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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚のアメリアは、ヒロインにはなれなかった。

作者: 零珠

 



 真夜中、人魚は砂浜に打ち上げられた。かろうじて尾びれが海に浸かり、波がじんわりと下半身の鱗を濡らしていく程度で、ほとんど陸に上がっている。これはちょっとまずい。燦々と照りつける太陽がないのは幸いだったが、それでも陸の空気に触れていると体調が悪くなる。



「さいあく、だわ」



 人魚──アメリアという名のマーメイドは、小さく呟いた。魚でありながら人である人魚は、便利なことに海でも陸でも呼吸ができる。足がないから陸で生活しないだけ……言ってしまえばそれまでのこと。


 とはいえ、人魚は海で生きる者だ。それが神の決めた(ことわり)であり、抗いようのない事実。ただのマーメイドであるアメリアもまた、その現実をねじ曲げることはできない。


 海水に濡れ、顔に張り付いた長い髪の毛を、邪魔くさそうに後ろへ流す。彼女の髪は、銀色だった。よりにもよって、海中で一番に近いほど目立つ色。時折現れる天敵から逃げるために深く潜っても、特徴的な銀髪が目印になってしまう。



「別にこの髪も、嫌いなわけじゃないけど……」



 (人間の世界で有名な物語の……えぇと、名前は何て言ったかしら。人間と恋に落ちるあの人魚……あぁいう赤い髪なら、少し潜っただけで目立たなくなるし、きっと生きやすいんでしょうね。あんな髪色、見たことはないけど!)



 そんなことをぼんやり考えて、体を起こそうと全身に力を入れた。どうにか座り込んだ姿勢にはなれたが、そこからが困った。


 体を引きずれば海に戻れるのだが、そうすると砂浜の無数の石に擦れて、皮膚がズタズタのボロボロになる。当然血だって出る。アメリアは、幼い頃に同じような経験をして大泣きしたことがあるから、それは嫌だった。


 そもそも血を滲ませて海に入れば、匂いを嗅ぎつけたサメがやってくる。人魚などそれほど強い種族ではないから、一瞬で命がなくなる。どんどん絶滅が近くなってしまうではないか。


 アメリアは首を振った。他の案を考えなければ、と。



「赤髪の人魚はどうやって助けてもらったんだっけ……あれ? 人魚が助けてもらったんじゃなく、王子様が助けてもらったんだったかな……」



 アメリアは、人間の世界に興味はない。同族の中には人間の世界に興味を持ち、陸に上がってみたいと焦がれる者も居るが、そういう気持ちはちっとも理解できなかった。彼女は自分達の世界が一番良いと思っている。それゆえ、外界のことを知っても意味はない、と結論づけていた。


 そんなアメリアが人間の物語について知っているのは、それが人魚の話だったからに過ぎない。


 陸に住む人間の多くが知っているであろう、赤髪の人魚の話。人間の世界に興味を持ち、人間の男に恋をして、悪い魔女に騙されるが……最終的に結ばれる。こてこてのハッピーエンドだ。



 人間がこの物語を作ったそうだ、と耳に挟んだときは、人魚の存在がバレたのかと誰もが怯えていた。人間達の間で『人魚の血は不老不死の薬になる』という伝説があることを、人魚も知っていたから。犠牲にならないようにと、ずっと隠れて生きていたから。


 しかし、それも杞憂に終わった。人間は別に、人魚が実在することに気付いたわけではなかった。全て作り話。人間の想像だ。



 もちろん、その一件があってからは、できるだけ海面に上がらないよう、口酸っぱく言われ続けている。

 もう大人になろうかと言う年齢のアメリアだって、それを守っていた。



「はぁ……どうしよう」



 空に浮かぶ月を眺め、小さく呟いた。

 アメリアは考えるのを放棄していた。今まさに自分は窮地に立たされているのに、ただただ眠たくて、どうしようもなく溜め息ばかりついている。


 このまま人間にみつかったら大変だ。捕まえられて、どこかに連れていかれるに違いない。



「そうだ!」



 名案を思いついた、と手を叩いた。彼女は座り込んだ姿勢のまま砂浜に手を付き、それを支えにジャンプをするように移動しようとした。なかなか上手くはいかなかったが、尾びれなども支えにすれば、少なからず前には進む。何もしないよりはずっと良かった。



