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ハイズリヒメ  作者: 二束
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ハイズリヒメ  -アナタノセイ-

 私はシュエトを串刺しのまま屋敷に連れ帰り、適当な部屋を見つけると、その壁に縫い止めた。

 シュエトは心臓を刃に蝕まれながら、しかしそれが鉄ならば朽ちる事も出来ず、崩壊と再生の微妙な均衡の上に立っている。

 その夜魔と本質、両方の姿が入り混じる、静止された不完全はとても儚げで、この世で最も美しく崇高な瞬間を切り取ったかのようだ。

 ゆえに私は屋敷にいる間中、ずっと飽きる事無く、そのシュエトを眺めて過ごすことができた。

 シュエトの持つ羽毛の全てに私は触れ、気に入った箇所は頬摺りし、甘噛みを施す。

 その行動の全てにシュエトは抵抗もせず、ただ中空を見つめ、稀に僅かな抵抗を見せても、それは私の邪眼によって無抵抗へと変えられた。

 そしてシュエトの美しさを撫で回す事に疲れ、喉の渇きを覚えると、ようやく私は部屋を後にした。

「セラン、血をちょうだい?」

 もう私は針子部屋の扉を乱暴に開ける事はしなくなっていた。

 そうするまでもなく、その戸が音を立てれば、セランは反射として自ら指を傷つけるからである。

 だが今日はその法則が崩れた。

 セランは私が部屋に入ってきたというのに、ただ満面の笑みで迎えるばかりで、少しもハサミを手に取ろうとはしなかったのである。

 その笑みの理由とは、ようやくに完成した私のドレスのためであった。

 セランはどうしても、私に着せるものとして満足の出来るドレスを作れなかった。

 縫い合わせては引き裂き、引き裂きながら縫い合わせ、それはもはや崇拝に近い私を包むために相応しい奇跡の衣を作ろうとしていた。

 だが、それは不可能な事であった。

 夜魔は物質の制限を超えた存在である。

 それに対し、セランという人間も、そのドレスを構成する布や糸も、いずれは物質の限界に変化を阻害されるのだ。

 セラン自身がどれほど不満足でも、そのドレスは限界として、自ら完成を向かえたのである。

 その瞬間、セランもそれが人間の目指せる最高の位置であり、それ以上手を加えても無意味である事に気付いた。

 そして針子としてではなく、ただの第三者としてそのドレスを眺めた時、恐らくは驚愕しただろう。

 それは人間の過飾になりがちな美の感覚からは考えられない美しさによって成立していたからである。

 ゆえにセランは私を満面の笑みで迎えたのだ。

「お嬢様、こんなものですが、着てもらえるのでしょうか?」

「何を言うの? 着るために貴方を呼び、作らせたのよ。貴方が酷いものを作れない事は、その澄んだ瞳を見た時から分かっていた事だわ。たとえ私の眼が見えなくとも、安心して着られる」

