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ハイズリヒメ  作者: 二束
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ハイズリヒメ  -ワタシノトリ-

 それから私は舌に渇きを覚えるたび、屋敷を下って針子部屋を訪れた。

 人間は傷の治りが遅い。

 体内における血の生成も遅々としたもので、度々足を運んでも口に出来る血の量は極僅かだった。

 しかしそれでも着実に私の中に活力を満たし始めていた。

 精力を与えられた夜魔にまず訪れる変化は、格の上昇であった。

 いや、正確には、その者が持つ格が本来の力を発揮し始める、と言うべきか。

 血を飲むほどに私は、以前の高貴であった頃の己の姿を取り戻していったのである。

 むろん、セランが命を落とさぬよう加減しての吸血では、生まれ変わったばかりの貧弱さからそう容易く脱却出来はしないのだが。

 しかしその程度の力の回復でも、私にとっては重要であった。

 夜魔の力とはすなわち、美貌である。

 美貌と言えば、外観的な美しさも示すが、夜魔の魅力とは求心力、支配力へと直結する要素であった。


 ゆえに、シュエトの忠誠心が揺らいでいた。


 シュエトは姉の臣下であり、姉の命令によって私の護衛に就いている者である。

 だがその護衛という任ゆえに、常にシュエトの傍にいて主人のごとく振舞っているのは、姉ではなく、この私なのだ。

 姉の命令とはいえ、命を賭して私を守り、私の指図を聞いてばかりいては、ふと何かの拍子に本当の主が誰であるかを忘れる瞬間もあるかもしれない。

 そして忠実なシュエトは決して口に出さないだろうが、純血種にとって被造者はどれほど力があろうとも心情に障りなく主と仰げる存在ではないのである。

 それに比べ、私は真に純血種であり、しかも今その格を急速に高めている。

 夜魔は孤高不屈の生き物ゆえ、他者の臣下でいたいとは思わぬものだが、敢えて主と仰ぐならば、その本能は被造者の姉よりも純血種の私を選ぶはずだった。

 それは深層に潜む本能であり、また私と姉の格の大きな開きも確実に存在している現状で、その微かな心理の揺らぎはシュエト自身でさえ気付かずにいるだろう。

 だが私には勘付く事が出来た。

 この美しき夜魔をどうにかして姉の手から奪ってやりたいと、以前より虎視眈々と狙い続けてきたからだ。


「ベニ様、どちらへ?」

 私が屋敷を出ようとすると、シュエトは音もなく背後に立つ。

 私は密かににやりと頬を歪めた。

 以前のシュエトならば、そんな事を尋ねはしなかっただろう。

 私がどこへ行こうとも、勝手に追い、勝手に守ったはずだ。シュエトにとって重要なのは、彼女が姉から与えられた命令を実行出来るかどうかのみであり、私の行き先などに興味を持つ必要はないのである。

