表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイズリヒメ  作者: 二束
7/7

ハイズリヒメ  -アナタガ・・・-

「逃げる事が出来ないのは、この体が邪魔だからです。この体を捨て、お嬢様の一部になれたならば、どこへでも、どんな方法でも、お嬢様の望むままに逃げる事が出来る。いえ、そもそも逃げる必要さえなくなります」

 セランは己の言葉に酔うように恍惚とした口調で語った。

「私にお前の血を吸え、とそういう事?」

「この体で生き残る術がないのなら、……お嬢様の一部となりたい」

「妙な言い方だけど、分かっているのよね? 一部になる、というのは決してお前の意識が残るということではないのよ? 私の中で生きていくわけではない。

 ただ、お前の命を私が食べるだけ。それで良いのよね?」

「お嬢様の服を仕上げてより、目的もなく生きる僕にとって、それだけがただ一つ残された望みでした」

 まっすぐに私を見つめるセランの目に、私はふと微笑みを浮かべていた。

「お前を選んで良かったわ」

 セランが魅入られたのは私という夜魔の放つ闇の深さにである。

 私がお父様の娘でなく、これほど深い闇を纏う格の高い夜魔でなければ、セランはこのように強く私の虜とならなかったかもしれない。

 また人間の闇への恐怖と羨望はある種本能的で、人間が人間を想うその心とは大きく違う。

 それを思えば、セランのその想いにセラン自身の意思は関係なく、ただ私が夜魔であり、セランが人間であったというだけで生まれた想いである点は否めない。

「良く言ったわ。さすが私の針子。セラン、貴方は最良の僕よ」

 そして私はセランの提案を受け入れた。

 確かにその想いは偽物と呼ばれるべきかもしれない。私が夜魔でなければ、セランはこれほど強く私に惹かれなかっただろう。

 だが、いくら仮定の話を積み重ねたところで、現実は一つだけなのである。

 私が夜魔である事は変えようもなく、セランにとっては他でもなくその想いが真実なのだ。

 それを偽りと告げるのは容易いが、偽りであろうとも信じる者にそれを告げるのはあまりに酷というものだ。

 そしてまたそれが彼にとって唯一にして最大の幸福というのであれば、私にそれを拒む術はなかった。

 私はセランの体を抱き寄せ、その首筋にそっと牙を立てた。

 抱き締めるセランの腕が微かに震え、私の背をきつく抱いたように思えたが、すぐにその力も私の中に融けていった。


「力に酔っているようね、ベニメウクス?」

 口元に滴る鮮血を舌先でぺろりと舐め上げる私を見て、姉は惨いものでも前にしたような目で言った。

 吸血の有様は姉も同じであろうに、その屠る者と屠られる者の姿をまざまざと見せつけられるのが、人間贔屓の偽善心に溢れる姉には辛いのだろう。

「まず一つ返してもらったわ。私の針子を」

「貴方が憎くて奪ったわけでは」

「あぁ、違ったわ。もう一つ返してもらったものがあった」

 私は姉の言葉を耳に入れず、勝手に言葉を並べながら、懐から二つの義眼を取り出し、それを姉の足元に向けて投げ捨てた。

 土の上に転がるガラス玉を見て、姉の両脇に侍る夜魔も事の重大さに気付き、剣を抜いて身構える。

 反抗を意味する剣によって私の邪視に対抗するつもりか。

「久しぶりにちゃんと見せて、お姉さんの姿を」