「命がなくなるよりはいいわ」



 ──本当は、海にさらわれた大切なものを追いかけていた。アメリアの亡くなった母の形見で、鏡という、人間の世界のものだった。


 アメリアの母はどちらかというと人間のことを知りたい方で、海に流れる人間のものを集めるような人魚だった。中でも気に入っていたのが小さな鏡。それを見て使うわけでもなく、ただ持っていただけだが、ずっと大切にしていた。だからアメリアも、それを大切にしようと決めていた。


 その形見が、魚に運ばれ、海に飛び込んできた鳥にくわえられ、海に落とされ……そんなこんなで、あれよあれよという間にこの近くまでやってきたのは確かである。しかし、具体的にどこにあるのかは分からなかった。砂浜に上がってるかもしれないし、海中に沈んでるかもしれないし……アメリアには推測のしようはなかった。



 ひとまず頭のてっぺんまで海に浸かりたい。上半身は人間の体だが、いつまでも地上の空気に晒されていたくない。

 そんな思いに駆られ、アメリアはようやく海に飛び込んだ。冷たい海が全身を覆い、言いようのない安心感が彼女の心を満たす。


 アメリアは気の赴くまま深くまで潜って、落ち着いた頃にまた海面へ向かった。破裂するかのようなわずかな衝撃を越え、海面から顔を出す。先ほど乗り上げた砂浜のすぐそばだった。



「大丈夫ですか!?」

「……え……」



 ぱっと顔を向けると、少し着古したベストを羽織り、短い黒髪をなびかせる青年が立っていた。


 彼はとても驚いた様子だ。恐らく、アメリアが溺れかけていると思っているのだろう。もしかすると、彼女を助けるために駆けつけてきたのかもしれない。額にじんわりと滲む汗がその証拠だ。


 一方アメリアは今まで経験したことのない、とてもうるさい鼓動に苛まれていた。青年は先ほどまで影すら見当たらなかったというのに、少し泳いでいる間にこうして現れた。自分が気付かなかっただけで、本当はずっと陰から見ていたのではないか。そして今、捕まえに来たのではないか。そんな恐ろしさに、じくじくと蝕まれている。



「手を! 早く上がって温まった方がいい。風邪をひいてしまいます!」

「あ……え、と……」



 青年は傷だらけの手のひらを差し出した。しかしアメリアはその手をとることはない。当然だ。彼がどんな意図でそこに居るのか分からない。この夜中──アメリアに正確な時間は分からないが、真夜中だということは分かる──に彼がこんな場所に居ることも、とにかく怪しい。



「どうしたんですかっ……」



 青年はアメリアの様子を不審に思った。だがそれ以上に、彼の正義感が黙ってはいなかった。困惑するアメリアの手を掴み、ぐっと陸に引き上げる。



「駄目っ! やめてっ!」



 手を振りほどこうとする。しかし青年の力は強い。海水がぴちゃぴちゃと撥ね、彼の服を濡らした。

 そんなことを気にもせず、「助けますから、大丈夫ですからね」と優しげに言葉を発する青年。少しずつ引き上げられ、確実に晒されていく身体。アメリアは恐ろしさに涙を流していた。



「──え……鱗……?」



 アメリアの抵抗も虚しく、青年の無垢な正義感によって、彼女の正体は露呈した。人間のような素肌から繋がる無数の鱗に、青年は言葉を失い、掴んでいた腕を離した。



「いやっ……!」



 アメリアはとうとう訳が分からなくなって、死にたくないという思いで頭がいっぱいになった。涙をぼろぼろ零しながら、砂利を握りしめて青年に乞う。



「──殺さないで! 食べないで! 死にたくない! まだ死にたくない! お願い! お願いしますっ! 死にたくない! 死にたくないっ……! ごめんなさい、ゆるして……おねがいします……しにたくない……っ……」