 そのドレスは触れればなぜか玉のように涼やかで、シュエトの美しさに興奮した私の熱を心地良く冷やしてくれそうであった。

 私はすぐさま今着ている服を脱ぎ捨てる。

「お、お嬢様、」

 セランは驚きに満ちた声をあげ、私から眼を逸らす。

「何? 脱がなければ、着られないでしょう?」

 しかし完全に私の姿を視界の外に逃がす事は、彼には出来なかった。

 このドレスを作るために、セランは美を求め続けてきた。

 そして今目の前に、美と魅了を象徴とする夜魔が裸体を晒しているのである。

 美しさに対して鋭敏になり過ぎたセランの眼は、これを見逃す事が出来ないのは当然であった。

 セランはそのドレスに私が袖を通していく様を、赤面し、呆けたような表情で見ていた。

 己の作った服が私を抱いている。

 心血を注いだそのドレスは、あるいはセランの分身のようなもので、彼の脳内では自らの腕で私の体を掻き抱く妄想が膨らんでいるのかもしれない。

 セランが恍惚とし、頬を赤らめるのは、もはや性的な興奮であったろう。

 その退廃的な情欲と羞恥に満ちた表情を見た瞬間、私は内奥を撫で上げられたような気分になった。

 私は湧き起こる吸血衝動に任せて、セランの体を押し倒す。

「セラン、早く飲ませて」

 目前にある白い肌の首筋に、この吐息も荒く開かれた口の双牙を立てる事が出来たなら。

 私は容易いが激しい官能を想像する。

 だがそれを実行してしまえば、必ずあの感傷的な姉が口を挟んでくるだろう。場合によればセランを奪われるかもしれない。

 ゆえに私は面倒にも、床に転がるハサミへと手を伸ばすのである。


 しかしそのハサミに触れた瞬間、唐突に私は興を削がれた。

「お嬢様、ハサミを貸して下さい。すぐに血を差し上げますから」

 人間であるセランはこの異変に気付かず、私の握るハサミへと手を伸ばした。

 だが私はそれを渡さず、表情を顰めたまま立ち上がる。

 もう血を吸う気分ではなくなった。

「お嬢様?」

 誰かがこの屋敷へと入ってきたのである。

 この気配は、姉であった。

 私とお父様の城を、姉の気配に蹂躙されたままで、どうしてのんびりと血を吸ってなどいられるだろうか。

 だが姉が何の目的でここに来たのかが分からない。

 私が血を欲した時、呼べばすぐに駆け付けると、姉は言った。

 だが今、私は姉の名など呼んでいない。今後も呼ぶつもりなどない。

 私は姉の足音に耳を澄ます。

 私を探しているのだろうか。

 しかしその足音は、私のいる地階へとは向かわず、別の方向に進んでいた。

 その歩みの先にあるものを、私はすぐに察する。

 そして烈火のごとき憤りを発しながら、針子部屋を飛び出した。

「お嬢様、僕はどうすれば?」

 私の背にセランが不安げに叫ぶが、その瞬間の私はそれに悠長に答えているほど優しい性格ではなかったのである。


「お姉さん、それはどういうつもり?」

 私は部屋に飛び込むなり、目にした光景に考えるよりも早くそう叫ぶ。

「貴方の方こそ、これはどういうつもりなの、ベニメウクス?」

 姉は眉を間に憂えた深い皺を刻み、シュエトに刺さる鉄柱に手をかけていた。

「触らないで。それは私のものだ」

「いいえ、彼女は私に身を寄せてくれる者よ」

「違う。シュエト自身はそれを望んでいない。私の猛禽でいる事が彼女の意思。私はシュエトが頷くのを見たわ」

 姉は言葉を返さず、ただ表情を険しくし、そして不意に背を向けたかと思うと、シュエトの胸から鉄柱を引き抜いた。

 その途端、シュエトは耳を引き裂くような悲鳴を上げ、その胸から大量の血と肉を撒き散らしながら、崩れ落ちていく。

 私はその脆く美しい芸術を破壊してはならないと、手を伸ばし駆け寄るのだが、シュエトの体を抱き止めたのは姉の腕であった。

「何て惨い事を。可哀想に。こんなにも本質を晒して」

 姉はシュエトの美しさに気付こうともせず、ただただ嘆いた。

 確かに、夜魔がその本質を晒すという事は、全身の皮膚を削がれて放置されるような、羞恥と鋭痛なのかもしれない。

 だが、それ以上の美がそこにある事を重視すべきなのだ。

「主上、手を、お放し下さい。私の血が、貴方を、汚してしまう」

「手を放して。それは私のシュエトよ」

 図らずも、私とシュエトは同じ言葉を吐いた。その事に私は仄かな喜びを覚える。

 だが姉はそのどちらの言葉も聞かず、シュエトの手を自らの肩に回し、そのドレスを赤く染めながらも彼女を支えた。

 自らの血が周囲を汚していく事にシュエトは苦悶の表情を浮かべているというのに、なぜ姉はそれに気付かないのか。

 穢れこそ夜魔の最も恐れる屈辱だと、人間の心に憧れる被造者の姉には分からないのだろう。

「シュエト、こんな事になっているのなら、どうしてすぐに私を呼ばなかったの?」

「良く言うわ。万象の統率者なら、とっくに気付いていた癖に。今更のこのこ出てきて、何のつもりよ?」

「そうね。ベニメウクスの言うとおりだわ。まさかシュエトほど聡明な者がこんな事になるとは思っていなかった。信頼を油断に変え、気付けなかったのは私の責任よ。ごめんなさい、シュエト」