 だが私は彼らの抵抗などお構い無しに眼を開いた。

 忽ち私の両目からは荒ぶる力の波が溢れ出し、咄嗟に抜いた程度の刃など気にも留めずに彼らを飲み込んだ。私の瞳に宿る石化の毒が彼らの肢体を彫像のごとく固くする。

 しかしやはり姉は鈍重な輩とは違い、私の視線がそう容易く防げるものではないと察したのだろう。一つ大きく跳躍して天に逃げ場を求めていた。

 だがそれはつまり、今の私の邪視は姉でさえも正面から浴びたくないと思えるほどであり、ましてや以前のように手も使わず払い落とすなど出来るはずもないという事だ。

 姉は今、私の視線に戦慄を感じたのである。

「あははっ、凄い力だわ。お姉さん、怖い? そうよね? 昔はお姉さんもこの蛇の眼に、散々に打ち負かされたものね。でもあの頃の力はまだまだこんなものじゃないわよ?」

 胸の中でセランの命が熱く激しく燃えているのを感じる。

 その熱が私の邪視を真の力へとまた一歩引き上げていた。

 飢えを凌ぐだけの吸血ではない、命を貪る吸血で得られる充足感とはそれほどに強いのである。

 私は抱いていた亡骸をその場に捨てると、姉を追って宙へと駆け上がった。

 姉も剣を抜いて私の巨牙を迎え撃ち、辺りには刃と刃のかち合う激しい稲光と雷鳴が轟く。

「なぜ彼の体を捨てたの? あれは貴方を慕っていた者でしょう?」

 姉は私が血を奪った後の亡骸を地に投げ捨てたのが殊の外気に入らないらしい。あからさまな嫌悪をその表情に見せる。

 躯の女王である姉らしい感傷だった。

「あれはただの躯でしょう? セランはもうこの世のどこにもいない。いるとすれば、今私の胸の中で、お姉さんに復讐をと叫ぶ、この衝動と高揚こそ彼の名残よ」

 格の高さではまだ姉の方が圧倒的に上であり、周囲のあらゆる事象は姉に味方している。

 その一挙手一投足に万象が付き従い、ただ刃を打ち合わすだけでも、私には僅かに分が悪かった。

 だが荒れ狂う邪視の輝きを至近距離で浴びせると、さすがの姉も極一瞬だけだが確かに硬直した。

 私はその瞬間を見逃さず、力任せに牙を振り上げ、姉の剣を弾く。

 そして無防備になった姉の胸、心臓に向けて鋭く片手を伸ばした。

「返してもらうわよ、お父様の血を」

 その心臓を抉り出せば、そこにあのお父様の血と面影があるはずだ。

 それを手に入れて、次は私が絶対の君臨者となり、お父様の影と重なる事で、もう一度お父様に会える。

 私はお父様の差し伸べた手を握るつもりで、必死に手を伸ばした。

 だがその指先が姉の柔肌に触れようかという瞬間、姉はその体から猛烈な威風を発し、私を弾き飛ばす。

 お父様から奪った力を使って、私とお父様の再会を阻もうとは、この姉は何という陰惨な仕打ちをするのだろうか。

 姉の発した暴風に巻き込まれた私はそのまま一気に地面へと叩き落される。

 顔を上げた時には既に姉も地に降りてきていて、その手をこちらに差し向けていた。

「大気よ、槍の穂を模し、貫く力となれ」

「風よ、逆巻きなさい」

 姉の言霊に対し、私も咄嗟に言霊を返す。

 姉の手から放たれた大気の刃は一直線に私を刺し貫かんと迫ったが、間一髪私の呼び出した旋風に呑まれて、途方もない方角へと飛んで刺さった。

 だが実を言えば、私はこの言霊で、その槍を姉へと投げ返すつもりであった。つまり辛うじて軌道を逸らす程度にしかならなかったのは、それほどに私と姉の間に格の差がある事を示していた。