 だがそれを敢えて問う。

 それはつまり、彼女の無意識の奥底に、私に関わりたい、私との距離を近くしたい、という感情の不穏分子が芽生えたという事ではないかと私は気付いたのだ。

「出かけるのに、いちいち貴方に行き先を言っておかなければならないの? まさか幼子でもあるまいし」

 シュエトの問いに私は故意に反抗する。そうする事できっとシュエトの心では、私の行動を知りたいという欲求が微かだが確実に膨らむはずだ。

「私はベニ様を守らねばなりません。危うい場所に行かれては、主上の命を遂行しきれない恐れがありますので。それに、ベニ様はまだ生き返って間が無く、幼子も同然では?」

「幼子は気付けば立派に育ってしまっているものじゃない? 心配し過ぎよ。それとも、私の母親にでもなるつもり?」

「まさか、母娘の情など。私は夜魔ですよ? それとも、これは一種の愚弄ですか?」

 シュエトは僅かに眉を顰めた。

 姉の下に甘んじていられるような者ではあるが、その夜魔らしいものの考え方を私は嫌いではなかった。

 シュエトの返答に気分を良くした私は、更に冗談を投げかける。

「気に入らないの? 貴方の主が大好きな家族ごっこなのだけれど? やっぱり、馬鹿らしいわよね、こんな遊び」

 私がシュエトの言葉尻を捕え、それを姉への翻意に捻じ曲げようとするので、シュエトの眉間に刻まれる皺がますます深くなる。

 その表情も何とも艶美で、私は悦びに背筋が震えるのを覚えた。

「いえ、私はそのようなつもりで言ったのでは」

「シュエトからお姉さんに伝えておいてよ。家族ごっこなんて夜魔にとっては愚弄でしかない、って。本当に、こんな馬鹿らしい事はさっさとやめにして欲しいものよね」

 それは言葉に絡めただけの安易な仕掛け罠だ。

 だが安易か難解かに関わらず、罠は捕えた者に効果を表すものである。

 シュエトの忠誠心には副わないだろうが、夜魔としての思考は明らかに、主である姉よりも、私に近い事を彼女は認識したに違いない。

 その心を鷲摑んで揺さ振るのは何とも面白い。心の揺れに呼応して、表情までも動揺に歪むその様を見るのは、私の支配欲をひたすらに刺激した。

 だがふとシュエトは不意に眉間の歪みを消し去ると、無表情に戻り、ぽつりと呟いた。

「では、ベニ様は父娘の関係もそのようにお考えで?」

 次に表情を歪めたのは私の方であった。

 いや、顔色を変えるよりも先に、怒声が舌に乗る。

「お父様は特別だ。他の者と、ましてやあんな被造者と同じに並べて考えるなんて。不愉快だわ」

「ならば、主上も特別なのでしょう。純血種でないにも関わらず、万象の統制者となられたのですから」

 勢が入れ替わったため、シュエトの無表情にはどこか安堵の色が映る。

 歯痒くはあるが、その安堵こそシュエトが揺れていた証であった。

「お姉さんを褒めるなんて、心にも無い事を」

「ベニ様こそ、夜魔には力の支配以外に意味はないと知っていて、心の有る無しを仰るのですか?」

「減らず口を」

 シュエトが多少饒舌なのは、己の深層にある不安定を押し隠す無意識からか。

 だがシュエトも高位の夜魔である。夜魔の理屈を口にさせれば、それに狂いはなく、私も同じ理屈の上に立っている者ならば、言い伏せる術はなかった。

 シュエトが無表情に戻り、やや興も削がれた私は、彼女に背を向ける。

 するとシュエトはやはりもう一度言った。

「ベニ様、どちらへ?」

「町に行くだけよ。屋敷に籠もっているのも退屈でしょう?」

「人間狩りを見過ごすわけにはいかないのですが」

「うるさいわね。だったら、見に行くだけよ。それなら文句は無いでしょう?」

 人間を前にして私が見るだけで済むはずがない。シュエトはそう言いたそうな顔つきで訝しそうに私を見た。

 そしてそれは正解である。

 押し付けられた姉の言葉に気兼ねするつもりなど、私には少しもなかった。

 その心中が顔に表れたのか、私を見るシュエトは眉を顰めた。

「あの針子の件も、知れば主上は良い顔をなさらないでしょう。針子に自ら指を切らせ、主上の言葉の隙間をすり抜けるような。私はあまり感心出来ませんが」

「待て。お前は今、私に指図しているの? たかが護衛でありながら、そんな事まで意見するつもり? お前ごときが、この私に?」

「いえ、そのようなつもりは、」

 私の指摘を受けてシュエトは口籠る。

 それもあるいは私に干渉したいというシュエトの心理の表れなのかもしれないが、そこまで深く手を出されると私は不快であった。

 そもそも姉はお父様の力を継いで、全能の支配者となったのだ。私がセランの血を吸っている事など、とっくに気付いているはずであり、何か不満があるならば既に行動を起こしているだろう。

