ダンスホール・ハローグッバイ
「王太子ルディウス・セレーネの名の下にガルシア公爵令嬢シンディ・トマスとの婚約をここに破――……」
ドン!
と、扉を破壊する勢いで登場したのは金の巻き毛も愛らしい美少年だった。
ルイス・サニー第二王子は肩で息をしながらキッと壇上の王太子を睨む。
優しいヘーゼル色の大きな瞳では鋭い眼光と呼べるものは得られなかったが、ルイスは観衆の視線を無視して兄ルディウスだけを見ていた。
「……何用か、ルイス」
セリフを遮られた王太子は特に気分を害した様子もなく、とつぜん現れた弟王子にいつものように声をかけた。
ルイスはどうにか呼吸を整え、足を踏み出す。
広いダンスホールの人だかりが彼のために道を開け、静まり返った。
「まずは、ご卒業おめでとうございます。兄上」
「ありがとう、ルイス」
「今朝も最大限の賛辞を贈りましたがまだ足りません。相も変らぬ美しさに目が眩みそうです。月の女神はきっと自身のお姿をそっくりそのまま兄上にお映しになられ、」
「ルイス。何用か」
ついうっかりいつものように兄を賛美しかけたルイスは軽く咳ばらいをして姿勢を正した。
「派手なことはお嫌いなくせにどうして今日なんです。てっきり卒業後だとばかり。おかげで校内を全力疾走するハメになりました」
「駆け回るおまえは野ウサギのようで愛らしかったろうな」
「お望みとあらばうさ耳つけてその腕に跳び込みますが」
「それも良いが、まずは首尾を聞こう」
「兄上ったらいつもそうなんですから。温室は燃やしました。もちろん証拠は残してあります。こんなくだらない茶番劇はもう仕舞いになさって僕をちゃんと構ってください!」
ふふ、と小さく兄王子が笑ったのにルイスは気付いた。
またもうっかりその微笑みに見惚れそうになりつつ、気をしっかり持て、と自分に言い聞かせるつもりで眉間にきゅっとしわを寄せた。
その愛らしい様は更に兄王子の笑いを誘っただけであったが、ルイスはこれにもちゃんと気付いた。「まだだ」と言われている。まだ、幕引きには役者のセリフが足りていない。
「ルイス。茶番とは何事だ。私はクソ真面目に演じているつもりだが」
「演じてるとお認めではないですか。そんなに麗しい含み笑いをなさって!」
「いやなに、おまえがあまりに愛らしいので、つい」
「その好きな子ほどいじめたい困った性格どうにかならないんですか」
「ならんだろうな。…こんな兄はキライか?」
「大好きに決まってます!」
ふふふ、と兄王子は笑う。
輝くばかりの美しい笑みに会場一同が溜息を吐いて見惚れていた。
それがおもしろくないとばかりにルイスは足を一度踏み鳴らす。
「兄上! 家族以外の前でそうやってふわふわ微笑むのはお止めくださいと何度もお願いしたではありませんか!」
「うん? 大丈夫だろう。おまえは可愛いから」
「その返しの意味が不明です兄上。ぜんぜん大丈夫じゃありません」
「可愛い弟よ。何が不満だ?」
「…っ! 城の画家も彫刻家も「何年かけてもこの美しさは表現できない」と泣いて諦めるほど麗しいあなたが! 月の女神もかくやの美しいその顔で! 花がほころぶかのように微笑む! それを人前で晒すなという僕の訴えを全くご理解いただけてないところが不満です!」
「――エイブラム」
兄王子ルディウスの艶やかな唇が違う男の名を呼んだ。
良く知っている侍従の名にさえ嫉妬心が沸く。ルイスはきゅっと口端を引き結んだ。兄と同い年のあの男はいつも兄の傍にいる。授業を受ける兄。運動をする兄。友人らと談笑する兄。それらすべて、学年の違うルイスは目にすることができない。「殿下には“兄弟”という唯一にして最強の縁があるではありませんか」と反論されたが、それとこれとは違う問題なのだ。
無意味と知りながらルイスはエイブラムへの敵対心が未だに拭えないでいる。
「通訳」
「は。意訳ですが“兄上大好き!”でよろしいかと」
「…そうか。私もおまえが大好きだよ、ルイス」
「違う! 違わないけど違う!! もう一回言って兄上!」
「後でな。きちんと片付けられたら、耳元で何度でも囁いてやろう」
兄の甘やかな低音が耳元で「大好き」を囁く。
想像して思わず赤面したルイスはそのご褒美に向かって邁進することにした。