 母のない家庭で、妹と共に暮らす日々。周囲の優しい人魚達の手助けはあったが、決して楽な毎日じゃない。父は居るんだか居ないんだか分からない曖昧な存在で、頼りにできないのだ。妹を守ってやれるのは自分だけ。いくら周囲が優しいとはいえ、どれほど助けてくれるかは分からない。だから自分が居なければ、妹も路頭に迷う。


 それは駄目だ。妹を守る。今死んだら困る。駄目だ。どれほど無様に成り下がろうとも、今ここで死ぬわけにはいかない。



「ごめんなさい……見逃してください……っ……」



 アメリアは、ひたすら謝った。死にたくないと命乞いをした。


 そんな彼女に、今度は青年が困惑した。アメリアがどうしてこんなに取り乱すのか分からないのだ。だから人魚であることすら些細な問題のように放り投げ、自らに命乞いをする彼女を落ち着かせようとした。



「お、落ち着いて。殺したりしない。俺は君を助けようとしただけだ!」

「う、うそはやめて……そうやって油断させて、殺すんでしょう……!」

「そんなことしたって意味ないだろ? 君を殺したら大金持ちになって幸せになれるのか? 無理だろ?」



 青年はそう口走ってから、はたと気付いた。まるで、『君を殺せば大金持ちになれるなら、まぁ殺すけど』とでも言っているかのようだ。安心させたくて発したつもりの言葉だったが、逆効果かもしれない。


 慌てて別の言葉を塗り重ねた。



「殺したりなんかするわけない! 君がそんなに取り乱す理由は知らないけど、俺は誰かを殺す勇気なんかない。というか、仮に君を殺したいと思ったとしても、武器がないし」



 自分は丸腰だ。青年は、あらゆるポケットを裏返し、ベストやシャツをめくって腹と背を見せ、どこにもナイフがないことを示した。


 ナイフどころか、金すら持ってない。しかし念の為、両の手の平を見せながら、アメリアから数歩離れた。アメリアを殺す意思はないと態度で表した。


 そうまでしてやっと、アメリアは落ち着いてきた。心臓はまだ静まらないが、先ほどよりはマシ。海の中ではまず流すことのない涙で、それはもうぐちゃぐちゃになった顔を、海の中に潜ることで誤魔化した。


 赤くなった目元は隠しようがないが、顔をさっぱりさせることはできている……と、アメリアは思っている。青年もあまり気にしていない様子だ。



「大丈夫?」

「ごめん、なさい……もう平気……」



 自分に背を向け、半分海に浸かりながら座り込むマーメイドに対し、青年は自らの名を告げた。



「えぇと、俺はヴィンセント・ベル……いや、ヴィンセントだ。君は?」

「アメリア……」



 敵意を感じさせない、にこやかなヴィンセントに対し、アメリアはかろうじて様子をうかがえるほど振り返りながら、おずおずと答えた。彼はずっと手の平を見せている。悪い人ではないのだ、と思った。



(ベル……って、なんだろう)



 何かを──まぁ恐らく姓だが──言いかけてやめたのが気になった。しかし彼女には、それを問い詰める勇気がない。知る必要もない。そう判断した。



「聞いてもいいかな」

「……」



 何のことかは言われなくても分かる。アメリアは顔を向けもせず、無言でこくりと頷いた。ヴィンセントはそんな態度を気に留めない。



「人魚……なんだよね、本物の」

「そうよ」

「うわっ、すごいな」



 肯定と共に下半身の鱗や尾びれまで見せると、ヴィンセントは少し目を見開いて驚いた。人間にできるような動きじゃない、と思ったのだ。


 もしかすると特異な服を着る趣味があって、魚の鱗を集めた服を纏い、人魚のような気分を味わっている不思議な女の子かもしれない、という、それはそれで変わった予想もしていたのだが……当然外れた。


 ヴィンセントは赤髪の人魚の話しか知らない。それはあくまでも作り話で、存在しないものだ。みんなそれを承知で楽しんでいる。ほとんどの人間が、本当に人魚が居るとは思ってない。

 同じように、古くから伝わる伝説や、子供の間で流行るような怪談を、彼は全く信じていなかった。自分の目で見たもの以外は信用できないし、自分の目で見たものすら信用できないことが多い彼だが……人魚の存在は認めざるを得ないようだ。


