沈海の街〜03〜
沈海までのバスは、午前十時ぴったりに駅前のバス停に到着した。調べてみたところ、沈海行きのバスは午前十時と、午後五時の二本のみ。S県の都市部から沈海、そして県境の街を往復するらしい。
運転手には特に変わった様子もなく、僕らは整理券を取り、一番後ろの席に座った。
最初に疑問に思ったのは、その乗客数。確かに平日だし、時間によっては人が少ない時もあるだろう。だが、日に二度しかないバスだと言うのに僕達以外に乗客がいないのだ。
バスが発車するまでの数分間。結局乗客が増える事は無く、結局僕達二人だけを乗せてバスは走り出した。
運転手も僕達が珍しいのか、ミラー越しに何度か目が合った。此方の様子を伺っている様だった。
バスに揺られる事四十分。ようやく、目的の場所に近づいてきた。
『次はぁ、沈海。沈海です。』
アナウンスを聞き、窓の側にある降車ボタンを押した。妓詠先輩は背筋をピンと伸ばし、目を瞑っている。
「先輩、もう着きますよ。」
他に乗客はいないが、何となく小声で声を掛ける。
「えぇ、ありがとう。」
先輩はゆっくりと目を開き、軽く目を擦る。
「昨日、眠れなかったんですか?」
「少し、興奮しちゃってね。」
恥ずかしそうに頬を掻く先輩に見惚れていると、バスは程なくして停車した。
「さ、早く降りましょう。」
先輩に急かされて早足に下車する。
僕等が降りると、バスはすぐに発車した。一秒でも早く立ち去りたい、そう言った印象を受けた。
沈海の街に着いて最初に抱いたのは、どこか他の街とは違うという違和感。そして、街というには余りにも寂しい風景への悲哀の感情だった。
雨風に晒されたバス停の時刻表はすっかり錆びついており、建物の壁にもヒビやら苔やらが見える。
空き地らしい場所や道端には雑草が生い茂り、長いこと手入れされていない事が推測される。
大通りに通行人は見つけられなかった。漁村という事なので、海に出ているのだろうか。それにしても、誰もいないとは。
唯一、住民の存在を確認できる場所があった。中央にある小さな教会。扉は閉まっているが、中から不可解な声が響いている。日本語かも怪しい言葉で、呪文
のような、祈りのような文言が聞こえてきた。
「なんだか、不気味ね。」
先輩は独り言のように呟きつつ、周囲を見渡している。
「取り敢えず、先にホテルをとりましょ。」
先輩の提案で、駅員の話していたギルマン・ハウスへ向かう事にした。
街は大通りまで廃れた印象を受けていたが、このホテルも例外では無いらしい。フロントの照明は弱々しく光っており、少し薄暗い。清掃が行き届いてないのか、天井隅に蜘蛛の巣が張っている。
(良い印象は受けないな。)
チェックインをしながら、僕はそんな事を考えていた。
「二名様ですね。部屋は、別々にしますか?」
受付の中年は、あからさまにやる気がない様子だ。僕達が他所者だからだろうか、それとも普段からこんな態度なのだろうか。
「いえ、一部屋で大丈夫です。それでいいわよね?」
先輩の言葉に、僕は黙って頷いた。
正直言って、この不気味な街で孤立する事を危険に感じている。この街の住民を毛嫌いするわけではないし、襲われるとも思っていない。
ただ駅員の話を思い出すと、どうしても不安を抱いてしまうのだ。
「はい。これ、部屋の鍵です。207号室、2階に上がって突き当たりの部屋です。」
受付の中年はそう言って、無造作に鍵を放ってきた。
「どうも。」
大人しく鍵を受け取る。文句は言えなかった。
僕は見つけてしまった。彼が着ているシャツの袖、そこに僅かに残る赤い斑点を。
宿泊する部屋は、話に聞きた通り狭いワンルームだった。どれほどの期間使われたのかも分からない古ぼけたベッドと、日焼けで色落ちした木製の机がひとつ。照明は、古い型のデスクライトがあるくらい。天井の蛍光灯は撤去されているようだ。
窓からは、長い間放置されているであろう雑草が伸びきった空き地が見える。
「いい部屋じゃないかしら。二人で泊まるには、少し狭い気もするけど。」
先輩は荷物を置きつつ、独り言のように呟く。
「これなら、二部屋とっても良かったかも知れないですね。」
「私は、ふたりで寝ても良いのよ。」
「眠れなくなっちゃうんで勘弁してください。」
雑談もそこそこに、街を散策してみることにした。
「荷物は、どうしましょうか?」
「貴重品だけ、持って行きましょう。あまり大荷物になっても良くないし。」
一日分の着替えやらが入ったリュックを机の上に置き、トートバッグひとつで出る事にした。先輩は丈の長いスカートに白いシャツとハンドバッグの軽装備だった。
「日差しが強いわね。日傘か帽子でも、持ってくるんだったわ。」