未来の王妃の椅子に群がる女どもに、この美しい兄を渡してなるものか。とりあえずルイスはこの場で一番不快な相手を見据えた。
「マリア・ホワイト男爵令嬢」
「えっ? あ、はい?」
置いてけぼりを喰らっていた観衆たちがハッと気付いたかのように、壇上の令嬢に視線を移す。王太子の腕に絡み付いて離れない、見目は良いが礼儀知らずの問題児だ。
「王太子殿下から離れなさい。貴女には何件かの重大事案の容疑者として逮捕令状が発布されています」
「…は? 何を言っているの? 私はルディの婚約者よ?」
「現時点での王太子殿下の婚約者はガルシア公爵令嬢です。貴女ではありません。そしてこれは僕の個人的な憤りで申し訳ないのですが、家族にのみ許された兄上の愛称を軽々しく口にしないでいただきたい!」
「イヴァン」短く呼ぶと、控えていたルイスの侍従が速足で壇上に近付き、革張りのファイルをエイブラムへ渡す。エイブラムはそれをルディウスの視線の先で広げて見せ、視線が外れたと同時に閉じて慎ましく数歩下がった。
「令状を確認した。法務官の入場、および任務遂行を認可する」
「え? ちょっと、ルディ、嘘よね? 私を逮捕なんてさせないわよね?!」
許可と同時に黒コートの男たちが数名壇上へと駆け上がり、ルディウスの腕に絡み付いていた女を引きはがして拘束する。
容姿だけは美しく整ったマリア・ホワイトは何が起きているのか分からないと言わんばかりの愕然とした表情で、月の女神の化身とまで謳われる美しい王太子を凝視していた。結い上げられていた薄紅色の髪がひと房、滑り落ちる。
そんな女をルディウスは一瞥もしなかった。
「法定手続きは正しく行われている。法が貴様の逮捕を妥当と判断したのなら、私が何を言う必要がある」
「ねえ、ルディウス! あなたシンディと婚約破棄して私を婚約者にするって言ったわよね?! 私が未来の王妃だって、そう言ったでしょ?!」
「覚えがないな」
「そんな…。どうして……」
絶望の表情を浮かべた女に、ルイスは笑いを禁じ得なかった。
くすくすと笑うルイスを、マリアが鬼のような形相で睨む。
「ルイス! あんたが何かしたのね?! 攻略には関係ないモブだから排除しないであげてたのに、この恩知らず!」
「貴女のおっしゃることの意味は残念ながら理解できかねますが、知性も教養も人並み程度、マナーや礼儀に至っては人並み以下、ご出身の男爵家には黒い噂が後を絶たず、バラの精霊の秘薬を使わねば誰一人篭絡できない。そんな方が王太子妃になれると、本当に思っていたんですか?」
「なっ?! どうしてあんたが秘薬のこと…。まさか、温室を燃やしたって、虹色のバラを燃やしたの?!」
ハッと気付いたマリアは慌てて口を閉ざす。だが時は既に遅かった。
バラの精霊の存在も、秘薬のことも、この衆目の中で認めてしまったのだ。
ルイスはにっこりと微笑んだ。「私のひだまり」と兄が呼んでくれる、愛らしいと評判の笑みも、マリアには悪魔に見えたことだろう。わなわなと震える唇は怒りよりも悲壮感が色濃い。
「令状の一枚目はそれです。許可なく精霊と契約した罪。二枚目はその精霊の力を持って王族を呪った罪。どちらも極刑事案ですが、一応に裁判は開かれるハズです。秘薬を作った罪、それを使った罪などなど、他にも両手では足りない数の令状が審査中ですので、まず間違いなく首は飛びますね。せめて楽に死ねるよう、お祈りでもなさっていてください」
祈ったところで惨たらしく死ぬことに変わりはない。裁判も罪の有無ではなく、どのような刑に処すべきかという話し合いになるだろう。
ルイスは微笑んだまま口を閉ざした。
凄惨な死の予告をしてやりたいのは山々だが、一応ここは祝いの席だ。なんの罪も免疫もない観衆に血生臭い話を聞かせるのも申し訳ない。
マリアはもはや立っていられなくなり、膝からがくりと崩れ落ちた。両脇の黒コートに腕を掴まれているので、捕獲された珍獣のような体裁だ。
「…噓でしょ。…嘘よ。今の今まで上手くいってたのに……!」
「貴女にそう思われていたのなら、兄上のクソ真面目な演技とやらはかなり堂に入っていたのでしょう。さすが兄上。何をなさっても完璧。ああ、僕も嘘でいいから兄上に“真に愛する人よ”とか言われてみたい」
