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ハイズリヒメ  作者: 二束
6/7

ハイズリヒメ  -ワタシノモノ-

 アレィネはもぎ取ったシュエトの首を無造作に投げて寄越し、私は慌ててそれをこの胸に抱く。

 だがそうして両手をシュエトのために使わせる事がアレィネの目的であり、彼女は私がシュエトを抱き寄せる瞬間を狙って襲い掛かってきた。

 私は咄嗟に牙剣を振り払い、アレィネの短剣を受け止める。

 アレィネは繰り返し短剣を振り下ろすが、シュエトが束縛を断ってくれたお陰で、私にその全てを処理する事は容易い。

 だがアレィネの目的は一撃必倒ではなく、むしろ私にその刃を受け止めさせる事であった。

 一刃受け止める毎に、また私の腕には何かが絡み付き、少しずつ重たくなっていく。

 シュエトがアレィネに敗れたのも、あるいはこの束縛がその巨大な翼に絡みついたのか。

 そしてついに私の右腕もまたぴたりと動きを止めてしまう。

「今度こそ、頂きだ」

 アレィネは勝利を確信し、これから訪れる栄光の興奮に眼を血走らせながら、その牙を突き出した。

 アレィネの短剣が私の胸に深々と突き刺さっていく。

 身を捻り、辛うじて心臓へ致命傷は免れるが、しかしアレィネは私の血さえ奪えれば、命そのものに関心はなく、満足げな笑みを浮かべた。

 血糊をべっとりとこびりつかせた短剣を私の胸からずるりと引き抜き、アレィネはまた私から距離を置く。

「ははっ、これが支配者の血か。まさかこの私が手に出来るなんてね。君の不幸な人生様々だよ、本当に」

 胸の傷は気道に達し、私は何度も吐血を繰り返すが、しかし表情にはアレィネにも負けない勝利の笑みを浮かべてみせた。

「そんなに上手くいかないものよ。この世界ってものは、何事もね」

 アレィネは怪訝そうに私を見る。

 私は辛うじてまだ動く左腕で、己の腹部を指差した。

 アレィネは己の腹の同じ場所を確認した時、そこに酷く小さな穴が開いている事に気付いただろう。

「それは私の噛み痕。夜魔の刃は己の牙で出来ているのよ。何も大鉈の形にこだわっているわけじゃない。届くのならどんな形にでも変えてやるわ」

 動かない右腕に剣を握っていても意味は無い。

 私はアレィネの牙が胸に突き刺さる瞬間、それを一旦身の内に戻し、すぐさま左手から刺し針の形にして突き出したのである。

「そして私の牙には、どんな巨獣も瞬時に死に誘う猛毒がある。その小さな噛み痕でさえ、致命傷なのよ」

 私は指を鳴らし、アレィネの身に打ち込んだ毒を暴走させた。

「ふははっ、毒か? それは怖いな。それで、私はいつ死ぬんだ? うん? もしかして、もう死んでなきゃいけないのか?」

 だがアレィネはけろりとした様子で大きな笑い声を上げた。

 確かに私の毒はアレィネの体内で猛威を振るっている感覚がある。

 しかし困惑に襲われたのは私の方であった。

「私の胸に受けた傷で気付かないかな?」

 私は胸に開いた大穴に手を触れる。

「まさか、」

「私も、毒を持つ者なんだよね。だからそれを黙殺する術をこの体は知ってる。君が私の毒で倒れないように、私も君の毒に侵されたりはしない」

 私が失っていたのは邪眼だけではない。

 この毒牙さえ、アレィネの前では無いに等しかったのである。

 私は愕然とし、そしてすぐさま左手が動く内に手にした刺し針で右手の拘束を解く。

 不慣れな左手の動きでは剣を握る事も頼りなく、それどころか手元の狂いで己の右手の肉さえ抉る始末で、とてもアレィネに抗する腕とはなりえなかった。

 アレィネはその短剣に付いた血をぺろりと舐める。

 忽ち彼女の放つ威風が倍増するのを私は感じた。

 己の意志とは関係なく、私の膝が屈したがっているのである。

 もはや勝つ術は無い。

 単純な力比べなら、今は格で勝るアレィネの方が圧倒的に優位である。しかもここはアレィネの作り出した空間だ。私の命の所有者は私であるよりも先に、アレィネだと言うべきだろう。