 姉はいとも容易く、格下のものへ頭を下げた。

 それを見てシュエトは何とも悲痛な面持ちを作る。

 それは姉に頭を下げさせた事を勿体無く思っているのではない。主としての姉に幻滅しているのだ。

 上に立つものには、それに相応しい姿がある。

 だが姉は支配者としての姿を全うしていなかった。容易く謝る事もその一つだ。

 頑なに頭を高くしているのも低劣だが、過剰な謝罪もまた同様なのである。

 夜魔の支配はただその力に依るものならば、親しき言葉よりも、恐怖を伴う威風の方が、支配を受ける夜魔の不屈の精神も忠誠心を向け易いというものだ。

 恐らく、被造者であり、支配者となるに相応しくない体を持つ姉は、身にその威圧というものを備えていないのだろう。

 私はその姉にシュエトは不似合いで勿体無く、そして姉がシュエトを私から奪っていくであろう事に酷い腹立たしさを覚えた。

 その苛立ちを吐き出すように、私は視線に力を込めて姉を見竦めるのだが、力を増した私の邪視でさえ姉はいとも容易く、シュエトを支える片手間に払い落とした。

「なるほど。シュエトほどの者が何の抵抗も出来ずに本質を晒したのは、その眼が原因なのね。凍り付いた無抵抗の者を。何て惨い事が出来るの、貴方は?」

 そして姉は私の方をキッと強く睨み、私の邪眼に劣らぬ拘束感を私に与える。

 姉の瞳は私のものと違い、特別ではない。だがお父様の偉大な力がそのただの視線を、邪視に匹敵するものにしているのである。

 四肢の自由を奪われ、私は糸を切られた操り人形のように、その場に崩れた。

 床の上でもがき、悪態を吐きながら暴れる私を見て、シュエトは掠れるような声を絞り出した。

「おやめを、主上。私が主上に助けを求めなかったのは、言えば私が主上とベニ様の不和の原因となると思ったから。判断を誤ったのは私なのです」

「貴方はベニメウクスを庇い、守りたかったのね。あぁ、それは、もしかして私がベニメウクスを守れと命じたからなの? 忠実なシュエト、私は何と言って貴方に謝罪すれば」

 その謝罪が、シュエトの心を掻き乱していると気付かないのか。夜魔の眼にそれはもはや媚びとして映りかねないというのに。

 私はそう叫びたかったが、姉の嘆きは私を縛る力を強め、締め上げられた肺からは呻き声しか上がらない。

 だが私はふと気付いた。

 嘆きと悲哀こそ姉の視線には満ち満ちているが、そこに私に対する憎悪は一欠片も見当たらないのである。

 その嘆きや悲哀の生み出した原因は私であるにもかかわらず。

 理解の難しい姉だ。私はまたそう思った。

「お姉さん、シュエトを連れて行かないで。私の翼を奪わないでよ」

 姉はしばし黙っていた。

 床に這いつくばった私に姉の表情は見えないが、私の異常な執着心を知り当惑しているか、あるいはただこれからどうすべきかを考えているのだろう。

 そしてその場にそっとシュエトを下ろし座らせたかと思うと、次に私の方へ歩み寄り、その手に私を抱いた。

 姉の顔には屈辱的なほどに、憐憫の情が見えた。

「ベニメウクス、貴方がシュエトを気に入っているというなら、これからも彼女を護衛にするわ。もちろん、一度連れ帰り、あの酷い傷を癒した後の事だけれど」

「本当? 気に入ってる。私はシュエトを気に入っているの。だから彼女を返して」

 私の懇願を遠くからシュエトが精気を失った瞳で見ている。

 否定もせず、肯定もせず、ただじっと私の顔を見ていた。

 姉は言う。

「分かった。傷が癒えれば、またシュエトを貴方の護衛にすると約束する」

 姉の手がすうと私の顔に伸びてきて、頬を辿り、薄い目蓋に触れた。

「けれど、もう二度と、こんな惨劇を起こして欲しくはない。悪いけれど、ベニメウクス、この眼はしばらく預からせてもらうわよ」

「お姉さん、何を――、」

 その瞬間、姉の細い指が私の左眼の目蓋をめくり上げ、ぬるりと眼窩の奥へ滑り込んできた。

 その指先が眼球の奥にある何か細いものに触れたかと思うと、不意に目の前が真っ暗になり、激しい痛みと共に、私の中からずるりと何かが引き抜かれた。