 わずかに引きつった顔で、ほぅと小さく溜め息をついたヴィンセントは質問を続ける。



「どうしてこんなところに? 陸に用事があるの?」

「いえ……人魚は本当は陸に近付いたりしないわ。ただ、ちょっと、探し物があって」

「探し物?」

「……鏡。小さな丸い形で、白い……花? っていうのかな。そういう模様の」



 終わらない質問に、アメリアは仕方なく答える。「お前には関係ない!」……と、思い切り吐き捨ててしまえば簡単に逃げられる。でもそうしないのはどうしてか。アメリア自身もよく分からないけれど、話をするだけならいいか、と思っていた。


 どうせ、人魚の存在が明るみになり、人間共が探し回ったところで、人魚の住む領域に辿り着けるとは思えない。むしろ目撃者がヴィンセント一人だったなら、彼の妄言だと嘲られ、誰も信じないかもしれない。



「鏡か。ここら辺にあるのか?」

「たぶん。でも、この砂浜にあるかは分からないし……」

「そうか……分かった、ちょっと待ってて。君は陰に隠れてて!」

「えっ」



 ばたばたと走り、姿を消したヴィンセント。追いかけることもできず、アメリアは呆然とした。



(まさか、探しに行ったの?)



 そんなわけない、と首を振った。


 会話の流れを汲むと、彼は鏡を探しに行った。見ず知らずの人を助けようとするほどの正義感だ。十分に有り得る……どころか、確実にそうだと言える。


 しかし、逆に、見ず知らずの人魚の失くし物をわざわざ探しに行くだろうか。いくら優しくてもそれでは度が過ぎる。


 アメリアはいくつか別の理由を考えて……「『家に鏡があったから、これで良かったら使ってよ』と差し出す」という結論に至った。これが一番それっぽい。探し物が母の形見だとは言ってないし、ヴィンセントは鏡なら何でもいいのだろうと思っている可能性がある。



(変わった人だわ)



 しばらく待って、ヴィンセントは戻ってきた。本当に待った。なんの変化もないこの砂浜で、アメリアは半分寝ていた。



「ごめん、待たせちゃって……」

「あ……いや、別に。……ど、泥だらけっ?」



 戻ってきたヴィンセントは、ベストやシャツ、ボロボロの靴を泥だらけにしていた。整った顔すら黒く汚れている。



「あー……うん、鏡、探しに行ったんだけど……」

「わざわざ!? そんなことしなくていいのに!」

「君は陸に上がれないだろ? 俺が代わりにと思って……でも見つけられなかった」



 あからさまにしゅんとうなだれるヴィンセントに、アメリアは思わず吹き出した。まさか本当に探しに行ったとは思わなかった。なんてお人好しなのだ。



「あっはっはっ! ヴィンセント、ほんと面白い!」

「え……」



 アメリアは思わず、と言った様子で笑い転げた。ひとしきり笑って、涙を拭いながら、ぽかんとするヴィンセントに告げる。



「自分で探すわ。毎日探せばいつか見つかるでしょ」

「お、俺も! 俺も一緒に探すよ!」



 うん、とアメリアは頷いた。



 ◇



 次の日、アメリアは同じ砂浜へやってきた。アメリアは時計というものを持ってないし、海の中では時間という概念もあまりない。だから体感的に同じ時間帯でしかなかったが、ヴィンセントもそこに居た。目立つように、砂浜にある大きな岩の上に座り、ぼぅっと海を眺めていた。ヴィンセントは海の中から顔を出したアメリアに気付き、ぱっと笑顔になって手を振った。