「炎よ、荒れ狂え」

 しかし姉は私に歯噛みする暇さえ与えず、次の言霊を呟き、その指先から首ほどもある火球を発した。

「大地よ迫り上がれ。周囲塞ぐ壁となりなさい」

 煉獄の炎に焼かれれば骨まで蒸発してしまう。

 私は急ぎ大地に手を振れ、それを起き上がらせて壁とした。

 壁の向こうで火球の衝突する鈍い音が響く。

 その分厚い壁は私の視界を塞ぐが、見事私の身を炎から守ったと分かり、私は微かに安堵する。

 だが次の瞬間、壁はものの見事に砕け散った。

 炎は防いでも、その衝撃までは吸収し切れなかったという事か。

 また姉の言霊に私の言霊は及ばなかった。

 しかしやはり姉は私に悔しむ時間など与えてはくれず、既に手を差し向け、次の言霊を呟き始めている。

「舞い散る土塊よ、降り注ぐ飛礫となれ」

 その瞬間、たった今まで私を守ってくれた壁の瓦礫達が、矢雨のごとく私を襲い、皮膚を引き裂き始めた。

 姉の支配力は、一度私になびいた者達さえ、こうも容易く操るか。

「土中に眠るか弱き者よ、今こそ芽吹け」

 私は迫り来る飛礫の中にある植物の種を呼び起こし、その根を伸ばす事で土の鏃を内側から砕く。

 石飛礫が砂塵となって暴風に舞い散る中、私は明瞭な視界を求めて身を屈めた。

 だがその砂塵の中に突如、姉の姿を見る。

 姉は砂埃でドレスが汚れるのも意に介さず、その煙の中から今私が芽吹かせたばかりの木の芽を掴んだ。

 姉の手に包まれた木の根は、言霊を介すまでもなく、その意に応じて忽ち形を変え、樹皮を幾重にも束ねた杭となる。

 むろん姉はそれを私に向けて振り下ろすつもりだろう。

 私は咄嗟に邪視を姉へと向けるが、姉は歯を食い縛り、力を腕だけに集中すると、邪視の束縛さえ強引に振り払って、杭を私の左の肩口へと突き立てた。

 激痛に私の口からは悲鳴が漏れるが、それは砂塵の中に散っていく。

 杭はめりめりと私の肉を掻き分けて進み、この体を薙ぎ倒すとそのまま大地へと縫い止めてしまった。

 風に吹かれ、砂塵が晴れると、横たわる私を見下ろす姉の顔がはっきりと見えた。

「何をしているの? さっさととどめを刺せばどう?」

 互いの格と力の差から、こうなる事はおよそ分かっていた。

 私は敗者として醜態を晒しながら生きていく術をお父様から学んでおらず、地に伏した以上は早々に覚悟を決めた。

「何度も言っている事だけれど、私は貴方を殺める気はないわ」

 だが姉は敗者を見下すこの状況にありながら、なぜか優しげな笑みを向けたのである。

「なるほど。どうりで攻めが緩かったはずだわ。いくら多少の力を取り戻したといっても、お父様の力を行使するお姉さんに、私の力が抗いになるなんて、おかしいと思ってたのよ」