 そしてすぐに右の眼球も同様に姉の指によって抉り出される。

 自身でも驚くほどに無様な悲鳴が唇を裂いて溢れ、私は暗闇の中をのた打ち回った。

 空洞になった眼窩からどくどくと血が溢れ頬を伝う。

「お姉さん、なぜこんな事を?」

「貴方が無闇に誰かを傷つけないように」

 いや、きっと姉は私の眼がこれ以上の力を付け、いずれ自分を睨む事が怖いのだ。

 そうでなければ、このような恐ろしく、惨い真似を出来るはずがない。

 私にとってその邪眼は毒牙と並ぶ自己性の象徴である。

 私という存在の大半がその邪眼であったと言えるだろう。

 両の瞳を抉り取られ、存在性の大半を失った私は急速に格を下げ始めた。辺りの事象が悉く私の支配から逃れていく、その気配で己の格の衰えが分かるのである。

「心配しないで、今、代わりの瞳を入れるから。貴方ならすぐにそれを自分の眼に出来る」

 姉の言葉と共に、何かが私の眼窩に押し込まれた。

 鈍い異物感と共に、酷く冷たい感触がする。

 それは私の目蓋の中でごろりごろりと動き回り、やがて位置が定まったように動きを止める。

 眼窩の血肉がその新たな眼球に纏わりつき、私の支配がそれへ及び始めると、姉の言葉どおりにまたぼんやりと周囲が見え始めた。

 赤く染まった景色の先で、シュエトが虚ろな視線を向けている。

 私が瞳に付いた血糊を拭おうと指先で触れると、それはかつかつと硬質で軽い音を立て、私を屈辱に塗れさせた。

 私がこの眼窩に入れられたものは、ガラス玉の眼球であった。


 ふらふらと針子部屋に戻ってきた私を、セランは驚愕の視線で迎えた。

 無理もない。

 私は眼窩とガラスの瞳の隙間から、まるで涙を流すように、血を溢れさせていたからである。

 何があったのか、とは聞かなかった。

 仕立てたばかりのドレスに付いた血をただ無言で拭い、それからハサミを手にすると、己の指を切った。

 私は差し出されるままにその指を口に含み、シュエトを奪われた空隙に溢れる血を流し込む。

「お嬢様、ドレスを作り終えて、これから僕はどうすれば良いのでしょう?」

 セランは静かに問う。

 もう彼に、今私が身に着けている以上の服は作れまい。

 そうなれば、もう彼は今後作るどの衣装にも満足せず、それは完成する事がない。

 針子としての意味を失ったセランは怯えていた。

「これから僕は、お嬢様のために何をすれば良いのでしょうか?」

 セランは人間でありながら、夜魔である私を慰めようとしていた。

 人間が夜魔に対して出来る事など極僅かしかない。

 しかしそれでも手を差し伸べたくなるとは、今の私はそれほどに酷い顔をしているのか。

「お嬢様がお許し下さるなら、これからも傍にいたい。駄目ですか?」

「布を裁てなくなった針子を、何のために置いておくの?」

「そう、ですか。いえ、そのとおりです」

 セランは痛みさえ感じさせる苦笑を、努めて涼やかに見せた。

 指先から流れる血の味が、僅かに甘味を増す。

「許す。傍にいなさい」

 私は言った。

 セランを連れてこさせたのは私である。ならば、捨てる時を決めるのも私だった。

 今はとてもそんな気分になれない。

 ただ私はそう思ったのである。



 幾日が過ぎても、シュエトは戻らなかった。

 それほど深い傷だっただろうか。

 いや、きっと姉がシュエトを引き留めているのだ。私に渡すのが惜しくなって。

 シュエトの心が己に向いていない事に気付いたのだろう。私の傍に寄越し、その忠誠心まで薄れるのを恐れたに違いない。

 そうでなければ、あの気高きシュエトが傷を癒すためにこれほど長い日数を要すとは思えなかった。

 夜魔は自ら言葉を作らないがゆえに、敢えて発せられた言葉には大きな意味がある。

 約束を違える事は、夜魔にとって最低の行為の一つであった。

 何としても姉に抗議し、シュエトを取り戻さねばならない。

 私はそう思い屋敷を出る。