「アメリア!」

「ごめんなさい、待った?」

「いや、大丈夫だよ。元々、この時間はこうして散歩に来てたし」



 ヴィンセントは、首元を掻きながら答えた。何か気になったが、アメリアは「そう?」とだけ呟いた。



「じゃあ、探そうか」



 二人は手分けして鏡を探し始めた。砂浜はあらかたヴィンセントが探していたので、アメリアは海に潜る。波打ち際や岩の陰なんかは彼に任せた。


 今日はここからここまで探そうと決めた部分を探し回って、何度も見直したけれど、そこにはなかった。



「あった?」

「ないわ……」



 はぁぁああ……。二人で深く溜め息をついた。



「明日は向こうの方を探してみようか。この砂浜は滅多に人が来ないから、誰かに盗られる心配はないと思うし……ゆっくり探そう」

「ありがとう、ヴィンセント」



 アメリアは、すぐに戻ろうかと思った。しかし思い留まって、少しだけヴィンセントと話をすることにした。昨日は自分が質問攻めにあったのだから、今度はこちらがする番だと。



「ヴィンセントは昼間は何をしてるの?」

「俺は……仕事だよ。学校に行けるほど裕福じゃなくて。別に学校なんか、行きたいとも思わないし」

「がっこう……」



 アメリアは小さく繰り返した。


 人魚の世界にも学校はある。だが決して気軽に通えるものじゃない。いわゆる王族や富裕層が行ける所で、アメリアのような庶民には縁のないものだ。


 学校に行けば色んなことが分かる。例えば、他の海のこと。アメリアは自分の住む海の名すら知らないが、世界にはたくさんの海が存在していて、それぞれで特徴的な人魚が住んでいる。


 それから、人魚の身体の不思議。様々なことを教授されるが、中でも興味深いのは『人魚の血を飲むと不老不死になる』という伝説についても学べることか。どれほどの価値があり、どれほど危険かを、つぶさに教えてもらえるのだ。

 それから、人魚の身体についてもう一つ。陸に上がる際には──



「学校に行けば色々教えてもらえるけど、将来役に立つか分かんないだろ?」

「確かにね。生きるのに必死だもの。私、学んだことを覚えていられる自信がないわ」

「俺も! 記憶力ないからさぁ。とにかく今を生きられたらいいやって思っちゃうんだよな」



 ヴィンセントのことはよく知らないのに、彼らしいと思った。軽いと言えば聞こえは悪いし、楽観的というのは良く言い過ぎている。しかしそういう底抜けの明るさはヴィンセントっぽい、とアメリアは頷いた。



「来るかも分からない将来のこと考えて落ち込むくらいなら、今を生きてる方がいいよ!」

「そうだよな? 明日死ぬかもしれないんだし」



 死というのは突然訪れる。特にアメリアは、住んでいる家はあれど、本当の意味での安住の地はない。恐ろしいサメが近くを通ることは少なくないし、時にはクジラやシャチだって通る。クジラは決して、人魚を積極的に食べるわけじゃない。主に食べるのは小魚などだが、大きく口を開けていっぺんに食べるものだから……一緒に飲み込まれてしまうことも、ごくごく稀にある。


 そんなことを話すと、ヴィンセントは少し青ざめた顔で「ぅぇぇ……」と呟いた。アメリアは当たり前のこととして慣れているからどうってことはないが、人間にしてみれば海の中の生活は常識外れたものだ。


 反対に、アメリアにとって人間の生活も恐怖を感じるものだった。


 つい先日、ヴィンセントの住む村の隣町で、火事が起きたそうだ。木造の家は全て焼け落ち、住人は亡くなってしまった。海には当然、火などないから……アメリアは身を溶かしてしまうという火が恐怖の代名詞となった。



「……あっ! ごめん、俺もう帰るね。また明日!」

「うん、またね」



 ぱたぱたと駆けて行くヴィンセントの背中を見送り、アメリアもまた海へと帰った。



 ◇



 次の日も、同じように砂浜にやってきて、鏡探しをした。その日は見つからなかった。


 そのまた次の日も、砂浜で鏡を探した。


 次の日も。

 次の日も。

 次の日も。


 でも鏡は見つからない。隈無く探したはずなのに。アメリアは不安になった。もうどこにもないのではないか。自分がここに流れ着いたと思っただけで、本当は全く違うところにあるのではないか。


