沈海の街〜04〜
目が覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「うん……。」
ベッドから起き上がり、身体を伸ばす。結構な時間、眠っていたらしい。デスクライトがついている。隣を見ると、妓詠先輩は既にに起きていたようだ。
「……」
先輩は僕の方を見ると、人差し指を口に当て静かにするようにとジェスチャーする。
「人がいるわ。」
消え入りそうなほど小さな声で、先輩は囁く。
耳を澄ませると、隣の部屋からヒソヒソと話す声が聞こえる。ひとり2人ではない。もっと大人数が隣の部屋に集まっているようだ。
「一応、荷物を纏めておいて。音をたてないようにね。」
先輩は既に荷物をまとめて、丈の長いスカートもボトムに履き替えていた。僕は言われるままに荷物をリュックにしまう。外に出る時に貴重品を出したくらいなので、大した作業ではなかった。
荷物を手元に置いたとほぼ同時に、部屋にノックの音が響いた。恐怖で体が硬直し、冷や汗が頬を伝る。心臓の音が今までにない以上に頭に響く。
暫くして、再びノックの音がした。無視していると、またノックの音。次第に音は大きくなっていき、トントントンと控えめな音から、ダンダンダンと扉を思い切り叩く音に変わった。
扉を叩く音が大きくなるにつれ、いくつもの足音が部屋の前に集まってきた。
僕はフロントの名簿を見たので知っている。この日、ホテルに僕達以外に宿泊客はいなかった。にも関わらず僕達を2階の部屋に案内したのは、窓から逃げられないようにする為かも知れない。
「睦美くん、逃げるわよ。」
そう言って先輩はゆっくりと窓を開けた。
「飛び降りるんですか?」
「仕方ないでしょう。襲われるよりかは、よっぽどマシよ。」
言い終わるやいなや、先輩は荷物を背負い窓から飛び降りた。もう考えている時間もない。先輩に続いて僕も窓から飛び出す。
僕達二人は、ホテルの隣にある空き地に着地した。
幸いにも好き放題伸びた雑草がクッション代わりになったので、足にそれ程負担が掛からなかったように思う。アドレナリンが出ているので、気にならないだけかも知れないが。
そこそこ大きな音もしたので、扉を叩いていた誰かにもバレているだろう。
「走りましょう。」
言い終わらない内に、僕と先輩は走り出した。
徒歩でこの街から脱出できるとも思っていなかったが、心当たりがあったのだ。
背後を振り向くと、もうホテルから出て来たのかいくつかの人影がこちらに走ってくる。月の光に照らされたその姿は、出発前に先輩から見せられた写真に写っていた化け物。そのままの姿だった。
背中は丸まっており、走り方もどこかぎこちない。はじめに抱いた印象は、陸に上がった蛙。地に足をつける事に慣れていない様に見える。足はそこまで早くないようだ。
恐怖に足がすくむ。走る足を止めてしまいそうになる。
「睦美くん、急いで。」
前を走る先輩が、強引に僕の手を引く。
「せ、先輩。すみません。」
「いいから。」
先輩も息を切らしながら走っている。手のひらにも、汗が滲んでいる。
必死に走っていると、建物の影から人の形が一つ現れた。
「先輩、誰かいます。」
「……っ。」
人のシルエットをした異形は、僕らの前に立ちはだかるように立っている。振りかざした手には、棒状の何かを握っていた。僕達が逃げるのを阻止するつもりだろうか。
迷っている時間はなかった。
僕は先輩の手を振り払い、ひとりスピードを上げる。異形に近づいてきた所で、大股で一歩、二歩、三歩目に宙へ飛び思い切り蹴りを入れる。
僕の足背が、異形の横顔に綺麗に入った。奴も咄嗟のことで反応できなかったのか、木の棒を振りかざしたまま地面に倒れる。
「進みましょう。」
僕と先輩は動かなくなった異形を横目に再び走り出す。
程なくして、僕達はある場所に辿り着いた。昼間に立ち寄ったスーパーだ。入り口前には原付バイクが停められている。
「あれを使いましょう。」
原付には鍵が刺さったままになっている。先輩は迷いない仕草でサドルに座り、鍵を回す。
鈍い音。エンジンが上手く掛からない。そうしている間にも異形の集団は徐々に近づいてくる。
「お願い。」
先輩は呟きながら再び鍵を回す。五回目で、エンジンが掛かった。街灯のない闇の中をライトが照らす。
「睦美くん、乗って。」
免許の有無など、聞いている場合では無かった。僕は原付に乗り先輩の腰に手を回す。
「行くわよ。」
原付は勢いよく走り出した。静かな夜の大通りに、機械音を撒き散らしながら僕達は進む。
暫く走ると、追っ手が見えなくなった。沈海から、脱出する事が出来たようだ。
「先輩、原付の免許持っていたんですね。」
県道を進む中、先輩にそう話し掛ける。
「えぇ、高校入学した時にね。昔から自分で遠い所に行きたいと思っていたの。その一環で免許を取ったわ。」
そんな事より貴方、格闘技でもやっていたの?素人目にも綺麗な蹴りだったけど。」
「昔、祖父の教えで少しだけ。暫くやっていなかったので上手くいって良かったですよ。」
「意外だったけど、様になっていたわよ。」
「それなら良かった。優秀な探偵役には、腕の立つ助手が必要でしょうから。」
「ふふ。違いないわね。」
安心して気が抜けたからか、先輩の声はいつも以上に穏やかなものだった。だが、僕にはひとつ気掛かりな事があった。
道中、浜辺の光景が目に入った。
月の光に照らされた浜辺には20体以上の異形が集まり、海に向かって平伏している。何かに祈りを捧げていたのだろうか。
いくつも疑問が残るが、今は無事に逃げ切れた事に安堵しよう。僕は先輩の背中に体を預け、話し掛ける。
「先輩、今日は何処で休みましょうか?」
「そうね。大きな街に入ればネットカフェか何かあると思うから、そこで夜を明かしましょうか。」
「賛成です。」
きちんと整備された道路には、街灯が等間隔に設置されており沈海ではない街へ行く道を照らしている。
今日あった事には触れないようにしながら、僕達は取り留めのない会話をする。県道から見える海は月に照らされて、吸い込まれそうなほど神秘的に見えた。