 しかしわざわざこちらから姉の城に出向く事も、そしてこの唇を動かし姉の名を呼ぶ事も、どちらも歯痒く癪だ。

 そこで私は姉の城とは逆方向に走った。

 姉を引っ張り出すなら、簡単な方法がある。

 人間を狩れば良いのだ。

 今はシュエトもおらず、口煩く私を制止する者はない。

 姉を誘い出す事が出来なくとも、人間の血を吸えるなら私に損はなかった。

「さて、誰の血を吸おうかしら?」

 目的は姉である。だが興味は既に人間の血へと移り、私の心臓は湧き起こる強い衝動に脈打ち始める。

 血を吸うなら、あの少年が良い。

 オペラハウスで見た、あの声の美しい少年が。

 それを思いつくと、高まる衝動から表情には狂気が灯り、既に私の足は走り始めていた。

 オペラハウスに行けばまた会えるだろうか。

 私はそれを目指すのだが、そこに辿り着かぬ内に、何かが足に絡まり、私は突如として歩を止められた。

 気が付けば周囲に人通りが無い。辺りに立ち込める深い闇が人間を拒絶する空間を作り出していた。

 足に絡まる何かを見ようと、私はくるぶしに手を伸ばすが、そこには何も無い。

 実際何か物質が絡んで足が止まったわけではなく、それはある種の束縛の言霊だったのだと私は悟った。

 周囲の闇は深く、自然に発生するにしてはあまりに濃い。それは私に近付く夜魔がいるという証でもある。

「姿を見せなさい。この私を狙うのだから、まさか不意討ちを良しとするほど、卑怯で低俗な輩ではないのでしょう?」

 私は暗闇の中に叫ぶ。

 実を言えば、今私は闇の中が上手く見えず、相手がどこにいるか分からなかった。

 それ自体も闇の結晶である夜魔の瞳ならば、多少の暗闇など無きがごとく見通すだろう。

 だがこのごろごろと据わりの悪い、このガラス玉の眼は、ただそこにあるものを映すだけなのである。

「もちろん。そんな卑怯な真似はしないよ。ただ立ち止まって欲しかっただけ」

 前方の暗闇に、二つの瞳がすうと現れて、私を見据えた。

 私は眼を凝らしその者を見ようとするのだが、闇と距離に邪魔されて、その影をぼんやりと捉えるのが精一杯であった。

「随分と、険しい顔でこっちを見るね? まさか眼を奪われたって噂は本当だった?」

 相手は私の眼の事を知っている。

 私は密かに舌打ちした。

 それを知るのは私と姉と、シュエトだけである。だがその誰が漏らしたというわけでもあるまい。

 夜魔というのはとかく噂好きなものだ。特に格の低い、品性の劣る者達ほどそういったものを好む。

 感覚の鋭い夜魔を相手に隠し切れる秘密などなく、むしろ秘密を持つ者が悪いと言えた。

「お前は誰? 名くらいあるのでしょう?」

「嫌だなぁ。私の事を忘れたのかい?」

 その者は私のガラス玉のために、もう数歩こちらに向かって歩んだ。

 褐色の肌に灰色の眼がぎらりと光る。

「アレィネ」

「私の名を憶えていていただけて光栄です、邪眼の姫様」

 アレィネは口の端を歪めながら、わざとらしく慇懃に頭を垂れてみせる。

 しかしそれに苛立たぬよう、私は可能な限り己を静かに凍らせた。

 右腕に意識を送り、いつでも牙を剥けるよう密やかに準備を整える。

「貴方の狙いは分かっているわ。私の血ね?」

「そりゃそうだ。同じ血が流れていると聞かされれば、わざわざ屍の女王に喧嘩を売る必要はないだろう?」

 アレィネが欲するのは、絶対的支配を確約するお父様の血である。

 その血はあまりの高貴さゆえに、たとえ奪ったとしても、それに見合わぬ器のものでなければ毒にさえ変わる。

 だがそれの放つ香りはまるで蜜のように多くの夜魔を招き寄せた。

 しかしまさかこの私が良い獲物として見られる日が来るとは。

「いや、しかしまさかあの邪眼の姫を襲う事になるとは思わなかったな。血を奪う前に、教えておくれよ。いったい何があって、そんなに格を落とした? しかも今は自慢の邪眼まで失って、目も当てられない。本当に、君に何が起こっているのか、見当もつかないよ」

