祝福は君に、自由は私に
前編:聖女の祝福と、繋がれた命
1.弔いの雨と一欠けの林檎
空に広がる雲から、世界が泣いているかのような冷たい雨が降り注いでいた。
魔王城の最上階。崩れた天井の隙間から、灰色の空がのぞいていた。
私は瓦礫の山に背を預けぐったりと座り込む。
白い聖衣は泥と煤にまみれ、雨水を吸い込んで重たく体にまとわりつき、呼吸をするたびに、血と焦げ付いた魔力の臭いが喉を焼く。
ふと、腰に下げた水袋に口をつけた。
「おい、アリア。終わったか」
不躾な声が、雨音を切り裂いた。
顔を上げると、金の剣を提げた勇者が、心底面倒そうに私を見下ろしている。
彼の鎧は不思議なほど汚れていない。汚れ役は、いつだって私の仕事だったからだ。
「……ええ。魔王の反応は消滅したわ。完全にね」
「はん、あっけないもんだ。これでようやく王都の宴に戻れるってもんだ」
勇者は私の足元に転がる「残骸」を一瞥もしなかった。
彼は踵を返し、一度も私を労うことなく去っていく。遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるのを待って、私は安堵の溜息をついた。
「……行ってくれたわよ。もう大丈夫」
私は震える手で、足元の瓦礫を退けた。
そこには身体中に傷を負った、今にも命の灯が消えそうな黒い子狼がいた。
かつて「災厄の王」と呼ばれた魔王。だが、その最期の姿は、あまりにも小さく、頼りなかった。
それは雨に打たれて震え、傷口をかばうように身を丸めていた。
殺すべきだった。聖女としての義務に従うなら、この杖でとどめを刺さなければならない。
けれど、私にはどうしてもこの子が「悪」だとは思えなかった。
ただ……悲しいだけに見えたのだ。
信者に望まない力を与えられ、憎悪の器として祭り上げられ、最後はこうしてゴミのように捨てられる。
まるで――聖女と祭り上げられた私と同じじゃないか。
「寒かったでしょう。痛かったわよね」
私は泥だらけの聖衣を脱ぐと、その子狼を包み込んだ。
温かい。まだ、なんとか生きている。
魔王だったものは、私の体温を感じて、「くぅ……」と小さな声を漏らした。
それは威嚇ではなく、救いを求める子供の泣き声のようにも聞こえた。
「……消えゆくあなたに、せめて祝福を」
私は懐を探り、非常食の包みを取り出した。
旅の途中で買った、乾燥させた林檎の輪切りが一枚。少し湿気てしまっているけれど、今の私が用意できる精一杯の御馳走だ。
私はそれを小さく千切り、黒い塊の口元へ運ぶ。
「魔王なんて大層な名前はもう捨てて。……今日が、あなたの新しい誕生日よ」
頬を伝う雨水。それが雨なのか涙なのか、もう自分でも分からなかった。
私は祈りを込める。神にではなく、この小さな命の行く末に。
「あなたの名前は『シエル』。……この雨雲のずっと上にある、自由な空の名前よ」
空。
私が彼に与えられる、唯一の祝福。
子狼が林檎を咀嚼した。
甘酸っぱい香りが、死臭と雨の匂いに混じってふわりと広がる。
次の瞬間、私の腕の中で光が弾けた。
その子狼は無数の光の粒子となり、グングンと天へ昇っていく。
雨雲を突き抜け、どこか遠く、誰も知らない場所へ……
「……さようなら。元気でね」
私は空っぽになった両手を見つめる。
魔王は死んだ。聖女が殺したのだ。
そう報告すれば、世界は満足するだろう。
2.灰の呪いと命の結界
あれから五年。
世界は平和になるどころか、静かに首を絞められていた。
魔王を倒した二年後、王都は原因不明の「灰の病」に蝕まれていた。
原因不明の呪い。
それを食い止めているのは、大聖堂の地下深くに座る、たった一人の女だった。
「……ッ、ごほッ、ぁ……」
私は、喀血した。
白い聖衣に鮮やかな赤が咲く。
巨大な魔法陣の中央。私は全身から魔力を吸い上げられ、それは都市全土を覆う浄化結界へと変換されていた。
この三年間、私はここから一歩も出してもらえていない。太陽の光も、風の匂いも、林檎の味さえも忘れてしまった。
「おい、結界の出力が落ちているぞ! 何をしている!」
鉄格子の向こうで、神官長が怒鳴り声を上げた。その隣には、かつての旅の仲間だった勇者もいる。彼はさらに立派な鎧を身につけていたが、その表情は苛立ちに歪んでいた。
「まったく、使えない聖女だ。魔王を倒した英雄の一人として、恥ずかしくないのか」
「アリア、もっと魔力を絞り出せ。国民を助けることも出来ず、それでも聖女なのか」
彼らの言葉は、針のように私の心を刺し貫く。
知っている。私がここで死んでも、彼らが失うのは聖女ではなくただの「装置」だ。
(ああ……もう、限界ね)
視界が霞む。手足の感覚がない。
私は聖女という名の檻の中で、ゆっくりと腐り落ちていくのだ。
あの時、雨の魔王城で、私もあの子と一緒に死んでいればよかったのだろうか。
ふと、思い出した。
あの甘酸っぱい林檎の香りを。
泥だらけの手で抱きしめた、小さな温もりを。
――シエル。あなたは今、どこの空を飛んでいるの?