 そう考えると、鏡が自分のところに戻ってくるはずがない、という結論に至ってしまう。



「……もう、ないんだわ、どこにも」

「アメリア……」

「諦めるよ。見つからないんだから、ここにはないんだよ。手伝わせてごめん」



 アメリアは気丈にも、笑顔でヴィンセントに告げた。とても大切なものだが、これ以上探しても仕方ない。あとはこの辺りの海底を、地道に探す以外には方法はないだろう。



「待って!」

「なに、どうしたの?」



 ヴィンセントは、悲しそうな表情でアメリアをじっと見つめた。首を傾げると、青年は懐をゴソゴソを探り、何かを取り出す。



「これ……アメリアの、じゃないかな……」

「え……これ……」



 差し出されたのは、白地に花柄の、小さな鏡。──これは、アメリアの母親の形見。まさしくこの鏡を探していたのだ。



「なんで、ヴィンセントが……」

「ごめん。君と会える口実を作りたくて……隠していれば、探すのを手伝う名目で毎日会えるから……」



 アメリアは受け取った鏡を胸元で握りしめた。


 ……「会いたくて」……確かに彼はそう言った。気味が悪いとは、思わない。強いて言うなら、嬉しいと、思った。



「でも、だからって、隠したりしないでよ……口実なんかなくても会いに来たのに……」

「え……」



 アメリアは、驚いた様子のヴィンセントを置いて海に潜った。何も聞こえない、深海へ。

 ヴィンセントは何度も彼女の名前を呼んだが、深く深く海を泳ぐ彼女には届かない。



 次の日から、アメリアは砂浜に来なくなった。


 ヴィンセントは待った。何日も、何日も、昼間は過酷な肉体労働をし、その疲れた体に鞭打って、寝る間も惜しんで砂浜に来た。でも会えなかった。



「アメリア……」



 ヴィンセントは、もう疲れ果てていた。元はと言えば自分の撒いた種。何もかも自分が悪い。それでも──好きになってしまった相手に、これほど避けられるとなると……心が病んでしまう。


 あのときの『口実なんかなくても会いに来たのに』という言葉が、数えきれないほど頭の中で響く。その度に自分の中の悪魔は「最初から好かれちゃいないさ」なんて手酷く笑う。



 あの日、初めてアメリアを目にしたヴィンセントは、雷に打たれたような衝撃を受けた。濡れてしっとりと輝く銀色の髪は、地上では決して見ることの無いもの。白い肌は透き通るようで紛れもなく人間なのに、下半身の青っぽく光る鱗は、普段目にする魚と同じだった。


 ──ヴィンセントにはそれが、とても美しく思えた。まさに恋に落ちた瞬間だった。



 だから、ほんの出来心だった。彼の中には「アメリアとまた会うためにはどうしたらいいか」ということばかり巡り、海の中に住む相手とはそう簡単に会えるはずはないし、何か、何か口実を作らなければ! と、焦っていた。


 その結果が、これだ。



「ごめん、アメリア……」



 強いて言うのなら、その決断には誠実さがなかった。本来のヴィンセントは真面目で心優しい、絵に描いたような素晴らしい青年だ。それがなりを潜め、誠実さを失わせることになったのは、他でもない出自のせいだろう。いや、正確には、ヴィンセントの出自を蔑む人々、だ。


 出自をバカにされ、村の人々に疎まれ、それでも生きるために働いて、仕事場では奴隷のような扱いを受ける。それらの行いは、ヴィンセントが真面目である分だけ、彼を苛み嘲笑った。


 そんな苦しみと戦い続けるヴィンセントにとって、この数日間、アメリアは恋焦がれる愛しい人であると同時に、心の拠り所にもなっていた。



「ごめん……好きになって、ごめん……」



 小さく呟いて、彼は決心したように息を吐く。わずかに波を生む海を見つめたあと、すぐに振り返って村への道に向かった。──もうここには来ない。そう、強く誓って。


 そのとき、砂利を踏むようなざく……という音が聞こえた。もしや、彼女が──と、考えて、首を振る。もうアメリアはここには来ないのだから。



「──ヴィンセント」



 目の奥がつんと痛んだ。振り向かずにはいられない。ヴィンセントは半分期待し、半分諦めながら、後ろを向いた。



「ぁ──あめ、りあ?」

「そうよ、ヴィンセント。アメリアよ」



 そこには、砂浜に腰掛ける、麗しい銀髪のアメリアが、居た。以前と変わらぬ表情で、以前と変わらぬ……いや、顔色は、どこか良くない。ヴィンセントはハッとして、すぐに駆け寄り心配の声をかける。