 わざわざシュエトに言われるまでもない事である。

「だったら、黙っていなさい」

「しかし、ベニ様、主上の意思は、」

「黙れ」

 私が僅かに邪眼を剥くと、シュエトは言葉を噤んだ。

 セランの血を吸い、私は力を増したが、それは邪視も同様で、不意に睨まれればシュエトでさえも背筋が恐怖に凍り付き、動きを束縛されるだろう。

 私はシュエトの怯んだ隙に足元へ風を呼び纏い、屋敷を後にした。



 私はシュエトを引き離し、遠くへ遠くへと走った。

 いや、それはただ視界にシュエトの姿を見ないというだけで、姉が彼女に下した命令が絶対の執行力を持つ以上、完全にその監視の目から逃れる事は不可能であった。

 むろん、シュエトも格の低い夜魔でなければ、生まれたばかりの私を追う事など難しくはないだろう。

 だがシュエトは、強く拒まれて尚も前に出てくるような、鬱陶しい性格はしておらず、ゆえに私は周囲に彼女の気配を感じなかった。

 それが、引き離した、の表現する意味である。

 密やかにどこから私を見張っているのだろうと僅かに気にもなったが、その素振りを見せるのも癪に思い、私は身に闇を纏い人間の視界から外れると、何気ない風を装って歩いた。

 随分と足を伸ばし、遠くの町まで来たつもりだったが、この場所にも微かに姉の放つ闇の匂いが漂っている。

 いや、姉の気配を感じない場所などもしかするともうこの世界には無いのかもしれない。

 至高の人と呼ばれたお父様の力を継いだ姉は、その天を覆うと思わせるような存在感さえ似ている。ましてそういったものに敏感な知覚を持つ夜魔の身であれば、姉の気配から逃れるのは不可能であった。

 私は姉の城がある方角を見、小さく溜息を吐く。

「ご気分が優れませんか?」

 私の嘆息に声をかける者がいた。

 振り返ればそれは人間の男であった。

 私は訝しむ。

 人間であれば、私という闇に恐怖を抱き、本能から眼を背けて、その存在に気付かないはずだ。まして声をかけるなど普通ではありえない。

 不思議に思い、その青年を良く観察する。

 じろじろと全身を見回す私を、男の方でもじっと見ていた。普通そのように値踏みするような視線を向けられれば、多少なりとも嫌悪の表情を見せるはずなのに、である。

 男の身なりは悪くない。いや、むしろ他の人間達よりも立派なものを着ているだろう。むろん、その立派とは人間の価値観においてであり、夜魔の感性には添わない。

 だがその身なりから推測すれば、男は人間の世界において相当に裕福な生活をしているのだろう。そういった身分にいる人間は往々にして、この世に不安など少しもないと思っている場合さえある。

