↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

隣の完璧な婚約者が、私の前でだけ「クイックセーブ」を連発する件。〜死に戻り1万回の執着が重すぎて、もはやホラーです〜

作者: キュラス
掲載日:2026/04/25

王宮の奥深くに設えられた、白亜の美しいガゼボ。

 色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園で、私はこの国の第一王子であり、私の婚約者でもあるアリスティア様と優雅なティータイムを楽しんでいた。


「今日の君も、本当に美しいね、フェリシア」

「もったいないお言葉ですわ、アリスティア様」


春の陽だまりのように温かく、そして甘い微笑みを浮かべる彼。

 プラチナブロンドの髪は陽光を反射してきらきらと輝き、海のように青い瞳は、ただひたすらに私への慈愛に満ちている。

 誰もが羨む、完璧な王子様。本来であれば、私のような少し気が強くて可愛げのない公爵令嬢などではなく、もっと可憐な令嬢が選ばれるべきだったのに、彼はなぜか私を「世界で一番の宝物」のように溺愛してくれている。


――ええ、彼は本当に、完璧な婚約者だ。


ただ一つ。

 彼の頭上に、青白く光る半透明の文字が浮かんでいることさえ除けば。


【 SYSTEM LOG:好感度安定・生存ルート進行中 】


数日前から、私の視界にはなぜかこんなおかしな「文字」が見えるようになっていた。

 幻覚か目の病気かと思ったが、どうやらこの奇妙な板(のようなもの)は、アリスティア様の行動に合わせて内容が変わるらしい。彼以外の人間には見えておらず、私がそれをじっと見つめていても、彼自身は全く気付いていないようだった。


「フェリシア? どうかしたかい?」

「あ……いえ、何でもありませんわ」


彼が心配そうに首を傾げると、頭上の文字がスッと切り替わった。


【 TARGET:フェリシア 精神状態:わずかな動揺を検知 】

【 思考ルーチン:安撫行動を選択 】


直後、アリスティア様は優しく私の手を取り、その甲にそっと唇を落とした。

「少し疲れたかな? 君が無理をしているなら、すぐに部屋へ戻ろう。俺の愛しいお姫様」

「大丈夫ですわ、アリスティア様。少しぼんやりしていただけですから」


私の返事を聞いて、彼はふわりと安心したように笑った。

 頭上の文字には、【 精神状態:安定に回復 】と表示されている。


初めのうちは、この奇妙な文字の羅列に戸惑っていた。

 けれど、彼が私を心から愛してくれていること、私の些細な変化を気にかけてくれていることの証明でもあるのだと、無理やり自分を納得させていた。


……そう、ここまでは良かったのだ。

 この「奇妙な文字」の本当の恐ろしさを、私はまだ全く理解していなかった。


◇◇◇


「さあ、このお茶をどうぞ。君の好きな、南部の茶葉を取り寄せたんだ」

「まぁ、嬉しいですわ」


彼が自らティーポットを傾け、美しい琥珀色の液体をカップに注ぐ。

 その瞬間、彼の頭上で文字がピリッと明滅した。


【 QUICK SAVE:ループ回数 10,422回目 - ティータイム開始 】


……クイックセーブ? ループ回数?

 意味の分からない単語に首を傾げながら、私はカップを手に取った。芳醇な香りが鼻をくすぐる。

 一口、口に含む。


「あっ……」


少しだけ、熱かった。

 本当に、ほんの少しだけ。舌先がピリッとした程度の、熱いお茶を飲んだ時によくある日常のワンシーン。

 私は小さく眉をひそめ、すぐに「美味しいですわ」と微笑みかけようとした。


しかし。

 カップから顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、一切の表情が抜け落ちた、能面のようなアリスティア様の顔だった。


「……フェリシアが、不快な思いをした」


光の消えた虚ろな青い瞳。

 彼は私ではなく、空中の何もない一点を見つめ、凍りつくような冷たい声で呟いた。


「やり直しだ。こんな失敗(エラー)、俺の完璧な世界にはいらない」


彼が空中で、見えない何かを「タップ」するような動作をした。

 その直後、彼の頭上に赤い警告文字がポップアップする。


【 QUICK LOAD:実行しますか? YES / NO 】

【 >YES を選択 】

【 ロード中……直前のセーブデータ(10,422回目 - ティータイム開始)を読み込みます 】


――えっ?