願わくば、あなたが私のことなど忘れて、どこかの空で幸せに生きていますように。
「報告します! 西の空から、巨大な魔力反応が接近中!」
衛兵の悲鳴が、地下室に響いた。
地面が揺れる。天井の塵がパラパラと落ちてくる。
「なんだ!? 『灰の病』の元凶か!?」
「勇者様、ご準備を!」
慌ただしい足音。私などもう眼中にないとばかりに、彼らは駆け出していく。
取り残された私は、薄れゆく意識の中で天井を見上げた。
せめて最後に分厚い石の向こうにあるはずの空を……シエルが飛び回る空を夢見るように。
後編:黄金色の奇跡と、自由への門出祝い
3.神獣の降臨と奇跡の遠吠え
ドォォォォォォン――!
まるで世界が割れたかのような轟音が、鼓膜に突き刺さる。
大聖堂の堅牢な天井が吹き飛び、瓦礫と共に、眩い黄金の光が降り注ぐ。
土煙を切り裂いて現れたのは、城の塔ほどもある巨大な狼だった。
――シエル。
見た目は全く違う。でも私にはそう感じられた。
かつて私が名付けた小さな命。
あの弱々しかった子狼は、嵐を纏う黄金の翼を広げ、聖堂の真ん中に堂々と鎮座する。
その姿は”神獣”と呼ぶのにふさわしい神々しさを秘めていた。
シエルは、床で崩れ落ちていた私を前足で優しく抱き起こし、ペロッと優しく顔を舐める。
そして怯える勇者たちを一瞥もしないまま、天に向かって大きく遠吠えをあげた。
「ワオォォォォ――ン!!」
それは威嚇ではなく、優しい祈り。
世界そのものを震わせる、圧倒的な「祝福」の歌だった。
シエルの体から放たれた黄金の波紋が、大聖堂を、王都を、そして鉛色の空を突き抜けていく。
奇跡が起きた。
波紋が触れた端から、都市を蝕んでいた「灰の病」が浄化されていくのだ。
灰色に濁った空気が澄み渡り、人々の肌から病の斑点が消え、枯れた大地に色が戻る。
私が五年かけても押し留めることしかできなかった呪いを、彼はたった一鳴きで祓ってしまった。
「……すごい。これが、あなたの力なのね」
私は震える体でシエルの温かい毛並みに縋りつくと、不思議な魔法で私の体を背に乗せた。
とても優しくて、暖かな背中……
その毛並みに囲まれていると、不思議と体の震えが止まっていた。
シエルは、私が一番苦しんでいた「責任」という鎖をたった一吠えで断ち切り、生を諦めた私に生きる希望を取り戻してくれた。
4.