 しかし男の眼は妙に暗く澱んでいた。

 なるほど。男が眼を逸らさず、視界に私を映したのも頷ける。

 それは闇を見慣れた眼だった。

 その青年にとって夜魔を見る事は怯えを伴うほど珍しい事ではないのである。

 つまりそれはこの青年に憑く夜魔がいる事を示していた。

「ご気分が優れませんか?」

 私が何も答えないので、彼はもう一度問う。

 私はまたそれを聞き流し、周囲を見回したが、それらしい夜魔の影を見つける事は出来なかった。

 これは餌である。

 恐らくその夜魔は心を捕らえたこの人間を使い、私を上手く釣り上げたいのだ。

「もし宜しければ、一緒にオペラでも見に行きませんか? 気も晴れるはずですよ?」

 青年は言った。

 その濁り眼を見逃し、私がこのような幼稚な手に気付かないと思っているのか。

 青年に憑いた夜魔の目的は分からないが、その稚拙な手口から考えて、どうやら卑小な夜魔であると知れる。

「良いわ。オペラも嫌いではないし、連れて行って?」

 私は薄く微笑み、頷いた。

 人間を傷つけると姉が何かと煩い。

 それを気にせず興を探し、暇を潰すには、その夜魔の接触は案外に私にも都合が良かったのである。


 私はその青年と共にオペラハウスへと入った。

 青年はやはり身分の高い者らしく、その顔をぶら下げているだけで、周囲の人間に慇懃に頭を垂れさせ、私達を二階の個室観覧席へと案内させた。

 その扉を開けると、中には既に人影がある。

「貴方が、私を呼んだのね?」

 私が静かにそう言うと、先客の女は頬を大きく引いてにいと笑った。驚かないところを見ると、どうやら私に小細工が見透かされるのは承知の上であったのだろう。

 その夜魔は普通ステージを見るために前のめりになるはずの椅子に深々と腰掛け、何とも気だるそうな表情を浮かべていた。

 手足はすうと伸び、特に肘や膝から先が異常に長く見える印象がある。

 浅黒い肌に色の薄い灰色の眼は映えるが、その女の美しさはどこか薄暗さを伴っていた。

 その薄暗さを見、やはりさほど高位の者ではなかったか、と私は今また認識する。

「連れてきたよ、アレィネ」

「えぇ、良くやったわ。本当に素晴らしい」

 青年はそのアレィネと呼ぶ夜魔の足元に跪くと、差し出される手の甲に口付けた。女が褒め言葉を口にすると、彼は心底嬉しそうに笑った。

「さぁ、もうオペラが始まる。私はこのお嬢さんと話があるから、貴方はオペラを見ていなさい」

「あぁ、ありがとう。」

「さぁ、お嬢さんはこっちよ。早く座って」

 女は己の左に青年を、右に私を座らせようとした。

 男は少しでも女の傍に寄りたいのか、右の肘掛に体重をかけるようにして座る。

 だが私は、やはりその見知らぬ夜魔に近付き過ぎるのも危険であると考え、その広い椅子の女とは逆側の隅に身を置いた。

 しかしそれでも女は私が腰を下ろした事に満足げにする。

 確かに私も姉の事がなければ、こんな誘いに興を探す必要もなかっただろう。女にしてみれば、私がこの席に座った事自体が意外だったのかもしれない。

「私はアレィネ。シャンパン飲む?」

 女はその名を素っ気無く伝えると、どこから取り出したのか、シャンパンの入ったグラスを一つ取り出し、私に差し出した。

 だがそれは人間の作った飲み物である。

 人間とは味覚の異なる私の口には合わなかった。

「いらない」

「そう? 嫌い? 結構、美味しいのに」

 むろん、その口に合わない感覚を楽しむのは好き好きである。

 アレィネは私に差し出したそれを手元に戻すと、自らでぐいと飲み干した。

 そして更に一杯では物足りないのか、もう一杯注ごうと傍のテーブルの上に置かれたシャンパンボトルに手を伸ばす。

 その悠長な物腰に私は少々苛立った。私は待たされる事が嫌いなのである。

「それで? 早く私を呼んだ理由を聞きたいのだけど?」

「うん? 気が短いね。オペラを見ながらゆっくり話をするのも嫌い?」

「まず話が先よ。その後で興が残ればオペラを見るのも良いかもしれないけれど、貴方と違って、私はオペラを目的に来たわけじゃないのよ?」

「それを言われると、別に私もオペラを見に来たわけじゃあない」

 アレィネはそう言って一人でくすくすと笑った。

 私はますますアレィネがなぜ私をここに呼んだのかが分からなくなり、笑っている暇があるなら早く用件を言って欲しいと歯痒さを覚える。

 その時、不意にホール内を大音響が走り抜け、ステージの上にでっぷりと太った壮年の男が出てきたかと思うと、朗々と歌い始めた。

「始まってしまったね。結局、オペラを見ながら話をする事になったけど、それでも良いかな?」

 他に術が無ければ私の返事など聞くまでもないだろうに。

 それに答えるのも面倒臭く、私はうんざりという様子で眉を顰め、溜息を吐いた。

 アレィネはそれに悪びれもせずへらへらと笑っている。

 ステージにはオペラの主役が登場し、観客達は拍手喝采して彼を迎える。

 むろん、私をここまで案内した青年も椅子から立ち上がり、両手を激しく打ち合わせていた。

 その騒々しさの中、アレィネはようやくぼそりと用件らしきものを切り出す。

 夜魔の声は音というよりも意味そのものに近く、鳴り響く拍手にも打ち消される事はなかった。

「実は、君が生まれてくる瞬間を、私は見たよ。あの時、私も傍にいた」

 それはいつの話をしているのだろうか。

 私が生まれたのは一度きりではない。果たしてアレィネの言うその瞬間というのが、本当の意味で私が最初に発生した瞬間なのか、それとも死の摂理を誤魔化して生き返った瞬間なのか分からなかった。