 私は重い足を引き摺り、その無様さにも眼を塞いで逃走を試みる。

 アレィネは私の後ろ姿を嘲りながら、緩やかな足取りで追ってきた。

 私の足は一歩毎に重くなり、反対にアレィネはお父様の血に高揚し、軽やかになるばかりである。

「風よ、撃ち抜け」

 不意に後方から大気の矢が放たれ、私の腹に風穴を開ける。

 私はもんどりうってその場に倒れた。

 懐に収めていたシュエトの首がころりと転がる。

「ふはっ、凄い力だ。その上まだまだ上限が見えない」

 それは血から力を手に入れたアレィネの、遊び半分の試し撃ちであった。

 私は土を噛み、悔しさに塗れる。

 偶然にその視線を私に向けたシュエトの虚ろな瞳が、ただひたすらに私に死を認識させた。

 死にたくない。

「誰か、助けて。誰でも良い。

 誰でも良いの。

 私を助けて」


「お姉さん、助けて」


「名を呼べば来る。その約束を今果たすわ、ベニメウクス」

 ただ生存の本能の中、無意識に零れた言葉の内より、そこに姉の姿が現れた。

 姉は自ら発する嵐のごとき威風にドレスをなびかせ、私は初めてこの世で最も美しく強き夜魔としての姉の表情を見た。

「屍の女王。貴方がなぜここに? いや、そんな事はもはやどうだって良いな。私も支配者の血を手に入れたんだ。同じ血を持つなら、被造者よりも純血種が勝るに決まってる」

「試してみれば良い。血に酔う貴方よりも、血に嘆いた事のある私の方が勝ると、私は思っているけれど」

 姉は本質が人間の屍であるがゆえに、自身の爪牙を持たない。

 ゆえに特別に鍛えた銀の剣を己の牙としていた。

 姉が威圧と共に抜き放ったその精霊銀の刃は暗闇の中に鮮やか過ぎるほどの光を放ち、不思議と私に安堵を与えた。

「まぁ、少し落ち着きなよ、女王様。邪眼の姫を守るつもりで出てきたんだろう? それならここでやり合うのは私に有利過ぎる。場所を変えて公平にやろうじゃないか。付いておいで」

 そう言ってアレィネは闇の中に身を投じる。

 だが姉はそれを追わなかった。

「小賢しい蜘蛛ね。貴方を追いかける内に、糸が絡むのでは、むしろ不公平ではないかしら?」

 姉が腕を一振りすると、凄まじい衝撃が万象を震わせ、辺りの空間を全て砕き尽くし、アレィネの張った蜘蛛の糸も露となって消え落ちた。

「さぁ、これで公平よ。場所を変えるなら、早く案内しなさい」

 アレィネは眼を大きく見開くと、ただただ姉の威風に驚嘆していた。

 同じ血を得たはずであった。それは間違いない。

 だがアレィネと姉ではその濃さに明らかな差があったのだ。

 そしてアレィネはまだその力を完全に己の制御下に納めていないのに対し、姉はそれで一つの世界を作り出すほどに適応しているのである。

 一舐めの血を得たところで、それは到底及ばない高みであった。

 己の本質が完全に見透かされ、アレィネもそれを悟ったのだろう。

 先ほどまでの自信など影も無く、今はただ恐怖に全身が硬直している。

「そう。場所は変えないのね。では、覚悟を決めなさい。父の血を手に入れた以上、それを自由にさせるわけにはいかないの。残念だけど、貴方を見逃す事は出来ないわ」

 姉の言葉を受けて、アレィネは一つ奇声を上げると、その牙を構えて大地を蹴った。

 だがそれよりもずっと早く、姉は既にアレィネの傍まで駆け寄っていて、その剣を彼女の心臓に突き刺すと、そのまま瞬時に四つに斬り裂き、痛みも死も恐怖さえも認識する前にその命を奪っていた。