 次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 脳髄を直接揺さぶられるような強烈な眩暈(めまい)。耳鳴りがキーンと鳴り響き、世界の色彩がノイズのように乱れて、逆流する。


「っ……!?」


思わず目を強く瞑り、再び開けた時。

 私は、テーブルの上に置かれた空のティーカップを見つめていた。


「さあ、このお茶をどうぞ。君の好きな、南部の茶葉を取り寄せたんだ」


……嘘。

 全く同じ声、全く同じトーン、全く同じ角度の微笑み。

 つい十数秒前、アリスティア様が私に言った言葉が、そのままリフレインしている。

 パニックになりそうな頭で彼を見上げると、彼の頭上にはまたしてもあの文字が浮かんでいた。


【 QUICK SAVE:ループ回数 10,422回目 - ティータイム開始 】


何が起きているの?

 時間が、戻った……?


「フェリシア、どうぞ」

「あ、ありがとう、ございます……」


震える手でカップを持ち上げる。

 さっきはここで、お茶が少し熱くて眉をひそめてしまった。また同じように熱いのだろうか。警戒しながら口をつけようとした、その時。


「待って、フェリシア」


アリスティア様が、私の手をそっと押し留めた。

 そして、私が手にしたカップに自分の顔を近づけ、ふーっ、ふーっ、と優しく息を吹きかけてお茶を冷まし始めたのだ。


「少し熱いかもしれないからね。俺の大事なお姫様が火傷でもしたら大変だ」


彼は、完璧な、本当に非の打ち所のない甘い笑顔でそう言った。

 まるで「私がお茶の熱さで眉をひそめる未来」を、あらかじめ知っていたかのように。


【 STATUS:好感度維持 / 軽微なダメージ回避成功 】

【 進行フラグ:パーフェクト達成 】


冷まされたお茶を飲む。今度は完璧な温度だった。

「……美味しい、ですわ」

「それは良かった。君の喜ぶ顔が見られるのが、俺の何よりの幸せだからね」


彼は嬉しそうに目を細めている。

 だが、私の背中にはじっとりと冷たい汗が伝っていた。


――気味が悪い。


彼が優しくしてくれたことではない。

 私が「少し熱い」と感じただけの、ほんの数秒の「エラー」を修正するためだけに、彼は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく『時間を巻き戻した』のだ。