静寂が戻った聖堂に、呆然とした声が響く。
「……消えた? 病が、消えたぞ!」
「奇跡だ……! 神獣様が、我々を救ってくださったのだ!」
神官たちが歓喜の声を上げる。勇者も、神官長も信じられないものを見るような目で空を見上げている。
王都は救われた。
これで、私は自由になれる。そう思った次の瞬間だった。
「――逃がすな! 扉を封鎖しろ!」
神官長の叫び声が、私の淡い期待を切り裂いた。
「その獣を確保せよ! その力があれば、我々は永遠の繁栄を手に入れられる!」
勇者が剣を構え直し、私たちの前に立ちはだかる。その目は、救われた感謝ではなく、さらなる強欲に濁っていた。
「病は消えたが、またいつ再発するか分からん! その獣と、それを従えるお前の力は国が管理させてもらう!」
「そうだ! 国を救った英雄としての責務を果たせ! 勝手に去るなど、雇い主である国への反逆だぞ!」
彼らは、口々に叫ぶ。
「感謝」ではなく「要求」を。
「自由」ではなく「管理」を。
(ああ……。この人たちは、何も変わらないのね)
私は、シエルの背中の上で、ゆっくりと彼らを見下ろした。
怒りは湧かなかった。ただ、底冷えするような失望だけが、胸を満たしていた。
私はもう、十分にやった。
死ぬ寸前まで魔力を捧げ、そして今、私の「家族」がこの国を救った。
それでもまだ、彼らは私を鎖で繋ごうとする。
「……シエル。行きましょう」
私が短く告げると、シエルは低く喉を鳴らし、巨大な翼を広げた。
その羽ばたきだけで強風が巻き起こり、勇者たちが紙切れのように吹き飛ばされる。
「待て! 頼む、行かないでくれ! お前がいなくなったら、俺たちはどうすれば……!」
這いつくばった勇者が、哀れな声を上げて手を伸ばす。
私は冷ややかな瞳で、かつての仲間を突き放した。
「私は死ぬ寸前まで捧げたわ。――次は、あなたたちの番よ」
私の声は、風に乗って彼らに届いたはずだ。
「行きましょう、シエル」
私の声を聞き、シエルが空を蹴る。
私たちは天井の大穴を抜け、突き抜けるような青空へと躍り出た。
眼下で、権力者たちが何かを喚いているが、もう羽音にかき消されて聞こえない。
灰色の雲は消え失せ、太陽の光が痛いほどに降り注いでいる。
私はシエルの背中に顔を埋め、久しぶりに声を上げて泣いた。
悲しみからではない。
ようやく、本当に息ができた喜びで、涙が止まらなかったのだ。
5.終わらない祝祭
それから、季節がいくつか巡った。
私たちは、とある南の国の、小さな港町にいた。
抜けるような青空と、湿り気のない乾いた風。
市場は活気に満ちていて、色とりどりの果物や織物が並んでいる。
私は、露店の前で足を止めた。
「お姉さん、いい林檎が入ってるよ! 北の国から取り寄せた高級品だ、甘くて蜜がたっぷりだよ!」
店主の陽気な声に、私の隣にいた狼が嬉しそうに尻尾を振った。
もう黄金の輝きは隠しているけれど、その立派な体躯と品のある顔立ちに、道ゆく人々が感嘆の声を上げている。
「……ふふ。あなた、本当に林檎が好きね」
「ワンッ!」
元気な返事。
私は財布から銀貨を取り出すと、店主に手渡した。
「これ、全部いただくわ」
「えっ、全部!? こりゃあ随分と気前がいいねぇ! 何かいいことでもあったのかい?」
店主が目を丸くして尋ねてくる。
私は籠いっぱいの林檎を受け取ると、愛狼の頭を撫でながら微笑んだ。
「ええ。今日はお祝いなの」
あの日、雨の降る魔王城で、たった一枚の乾燥林檎から始まった、私たちの奇妙な絆。
あの日私が言えなかった言葉を、今なら胸を張って言える。
「なんの祝いだい? 誕生日かい?」
店主の問いに、私は空を見上げて答えた。
「――そう。私と、この子が新しく生まれ変われた誕生日。二人分、思いっきりお祝いしなくちゃね」
私たちは歩き出す。
どこへ行くかはまだ決めていない。
風の吹くまま、気の向くまま。
しばらくはシエルと二人、心のままに歩いていこう。
隣には、林檎をくわえてご機嫌な相棒。
頭上には、どこまでも続青い空。
聖女アリアの物語は終わった。
ここから始まるのは、誰にも捧げない、私とシエルの祝祭だ。