「……そのようなセリフを言った覚えはないが、おまえが望むのならそうしよう、ルイス」
「ああ、兄上!」
きらきらと輝くルイスの笑顔とそれを微笑まし気に見つめるルディウスの笑み。
観衆は長らく忘れていた感覚を思い出した。
マリア・ホワイトが現れてからこの一年弱。目にする機会がほぼなくなって忘れていたが――。
――ああ、この兄弟。こんなんだったわ、そういえば。
仲睦まじい兄弟と言えば聞こえは良いが、国の将来が不安になるほどのブラコン兄弟なのだ。特に弟。金の巻き毛のきらきら美しい天使を思わせる美少年だが、口を開けば「兄上」しか言わない。何をするにも、何を考えるにも、すべての基準が兄上。世界は兄上を中心に回っていると本気で思っている重度のブラコンは国王夫妻もその矯正を諦めたとウワサされている。
それでもルイスが「兄上のため」イコール「国のため」という方程式を常識として保ち続けられているのは、ひとえにその兄の功績だ。
ルディウスは弟をただ依存させるだけではなく、褒美をちらつかせて学ばせ、考えさせ、行動させ、上手く使いこなしているのだ。おかげで「兄上のため」という大前提がありさえすれば、ルイスはその有能さを遺憾なく発揮する。
成績は学年トップ。愛らしい笑顔と人懐っこさは敵を作らない。誰からも好意的に受け入れられるという才能で持って相手の警戒心の内側にするりと潜り込む。異国の大使たちがうっかり口を滑らせるのはいつもルイスの前だ。
今では数多の商業ルートを裏で管理しているのは第二王子殿下であるというウワサがまことしやかに囁かれるほどである。
兄上のためならば手段を選ばない。
そんな思い切りの良さと吹っ切れている采配に感銘を受け、密かに忠誠を誓う者が後を絶たないというが、兄王子いわく「あれはファンクラブに近い親衛隊だ。秘密裏に組織されるのも面倒なのでな。いっそ公認してやったわ」だそうだ。
ちなみにルディウス王太子の親衛隊の隊長はもちろんルイスである。
親衛隊持ちの王族が王族の親衛隊に入るという前代未聞の状況に、校内新聞の記者たちは毎日おおわらわだ。
そんなブラコン兄弟がぽっと出の男爵令嬢如きに仲を裂かれるワケがない。
観衆は思い出し、そして納得した。
今回の茶番劇とやらもきっと、兄王子から弟王子への愛の鞭なのだろう、と。
「演技? 今までの全部、嘘だったの? でも、ローズはちゃんと仕事したって」
「月の女神の加護を戴いている王太子殿下がバラの精霊如きの呪いに負けるはずないじゃないですか。そもそも貴女、兄上の好みじゃないです。兄上はもっと知性豊かでしとやかな可愛い子が好きなんです。僕以上に可愛い子でないと食指は動かないんですよ。身の程をわきまえなさい」
もはや断罪なのか嫌味なのか惚気なのか分からないルイスの言に、微笑んでいるのは当の兄王子だけだ。
ちらほらと頷いている者がいるのはおそらくルイスの親衛隊のメンバーだろう。
「ヒロインは私よ! なんで弟のあんたなんかに…!」
「貴女がヒロインなら僕は兄上を守るラスボスです。貴女程度の弱小ヒロインになんて絶対負けません。貴女はもう結構です。どうぞ退場なさってください」
「ま、待って! 待ちなさいよ! ルディ! ねえ、ルディ! 誰か助けて!」
黒コートたちに引きずられてマリア・ホワイトが退場する。
薄紅色の髪を振り乱して最後まで何か叫んでいたが、重厚な扉が閉ざされると同時に聞こえなくなった。
まずは一人。
再度ルイスはキッと壇上を見据えた。
美しい笑みをたたえたままの美しい兄はまだ褒めてはくれない。
「…あの、ルイス殿下」
「はい、なんでしょう。ガルシア公爵令嬢」
「お助けいただき、ありがとうございました。わたくし、あの女のせいでとんでもない目に遭うところでしたわ」
シンディ・トマスが優雅に礼を取った。
ルイスが現れなければマリア・ホワイトの目論見通り、この場で王太子に婚約破棄を言い渡されていただろう公爵令嬢だ。
ルイスは美しく着飾ったその義姉候補をじっと見つめた。
イヴァンの手にはまだ革張りのファイルがある。
会場の壁際にはまだ黒コートたちが残っている。
それらに気付いていないのだろうか?