私は震える指先をテーブルの下で隠すように握りしめた。

 「ループ回数 10,422回目」。

 その数字が、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。


◇◇◇


私が「お茶が少し熱い」と感じただけで、時間は巻き戻された。

 それが偶然の幻覚ではないことを確かめるため、私は震える心を奮い立たせ、一つの「実験」をすることにした。


「アリスティア様。この苺のケーキ、とても美味しそうですね」

「ああ。王都で一番のパティシエを城に呼んで作らせたんだ。君の口に合うといいのだけれど」


甘く微笑む彼を前に、私はわざと、手に持っていた銀のフォークをテーブルから滑り落とした。


カチャン、と甲高い音が響き、フォークが足元の芝生に落ちる。

 ほんの些細な粗相。普段の彼なら「おや、怪我はないかい? 新しいものを持ってこさせよう」と優しく笑ってくれるはずの場面だ。


しかし。

 私の視界の隅で、またしても赤い文字がポップアップした。


【 TARGET:フェリシア 粗相による自尊心の低下リスクを検知 】

【 進行フラグ:パーフェクト失敗(微細エラー) 】


「……あ」


顔を上げたアリスティア様は、またしてもあの「能面」のような虚ろな表情になっていた。

 彼は私を通り越し、虚空を見つめて小さく舌打ちをする。


「しまった。フォークの重心のバランスが悪かったか。彼女に恥をかかせてしまった……やり直しだ」


【 QUICK LOAD:実行しますか? YES / NO 】

【 >YES を選択 】


――まただ。

 視界がぐにゃりと歪み、強烈な吐き気が胃から込み上げてくる。耳鳴りがしたかと思うと、世界は再び数秒前の「完璧な時間」へと巻き戻っていた。


「アリスティア様。この苺のケーキ、とても美味しそうですね」


自分の口から、先ほどと全く同じ台詞が自動的に紡ぎ出される。止めようと思っても、体は決められたレールの上をなぞるように動いてしまう。


「ああ。王都で一番のパティシエを……おっと」


私がフォークを落とす、まさにその1秒前。

 アリスティア様は極めて自然な動作で身を乗り出し、私の手から滑り落ちようとしたフォークを、空中で優雅にキャッチしてみせた。


「……持ち手が少し滑りやすいみたいだね。ごめんよフェリシア、すぐに別の物を用意させよう」

「あ……ええ、ありがとう、ございます……」


【 STATUS:自尊心低下リスク回避成功 / スマートな対応による好感度UP 】


頭上のログが緑色に光るのを見て、彼は満足そうに微笑んだ。

 怖い。

 狂っている。

 彼は、私が「フォークを落とした」という事実そのものを世界から消し去ったのだ。私に一瞬たりとも恥をかかせないために。私の感情を、一ミリの狂いもなく「快」の状態に保ち続けるために。


これは愛じゃない。

 ただの、異常な「最適化(ゲームプレイ)」だ。


◇◇◇


「殿下、急ぎの決済が」


その時、一人の文官が足早にガゼボに近づいてきた。

 アリスティア様は少しだけ不機嫌そうに眉をひそめたが、すぐに私に向き直り、甘い声で囁いた。


「すまない、フェリシア。少しだけ席を外すよ。すぐに戻るから、待っていてくれるかい?」

「はい……いってらっしゃいませ」


彼が文官と共に立ち去った後、ガゼボには私一人だけが残された。

 大きく息を吐き出す。彼と一緒にいるだけで、呼吸の仕方すら分からなくなりそうだった。


ふと、彼の座っていた席に目をやると、彼がいつも持ち歩いている黒革の手帳が置き忘れられているのに気がついた。

 普段なら他人の手帳を覗き見るなどという下品な真似は絶対にしない。だが、今の私には、彼が一体何を考えているのか、その正体を知らなければ精神が崩壊してしまいそうだった。


周囲に誰もいないことを確認し、私は震える手でその黒革の手帳を開いた。


「っ……!」


ページを開いた瞬間、私は息を呑んだ。

 そこに書かれていたのは、公務の予定でも、日記でもなかった。

 びっしりと、隙間なく書き込まれた、おぞましい「記録」の羅列だった。


『ループ第322回:階段からの転落死(原因:メイドの掃除不足による水濡れ。次回ループにて該当メイドを事前解雇)』

『ループ第1,054回:流行り病による病死(原因:南部の特使からの感染。次回ループにて特使の馬車を事故に見せかけ処分)』

『ループ第4,500回:毒殺(原因:第二王子派閥の暗躍。次回ループにて第二王子を反逆罪で処刑)』


「な、に……これ……」


声が震えた。

 そこには、私が過去に(私の知らない世界線で)死んだ理由と、その死を回避するためにアリスティア様が実行した「解決策」が淡々と記されていたのだ。


彼は、私を生かすために。

 私が病気にならないように、私が怪我をしないように、私が誰かに狙われないように。

 何千人、何万人もの人間を、次のループが始まる前にあらかじめ「排除」してきたのだ。


ページをめくる手が止まらない。

 視界が涙で滲む。恐ろしくて、吐き気がするのに、真実から目を逸らせなかった。


『ループ第8,900回:聖女エレンによる断罪イベント発生。フェリシア、精神的ショックにより自死。』

『(追記)エレンはストーリー上の正規ヒロインだが、フェリシアの生存フラグをへし折る最大の害虫(バグ)であると認定。以降のループでは、エレンが聖女として覚醒する前に、北の修道院へ幽閉することを基本手順とする。』