「アメリア、具合が悪いのか? 少し眠った方がいいんじゃ……」

「何言ってるの?」



 そんなヴィンセントを、アメリアは怪訝そうな顔で見つめ、頬に手を当てた。



「ヴィンセントの方が具合が悪そうだわ。隈が酷い」

「そんな、こと……」



 ない、とは言わなかった。実際あまり眠れていない。昼も夜も心が休まらなくて、負のループに陥っていた。体が壊れるのも時間の問題だった。



「ぁ、アメリア、何で、ここに」

「反省したかな、って。少し後悔すればいいと思ってたけど……想像以上だわ」



 アメリアは、彼の様子に驚いてしまい、苦笑いもぎこちない。こんなにもやつれているとは、全く想像していなかった。ヴィンセントはあまりにも真っ直ぐで、あまりにも素直なのだ。それを痛感した。



「ごめん、アメリア。君に、酷いことして」

「こっちこそごめんなさい。本当は怒ってないから……。ちょっとしたイタズラのつもりだったの」



 アメリアの言葉に、ヴィンセントは首を振るばかりだった。もう会えないと思っていた。それでも彼女がここに居る。その事実は彼の心を温めていった。


 それでつい、口を滑らせてしまった。



「──アメリア。君が好きだ」



 ヴィンセントはハッとして口を塞ぐ。アメリアは……。



「──わ、たし、も……私も! ヴィンセントが好き! こんな気持ち、初めてで……」



 頬を染めて小さく呟くアメリア。


 ヴィンセントは嬉しくなって、衝動のままに抱きしめた。海の中に居る彼女はとても冷たく、その温度をヴィンセントへ移していく。アメリアはヴィンセントに気を使って離れようとするが、彼は気にしない。



「ヴィンセント……?」

「ごめん……嬉しくて……」



 ぽろぽろと溢れる涙。アメリアに見られないよう強く抱きしめても、彼女の肩を濡らすものが海水や雨でないことは明白だった。

 アメリアは、少し手のやり場に困って、幼い頃に母にやってもらったように、ヴィンセントの頭を撫でてやった。



 ヴィンセントの母は、妾だった。名を、エリザベス・ベルギル。この国の王の、側室とも認められないほどの身分だったが、確かに王の寵愛は受けていた。


 しかしある日突然、王はエリザベスと関わりを持つことをやめた。寵愛は最初からなかったかのような態度。

 理由はどうあれ、その日から『ベルギル』という姓は、『王に捨てられた哀れで惨めな身分の卑しい人間』という意味を持つようになった。本当の意味は、それほど見下されるものでないはずなのに。


 町から逃げることはできない。けれど、町にヴィンセントの居場所はない。ベルギルである以上、町人は誰しもがヴィンセントを蔑む。どれだけ完璧に仕事を成し遂げても、やってもいない失敗を押し付けられ、いい理由が出来たと言わんばかりに罰を与えられる。それを毎日のように。ヴィンセントの体から鞭に打たれた痕が消えることは無い。


 最初こそヴィンセントを守り、気丈に振舞っていた母親も、ボロボロの布切れをまとって帰って来たあの日から、まともに生きることをやめた。食事も睡眠も何も取らなくなった彼女は、そうして、死んだ。もう何年も前の話だ。


 だからヴィンセントに失うものは何もなかった。苦しいのに意味もなく仕事をして、美味しくもないパンを食べて、悪夢にうなされろくな睡眠も取れないのにベッドに入る。

 そんな惰性だけの人生だった。


 でももう違う。



「ありがとう、アメリア」

「どういたしまして?」



 そっとアメリアを離し、ヴィンセントは呟いた。何のことか分からないアメリアは、ほんの少し首をかしげる。しかしヴィンセントがとても安らかな笑顔だったので、あまり気にしないことにした。