「これは、貴方が招いた不幸よ、ベニメウクス。私の目を盗み、密かに力を付け、その慢心が招いた不幸」

 姉は私を憐れむように、そしてどこか責めるように、冷ややかな目で見下ろしていた。

「お姉さん、シュエトが。どうすれば良い? シュエトが消えてしまう。教えて、お姉さん。平伏せと言うなら、やるわ。だからお願い、私のシュエトを助けて」

 生命としての存在を失ったシュエトの首は、私の腕の中で少しずつ濃度を薄め、夜明けに朝露が溶け消えるように、徐々にだがあっけなく失せようとしていた。

 そして姉は静かに答える。

「己が身に纏う不幸を受け入れなさい」

「受け入れる。何でも受け入れる。それでシュエトが助かるのなら」

 姉は頷き、手を差し伸べた。

 私はその手にシュエトの美しい首を手渡す。

 姉はそれを胸にぎゅうと強く抱き締めると、一粒だけ、その左目から涙を溢れさせた。

 感傷的な姉だが、その涙の意味は私にも分かる。

 美しいものがこの世から失われる瞬間は、心とか記憶とか、そういった概念を超越して、己という事象そのものが怯えて鳴くのである。

 その鳴き声が、姉の場合、涙であったというだけの事だ。

「お姉さん、早くシュエトを元に戻して」

 私は感傷に浸る姉を急かした。

 姉は抱き締めていたシュエトの首を両手で高く突き上げる。

 その瞬間、シュエトは溶けるように消えて、自然の風の中へと散っていった。

「うわぁぁぁぁ」

 忽ち私は無様な叫び声を上げ、跳び上がると、シュエトを奪い去っていた風を追い掴む。

 だが手の内にあるのはただ風の尾ばかりで、あの美しく滑らかで温かなシュエトの翼はもうそこには無かった。

「お姉さん、シュエトを助けてくれるって言ったじゃない? どうしてこんな事を?」

 風の尾を掴み、地に着いた途端、私は姉に噛み付く。

「言っていない。助けるとは一言も。なぜなら、助けられないのだから」

 しかし姉は涼しい顔でそう答えた。

 いや、その顔は単に悲しみが強過ぎるあまり、あらゆる表情を忘れたためそう見えたのか。

「そんなはずない。お姉さんなら、シュエトを救えたわ。お姉さんは万物の支配者だもの。生きろ、そう言うだけで、シュエトは生きた。その命令は絶対のはず。そうでしょう?」

「そうね。そうかもしれないわ。でも、その命令を聞いてくれるシュエトはもうこの世にいなかった。その命令は行き先を知らない。実行される事のない命令になるだけよ」

「でも、でも、まだ首が残ってた。命令の行き場はあったはずなのよ」

「あの首を生かしたとして、それはもうシュエトにはならない。シュエトはもう逝ってしまったのだから。躯にウジが湧くように、新たな何かが、あの首を寄り代にして生まれてくるだけよ。この私が、人間の躯に生まれた夜魔であるように」