聖女エレン。

 神託によって選ばれるはずだった、この国の真の聖女。だが彼女は、数年前から重い病を患い、修道院から一歩も出られないと聞いていた。

 ……それすらも。

 彼が私を「悪役令嬢」としての断罪イベントから守るために、あらかじめ彼女の人生を壊していたというのか。


「……ひどい」


これは、彼が「フェリシア」というキャラクターを生存させるための、血塗られた攻略本だ。

 私が今こうして温かい紅茶を飲み、美しい薔薇に囲まれて笑っていられるのは、彼が文字通り「世界を何千回もリセットし、自分に都合の悪い人間をすべて消し去った」結果でしかない。


「――フェリシア?」


ビクンッ、と肩が大きく跳ねた。

 振り返ると、そこにはガゼボの入り口に立つアリスティア様がいた。

 彼の視線は、私の手元にある黒革の手帳に真っ直ぐに注がれていた。


「あ……違うの、これは……」


言い訳をしようとしたが、恐怖で喉が引き攣って声が出ない。

 手帳を床に取り落としてしまった私を見て、アリスティア様の顔から、スゥッと「甘い婚約者」の仮面が剥がれ落ちた。


【 TARGET:フェリシア 隠蔽フラグの崩壊を検知 】

【 精神状態:極度の恐怖状態 】

【 警告:このままではターゲットの心が壊れる(バッドエンド)可能性があります 】


虚空に浮かび上がる、真っ赤な警告文字。

 アリスティア様は、能面のような無表情で私を見下ろし、そして、静かに右手を持ち上げた。


「……見られてしまったか。君には、知らなくてもいい穢れ(バグ)だったのに」


【 QUICK LOAD:実行しますか? YES / NO 】


指先が、空中の見えないボタンに触れようとする。

 やめて。

 また時間が巻き戻る。彼が手帳を置き忘れなかった「完璧な過去」へ修正される。私のこの恐怖すらも、なかったことにされてしまう。


「やめてっ!」


私は無我夢中で立ち上がり、彼の腕にすがりついた。


◇◇◇


「やめてっ!」


私は無我夢中で立ち上がり、アリスティア様の右腕にすがりついた。

 空中に浮かぶ見えないボタンを押そうとしていた彼の指先が、空を切る。


その瞬間、私の視界を覆っていた青白いシステム画面が、けたたましいノイズと共に真っ赤に染まった。


【 SYSTEM ERROR:対象(フェリシア)からの物理的干渉を検知 】

【 処理中断:クイックロードに失敗しました 】


「……フェリシア?」


アリスティア様は、信じられないものを見るような目で私を見下ろした。

 そして、自分の頭上の虚空と、そこにすがりつく私の視線を交互に確認し、やがて悟ったように目を見開いた。


「まさか……君、俺の『システム』が見えているのか?」

「……ええ、見えているわ。あなたの頭の上に浮かぶ気味の悪い文字も、あなたが時間を巻き戻していることも!」


私はポロポロと涙を流しながら、足元に落ちた黒革の手帳を指差した。


「手帳も見たわ。322回、1054回……何千回も、何万回も。私を死なせないために、あなたが裏で何をしてきたのかも……っ。こんなの、狂ってる! こんな血塗られた幸せ、私は少しも望んでいない!」


怒りと恐怖で声が震える。

 私は彼から離れようと腕を振りほどこうとした。だが、彼の大きな手が私の手首をガシッと掴み、絶対に逃がさないとばかりに強く握りしめた。


「狂っている……? 俺が?」


アリスティア様の声は、今まで聞いたことがないほど低く、冷たく、そして……酷く疲弊していた。


「君は、俺が狂っていると言うんだな。……階段から落ちて首の骨を折り、俺の腕の中で事切れる君を見るのが322回。吐血し、苦しみながら息絶える君を看取るのが4500回……」


彼の海のように青い瞳の奥に、底知れぬ暗い闇が渦巻いているのが見えた。

 それは、途方もない途方もない時間をたった一人で繰り返し、愛する人の死を何千回、何万回と見せつけられてきた「プレイヤー」の、壊れきった精神そのものだった。


「どうすれば君を救えるのか、すべての選択肢を試した。俺が優しすぎたせいで君が殺されたルートもあった。俺が厳しすぎたせいで君が自死を選んだルートもあった。……何万回もの絶望の果てに、ようやく見つけたんだ。俺がすべての危険を排除し、君の感情の微細な揺れすらもコントロールして、完璧な幸福だけを与えるルートを」


