返済義務、主人側判断による契約延長。

 本人説明、十分になし。

 本人は、契約内容の確認および不当条項の審査を望む。

 主人家は、本通知への返答まで、講習参加を理由とした解雇、賃金不払い、契約延長、返済請求、外出制限強化を行ってはならない。

 拒否する場合、その理由を記録付きで提出すること。


 エリスは書き終えると、リタを見た。


「この申立に参加するかどうかは、あなたが決めます。今すぐ決めなくても構いません」


 リタは紙を見つめた。


「これに署名しないと、助けてもらえないんですか」


「いいえ。まず相談記録は作れます。署名するのは、相手へ通知を出す場合です」


「署名したら、私の名前が相手に行きますか」


「はい。相手契約者へ通知するため、あなたの名前は必要です。ただし、支所と民代表記録所が写しを保管します。あなたが一人で相手と向き合わなくてよいようにします」


 リタは、長く黙った。


 手が震えている。


 会場の誰も急かさなかった。


 やがて、彼女は言った。


「書けません」


「印でも構いません」


「でも、さっきみたいに、印を押したらまた怖いことになりませんか」


 エリスは胸が痛んだ。


 その怖さは正しい。


 印を押すこと自体が怖くなっている。


「では、読み上げ確認をしましょう」


 エリスは言った。


「私が読み上げます。ノア様が記録します。カレンが確認者になります。あなたが分からないところで止めてください。全部分かった上で、それでも通知を出したいと思ったら印を押してください」