 だがどちらにしても、それは私の最も酷い姿を見たという事だ。

 わざわざそれを告げる無粋さに私は不愉快な表情を作る。

「しかし、あの屍の女王の前で生まれるとは、君も悲運だね」

「屍の女王? あぁ、という事は、貴方が見たというのはつい最近の話ね」

 屍の女王とは、人間の躯を本質とする姉を指す言葉である。

 非常に高位の夜魔はその名を口にする事さえ憚られ、そういった別の名が当てられるのだ。

 お父様が幾つもの名を持つのも、その力の偉大さゆえである。

「うん? 何? 最近?」

 ようやくアレィネの見た瞬間というのがどれを指すのか分かり、私は思わず声を漏らす。

 むろんアレィネは私の言葉の意味が分からず聞き返すが、死を逃れる私の性質を知られる事に得はなく、私はそれを説明するつもりはなかった。

「貴方には関係のない事よ。

 それで? その瞬間を見たから何だと言うの?」

 すると不意にアレィネはそのにやけ顔をどこかに仕舞い込み、椅子からずいと身を乗り出して私に顔を寄せると、随分と神妙な面持ちを作って囁いた。

「教えて欲しい。どうして、屍の女王を前にして、君は悪態を吐けた? どうして、あの絶対の君臨者の前で、平伏さずにいられた? あらゆる夜魔が出来ない事を、どうして生まれたばかりで力もない君に出来た?」