「助けられたと本気でそうお思いですか、ガルシア公爵令嬢」
「え? ええ、はい。もちろんですわ。ルイス殿下、どうぞシンディとお呼びくださいませ。わたくしたちはいずれ姉弟になるのですから」
「――なりませんよ」
「はい?」
「僕と貴女は姉弟になどなりません。あのピンク頭ほどではありませんが、貴女も王太子殿下に相応しくないようです」
「殿下、なにを……」
「僕は迷っていたんですよ。貴女についてまでこの場で言及するかどうか。貴女は公爵令嬢ですし、王太子殿下の婚約者というきちんとした立場もおありだ。けれど僕に助けられたなんて間の抜けたことをおっしゃるようでは、僕の義姉はおろか、兄上の后など到底務まらないでしょう」
深々と溜息を吐いてルイスはやれやれと首を横に振った。
兄の周囲にはろくな女がいない。これでは兄が匙を投げるのも道理だ。いつだったか、散らかったゴミの掃除は任せてほしいとルディウスに言ったのは、他でもないルイス自身である。
――任せてください兄上。掃き掃除もゴミ捨ても得意分野です!
胸中でぐっと拳を握り、ピンク頭よりは手強いだろう相手と対峙する。
「お言葉ですが、ルイス殿下。わたくしはこれまで淑女として、そして王太子殿下にお仕えする身として一心に己を律して参りました。わたくし以上にルディウス殿下に相応しい令嬢は、少なくとも国内にはいないものと自負しております」
「貴女の矜恃に関する是非はどうでもいいです。要は王太子殿下も僕もそうは思わない、ということなんですよ。ご自分のなさったことをお忘れですか?」
「わたくしのしたこと…?」
「イヴァン」
心得ている侍従が音もなく近付き、訝しそうな令嬢に革張りのファイルを広げて見せる。そこにある書類の文章を目で追うごとに顔色が悪くなる淑女の後方に、黒いコートが颯爽と現れた。それに気付いた彼女は更に色を失くす。身分に配慮して即時拘束とはいかないまでも、いつでも確保可能であるという無言の圧力を、公爵令嬢ならば読み取れるだろう。
「ピンク頭は確かに罪人です。ですが我が国では私刑執行は許されておりません。階段から突き落としたり、飲み物に毒を盛るのは普通に殺人未遂罪だと、お分かりになりませんか? ガルシア公爵令嬢」
「こ、これは…、そう。そうです。わたくしではありません。殿下、どうぞ良くお調べくださいまし。わたくしは罪を犯したりなど決して…!」
「王太子殿下が貴女を見限られたのは罪を犯したからではありませんよ」
「え…?」
「王族とて国の一部。笑って嘘をつかねばならないことなど茶飯事です。邪魔な者が消えれば良いのにと思うこともあって当然。――ですがそれを覚られてはならないのです。美しく笑みをたたえたまま、汚れた手をこっそり拭わねばならないのです。こうして逮捕令状など発布される隙もなく完璧にやり遂げねば、すべて無意味なんですよ。目撃者多数。証拠隠滅も杜撰。何もかも中途半端な貴女を僕たちは一切信用できない。安心して仕事を任せられない后なんて、娶る必要あります?」
シルクの手袋に包まれた固く握った拳が小刻みに震えている。
常に口角を上げているよう教わっているはずの赤い唇は引き結ばれている。
顔色を覚られてはならない社交の場で、公爵令嬢の顔は蒼白だった。
縦方向にきつく巻かれたアメジスト色の髪だけは、一糸も乱れていない。
釘が打てそうなくらい硬そうだなあ、とある意味で感心しながら縦巻きロールを眺めていたルイスは、令嬢の扇子を持つ手に何か光るものがあるのに気付いた。
すわ刃物かと一瞬警戒するも、どうやらそうではなさそうだ。
「…殿下が、……ルディウス殿下がお悪いのです」