「言う必要は無いわ」

 以前、野心高き夜魔に狙われていたのは姉の方であった。

 お父様の血を受けながら、姉はその性質の愚鈍さゆえにいつまでも低位であった。

 ゆえに多くの夜魔に狙われ、私はお父様の血を何者にも渡さぬため、東奔西走させられた。

 姉の未熟さを私は嫌悪し、呪ったものだ。

 だが、まさかその時の姉と同じ状況に、今はこの私が放り込まれるとは。

「そうか。教えてくれないなら仕方ない。じゃあ、無駄口も終わりにして、始めようか?」

「無駄口を叩いていたのは貴方の方でしょう? 私はいつでも良いわ。ちょうど今、その言いたくない理由のお陰でむしゃくしゃしてたのよ。滅茶苦茶にしてあげるから、覚悟しておく事ね」

「良い気勢だね。さすがは邪眼の姫様だ。おっと、失礼。もう邪眼は持ってないんだった」

 私もアレィネも互いの呼吸を僅かに窺った。

 そしてほぼリズムを同じくして腕を振り、その身の内から牙を捻り出す。

 私は激しく大地を蹴ると、手にした大鉈をアレィネに向けて横薙ぎに振り払う。

 彼女は太く分厚い短剣を手にし、それを受け止めると、私が鉈を振り抜く力に乗って大きく退いた。

 その瞬間、アレィネの体が闇の中に溶けてしまい、私はその姿を見失う。

 僅かな戸惑いと共に、私はこの眼がガラス玉であった事を思い出した。

 アレィネが辺りの闇を濃くしていたのも、これを想定しての事か。

 視界を塞がれていては、アレィネを仕留めるどころか、彼女が次にどの方向から迫るのかさえ分からず、あまりに不利だろう。

 夜魔が闇を嫌うとは滑稽で屈辱的だが、私はその闇の外を目指した。

 だが、今度は私の肩に、また何かが不意に絡んで、私を捉える。

 やはり確かめてもそこには何も無く、ただ束縛だけが私に触れていた。

 そしてまるで私が歩を止めた瞬間が分かるのか、闇の彼方からアレィネの言霊を唱える声が響く。

「舞え、土石。それは打ち倒す力となるだろう」

 忽ち暗闇から無数の飛礫が私目掛けて飛来する。その勢いは当たれば、私の手足など容易く千切り取っていきそうであった。

 私は飛礫の飛んでくる方向に、手にした鉄扉を突き立て、盾とする。

 土砂が河のごとく打ち付ける音は雷鳴のようで、私は両足を強く地面に踏み入れてその勢いに耐えた。

 そして音が止むと同時に、肩に纏わり付く束縛を強引に振り払い、また闇の外を目指す。

 しかしアレィネは私が石を受けている隙に、既に私の進行方向へと回り込んでおり、物陰から躍り出ると、その牙である短剣を振り下ろした。

「眼が利かないのはそんなに不便かい? でも我武者羅に外を目指せば良いってものじゃあない。あの邪眼の姫が盲目なんだ。こんな好機をみすみす見逃し、光を許すわけがないじゃないか」