 リタは頷いた。


 エリスは一文ずつ読み上げた。


 難しい言葉は、平易な言葉に直して説明する。


 緊急異議。

 不利益取扱停止。

 返答期限。

 写し保管。


 リタは何度も質問した。


「不利益って何ですか」


「あなたに悪い扱いをすることです。たとえば、講習に行ったから給金を払わない、外出を全部禁止する、契約期間を勝手に延ばす、などです」


「返答期限を過ぎたら?」


「相手が答えなかったことを記録します。その場合、民代表記録所の暫定審査に進めます」


「私がやっぱりやめたいと言ったら?」


「申立を取り下げることもできます。ただし、取り下げを強制されていないか確認します」


 リタは、最後まで聞いた。


 そして、小さな声で言った。


「通知を出したいです」


「分かりました」


 彼女は、インクをつけた親指で印を押した。


 リタ・ベルの印。


 字ではない。

 だが、それは彼女の署名だった。


 エリスは、その下に書く。


 ――本人に全文を読み上げ、本人が質問し、内容を理解したうえで押印したことを確認する。


 読み上げ者、エリス・フォーマルハウト。

 記録者、ノア・リード。

 確認者、カレン・ローヴェ。


 会場の空気が変わっていた。


 ただ話を聞いていた人々が、契約が自分の目の前で直されるところを見たのだ。


 ラウルが小さく呟いた。


「一人ずつ、か」


 エリスは彼を見た。


「はい。一人ずつです」


「遅い」


「それでも、この一人の名前は守れます」


 ラウルは反論しなかった。


 その代わり、リタに向かって言った。


「もし同じ条項で困っている奉公人が他にもいるなら、灰印にも情報がある」


 カレンが即座に警戒する。


 だが、ラウルは続けた。


「ただし、名前を勝手に使うことはしない。支所へつなぐ」


 エリスは少し驚いた。


 ラウルは肩をすくめる。


「昨日、署名しましたからね。しばらくは第三案に従います」


「ありがとうございます」


「感謝されると落ち着きません」


 講習は、その出来事を教材として続いた。


 エリスは黒板に新しい項目を書いた。


 ――字が読めない場合の署名確認。


 一、全文を読み上げてもらう。

 二、分からない言葉を質問する。

 三、説明した人の名前を記録する。

 四、急かされたら保留する。

 五、押印も署名と同じ重さを持つ。

 六、代理や名義使用の条項は特に確認する。


 ユリウスが手を上げた。


「王宮契約にも、読み上げ確認は必要か」


「必要です」


 エリスは答えた。


「特に、相手が読めない場合、または専門語を理解していない場合は、読み上げと説明の記録が必要です」


「貴族間の契約でも?」


「貴族でも、理解していない場合は同じです」


「王太子でも?」


「はい」


 会場の数人が、思わず笑いそうになった。


 ユリウスは少し苦い顔をしたが、怒らなかった。


「分かった。王太子教育にも入れる」


 ノアが素早く記録した。


 講習の終盤、ミリアが会場に入ってきた。


 北方から王都へ到着したばかりだった。

 首元には、もうチョーカーはない。白い襟巻きだけがある。


 彼女は少し緊張した様子だったが、エリスを見ると小さく頷いた。


「間に合いましたか」


「はい。ちょうど、本人意思確認の話をしていました」


 ミリアは前へ出た。


 参加者たちはざわついた。


 聖女ミリア。

 そう呼びかけようとした人もいたが、彼女は先に言った。


「ミリア・クレインです」


 その名乗りで、会場が静まった。


「私は、以前、契約の内容をよく知らないまま、言葉を言わされました。その言葉が、私の署名のように扱われました」


 ミリアの声は震えていた。

 だが、止まらなかった。


「私は、聖女という名前をもらいました。でも、その名前の中で、ミリア・クレインという自分の名前が見えなくなりました」


 エリスは、黙って聞いていた。


「だから、今日ここにいる皆さんに伝えたいです。分からないまま言わされた言葉も、分からないまま押した印も、あとで大きな力を持ってしまうことがあります」


 彼女は、自分の首元に手を当てた。


「でも、後からでも、読んでもらうことはできます。私は、エリス様に読んでもらって、自分の名前を取り戻しました」


 会場の空気は、深く静かだった。


 ミリアは最後に言った。


「私はまだ、契約書を読むのが得意ではありません。でも、分からない時に分からないと言う練習をしています。それも、契約を読むことの一つだと思います」


 その言葉は、講習会のどの説明よりも参加者に届いたかもしれない。


 講習が終わると、参加者たちはすぐには帰らなかった。


 自分の契約書を見せ合う者。

 隣の人に七項目を確認してもらう者。

 読み上げ確認の方法をもう一度聞く者。

 リタのような奉公契約を持っている人を探す者。


 ラウルは、灰印の者数名と話していた。

 彼らは不満そうだったが、ラウルは低い声で何かを説明している。


 ユリウスは、しばらく黒板の前に立っていた。


 そこには、エリスの字でこう書かれている。


 ――分からない時は、止まってよい。


 彼はその文字を見つめていた。


「殿下」


 エリスが声をかけると、ユリウスは振り返った。


「昔の私に見せたい言葉だ」


 彼は自嘲気味に言った。


「見せても、昔の殿下は読まなかったかもしれません」


「容赦がないな」


「記録上の推測です」


「否定できない」


 ユリウスは黒板から視線を戻した。


「今日、リタという奉公人の契約を見て、少し分かった。私が読まずに署名した契約も、ああいうものだったのだな」


「規模は違いますが、構造は似ています」


「相手を見ずに、名前だけ使う」


「はい」


「私は、君の名前をそう扱った」


 エリスはすぐには答えなかった。


 ユリウスは続けた。


「謝罪はした。だが、それで終わらないことも分かっている」


「はい」


「だから、次の王太子教育に、この講習を入れる。王族も、貴族も、契約を読む。読めない者へ説明する。読まずに署名することを、誇りにしない」


 彼の声には、まだ硬さがあった。

 だが、逃げてはいなかった。


「その内容を、文書にしてください」


 エリスは言った。


 ユリウスは一瞬だけ笑った。


「やはり、そう来るか」


「はい」


「分かった。文書にする」


 それでよい。


 反省は、言葉だけでは消える。

 文書にし、手続きにし、次の行動に変える必要がある。


 夕方、支所へ戻ると、リタの奉公契約に関する返答が早くも届いていた。