「それでも良い。それでも良かった。あの美しい羽根をもう一度見られるなら」

 姉は眉を歪め、あからさまに憐憫の色を見せた。

「ベニメウクス、可哀想な子。貴方はその身の呼び寄せる不幸を、受け入れる事が出来ないのね」

 まるで姉はシュエトの死を私が招いたように言う。

 この身に宿す高貴な血をアレィネに知られ、狙う理由を与えたからか。

 それとも姉の言葉に逆らって人間の町に遊び、アレィネに付け入る隙を与えたからか。

 確かに私がアレィネに出会わなければ、シュエトは私を守って死なずに済んだだろう。

「でも、お姉さんが私の眼を、邪眼を奪わなければ、あんな奴に後れはとらなかった。シュエトを守る事だって出来た」

 そう、こんなガラス玉ではなく、本物の眼さえあれば、そもそもアレィネの接近にも気付いていただろうし、シュエトが私を庇う必要も無かったのである。

「悪いのは、私じゃないわ。お姉さん、貴方よ。私の眼を奪うから。私に護衛なんか付けるから。だからこんな事になった」

「貴方がその眼でシュエトを傷つけなければ、それを奪う事もなかった。貴方がシュエトを深く傷つけなければ、彼女が遅れをとる事もなかった」

 姉は険しい表情で刺すように私を見竦める。

「他人を責める事をやめろとは言わない。ただ、自分の責から目を逸らす事だけはやめなさい」

 ふと私は姉のその顔に、小さな考えが浮かんだ。

「そう、どうしてもお姉さんは、全てを私の責任にしたいのね」

「そんな事は言っていないわ。ただ、それぞれに責任があると、」

「分かった。私、分かったのよ。お姉さんのその顔を見てたら、すぐにピンと来た」

「何を、言っているの、ベニメウクス?」

「お姉さんは、私が怖かったんだ。お姉さんが今のその地位にあるのは、お父様の血のお陰。そして私にも同じ血が流れている。

 お姉さんと同じように、万物の支配者となる権利が私にもある。

 それが怖いんだわ。

 私の邪眼に睨まれるのが。私がシュエトや他の者を次々と虜にしてお姉さんから奪ってしまうのが。

 怖いのよ。お姉さん、貴方は私が。

 だから、奪われる前に奪った。私の眼を、シュエトを。

 己の支配を磐石にするため、私を蹴落としたんだわ。

 何が、私の責任、よ。醜い真意を知られたくないだけで吐いた、質の悪い誤魔化しじゃない」

 心中を言い当てられたからか、姉はその表情をこれまでになく歪めた。滑らかな玉の肌を繰り返し蒼褪めては紅潮させ、苦々しい顔で私を睨む。

 確かに姉はお父様の力を継いだ。

 だがその中身はやはり被造者。純血種の高尚な精神は演じ切れなかったか。

 いや、支配の許されない被造者の身ゆえ、支配者の力に執着したのかもしれない。

「可哀想なのは、お姉さんの方だったのね」

 姉は何も答えず、私を見つめていた。返す言葉もなくしていたのだろう。

「でも許せないわ。妬みからお姉さんは私から多くのものを奪った。お父様の血、邪眼、美しいシュエト」

 私は腕を振り、身の内から一振りの巨大な牙を引きずり出す。

「返せるものは返してもらう。返せないものは、相応の代価で償ってもらうわ」

 鉄扉のような刃を向ける私に、姉はいつもどおりに一つ小さな溜息を吐いた。

 まるで私の短慮を窘め、哀れむように吐いていたその溜息も、化けの皮が剥がれてしまえば何というほどもない、ただ上辺だけの繕いに見える。

「ベニメウクス、貴方は多くの事を思い違えているわ。でもただ一つだけはっきり言っておかなければならない事がある」

「へぇ? これ以上何を誤魔化そうって言うの?」

「失ったものは、何をしても返らないのよ。そしてそれに対し等価なものなど、この世のどこを探しても存在しない。失ったものは、それ一つだけなのだから。」

 私はてっきり、支配への執着などないと、弁明するものだと思っていた。

 だが姉はそうしなかった。

 敢えて外す事で、真意はそこに無いとでも言いたいのだろう。

「そんな小細工を易々と信じる私だとでも思っているの?」

「半端な力が貴方を盲目にしたのね」

「いいえ、私の目玉を奪ったのはお姉さんでしょう?」

「人間を殺さないまま血を奪った時、あるいはと思ったのだけれど。許すべきではなかった。何よりも貴方自身のために」

 私は毎日セランの血を吸う事で力を蓄えてきた。むろん姉は気付いていただろう。だが、たかが人間一人の血を細々と吸い上げたところで己の支配を覆す力にはならないだろうと高をくくっていたのだ。