いやおまえが悪い、と咄嗟に即答しかけたルイスは慌てて口をつぐんだ。
彼女が自ら退場のセリフを吐こうとしてくれているのだ。水を差してはならない。
「あんな女にお心を動かされたりなさるから!!」
「…私は役者に転向してもやっていけそうだな」
「兄上主演の舞台ならバカ売れ間違いなしですが、それはダメです。美しい兄上をこれ以上民衆の前にさらしてファンを増やしたくありません。おとなしく玉座にお座りください」
「ふむ。そうか…」
「そうやって弟君ばかり可愛がっておいでだったのも惨めでしたのに! あんな頭もお股もゆるゆるな自称ヒロインに傾倒なさって!! あれがお芝居なのでしたらなぜそうおっしゃってくださらなかったのです!」
「それが分からぬ女に我が妻は務まらん」
「っ?!」
侍従がすぐ脇で何か目配せをくれるのに合わせて、わなわなと震える公爵令嬢からルイスは一歩下がった。彼らも何かを警戒しているようだが、そこまで危険だとも感じていないらしい。
「わたくしとの婚約を、破棄なさると……?」
「そも罪に問われている女など我が婚約者足り得ぬ」
「殿下と、結婚できない……?」
「殺人未遂罪で服役した公爵令嬢なんぞ嫁の貰い手はなかろうよ」
「では! ではわたくしはこの場で死にます!!」
扇子を投げ捨て、手に持っていた小瓶を高らかに掲げた令嬢が宣言する。
ははあ、あれ毒なのかー、と観劇のノリで納得したルイスは、その令嬢への興味関心をすでに失くしていた。
壇上の兄上が美しい。ひたすら麗しい。もうそれだけでバスケットいっぱいのパンが食べられる。
うっとりと壇上を見詰める弟王子の視線に、兄王子はゆったりと微笑んだ。
心臓を射抜く矢の幻覚を見た。鼓膜ではきゅんきゅんと軽快な幻聴が聞こえる。紅潮する頬が熱い。締まりのない口端から涎――は、意地で耐える。
「なぜ兄弟で見つめ合っておいでなのです?! わたくし死ぬと申し上げておりますのに!!」
甲高い金切り声に至福の時を邪魔され、ルイスはその縦巻きロールを睨んだ。
死ぬなら一人で勝手に四の五の言わずにさっさとそうすればいいのにと思いつつ、いつものようににっこりと微笑んで嘘を――
「どうぞご自由に」
――吐く、つもりが思わず本音を口に出してしまった。
後で兄上に叱られるなあと、それすら楽しみにしつつ、ルイスは愕然とした表情の縦巻きロールにこてりと首を傾いで見せた。
「どうなさいました? 服毒自殺なさるのでしょう? どうぞご勝手に。ああ、できるなら外でお願いします。王太子殿下のお目を汚してしまいますので」
「なっ?! 人が目の前で死のうとしているのに、止めようとなさらないのですか?!」
「相手によります。兄上なら全身全霊をかけてお止め申し上げますが、貴女なら一向に構いません。死んでやるーって大勢の前で自殺をほのめかす人って、大抵が単なる構ってちゃんでしょう? その程度で兄上の関心を引けるとお思いなら大間違いですよ」
「ルディウス殿下! これが弟君の本性です!」
「ああ、そうさな。私の仕込んだ通りだ」
「な……、な?」
コツ、と靴の音が鳴った。
歩くその姿、靴底が床を叩く音すら美しい王太子が一歩一歩階段を下る。
「天使のごとく愛らしい笑みで悪魔の所業を行う。我が意を汲み我が手足となって差配する。我が弟なればその程度造作もない。そうだな、ルイス」
「もちろんです兄上」
「そして私は妻となる女にもそれと同じ器量を求めている。――が、そのような女はどこにもおらぬようだ」
それを別れの言葉に、王太子は婚約者を視界から外した。
黒コートたちが縦巻きロールの手から毒が入っているらしい小瓶を奪い、その身を確保する。抵抗する様子もなく引っ立てられていく公爵令嬢を、すでに誰も見ていなかった。