 姉が幾重にも言霊を放ったのは、私を仕留めるためではない。

 その対応によって私に力を使わせ、セランの命を食って得た活力を浪費させるためか。

 姉は私を、力に酔っている、と言った。

 力さえ失わせれば、従順で飼い易い妹になるとでも思ったのだろう。

 すっかり姉の掌で遊ばされたわけだ。

 私は地に寝転んだまま、高らかに自嘲の笑い声を上げる。

「ベニメウクス、本当に貴方と私と、どちらかしか生きていけないのかしら?もう一度考えて欲しいのよ」

 私は考えた。

 しばらく考えに耽り、そして手にしていた巨牙を身の内に納めた。

「考えたわ」

 私が敵意の象徴である剣を納めた事で、姉の表情がぱあと明るくなる。

「ありがとう、ベニメウクス」

 姉は私の肩に刺さる杭を引き抜こうと私の傍に身を屈めた。

「やっぱり無理よ、共生なんて。お父様の血を奪った簒奪者の癖に、仲良くしたいだなんて、どの口がそんな恥知らずな事を言えるのかしら?」

 私が考え込んだのは、共生についてもう一度方法を模索するためではない。どうすればこの厚顔無恥な姉に一矢報いる事が出来るかを考えていたのだ。

 私は再び牙をその手の中に呼び出す。今度は巨大な鉄扉の姿ではなく、細く細くしかし鋭い針としてだ。

 その針で私は傍にあった姉の細い足首を僅かに引っ掻いた。

 むろん姉はすぐさま私の敵意に気付いてその場を飛び退くが、その隙に私は肩に刺さる杭に手を伸ばす。

 その杭にはまだ姉の言霊の余韻がこびり付いていて、引き抜こうとしても微動だにしない。

 ならばと私は無理矢理体を起こす。

 悲鳴を上げ、歯を食いしばり、涙が流れた。

 なぜか? 杭の束縛から逃れるため、私は自らの左腕を引き千切ったからだ。

 片腕を失えば闘争の力も大きく減衰するだろうし、後々この傷を癒すためにも相当の精力を要するだろう。

 だが今私にとって重要なのは、姉と雌雄を決す事だけであり、後先を考えるつもりもなく、その邪魔となるならば左腕さえ必要なかった。

 姉は私の強引で狂気的な行動に、表情を僅かに蒼く染める。

「確信した? 私達に共生など無いのよ。お姉さんがどれほど声高に叫んでもね、夜魔のルールがそれを許さない」

 激痛の走る傷口を押さえながら、私は一歩また一歩と、ゆっくりだが確実に姉の方へと歩を進めた。

「見て? これが、私のこの姿が、夜魔のルールの示す結論なの。私を敗者として消滅させるか、言霊の力で従順な妹に作り変えるか。夜魔に許された選択肢はそれだけなのよ。

 そのどちらも選べないお姉さんに、決着を付ける事は出来ない」

 私は針を納め、もう一度巨牙を手に握る。

 夜魔のルールの外に解決を求める姉は、私の前進に合わせて後退しようとするのだが、その足はもう意思の通りには動かなかった。

 姉は戸惑うように、私と己の足とを交互に見、そして足首に出来た微かな刺し傷を見つけると、何か悟ったように苦々しい表情を浮かべた。

「毒牙ね?」

「そうよ、お姉さん。今の私の毒でも、足を痺れさせるくらいは出来るわ。そう長い間効く毒でもないけれど、私がそこに行くまでには十分のはずよ」

 私はにいと不敵に笑い、私が傍に辿り着くまでに、姉に夜魔としての決断を下すよう迫った。

 むろん姉が決断出来なかった時は、私がこの牙で姉を両断するまでである。

 一歩、一歩と私は前に進む。

「動くな。歩を止めよ」

 姉は苦し紛れに束縛の言霊を放つが、私はそれを同じく束縛の力を持つ邪視で掻き消す。

「空を切り裂く旋風よ、彼の者を押し流せ」

 言葉で止まらないと分かるや、姉は方法を変え、刃を纏う旋風に私を押し戻させようとする。

 その風に私は顔と言わず腹と言わず、手も足ものべつ幕無しに切り付けられ見る間に血達磨になっていくが、やはり姉は私の脳や心臓を狙わず、致命傷を避け続けた。

「殺す気の無い言霊なんて、少しも怖くないのだけど。ほら、足はまだ動くわよ。一歩、また一歩。ほら、もうすぐお姉さんに手が届くわ」

 もう全身の神経もずたずたに切り裂かれていて、私は見るも無残な様子なのだが、しかし痛みを感じ無いという事は歩を進めるにおいてむしろ利点であった。

 旋風に肉片を削ぎ落とされていくたび、私は足取りを軽くし、決断の期限が迫り焦る姉の顔を見ながら気味良い笑い声を上げる。