 主人家からではない。


 主人家と契約している仲介業者からだった。


 内容は強硬だった。


 ――リタ・ベルは契約違反により奉公人資格を失う。

 ――教育費、衣服費、住居費、紹介手数料、契約違反金を合わせて銀貨百二十枚を請求する。

 ――支払い不能の場合、契約期間を三年延長する。

 ――王都契約相談支所による介入は、正当な雇用契約への妨害である。


 エリスの視界が黒く染まった。


「早すぎます」


 カレンが言った。


「講習会に参加したことを、もう把握している」


 ノアが顔を青くする。


「会場に監視がいたのでしょうか」


「可能性があります」


 エリスは請求書を読み込んだ。


 銀貨百二十枚。


 リタの賃金では、とても払えない。

 そして支払い不能なら三年延長。


 これは、契約による拘束だ。


 レオンハルトが低く言った。


「相手を呼ぶか」


「はい。ただし、まず緊急暫定通知制度を使います」


 エリスは、昨日採用されたばかりの第三案を開いた。


 生命、住居、賃金、契約拘束に関わる緊急案件。

 相手方の不利益取扱。

 資料提出期限三日。

 拒否した場合、暫定審査へ。


「これが、制度の最初の実例になります」


 ノアが息を呑んだ。


「いきなりですか」


「制度は、使うために作りました」


 エリスは白紙を取る。


 ――緊急暫定通知。

 対象、リタ・ベル奉公契約。

 相手方、仲介業者および主人家。

 通知内容、講習参加を理由とする資格喪失、過大請求、契約期間延長を暫定停止。

 提出要求、契約時の読み上げ記録、費用内訳、本人説明記録、紹介手数料契約、契約延長根拠。

 期限、三日以内。

 期限内に提出なき場合、民代表記録所暫定審査へ移行。


 署名。


 エリス・フォーマルハウト。


 さらに、民代表記録所仮担当として港湾代表、救護院長、職人代表の署名を求める。


 リタ本人の署名は、すでに異議申立にある。

 だが、追加の請求停止についても確認が必要だ。


 カレンが言った。


「リタ様は、まだ会場近くにいます。呼びます」


「お願いします」


 リタは、不安で青ざめながら支所に来た。


 請求書を見ると、手が震えた。


「銀貨百二十枚なんて、払えません」


「払う必要があるかどうかを、これから確認します」


「でも、三年延長って」


「それも止める通知を出します」


「私、講習に来なければよかったんでしょうか」


 その声は、小さく、痛かった。


 エリスは首を横に振った。


「いいえ」


「でも、こんなことに」


「これは、あなたが講習に来たせいではありません。相手の契約条項と請求が不当である可能性が高いから起きています」


 リタは涙をこらえていた。


「怖いです」


「怖くて当然です」


 エリスは言った。


「その上で、どうするか一緒に確認しましょう。通知を出すか、少し待つか、別の保護を求めるか。選ぶのはあなたです」


 リタは、長い時間をかけて説明を聞いた。


 今度は、先ほどより少しだけ早く質問できた。


「通知を出したら、私は奉公先に戻らなくていいですか」


「当面は支所の紹介する一時保護先に移ることができます。救護院の宿舎が使えるか確認します」


「仕事は」


「暫定審査の間、救護院の雑務補助として働けるかもしれません。賃金条件は別契約で確認します」


「また契約ですか」


 リタは不安そうに言った。


 エリスは頷いた。


「はい。ですが、今度は読み上げて、分からないところを確認してからです」


 リタは少しだけ笑った。


「それなら、少し怖くないです」


 彼女は緊急暫定通知に押印した。


 読み上げ、質問、確認。


 すべて記録した。


 この一件は、すぐに支所全体を動かした。


 救護院長は一時保護を承諾した。

 職人代表は、同様の契約条項を持つ奉公人が職人街にもいると報告した。

 ラウルは、灰印の情報網で同じ仲介業者の契約書を集めると申し出た。

 ユリウスは王宮契約管理室へ、奉公仲介業者の登録記録を提出させるよう手配した。


 それぞれ、立場は違う。


 だが、一つの名前を守るために動き始めた。


 リタ・ベル。


 その名前は、数ではない。


 民、奉公人、契約被害者、講習参加者。


 どんな分類にも入る。

 だが、それだけではない。


 一人の名前だ。


 夜、エリスは支所の記録室で、今日の講習記録を書いていた。


 講習参加者数。

 使用資料。

 質問内容。

 リタ・ベル奉公契約異議。

 緊急暫定通知発出。

 読み上げ確認手続き。

 今後の課題。


 最後に、彼女は一文を加えた。


 ――読めない人の署名も、本人のものである。したがって、読めないことは、本人の意思を軽く扱う理由にはならない。


 書き終えた時、レオンハルトが部屋に入ってきた。


「まだ書いていたのか」


「今日の記録だけです」


「だけ、が多い」


「はい」


 彼は机の上の資料を見た。


「リタの件は、長くなる」


「分かっています」


「仲介業者の背後に商会がいる可能性もある」


「はい」


「灰印も関わろうとするだろう」


「それも、分かっています」


「それでもやるのか」


 エリスは顔を上げた。


「やります」


 レオンハルトは、少しだけ口元を緩めた。


「そう言うと思った」


「一人ずつですから」


「ああ」


「一人ずつ読むしかありません。でも、一人ずつ読める人を増やせば、いつか一人ではなくなります」


 窓の外で、王都の灯りが静かに揺れていた。


 契約教育の最初の日は、ただの講習では終わらなかった。


 最初の実例が生まれた。

 最初の緊急暫定通知が出た。

 最初の押印確認が、支所の記録に残った。


 王国を変えるには、あまりに小さな一歩かもしれない。


 だが、エリスはもう知っている。


 契約書は、一行で人を縛る。

 ならば、一行で人を守ることもできる。


 彼女は記録簿を閉じた。


 明日もまた、誰かが契約書を持ってくるだろう。


 読めない文字。

 曖昧な定義。

 広すぎる代理権。

 重すぎる罰則。

 やめられない契約。


 その一つひとつに、名前がある。


 だから、読む。


 名前が数に変えられないように。

 本人の署名が、本人の意思から離れないように。

 誰かの大義にも、誰かの支配にも、飲み込まれないように。


 エリス・フォーマルハウトは、羽根ペンを置き、静かに灯りを消した。

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