 しかし、私は姉の想像を超えて力を得た。

 難解な言葉を紡ぐ姉の意中に私は気付いた。姉はセランにさえこの責任を押し付け、私から奪うつもりなのだ。

 己の地位を守るため、私から全てを奪い去ろうとしていた。

 私は胸中がかっと熱くなるのを感じる。

「見損なった、いえ、本性見せたわね、お姉さん? でももう何も奪わせない。全ての代価、払って貰うわ。」

 卑劣な姉の横暴に、私は大地を蹴って渾身の力で抗う。

 歩に風を絡めて、十歩の距離を僅か一足に跳び、上段に構えた巨牙を姉の頭に向けて振り下ろした。

 姉はその支配により、私そのものさえ把握し、そうなる前から私がどうするのかを察していたのだろう。身を半歩引き、振り下ろされる刃を鼻先に掠めつつも、難なく避けた。

 標的を外した私の牙は地面を引き裂く。裂けたものが姉でないのが何とも悔しい。

「出でよ、大地の尖塔。彼の者を貫け。」

 だが悔しむ表情を浮かべる暇もなく、姉がそう言霊を叫んだ瞬間、今断ち割ったばかりの地面の亀裂の中から、槍の穂を模した隆起が飛び出してきた。

 私は身を捻り、辛うじて心臓への直撃を避けるが、その土槍に深々と腹部を貫かれ、忽ち姉の傍から引き離される。

 激痛に身悶えしながら、そのつららのような石柱を叩き折り、自らの腹から引き抜くのだが、もう一度前を向いた時、既にそこに姉の姿は無かった。

 甘く臆病な姉は、ここで雌雄を決し、私か姉のどちらかがこの世を去る事に怯えたのだ。

「逃げたか。本当、夜魔の誇りなど少しも無いのね、お姉さんには」

 私はそう苦々しく吐き捨てると、急ぎ己の屋敷へと走った。


 私が傷付いた体を引き摺り、屋敷に戻ると、そこにもうセランはいなかった。

 空白となった針子部屋に忌まわしき姉の匂いが微かに漂っている。

 姉は宣言通りに、私から彼を奪ったのだ。

 それを私に力をつけさせた元凶と見なし、何の断りも無く連れ去ったのである。

 私はめらめらと憎悪の燃え滾るを覚えた。

 セランは私が必要とした針子である。私が命じ、連れてこさせた針子である。今日まで私が面倒を見てきた針子なのだ。

 それのどこに姉の意思が紛れ込み、連れ去る事を許す余地があるというのか。

 私は天を睨んだ。そこに姉の屋敷があったからである。

 取り返さねばならなかった。

 お父様の血も、邪眼も、セランも。

 あの傲慢な姉から全てを奪い尽くさねば気が済まなかった。


 私は姉の屋敷に忍び込んだ。

 その中身がどこまで広がり、どれほど深く地に根を下ろし、いかに天を貫いているかは知る術もなかったが、しかし私の眼がどこに隠されているかは容易く分かった。

 姉は私の眼を刳り抜き持ち去ったが、その辿った道筋をその眼ははっきりと見ていて、私にしっかりとその景色を伝えていたからである。

 私はその巨大なトネリコの城の枝から枝を飛び渡り、眼球の呼ぶ声のする方へと向かっていった。

 そしてどうやらこの辺りらしいと確信を得ると、躊躇いもなくその樹皮へ牙を突き立て、外壁を引き剥がした。

 その壁の向こうでは、既に眼が私を待ちわび、ぎろりと視線を投げかけていた。

 私はこんな眼で他人を睨んでいたのか。

 己の視線を己で浴びるという稀有な状況にあって、私はふと思った。

 何と無慈悲で、暴威に満ち、恐怖を掻き立てる瞳だろう。