先輩は手のひらを太陽にかざし、目元に影を作る。その仕草が妙に様になっているのだが、今触れる所ではないだろう。
「なるだけ日陰を歩きましょう。」
「そうしましょう。紫外線には有害な物が云々と言うしね。」
整備されていない歩道を、二人並んで歩く。改めて見る街並みは、良いように言えばレトロでノスタルジーを感じさせるものだろう。しかし僕に言わせれば、ただ古いだけで何の手も施されていない。廃村の様にさえ見えてしまう。少なくとも、外から永住しようとする人はいないだろう。
ひと通り見て回ったが、浜辺があり近くに寂れた漁港がある事以外、何の面白みもない場所だった。しかし、全く良い点がなかったわけでは無い。浜辺から見る海は、今まで見てきた誰よりも澄んだ、ゴミひとつないキレイなものだった。
「確か、ホテルの近くにスーパーがあったよね。」
「えぇ、小腹も空きましたし、行きましょう。」
スーパーは何処にでもあるチェーン店で、品揃えも特に変わったものは無いようだ。僕達は飲み物と軽食、そして念の為に胃薬をひとつを手に取りレジに向かった。
レジには男性がひとり、くたびれた顔をしている。
「お願いします。」
「はい……。」
レジの男性は慣れた手つきで商品のバーコードを読み込んでいく。
「きみ達、外から来たのかい?」
「えぇ、そうですけど?貴方もですか?」
「そうだよ。」
彼は疲れきった声で続ける。
「運が悪かったと思っているよ。昨年の人事異動でこの街に転勤になったんだ。異動願いを出してるから、今年の夏には他の人が来るはずだよ。」
「それは、お疲れ様です。」
「はは…。」
店員は力無く笑う。
「大声では言えないんだけど、何かあったらここに来ると良い。誰が用意したかは分からないけど、原付が一台停まっているんだ。鍵は刺さったままだから、もしもの時は使うと良いよ。
僕は大丈夫。この街の住民でいる限り、安全は保証されているらしいからね。」
店員に軽く会釈をして、僕達はスーパーを後にした。
「一度、ホテルに戻りましょうか。」
「そうですね。」
スーパーからホテルに向かう道中、通りかかった教会からは、まだ不思議な文言が響いていた。街を見て回ったが、教会にだけは入る気になれなかった。
本能的に、危険を感じていたのだ。
「あ、そうだ。」
ホテルの入り口まで来たところで、先輩は立ち止まった。
「折角だし、ご飯屋さんに寄ってみない?駅の人が言ってきたことも気になるし。」
昨日駅員の話に出てきた、あまり美味しく無い飲食店のことだ。正直、気になりはするが触れたくなかった話である。先輩が提案しなければ、立ち寄ることもなかっただろう。
「気は乗りませんが、行きましょうか。」
幸い、件の飲食店はホテルから徒歩五分も掛からない場所にあった。
「いらっしゃい。」
無愛想な声に迎えられて来店。本音を言えば、席に着く前に後悔していた。
明らかに不清潔な床に、ベタついたテーブル。いくら料理が美味しくても、二度と訪れはしないだろう。
「注文は?」
店員は乱雑にお冷やを出しつつ、聞いてくる。その態度に少しムッとしたが、先輩は意に介さない様子でメニューを見つめる。
「私には、焼き魚定食をお願いします。」
「僕は、アジフライ定食を。」
店員は無言で調理場に戻って行ってしまった。
「食べましょうか。」
先輩に促され、アジフライをひと口齧る。口内に広がる生臭さと、生焼けらしい魚の感触に、思わずむせ返ってしまった。
「これは……予想以上ね。」
先輩も顔をしかめている。焼き魚の方も、どうやらハズレだったようだ。
雑に調理されたアジフライに、水分が多くべちゃべちゃの白米。味噌汁は出汁がとられているのかを疑うほど、薄くて味気ないものだった。
不味いには不味いのだが、食べられない程でもない。僕達は料理を水で流し込みつつ、なんとか完食した。
ホテルに戻ってすぐ、僕はベッドに倒れ込んだ。
「シンドイわね。胃薬、飲む?」
「頂きます……。」
本来なら、ホテルのベッドに二人並んで腰掛けている状況。恋愛的な良い雰囲気を期待したい所だが、二人とも胸焼けの様な苦しさで、それどころではなかった。
「楽観的過ぎたかしらね……。美味しくないのは、分かっていたのに。」
「好奇心故に、仕方のないことですよ。それにしても、何だか……。」
話している内に、瞼が重くなってきた。旅の疲れからか、頭が回らない。先輩の方を見ると、今にも眠りそうだった。
「先輩、少し休みましょう。」
「そうね。ベッドひとつだけど、考えるのも面倒だわ。」
「同感です。」
そうして僕達は、消えゆく意識に身を委ねた。
陽が傾き始めた、午後二時頃の事だった。