「さぁ、お姉さん、決意は固めた? それとも覚悟を決めた?」

 そしてついに私は姉にこの巨牙の届く距離にまで到達した。

 決断を問うてみるが、きっと姉にそれを決める事は出来ないだろう。それが出来る姉ならば、私がここに辿り着く前にあっさりと事は終わっていたはずだ。

 ならば姉が決めるべきは、私に殺される覚悟の方である。

「お父様の血と権力を、返してもらうわよ」

 私は血塗れの顔を可能な限り歪めて満面の笑みを作る。

 そして自慢の牙を天高く、この世界のあらゆる場所から、この世ではないお父様からも見えるように、雄々しく振り上げた。

「待って、ベニメウクス。私達は姉妹でしょう? 本当に共存の道は無いの? どうして一度もそれを考えてはくれないの?」

 夜魔は孤高不屈の生き物だ。

 夜魔と夜魔が出会う時、支配に依らず共存する術などあるはずがない。

 だが、姉妹という、本来夜魔の中で発生するはずの無い間柄ならば、あるいは。

 そう考えた姉の気持ちも、ここに来て分からないではなかった。

 だが、それについて一度たりとも考えなかった理由は、

「それは貴方が嫌いだからよ、お姉さん!」

 私はお父様のただ一人の娘でありたかったのだ。

 お父様の視線を全て私のものにしたかった。

 その口から溢れる言葉は全て、私だけのため紡がれて欲しかった。

 だがそれらを悉く私から奪ったのが姉だった。

 私は姉より遥かに優秀だったはずなのに、不出来ゆえ姉はお父様の興味を引いた。

 それは簒奪だが、確かにお父様の力を引き継いだのは、私ではなく姉だったという事実が私を苦しめ続けた。

 姉妹かどうかなど関係ない。いや、あるいは姉妹だからこそ尚更か。

 ただ分かるのは、私がひたすらにその女を憎んでいたという事だけだった。

 あまりに単純で、しかし覆し難い理由を叫び、私は達成感の中、脱力するように牙を振り下ろした。



 振り下ろされた刃は勢い余って足元の大地さえ斬り裂いた。

 姉への復讐に意識の全てが奪われていたために忘れていたが、私の立つこの大地がトネリコの城の中に作られた偽りの世界であった事を思い出す。

 私の牙がその枝の樹皮を貫通し、その瞬間、辺りには地と言わず空と言わず亀裂が走り、がらがらと轟音を立てて崩れ落ち始めた。

 むろん、落ちていくのは、遥か遠い本物の大地に向けてである。

 雲よりも高い位置より落下しながら、私はふと、日頃は何という事もないこの高さも、今の酷く傷ついた体では助からないかもしれない、と考えた。

 ぼろぼろの体に残された僅かな力を振り絞って風を集めるが、落下の速度を緩めるほどの勢いにはならない。

 復讐に心奪われるのも良いが、どうやらその程度の後先は考えるべきだったらしい。

 無理を通し過ぎた事を微かに自嘲する。

 私の他にも、その崩壊に巻き込まれた人間達は多少なりともいて、周囲には阿鼻叫喚の声が吹き荒れている。

 最後の瞬間に聞く音にしては何とも騒々しく無粋だが、それが私の結末というのなら仕方がない。

 ならばせめてお父様の血を、その香りを抱き締めて逝こうと思い、傍を落ちていく姉の半身を手繰り寄せようと手を伸ばした。

 だが私の指先がその肌に触れた瞬間、なぜか姉の体は蜃気楼のごとく砕け、大気の中に散っていった。

 最後の瞬間まで、私の思い通りにはさせないつもりか。

 躯となってまで私に厭味を働く姉に、もはや憤りを通り越した空笑いが漏れる。

 そうして一頻り笑った頃、もう大地という名の死が目前に迫っていた。


「皆、動くな」

 今まさにこの身を大地に打ちつけようという瞬間、その一言で私の体は空中に静止した。

 辺りを見れば私だけではない、人間達ばかりか城の外壁までも、ぴたりとその場に釘付けにされている。

「誰一人傷を負う事無く、静かに地に下りよ」

 静止を命じた声が更にそう呟けば、私を含め全てのものはそろりそろりと地面に降ろされた。

 私はその声の主を見て言葉を失う。

 眼球が血で汚れているためかと、何度か眼を擦ったが、見間違いではなかった。

「ベニメウクス、随分と派手に振舞ってくれたようね」

 それは姉であった。

 だがそれは奇妙な事であった。

 私は確かに姉を自身の牙で真っ二つに裂いたのだ。