 間近で見たアレィネの眼はぎらぎらと輝き、その性質が貪欲である事が深く知るまでもなく察せられた。

「貴方は、剣を取りたいのね?」

 アレィネもただの興味や好奇心で私にそれを問うているわけではあるまい。

 それを知りたがるのは、アレィネ自身が姉の前で平伏したくないからで、そして平伏さずにする事とは一つしかなかった。

 アレィネは姉に刃を向けるつもりなのだ。

「まさか。逃げる時に足が平伏していては困るから知りたいだけ。他の者達のように操り人形にはなりたくなくてね」

「その眼はそうは言ってないわ。ただ逃げるだけなら、今すぐどこか遠い町に行けば良い。そうでしょう?」

 アレィネが欲しているのは、姉の血である。

 正確に言えば、姉の中に流れるお父様の血だ。

 血が夜魔を構成する根源の一つならば、その血を奪う事はその力を得る事を意味する。姉もそうしてお父様の権力を奪い、君臨者の座を手にしたのだ。

 つまりその血は支配を約束するものであり、誰もが是が非にも欲しがるものなのだ。

 もっとも、前に立つ万物を跪かせるその血を奪う事など不可能に等しいのだが。

「どうすれば、屍の女王の拘束から逃れたままでいられるんだ? あるんだろう、方法が? 私にも教えておくれよ」

「あぁ、声、」

「声?」

「この声、綺麗ね。」

 私は答えを求めて覗き込むアレィネを無視し、ステージへと視線を向けた。

 オペラの舞台は一幕の佳境に入った様子で、長身だが幼顔のカウンターテナーの澄んだ歌声がホールを震わせていた。

 アレィネは話を逸らされたと分かり、口の端を歪めて不満げな表情を作ると、乗り出していた体を椅子に座りなおした。

 初めオペラに全く興味のない素振りをしていた私が、ここへ誘ったアレィネよりも歌手の声に耳を傾けていた事は、ある種の皮肉としてアレィネに伝わった。

 むろん、それには関心のないオペラ以上に、アレィネの話に興味がないという厭味でもある。

 アレィネはふてくされた表情でステージを恨めしそうにちろりと見ると、更にそれを褒め称える連れの青年まで横目に睨んだ。

「教える気はない、って事?」

「美しいものはまず楽しむべきよ? 話はその後でも出来るわ」

 私の意見が全く翻っているので、アレィネは呆れたように苦笑した。

 だがこれも夜魔の性質の一つである。最優先されるべきは己の琴線に触れる事柄なのだ。

 そして密かに、私はアレィネの目論見が不愉快でもあった。

 姉の血、いや、お父様の血は私のものである。力や支配などという安直な理由ではなく、より本能的に、そして官能的に私はお父様の血には私以外の誰にも触れて欲しくなかった。

 その目論見の不快感を前にすれば、美声に耳を傾けたくなるのは当然だろう。

 何としても私から答えを聞きだしたいアレィネは不服そうではあったが、案外素直にその歌声とそれに続く喝采が終わるのを待った。

 そしてオペラの第一幕が下りるとすぐさままた私の方へ身を乗り出し、顔を覗き込んだ。

「さぁ、オペラの合間だ。こういう時に話すのが、君のお望みなんだろう? 勿体ぶらずに教えておくれ。跪かずに自由でいられる方法を。何かコツがあるんだろう?」

 そのがつがつとした飢えた獣のような様に私は少し溜息を吐きうんざりしてみせる。

 だがアレィネはそれに敢えて気付かぬ素振りを返した。

 仕方なく私はぽつりと言葉を吐いてやる。

「コツなんてないわ」

「それは嘘だ。あの時、君は屍の女王に両腕で押さえつけられながらも、まだもがくように手足を動かしていた。これほどの自由を理由もなく手に入れる事はありえない」

「理由? それならば、きっと私ではなくて、あちら側にあるのよ。私が自由にしているのではなくて、あちらが私を自由にさせているんだわ」

「屍の女王が、君の自由を許しているって? 手の届く距離なのに?

 そんな馬鹿な話は無いよ。それの方がよほどありえない話だ。」

 アレィネはまるで冗談を小馬鹿にするような薄ら笑いでけらけらと声を上げた。

 しかし私にはとても笑える話ではなかった。姉のその態度のお陰で散々面倒な目に合わされているのだから。

 私がうんざりとそれを話せば、アレィネは忽ちにやけ顔をやめ、目を丸く剥いて驚きの表情を示した。

「免疫がある、とでも言おうかしら? お姉さんの威風の前に怯まないのは、私も同じ気質を持つ妹だからよ。鏡に映る己の姿に怯えないのと同じ。癪だけど、私とお姉さんの根本は酷く似ているから」

