至高の変容
霧がさらに濃くなり、社の朱色がぼんやりと滲む。
月は雲に隠れ、森の闇が二人の周りを優しく包み込む。
鈴の音が途切れ、代わりに葉ずれのささやきだけが残る――まるで、森が二人の言葉を待っているように。
ココの瞳が大きく見開かれ、口が小さく開いたまま動く。
ぱく、ぱく、と無音の呼吸が漏れる。
耳が震え、九つの尾が一瞬、硬直した。
「ま、まさか。私たちが孤立していたなんて……」
声が途切れ、震えが体全体に広がる。
霧の中、狐火が淡く灯り、ココの銀色の毛を照らす――まるで、彼女の心の揺らぎを映す鏡のように。
「これじゃあ、まるで老師様のおっしゃる通り、私たちが悪い意味での特別扱いされているようなものです……」
九弦は静かに頷き、尾の先を軽く地面に落とす。
その動作が、長い年月の重みを伝える。
「だからな?正直、俺もそんなに老い先は長くないぞ?永遠に狐族を仕切る事なんぞ出来ないぞ。俺が死んだら、その後はお前が引き継ぐ事になるだろ?」
ココの体が前のめりになる。
瞳に血の気が引くように、色が薄れる。
「そ、そんな縁起でもないことを……!」
九弦は小さく笑い、しかしその目は真剣だ。
「ちょっと悪いんだけど、早めに遺言として言っておくぞ?この問題、これからなんとか考えてくれないかな?」
ココの瞳から、ぽつりと涙が落ちる。
月光がそれを捉え、宝石のようにきらめく。
尾が力なく地面を叩く。
「老師様のお命が尽きるなど到底受け入れられません!私にとっては世界の終わり同然です!もっと長生きなさってください」
九弦はため息を一つ、霧に溶かす。
「やかましわ。そんなに騒ぐな。まだ500年ぐらいは生きれるわ。まだ先の話だ」
風が再び動き、葉がざわめく。
九弦の声が、穏やかに続く。
「それで、本当におかしな話だけどさ?お前は、そうやって俺がいなくなる事、悲しむよな?別に狐って孤立した存在じゃないよな?ちゃんと仲間意識あるよな?」
ココは涙を拭い、頭を下げる。
耳が伏せ、尾が静かに畳まれる。
「大変失礼致しました。つい取り乱してしまい……確かに、我々には絆は存在します。だから、それをわからずに、あんな言葉を作る人間が劣っているのです」
九弦の目が、鋭く光る。
霧の中、狐火が二つ、三つと増え、柔らかく揺れる。
「本当になぁ!?ドイツもコイツも狐を孤立した存在って決めつけやがって、これ、本当に由々しき問題だよなぁ!?」
九弦は声を張り上げ、しかしすぐにトーンを落とす。
尾がゆっくりと動き、森の闇に溶け込む。
「……でもな?だからといって、そういう事を言うヤツをバカにしたらダメなのよ。俺達がそういうヤツにコミットしていかないとダメなのよ。これが時代の変化だ。これが令和だ」
ココの眉間に、深い皺が寄る。
瞳が、霧の向こうを見つめるように揺れる。
「なるほど……彼らを見下すことなく接するべきだと……」
一瞬の静寂。
風が止まり、狐火だけが二人の間を照らす。
「難しい課題ですが、老師様のためなら挑戦させていただきます」
九弦はゆっくり立ち上がり、社の階段を一歩降りる。
背中が、霧に溶けそうになる。
「もう、こういう流れを作ったのは、俺達平成の人間の負の遺産だ。難しい時代になって、それのケツを拭くお前は大変だと思うけど……本当、これから頼むわ。やっぱり未来を作るのはお前らだからな?」
九弦の声が、霧に吸い込まれる。
ココは立ち上がり、老師の背中を見つめる。
涙の跡が残る頬に、月光が優しく触れる。
「はい……老師様」
九弦は振り返らず、ただ尾を軽く振る。
その先端が、霧の中で淡く光る。
ココは改めて言葉を発する。
狐族は、確かに至高の存在だ。
だが至高であるために、時代に取り残されてはならない。
流れが変われば、至高の形も変わる。
それを、恐れず、受け入れ、形作るのが――僕たちの役目だ。
霧がゆっくりと動き、狐火が一つ、また一つと消えていく。
社の鈴が、最後に小さく鳴る。
森は、再び静寂に包まれる。
ココは一人、社の前に立ち、夜空を見上げる。
九つの尾が、ゆっくりと、しかし確かなリズムで揺れ始めた――新しい時代の、最初の波のように。