 だからこそ城が崩壊したはずだ。

 そして裂けた姉の半身が宙で砕け散るのも、確かに見た。

 今そこに姉が威風堂々と立っているのは、あまりにも奇妙な事なのである。

 だが城から零れ落ちる人間全てを言霊で受け止めるという、愚かだが凄まじい力を使う夜魔など、この世のどこを探しても姉以外にいなかった。

「変よ。私、確かに斬ったもの。私は、幻でも見せられていたの?」

 うろたえる私に、姉は表情を変えるでもなく、ただゆっくりと首を左右に振った。

 そしてその手をすうと伸ばすと、指先で何かを指し示す。

 振り返って見ればそれは、私が斬り捨てた姉のもう一方の躯であった。

 その躯もまた、宙で散っていった片割れ同様に、古びた石膏の像がそうなるように、風に吹かれて溶けるようにさらさらと崩れていく。

 私は違和に気付いた。

 姉は人間の死骸に命を吹き込まれて生まれた夜魔のはずだった。ゆえに死に塗れ、本性を晒したならば、辺りに立ち込めるのは腐臭のはずで、石膏を砕くように美しく散っていくはずがない。

「私が今まで見てきたお姉さんは、土人形だった?」

 姉は頷いた。

 私は戸惑いの中に叩き込まれるが、一方で僅かな納得も得る。

 姉は私に血を与える時、必ず黒鋼玉のナイフで指先を切り、その刃先に付いた血をしゃぶらせた。絶対にその指を直接私に噛み付かせはしなかったのである。

 私の牙を警戒したというのもあるだろう。指先を許し、私が自身の体の許容量も超えて狂ったように血を吸い上げるのを避けるためというのも確かに理由だ。

 だが何よりも、土人形であった姉には、それ以上の血を与える事が出来ず、また私が直接牙で触れれば中身が空っぽである事に気付かれたからだ。

 私は自嘲と嫌悪で歪んだ視線を姉に向けた。

「なぜこんな真似を、と問いたそうな眼ね」

「その通りよ。どうして素直に私の前に姿を見せなかったの? こんな代役を立てて、私に憎まれ、敵意を向けられるのが、そんなに怖かった?」

「貴方から父を奪ったのは私だわ。敵意を向けられる事は分かっていた。

 怖いのはね、貴方から敵意さえ向けられなくなる事。

 悲しいけれど、貴方の憎しみだけが、私と貴方を姉妹の縁で結んでくれている」

 これは本物の姉だ。

 ふと私はそう感じた。

 姉の土人形からは、ただ私を生かしたい、共に生きたい、という単純な思いしか伝わらなかった。

 その夜魔らしからぬ愚鈍さに私は何度も苛立たされた。

 だが何の事はない。それはそう思って行動するよう命じられた被造者だったのだ。私が愚かさを感じるのは当然だった。

 しかし、今目の前にいる姉は違う。

 全てを受け入れ嘆いてやる慈悲と、受け入れ嘆くが救いはしない残酷さをその身に纏っている。

 それはお父様と同じ香りであった。

「これは、私の牙から逃れるための、身代わり山羊でしょう?」

 私は姉の放つ気配に戸惑いながら、諦めも悪くもう一度問う。

 だが姉はやはり無表情に首を振り、それを否定した。

「私が留守の間、貴方を見守るために置いていただけよ。貴方がいつ生き返るのか分からなかったから、その時がいつ来ても良いように、私の代わりを」

 夜魔として格別の力を持つ姉がその身に孕む闇は限りなく深く、その闇は周囲に不幸と病を振りまいた。

 人間贔屓の姉の事だ。己の放つ闇が人間達を苦しめないために、一つ所に留まらず、旅を続けていたのだろう。

 姉でなくとも、己の放つ闇で人間が病に数を減らしては、それを糧とする夜魔にとっては問題である。

 姉はお父様同様、旅する夜魔になったという事か。

「でも、私の代役を斬ったという事は、それが貴方の決断という事で良いのね、ベニメウクス?」

 私は苦笑する。

 つい先ほどまで、姉の人形を相手に決断を迫っていたのは私の方なのに、今それを口にするのは姉の方だった。

「立派になったものね、お姉さん」

「答えて、ベニメウクス。私と共に生きていくのは嫌?」

 私は手を姉の方へ伸ばした。

 手を取り合いたいのではない。

 だが、どんな言霊なら、その夜魔として十分な威彦に溢れる姉に届くのか、私には分からなかった。

「夜魔と夜魔が出会う時、そこには勝者の支配しか残らない。

 でも、それが姉妹ならば、あるいは。

 もう一度聞くわよ、ベニメウクス?