弟王子の手前で足を止め、そのすべらかな頬をそっと撫でた兄王子は何事もなかったかのように、いつものごとく微笑む。
その笑みに観衆は見惚れていた。
「皆、此度は些末事で騒がせた。今日という日を境に学生の身分は終わる。すぐさま任に就く者もあるだろう。他家に嫁ぐ者も多かろう。これまでの学びを遺憾なく発揮し、現状に甘んじることなく、我が国の安寧に寄与してくれることを願っている。――皆、卒業おめでとう」
観衆が一斉に胸に手を当て腰を折る。
その様を満足気に見渡し、二人の王子は退席していった。
「兄上! 今夜は一緒に眠っても?」
「褒美はどれか一つだ、ルイス」
「ええー。僕、今回は頑張りましたよ? ね?」
「……ふむ。二人分か。ならば二つにしよう」
「やった! えーと、どうしよう。何がいいかな。添い寝は外せないとして。うーん。耳元で大好きも捨てがたいけど、一緒にお風呂にも入りたいし――」
真剣な表情で悩み始めた弟王子を微笑ましく見詰める兄王子。
去って行くその美しい兄弟を見送りながら、ああ日常が戻って来たのだなと安堵したのも束の間。観衆はやはり不安に駆られた。
王太子殿下は一生結婚できないのでは?
大扉が閉ざされ、沈黙が落ちた。
その場に残された卒業生の中で最高位である伯爵家の三男に観衆の目が自然と集まる。「これからどうすんの?」と問われていることは理解できたが、気の弱い三男坊には会場全体に届くよう声を発するなどありえないことだった。
おたおたと慌てふためく彼を見かねて、とある女子生徒が楽団の指揮者に合図を送った。ほどなくして流れ始めた音楽に、場の空気も緩む。
「あの、さっきはありがとう。助かったよ」
ダンスや談笑の始まったホールを見渡して、三男坊は救いの手を差し伸べてくれた女子生徒に声をかけた。
見かけない顔だったが、金の巻き毛がどことなく第二王子殿下に似ている。
「あれくらい捌けなくてどうするのよ」
「面目ない……。僕は注目されるのはどうも苦手で」
「伯母様に言われて従兄弟たちの様子を見に来たのだけど、相変わらずなのね、あの二人」
「いとこ?」
「さっきまでそこで乳繰り合ってた二人よ」
「――……えっ?! 君、いや、あなたは王妃様の姪御君でらっしゃるのですか。これは、知らぬこととはいえとんだ無礼を」
「いいのよ。偉いのは伯母様であって、私は伯爵家に嫁いだ伯母様の妹の娘ってだけだもの。ところであなた、踊れる?」
「え。い、一応……」
「そ」
すっと差し出された手に三男坊はたじろいだ。
踊ったことがないわけではないが、同じ伯爵家の身分とはいえ、相手は王妃の姪、王子たちの従妹だ。ドレスの裾や足を踏んでしまったらと考えると、とてもじゃないがその手を取る気にはなれなかった。
だが、正当な理由なくダンスの誘いを断るのはマナー違反だ。姪姫に恥をかかせるのも大問題である。
「行くわよ」
「えっ、ちょ、ちょっと…っ」
動けずにいる三男坊の手をぱしっと握って歩き出した姪姫はホールの中央に陣取った。華々しさのど真ん中で再度差し出されたその手は、さすがに応じざるを得ないかと三男坊は息を呑んだ。
気が弱く自主性のあまりない伯爵家の三男坊と、気が強く責任感の塊のような金の巻き毛の令嬢の、意外と噛み合って美しく整ったダンスは人目を惹いた。一曲終わる頃には周囲から拍手が贈られたほどである。
数年後この二人が結婚し、生まれた息子の金の巻き毛を見て「私の愛らしい弟のようだな」と感想を述べた後の王がその子を養子とし、そしてその数十年後。その子が国王に即位することなど、このときはまだ誰も知らない。