 支配者に相応しい瞳とはまさにこれの事を言うのではないか。

 それは在りし日のお父様の面影を見るようでもあり、生温い眼しか持たない姉がこれを羨望の眼差しで見つめていた様子が手に取るように分かる。

 私の眼は危険だから、などと体の良い言葉を吐いて私から抜き取って行ったが、何の事はない。姉はただこの王者の瞳に嫉妬していただけなのだ。

 私は己の眼窩からガラス玉の瞳を取り出し、ようやくそこへ本物の眼を押し込んだ。

 その瞬間、忽ちにして世界が色を変える。

 眼前に垂れ下がっていた面紗を取り去った時のように、全てのものはまるでそれ以前よりも鮮やかさを増したかのごとく、眩しささえ伴って私の眼に飛び込んでくる。

 強い開放感の中、私は晴れやかな気分に浸った。

 その眼を使えば何もかもがはっきりと見える。

 城の上部を見上げれば、そこにいる姉が私を見下ろしていて、互いの視線が絡んだ。どうやら姉も私が邪眼を取り戻した事に気付いたようだ。

 あまりのんびりとしている暇は無い。

 私は姉から眼を逸らし、すぐにセランを探す。

 まず返せるものは全て返してもらい、姉に返せぬものの罪を償わせるのはその後である。

 私は城を駆け下り、セランの姿が見える方へと向かう。

 その途中幾人か私の歩を阻む夜魔もいたが、力を取り戻した邪視の前に皆恐怖し、石像のごとく凍りついた。


 その扉を開けると、そこは人間の町であった。

 往来を人間が何食わぬ顔で行きかい、埃臭い雑踏の景色が広がる。

 城内でありながら見上げればそこに天があり、踏みしめる土も本物であった。

 これは姉が人間を飼うために作り出した、本物と寸分違わぬ人間の町である。

「セラン、どこにいるの? 返事をしなさい」

 私はその人間の群れに向けて一声叫ぶ。

 これほどに人間で溢れた中からは、さすがに私の眼も鼻も他の気配に紛れてセランを特定出来なかった。

 町の人間達は突然に夜魔が一人飛び込んできてわけの分からない事を喚くので、驚き訝しむ視線を私に向けた。

 それは夜魔の城に住む人間達である。夜魔を見慣れていて、怯えた風はあまり無い。だがどうにも日頃と様子がおかしいと勘付いているのだろう。誰もが隣にいる者とひそひそと陰口を叩いた。

 ただ一人の口から発せられた陰口ならば、耳に届く前に風が掻き消してくれる。だがこの集団全ての口から発せられれば、それは忽ち凄まじい騒音となった。

 私が欲しいのは、セランの私を求める声だけであるのに、その騒々しい陰口は荒れ狂う嵐の風音のように私の耳を塞ぐ。

 後方からは姉の支配下におもねる卑しい夜魔達の気配が迫っていて、私は苛立ち、その嵐へ向けて声を張り上げた。

「黙れ人間ども。お前達に用は無い。それでも騒ぐというのなら、端から順に食い殺すぞ」

 苛立ちに任せて吐いた言葉だが、言ってみて案外に良い考えなのではないかと気付く。

 ここにいる人間全てを食ってしまえば、私の力も飛躍的に回復するだろうし、同時に姉は飢え衰えるはずだ。

 何よりも自分の作った世界を崩された時の、姉の憎しみに燃える顔が見てみたい。

 だが残念な事に、人間達は私の咆哮一つでさあと波が引くように押し黙ってしまった。姉が作ったこの町では、夜魔が人間に敵意を当てる事などないのだろう。皆、恐怖というものを久々に思い出したような顔をしている。