 私と共に生きていくのは、嫌?」

 私は笑った。

 どんな表情をすれば良いのか分からなかったのである。

 ただ、結末が来たのだという、ある種の達成感が私を笑わせたのだ。

「嫌よ。死んだ方がマシだわ」

 姉も寂しげに笑った。

「貴方の願いを叶えるわ」

 万物の支配者はそう囁くと、細く美しい腕を滑らかに振り上げた。

 その瞬間、何かが私の頭蓋を貫き、生を奪っていった。





 私は、その暗い、闇の奥深くで生まれた。


 いや、言葉を正確に発音するならば、私はまた生まれた、と言うべきかもしれない。

 私は死した後、また生まれてきたのだ。


「また生き返ったようね、ベニメウクス?」

 暗闇の中から聞こえる私の名を呼ぶ声に目を開けば、短いが艶やかな黒髪に細面の美しい少女の姿があった。

「まだ続けるの、お姉さん?」

 私はその少女に問う。

 その少女は微かに笑い、次に仄かな侘び顔を見せながら言った。

「貴方という存在が擦り切れ、完全に消えてしまうまで、私は諦めたくないのよ」

 気の長い話だ。そう思いながら私は生まれたばかりの貧弱で繊細な体を風に撫でられ、ぶるぶると不恰好に震えた。

「だったら、早く血をちょうだい。この体では今にも死んでしまいそうだわ」

「血をねだるのも手際良くなったわね」

 少女は微笑み、小さな冗談と共に、その青白く長い指を私の口元に差し出す。

 だが私自身、彼女の言うとおりだと思った。もう何度、この不毛な駆け引きを繰り返してきたのか憶えていない。

 それほどに、私もその少女も頑なだった。

「直接、噛んでも良いの?」

「そう言えば、私自身が貴方の生き返るところに立ち会うのは初めてだったわね」

 なるほど。今日は代役を立てていないのか。

 しかしそうと分かっても、直接姉の肌に牙を立てるのは初めてで、私は僅かに躊躇った。

「私の牙には毒があるわよ?」

「知らずに腕を出しているとでも?」

 少女が微笑むので、私はそっとその指に牙を刺した。

 じゅっと熱い血液が溢れ出て、舌を濡らす。

 生き返るたびに味わうその最初の一口は、全身を蕩けさせる至福の快楽であった。

 だがそれを口にする度に、快感に流され心折る事だけはするまいと、固く己に誓うのだ。

「ベニメウクス、また会えて……」

 血を吸う間、髪を撫でられ、名を呼ばれるとお父様の事を思い出す。

 しかし今、見上げたそこにあるのはお父様の顔ではない。

 私の毒に軽い眩暈を覚えながらも、少女は私の名を呟き、優しく微笑んでいた。

 私にそのつもりはさらさらない。

 だが夜魔の時間が永遠に等しく、そして少女がいつまでも諦めないというのなら、


 私はいずれ飼い馴らされるのかもしれない


 と、思った。






【あとがき】

 この小説は「ヤミヨヒメ」の関連作として書いたものです。

 冒頭では時系列的にヤミヨヒメの直後のように読めますが、実は何度も繰り返される姉妹のかけ引きの一つであり、ヤミヨヒメからどれくらいの時間が経過したのか分からないものになっています。

 まぁ、それがストーリー的に大きな意味があるというわけではありませんが、時間の流れを書けたような気がして私としては気に入っているところです。


 次回以降の投稿につきましては、作品は未定ですがまた何か公開していければと考えています。

 それでは、一先ずありがとうございました。


作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