 私は短剣を弾き上げると、すぐさま斬り返す。

 幾度も刃を激しく打ち合わせ、飛び散る火花は私達それぞれのドレスを焦がすかと思えるほどであった。

「まるで、この闇の中なら私に勝てるような言い草ね」

「違うのかい?」

「私が見失う距離まで離れれば、お前の牙も届かない。結局お前もこの闇に頼っている限りは私に勝てないのよ」

 ガラス玉の瞳は確かにおよそ盲目に等しいだろう。

 しかしこの距離ならば、はっきりとアレィネの姿が見える。

 むしろ剣技では僅かだが私の方に分があるようで、私は闇から逃れる事を捨て、ひたすらに刃を閃かせた。

「確かに。闇に頼るだけじゃ、君に傷一つ付けられそうにない」

「血を奪うなんて、夢のまた夢よ」

「でも、ここから逃がしたくない理由は、闇だけじゃあ、ないんだなぁ」

 アレィネはそう言ってにやりと笑う。

 そして少しずつ私の剣圧が上回り、この鉈を受け切れなくなった瞬間、大きく跳躍してまた闇の中に身を隠した。

 見えないものを追ってもそれはただ危険なだけである。

 私はすぐにまた闇の外へ逃れる方針に切り替えた。

 接近すれば私に敵わないと分かったアレィネは小さな言霊を幾重にも繰り返し、些細な抵抗によって私をこの空間に留めようとする。

 だがその全ては私の牙をもってすれば弾く事の容易いものばかりで、繰り返される言霊はまるで精力の無駄のようにさえ思えた。

 しかしアレィネも恐らくただの馬鹿ではない。深い野心を持っているが、浅はかな夜魔には見えなかった。

 彼女が自棄を起こしているのでなければ、その言霊は無駄撃ちなどではなく、何らかの意味があるはずなのである。

 だがその意味が分からない以上、一刻も早くこの闇から逃れねばならないのは確かだった。

 私はよりいっそうの力を込めて大地を蹴り駆ける。この狭い視野では不意に前方に障害物が飛び込んでくる場合もあったが、それも全て牙で切り倒し進んだ。

 だが不意に何かが私を掴んで引き止める。

 振り返ってみれば、それは私自身の右腕だった。

 腕がなぜか空中にぴたりと静止して、私の体が先に行く事を拒んでいるのである。

 また例の見えない何かが絡まったか。

 しかし、今度のそれはこれまでよりも遥かに強い拘束力で私の腕を捉えていた。無理矢理振り払おうとしても、右手は指一本さえ動いてはくれない。

 すると、不意に暗闇からアレィネのけらけらと面白そうに笑う声が響いてきた。

「ようやく止まったか。いやいや、このままいつまでも走り続けられるんじゃないかと、冷や冷やしたよ。いや、本当に」

「何をした? 私の手に何をした?」

「嫌だなぁ。私は何もしてないよ。君が勝手に絡まったんだ。絡まって、絡まって、ついに動けなくなった。そういう事だよ」

「何?」

「私の剣を受けるため、飛礫を防ぐため、何度その大鉈を振った? 百回? それとも二百? 夢中だったから、もしかすると千回を超えてるかもしれないね。

 さすがは邪眼の姫、素晴らしい剣の腕だ。

 でも、それが災いした。

 腕を振る毎に、私の仕掛けた小さな束縛が君に絡み付いていた。最初は気にするほどもない抵抗だったかもしれない。でも、積もり積もって束になれば、もう身動きは取れない。

 ほら、走り回ったその足も、もう随分重いんじゃあない?」

 アレィネは身動きの取れなくなった私を見てにやにやと笑った。

 彼女はこの闇の中に無数の細かな拘束の言霊を、まるで罠のように仕掛けていたという事か。

 そして私はそれをご丁寧にも自ら集めて回り、たった今私の力よりもその拘束力が上回ったのである。

 凍り付いた腕を引き抜こうと踏ん張っていた足も、いつの間にか大地にべっとりと貼り付いてしまっていた。

「そう、なるほど。この闇は初めから、私を盲目にするためではなく、外に出れば何とかなると思わせ、走らせるためのもの」

「さぁ、もう見えるほど傍に近付いても、私は安全だ。君は何も出来ない。そうだろう?」

「それは、どうかしらね?」

 そう答えながらも、私の頭の中は、どうすればこの拘束を断ち切れるのかを必死に考えていた。

 だがむろん私が答えを出すのをアレィネが待つわけもなく、その手に短剣を握り締めながら、一歩また一歩と私の不動を確認しながら近付いてくる。

 そしてあと数歩で私に牙が届くという距離になり、もはや完全に私が動けない事を確信したのだろう。

 それまでの静寂に近い慎重さは捨て、一息に宙へ舞い上がると、剣を構えて私に襲い掛かった。

「支配の血、頂くぞ、邪眼の姫」

「この血がお前などを選ぶものか。血に内奥を貪られながら、腐り果ててしまえ!」