 アレィネは開いた口を塞がず、疑いの混じる眼でじろじろと私を見回した。

「馬鹿な。じゃあ君は屍の女王の妹? いや、あの真理の制定者の娘だと言うのかい?」

「えぇ、そうよ」

「つ、つまり君はアレかい? 邪眼の姫、そう、邪眼の姫ベニメウクスだって? そういうこと?」

「だからそう言ってるわ。まさか私の名も知らないまま、ここへ呼び出したの?」

 アレィネは以前のお父様の傍にいた頃の私を知っているようであった。

 それは驚きか、それとも怯えか。そこには警戒心が見え、アレィネは寄せていた身を少し私から遠ざける。

 そしてゆっくりと首を左右に振った。

「ありえない。そんな事はありえないよ。邪眼の姫は死んだはずだ。あの日、無慈悲の王と共に、邪眼の姫も死んだ。そう聞いている」

「さぁ、知らないわ。噂なんて適当で、時々は間違うものでしょう?」

「私は君が生まれてくる瞬間を見たんだよ?」

「そう見えただけで、全く別のものだったんじゃないの? 貴方だって他に夜魔の誕生を見た事は無いんでしょう? どうしてそれが生まれてきた瞬間だって断言出来るの?」

 生き返ったなどと口にしては、今度はその方法を教えてくれなどと言われかねない。

 だがアレィネは煙に巻かれているとも気付かず、押し黙ったまましばらく何事か考えているようだった。

「じゃあ、本当に屍の女王の前で平伏さずにいるコツとかそういうものは無いって事?」

「諦めなさい。貴方には無理よ」

 アレィネは思惑の外れた事に、悔しげに眉を歪めた。

 そして一杯のシャンパンをグラスに注ぐと、何も言わずそれをぐいと呷り、もう一杯、また一杯と、相当な勢いで飲み続ける。

 オペラのニ幕が始まって終わるまでずっとその調子で、すぐにボトルは空になってしまった。

「まぁ、仕方ないものは仕方ないか」

 空のボトルをテーブルに置き、不意にアレィネはあっけらかんと言った。

「そう。気が済んだのなら、私はもう行くわ。どうやらさっきの綺麗な声の人間も、もう舞台には出てこないようだし」

 そう、あの美声の少年は第一幕が終わるときに死んだ。胸をナイフで貫かれた。

 彼はそういう役だったのだ。

「待った」

 私は席を立とうとしたが、それをアレィネは素早く制す。

 そしてその瞬間、辺りに鮮烈な香りが満ちた。

 アレィネの連れの男は、つい今まで観覧席から身を乗り出し、飛び降りるのではないかと思うほど熱心にオペラを見ていた。

 だが私がアレィネの制止の声に振り返った時には、彼女の膝に抱かれ、彼女の手にした刃によって首筋を切り開かれた後だった。

 露わになった血管からは鮮やかな香りを放ちながら、どくどくと血が溢れている。

 アレィネはその身の内に牙を仕舞うと、その手にシャンパングラスを持ち替え、流れ出る血をグラス一杯に受け止めた。

「ほら」

 アレィネはその血でべっとりと濡れたグラスを見せ付けるように私の方へ差し出す。

「何?」

「礼だよ。色々教えてもらったお礼。邪眼の姫は血が好みじゃなかったかい?」

 私は顔を顰めた。そのグラスは私を、施しを受けたような気分にさせ、またあまりにも見栄えが悪かった。

「シャンパングラスに色のあるものを注ぐなんて、無粋だわ」

「なるほど。言われていれば確かに。でも、他に入れ物が無いんだから。良いだろう?」

 アレィネの長い指がぬうと伸びてきたかと思うと、私の手に無理矢理そのグラスを握らせる。

 迸るように吹き出す血を受けたため、そのグラスは外側まで血に塗れていて、ステムを握る私の指先にもそれはぬるりと絡みついた。

 薄いガラスの壁越しに温かさも伝わる。

 私は一つごくりと生唾を飲んだ。

「その人間は、貴方が飼っていたのではないの?」

「良いんだ。ちょうど替え時だったんだから。闇に澱んだ眼を見たろう? そろそろ食べないと、味が落ちる。邪眼の姫様なら、もちろん分かるよね?」

 夜魔が食すのはそれの精力であり、それはすなわち心の純粋さ清らかさと深く結びついていた。

 闇の傍にいれば、瞳が澱んだように、いずれ心もくすみ、体も病に蝕まれていく。そうなれば精力は衰え、夜魔の舌にはもう渋味にしか感じなくなるのであった。

「冷める前に、早く飲めば?」

 そして体を離れた血も、急速に精気を失う。

 私がこのグラスを拒んでも、血が男の体に戻るわけでもなく、何より私にそれを拒む理由があるわけでもない。

 血をくれると言うのなら、それはむしろ歓迎すべき礼であった。

 私はその今にも零れそうなグラスをそっと口元に運ぶ。

「お待ちを」

 だが不意に背後から腕が伸びてきて、私の手を押さえた。

「また出過ぎた真似をするつもり?」

「いえ、そのようなつもりは」

 足音もなく傍に立ったのは、護衛という名の監視役、シュエトである。

 シュエトが気配もなく現れるのはいつもの事だが、それに慣れていないアレィネはやや驚いたように目を丸くし、薄く笑っていた。

 私はシュエトの腕を掴み、私の手を押さえるのをやめさせる。

 そして彼女の方に振り返り、その察しの悪い顔をじろりと睨み上げた。

「いいえ、これはまた出過ぎよ。血の匂いに誘われて駆け付けたのだろうけど、人間に牙を立てたのは私じゃない。人間を傷つけるなというお姉さんのわがままを押し付けようというのなら、従う気はさらさら無いけれど、理解してあげる。