アリスティア様は、私の手首を掴んだまま、もう片方の手で私の頬を包み込んだ。

 その手は、氷のように冷たかった。


「なのに、なぜ泣くんだい? 俺が君を愛しているのに。君を完璧に守ってあげているのに。どうして、そんなに怯えた顔をするんだ」


【 警告:ターゲットの好感度が急激に低下しています 】

【 警告:ルート分岐の可能性。バッドエンドフラグが起立しました 】


空中に浮かぶ赤いアラートが、激しく明滅を繰り返している。

 彼はその警告文を一瞥すると、ひどく悲しそうに微笑んだ。


「ダメだ。君が俺を恐れる世界なんて、間違っている。これはエラーだ。すぐに直してあげるからね、俺の愛しいフェリシア」


彼は再び、空中の見えないシステム画面に指を伸ばした。


【 QUICK LOAD:実行しますか? YES / NO 】


「やめて! 時間を巻き戻しても無駄よ!」


私は必死に叫んだ。


「私はもう気付いてしまったの! 何度ロードを繰り返しても、私があなたに触れればロードは中断される。それに、システムが見えている今の私なら、過去に戻っても『戻った』って気付いてしまうわ! もう、あなたの思い通りの人形にはならない!」


ハッタリだった。本当に時間を遡っても記憶が残る保証などどこにもない。

 だが、彼を止めるにはそう言うしかなかった。

 私の叫びを聞いて、アリスティア様の指先がピタリと止まる。


ガゼボの中を、重苦しい沈黙が支配した。

 風が吹き抜け、薔薇の花びらがハラハラと舞い散る。


やがて。

 アリスティア様は、フッ、と静かに息を吐き出した。


「……そうか。君にシステムが見えている以上、小手先のクイックロードでは『無知で幸せなフェリシア』に戻すことはできない、か」


彼が指を下ろす。

 空中に浮かんでいた【QUICK LOAD】のポップアップ画面が消滅した。

 ……止まった。私が時間を巻き戻すのを諦めさせたんだ。

 安堵で膝から崩れ落ちそうになった、その時。


「なら、仕方ないね」


アリスティア様が、甘く、甘く微笑んだ。

 今まで見せていた「完璧な王子様」の笑顔ではない。タガが外れ、狂気が完全に露出した、歪で恐ろしい笑顔。


彼の頭上に、今までとは全く違う、漆黒のシステムウィンドウが展開された。


【 MASTER COMMAND:システム権限の強制執行 】

【 >対象(フェリシア)の『記憶データ』に直接アクセスしますか? 】


「……え?」


「君がすべてを知ってしまったというなら、知る前の『セーブデータ』から君の記憶だけを上書きすればいい。……多少、君の精神に後遺症が残るかもしれないけれど、俺が一生、ベッドの上で優しく愛してあげるから問題ないよね」