 静けさの中に残るのは、ただ恐怖に歯ががちがちと震えて鳴る音だけである。

 私がそれを理由に人間達に牙をかけようか悩んでいると、私の望むあの声がした。

「お嬢様、セランはここです。ここにいます」

 その声の方向に私が振り返ると、皆私の視線を恐れて道を空ける。その道の向こうに、確かにセランの姿があった。

 後方に聞こえる追っ手の足音はますます近く、私は逡巡した。第一に優先する事は何かを考えたのである。

 追っ手の相手をする事か。それとも、辺りの人間を構わず食い荒らし、己の血肉とする事か。あるいはセランを連れ去るべきか。

 今の私の力ならば、多少の追っ手など意に介すまでもない。のんびりと人間の血を吸いながらでも相手に出来るだろう。

 だがか弱き人間であるセランを狙われれば、それを守るのは容易ではなかった。

 そして二度同じものを奪われるなど、夜魔としての誇りが許すはずもない。

 人間を食い、姉の悔しむ顔を見るのは後でも出来る。分不相応にも私に牙を向けた夜魔への仕置きも後回しで良い。

 セランを姉の懐から奪う事こそ、今しか出来ない事だった。

「セラン、お前は誰のもの? お前の所有者は誰?」

 私は駆け寄りながら問いかける。いや、返ってくる言葉は分かっていた。だからそれは、問いかけなどではなく、ただ呼応する言葉の響きだったのだろう。

「お嬢様です。お嬢様こそ、僕のお仕えする方です。」

 私は差し伸べたセランの腕をしっかりと握り、追っ手とは逆方向に向けて、人間の町を走り抜けた。

 夜魔の速度に人間であるセランが対応出来るはずもなく、彼の足は縺れるが、しかし私の帯びる風が彼の体にも絡まり、私達は転倒する事もなく同じ速さで走る事が出来た。

 セランは初めて見る風の中からの景色に眼を白黒とさせ、興奮に頬を仄赤く染める。

 だがその喜びも長くは続かなかった。

 それがトネリコの枝葉の上に作られた世界ならば、必ず終わりがある。

 追っ手から逃れるように先へ先へと走り続けた私達はついに箱庭の縁に辿り着いてしまった。

 私はセランの手を離し、剣を取り出すと、終焉の大地と空に、つまり城の壁に向けて刃を振り下ろす。

 すると当然のように、化けの皮を剥がされた空と大地の隙間から、本当の外の世界が顔を覗かせた。

「さぁ、飛び降りなさい、セラン。まずお前を逃がさなければ、何も始まらない」

 セランを逃がせば何を始めるつもりなのか。むろん、姉への復讐をである。

「お嬢様、無理です。こんな高さから飛び降りる事など出来ません」

 壁の裂け目からは眼下に雲を望む程度の高さしかない。

「このくらいの高さが何? せいぜい着地に手間取って足を挫く程度でしょう? 死ぬわけでもあるまいし」

「死にます。人間は死ぬのです。この高さは、人間にとって死なのです」

 私は驚いた。まさか人間がこれほど安易に死ねるとは思っていなかったのである。

 多少夜魔よりも脆い部分があると思ってはいたが、その想像を遥かに超えていたとは。

「人間って、そんなにひ弱な生き物なの?」

 苛立ち地団太を踏む私にセランは申し訳無さそうに眉を顰める。彼が悪いのではないと分かっているが、しかしそれで苛立ちが消えるわけでもない。

 そしてセランを逃がす算段が付かない内に、追っ手もすぐさま追い着いてきた。

「ベニメウクス様、ここは主上の作られた町。ここにいる人間は皆、主上のもので御座います。いかに主上の妹君であられるベニメウクス様でも、それに手をつけられる事はご遠慮願いたい」

 追っ手の夜魔は、姉のためにいかにも無人格な言葉を吐く。

 私はにぃと不敵に微笑むと、セランに問うた。

「セラン、お前の主人は誰?」

「お嬢様です」

 セランの答えを聞いて、仏頂面をしていた夜魔の眉がぴくりと動いた。この町に姉以外を主人とする人間がいるとは思っていなかったからである。

「聞いたでしょう? これは私のものなの。先に私のものを奪ったのは、その主上様の方よ。さぁ、もう一度、私とお姉さんとどちらが正しいのか、その頭で考えなさい?」

「分かりました。では、主上の判断を仰ぎましょう。今しばらくそこでお待ちを」

「えぇ、正しいのは私の方よ」

 正論を突き付けられ、姉に真偽を伺いに行こうとした夜魔に、私は更に邪視を突き付けた。

 その者は忽ち恐怖から筋肉を硬直させ、石像と化してその場に倒れる。

「お嬢様、何を? 穏便に事が運びそうだったではありませんか?」

 話が通れば、この亀裂から飛び降りる必要もなく、のんびり歩いてこの城を出られると思っていたセランは慌てた。

 だが、それは有り得ない話だと私には分かっていたのである。

「穏便に事は運ばない。だって、この城のルールはお姉さんだもの。自分の気に入らない事は、好き放題に捻じ曲げるに決まっているわ。さぁ、他の逃げ道を探すわよ? まずお前を安全な場所に隠さないと」

 そして私はもう一度セランにこの高さからは飛び降りられないのかと尋ねた。やはりセランは首を横に振る。

 だがこの塔をひしめく夜魔に追われながら下る方がセランには厳しい道程となるだろう。

 この裂け目から飛び降りれば、一先ず地面に到達するまでは生きていられる。しかし城の中を走れば、地に触れる前に息絶えるだろう。

 私一人であれば何もない平野のような道も、人間にとっては茨の道となるか。

 人間に夜魔の道を歩かせるよりは、らくだを針の穴に通す方が何倍も簡単だと、私は溜息を吐いた。

 己の所有物をただ持ち帰るだけなのに、何とも面倒な事である。

 私がまた姉への不満を膨らませかけた時、ふとセランが言った。

「安全な場所ならばあります」

 人間に夜魔の手の届く範囲が分かるはずがない。安全かどうかの判断など不可能だ。私は訝しみ、眉を潜めてセランを見た。

 だがセランは自信に満ちた瞳で私を見つめ返している。

 そして唾を飲む僅かな間の後で、静かに言った。

「お嬢様の中こそ、最も安全な場所です」

 セランは大胆かつ無礼にも私の手を取り、その指先を己の頬そして首筋へと這わせる。

 私は指先にどくどくと脈打つセランの命を感じた。


次話更新12/7(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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