「あのね、ヴィンセント」

「どうしたの?」



 アメリアは姿勢を直した。改まった様子に、ヴィンセントもわずかに緊張する。



「私は、ヴィンセントと生きたい。そのために、陸に上がろうと思う」

「陸に? でも、君は歩けない、だろ……?」

「ううん。ここはね、人間の足にもなるの」



 魔法も何も必要ない。どの人魚も、人間の足に変化させることができる。


 アメリアは、ヴィンセントと共に居たいと思った。そのことを妹とじっくり話し合った。

 妹は賢く優しい子だった。姉のためを思って姉に頼ることをやめ、自分のことは自分で何とかすると決めた。むしろ、ここ何日かの姉の様子から、そうなることは覚悟していたと言う。


 アメリアはなんだか複雑な気分になって、妹のためにできることは全てしてきた。周囲に住むの人魚も優しく送り出してくれた。妹は、彼らに任せても心配ない。


 恵まれている。アメリアは心からそう思った。



「危険はないの?」

「……ないわ。時間がかかるけど、ちゃんと人間になれる」



 ヴィンセントの返答を聞く前に、アメリアは海から砂浜へ上がった。体のどこにも海水が浸っていないように、尾びれの先まで砂浜に横たわる。


 すると、アメリアの鱗は、ぽろぽろと剥がれていく。秋に葉が落ちるように、風や身動ぎのわずかな衝撃で鱗がなくなっていく。

 痛みはない。魚と同じだったものが人間の足になる、それはそれは大きすぎる変化なのに、違和感は全くなかった。


 ヴィンセントは羽織っていたベストを、慌ててアメリアの腰の辺りに掛けた。

 やがてアメリアの人魚としての機能は失われ、正真正銘の人間になった。足の先まで自在に動く。最初からこの足で歩いていたみたいに。



「すごい……!」

「海水さえなければ、この足で歩けるの」



 人魚に等しく与えられた機会。

 特別な力がなくても、物語のように陸を走り回れる。

 ──試練を乗り越えれば。



「ぅ……あッ……ぐ、ぅぅ……」

「アメリア!?」

「はぁ、ぁッ……ぅ、あ、ぐ、……ぁあぁッ……」

「どうした!? どこが苦しい!?」



 アメリアは突然もがき始めた。胸元を押さえ、呼吸もまともにできないほど苦しむ。ヴィンセントは慌てるばかり。アメリアからの返答がないことには理由も何も分からない。


 背中を擦り、異変の原因を探るが……医者でない彼には難しかった。



「ごめ、な、さ……わたし……し、かく、が、ない……みたい……」

「し、しかく? どういうこと? アメリア!?」



 人魚が人間の足を手に入れる上で、全くの犠牲がないはずはなかった。何事も変わるには危険が付きまとい、それ相応の覚悟が必要になる。


 人魚の場合は、試練と呼ばれるもの。試練を乗り越えれば無事にその足で立ち上がることができる。

 誰から与えられ、誰が決めているのか。穴の空いた都市伝説のようなその試練の、明確な合格基準は人魚ですら知らない。


 試練に弾かれた人魚は──



「なん、で……アメリア……待って、なんで、なんで()()()()んだよ!?」

「ごめん、ね……」

「まって、待てよ、まてまてまてッ! アメリアッ! なんだよ、なんで止まらないんだよッ!」



 アメリアの体は溶けていく。波に壊される砂の城のように、水に流せば消える泡のように、溶けていく。


 不思議と溶けていくものは白かった。元はアメリアの体で、つまりは肉であったはずなのに、汚れのない白となり、海に流れていく。



「す、き……ヴィン、セン、ト……」

「ぁ……ダメだ、まってくれ……アメリア……そんな……おれは、こんなこと、のぞんでない……」



 ヴィンセントはアメリアと一緒に居たかった。

 アメリアもヴィンセントと一緒に居たかった。


 その為ならどんなことだって乗り越えられる。

 そう思っていたはずなのに。



「──ぁ……ぅぅ、ぁぁああぁッ……!」



 ヴィンセントの手の中には、アメリアだったものが残っていた。それは風に攫われ、ふわりと消えた。



 人魚のアメリアは、ヒロインにはなれなかった。


 幸せになれると決まっている、あの甘ったるくてありふれた物語のヒロインには、なれなかった。




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