アリスティア様が、迷いなく空中の【実行】ボタンに手を伸ばす。


「いや……っ、こないで……!」


後ずさろうとした私を、彼は強引に引き寄せ、その腕の中に深く閉じ込めた。

 逃げられない。彼の狂気からは、システムからは、絶対に。


【 実行完了:ターゲットの記憶の初期化(フォーマット)を開始します―― 】


◇◇◇


【 実行完了:ターゲットの記憶の初期化(フォーマット)を開始します―― 】


漆黒のシステムウィンドウにその無機質な文字が浮かび上がった瞬間。

 私の脳髄に、氷の杭を直接打ち込まれたような鋭い痛みが走った。


「ぁ……っ、あ……!」


視界が白く明滅する。

 アリスティア様に抱きすくめられたまま、私の体から急速に力が抜け落ちていく。

 頭の中を掻き回されるような感覚。記憶の糸が、一本、また一本と、プツリプツリと断ち切られていくのが分かった。


黒革の手帳に記された、おぞましい死の記録が消えていく。

 彼が世界を何万回もリセットしていたという真実が、真っ白に塗り潰されていく。

 怖い、逃げたい、という防衛本能すらも、甘く麻痺して溶けていく。


「やめ……いやだ……わたし、は……っ」


消さないで。

 私が私でなくなってしまう。ただの、彼にとって都合の良い「可愛いだけの人形」にされてしまう。

 すがりつくように伸ばした私の手を、アリスティア様は優しく、ひどく愛おしそうに握りしめた。


「怖くないよ、フェリシア。怖い記憶は全部、俺が消してあげるからね」


鼓膜を揺らす甘い声が、遠ざかる意識の中で子守唄のように響く。


「君は何も知らなくていい。何も考えなくていい。ただ俺の腕の中で、俺が与える完璧な幸福だけを享受して、一生笑っていてくれればそれでいいんだ」


――あ、あ。


最後に見たのは、ひどく美しく、そして完全に狂い果てた、私の完璧な婚約者の笑顔だった。


【 記憶の初期化……99%……100% 】

【 処理完了。再起動(リブート)を行います 】


その無機質なログを最後に、私の意識は完全な暗闇へと沈み込んだ。


◇◇◇


小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな春の風で、私はゆっくりと目を覚ました。

 ふかふかの天蓋付きベッド。王宮にある、私専用の美しい私室だ。


「……ん……」


身じろぎをして体を起こすと、頭に薄い靄(もや)がかかったような、ぼんやりとした感覚があった。

 ひどく長い、そして恐ろしい夢を見ていた気がする。けれど、どんな夢だったのか、肝心な部分はきれいさっぱり思い出せない。

 ただ、胸の奥に小さな穴が空いてしまったような、奇妙な喪失感だけが残っていた。


「おはよう、俺の愛しいお姫様」


ふいに、寝室の扉が開いて、甘い声が響いた。

 朝日を背負って立っていたのは、プラチナブロンドの髪を輝かせた、私の完璧な婚約者――アリスティア様だった。

 彼の手には、私が一番好きな、美しいピンク色の薔薇のブーケが握られている。


「アリスティア、様……」

「気分はどうだい? 少し長く眠っていたから、心配したよ」


彼はベッドの端に腰を下ろすと、私の頬を愛おしそうに撫でた。

 彼の手の温もりに触れた瞬間、私の中にあった「小さな喪失感」は、安心感と強烈な愛情に上書きされて消え去った。


ああ、私はなんて幸せなのだろう。

 こんなにも優しく、美しく、私のことを世界で一番愛してくれる人がそばにいるのだから。


「私、なんだかとても怖い夢を見ていた気がするんです。でも……アリスティア様のお顔を見たら、全部忘れてしまいましたわ」

「そう。それは良かった」


アリスティア様はとろけるような笑顔を浮かべ、私の額にそっと唇を落とした。


「俺が、君に二度と怖い夢なんて見せない。君の歩く道から、小石ひとつ、棘ひとつ残さずすべて排除して、永遠に君を守り続けると誓うよ」

「ふふっ。アリスティア様は、少し過保護すぎますわ」


冗談めかして笑う私を、彼は宝物を抱きしめるようにそっと抱き寄せた。


私の視界にはもう、あの青白く光る「おかしな文字」は映っていない。

 彼が背後でどんな顔をしているのかも、私には分からない。


ただ、彼が私を抱きしめながら、空中の何もない一点を見つめて、ひどく満足そうに目を細めていたことだけは知る由もなかった。


【 SYSTEM LOG 】

【 TARGET:フェリシア 】

【 精神状態:完全依存(フォーマット後の後遺症により、思考能力・反抗心の低下を確認) 】

【 好感度:MAX(固定) 】


【 TRUE END:『無知なる人形姫』到達 】

【 攻略を終了し、セーブデータをロックします。――プレイお疲れ様でした。 】


甘い甘い、薔薇の香りに包まれて。

 私は今日も、彼が緻密に計算し、1万回の死の果てに作り上げた「完璧な幸福」という鳥籠の中で、何も知らずに無邪気に笑い続けるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。