 アレィネの刃に対し私が出来る事は、ただその負け惜しみだけだったのである。

 だが今まさにその刃が私を引き裂こうという瞬間、横合いの暗闇から何かが音も無く飛来し、アレィネに激しく衝突、彼女を巻き込むとまた闇の中へ消えていった。

「何?」

 私は突如目の前で起こった事態に呆気に取られ、届きもしない困惑の視線を闇の中に向ける。

 するとアレィネの消えていった方角から、激しく刃の打ち合う轟音が響き始めた。

 何者かが私を助けてくれたのか。

 その人物に確信はない。

 だが私はその影が巨大で美しい静寂に満ちた翼を閃かせていたのを見たように思えた。

「シュエト?」

 私は闇に呼びかける。

 剣戟の弾ける音は響くのに、返事はない。

 しかし私はそれがシュエトであると信じた。

 その美しい翼を私は毎日眺めていたのである。見間違うはずがない。

 それは私を守れという姉の命令が働いた結果なのかもしれない。

 だが確かにシュエトは私を助けに来た。

 私は自身でも意外なほど激しい喜びを覚える。

「シュエト、そいつの相手は良い。まず私の拘束を解きなさい」

 しかしその瞬間、響いたのは刃同士のぶつかる音ではなく、肉の裂ける耳障りな音だった。

「シュエト?」

 私は自身でも驚くほど不安げで情けない声を発してしまう。

 そしてふと気付いた。

 なぜ私はそれがシュエトだと分かったのだろうか。

 翼を見たからである。

 だが本来その翼は閉じられているものではないのか。

 それが見えたという事は、シュエトは本質を晒したまま飛び込んできたという事であり、それはともすればまだ傷が癒えていないという事ではないだろうか。

 それを考えれば、シュエトが帰ってこなかった事、姉が夜魔にあるまじく約束を反故にした事、全て納得がいく。

「シュエト、早くこっちに来なさい。私の拘束を解くのよ」

 もしも私の不吉な考えどおりであれば、シュエトがアレィネに勝つ見込みは全く無かった。

 それでなくともアレィネの格はその言動の程には低くないのである。

 邪眼を失った今の私でさえあるいは及ばないかもしれない。

「ベニ様、お逃げを」

 鈍く血肉を切り裂いていく音に混じり、掠れるような声が闇の中より漂ってきた。

 そして同時にシュエトの双剣の内の一本が激しく回転しながら飛来し、私の腕を掠めて過ぎると、纏わり付く束縛の一部を斬り払った。

 私は全身に力を込め、貼り付く拘束を引き千切り、多少の自由を奪還する。

 だが気付くと、闇の向こうは途方も無く静かになってしまっていた。

 路傍の樹木に突き刺さったシュエトの曲剣を見る。

 それはひたすらに沈黙していて、だがふとある瞬間を境に少しずつ存在性を失って、大気の中に散り始めた。

「まさかね。シュエト、嘘でしょう?」

 私の囁き声には静寂だけが答えを返す。

「返事をしなさい、シュエト。私の命令が聞けないの? どこにいるのよ?」

 叫んでみても、ただ闇の中に私の焦りが木霊を響かせた。

 逃げるべきだろうか。

 だがまるでシュエトの静かなる翼を奪ったかのように、アレィネの気配も感じない。

 あるいは生き残ったのはシュエトの方かもしれない。そうあまりに可能性の低い考えへ逃げる己の希望的な意思に私は嫌悪を示した。

 シュエトは逃げよと言ったが、どちらに逃げるべきか辺りを見回すと、そのどの方向にも静寂が凍りつく鋭利な刃を構えているように見えて、踏み出す一歩目が想像出来ない。

 しかしその時ふと闇を切り開いて囁き声が届いた。

「ベニ様、こちらです」

「シュエト? シュエト」

 私は仄かな歓喜と共にそちらへ振り向く。

 ガラス玉の眼にも辛うじて見える。

 暗闇の中にシュエトの青白い顔がぼうっと浮かんでいた。

「こちらですよ、ベニ様。さぁ早くいらっしゃいな」

 だがそれはシュエトではなかった。

 私の全身を恐怖と戦慄が襲う。

 闇の向こうには確かにシュエトの顔が見える。

 しかしその首の下には、あの美しく艶やかな肢体が存在しなかった。

 私は一歩だけ前に進む。

 薄暗く見えなかった闇の奥が僅かに明らかになった。

 そこにはアレィネが下卑た薄笑いを浮かべて立っていた。

 そしてその手に握られているものは。


 それはもぎ取られたシュエトの頭であった。


次話更新11/30(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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