 でもこれは違うでしょう? 傷付けたのはアレィネで、私は血を貰っただけ。どう? お姉さんの言葉に反してる?」

「いえ、それは、」

 怯むシュエトを前に、私はあてつけのようにしてそのグラスをぐいと傾けた。

「しかし主上がご気分を害されます」

「もう遅いわ」

 私は空になったグラスを投げ捨てる。

 シュエトは眉を顰め、私を見、そして次にアレィネを見た。

 一瞬の咀嚼音が聞こえ、私も振り返れば、そこにはアレィネが一人きりで椅子に腰掛けていて、もうあの男はそこにいなかった。

「随分と、複雑な環境に投げ込まれているようだね、邪眼の姫?」

 アレィネの唇が何か赤い液体で濡れていて、彼女はそれを舌先でぺろりと拭う。

 どうやらアレィネは肉を食う夜魔であった。

 格の高い夜魔ほど、生きるため多くの精を食す。むろん、血が純度の高い精気を内包し、それを食す者が夜魔の内でも最高位に属す事は言うまでも無いが、それに準ずるのが肉を糧とする夜魔である。

 つまりアレィネは、その行動が低俗なので侮っていたが、それほどには低位の者でもなかったという事だ。

「アレィネ、と言ったか。これ以上、ベニ様の周囲を掻き乱すつもりなら、私が相手をする事になります。だからもう近寄らない方がお互い煩わしくなくて良い」

「何とまぁ、怖い人だ。いやいや、そんなつもりは無いよ。ちょっと話がしてみたかっただけじゃないか。そう怒らないでおくれよ」

 私に言ってもその心中を探られ乱されるだけと思ったのだろう。シュエトは私が血を口にした責任をアレィネに求め、その眼光を鋭くした。

 だが、眉間に皺を寄せるシュエトに反し、アレィネは何とも飄々とした様子で彼女の苛立ちをいなす。

 私は部屋中に立ち込める血の匂いと闘争の気配に体が熱く昂ぶるのを感じ、それが暴れ出す前に一人早々にそこを出た。


 あの美声の少年はまだこの建物の中だろうか。

 私はオペラハウスの屋根の上、その暗闇の中に立ち、オペラの終演と共に出ていく人間達の賑わいを見下ろしていた。

 私は疼く体を抑えるように、自らの手で自らの肩を抱き締める。

 アレィネのくれたグラスにたった一杯だけの血は、むしろ私に渇きを強く認識させた。

 あのような澄んだ声で歌う人間ならば、きっとその血も美味に違いない。

 だから私はじっとここに立ち、あの長身のカウンターテナーが出てくるのを、まるでファンが花束を手にしているかのごとく待っているのだ。

 いっそオペラハウスの中に踊り込んで襲い掛かるのも手段の一つではあるが、それでは趣が無い。

 血を奪われる瞬間、つまり死の時を相手に選ばせてこそ興があるというものだ。

「また、人間を狩るおつもりですか?」

 気付けばまたシュエトが傍にいる。

 シュエトにかけられた呪いのごとき姉の命令が、私の中に芽生えた吸血衝動に反応したか。

 シュエトは私がそういった考えを起こすと、忽ち気付くのである。

「アレィネは?」

「去りました、何事も無く」

「そう。貴方なら仕留められたでしょうに。あれは貴方の大好きなご主人様に牙を剥く者よ。野放しにして良いの?」

 私が皮肉んでにやりと笑ってみせると、シュエトは気分を害したのか僅かに眉を動かす。

「その時は、また別の者が主上をお守りするでしょう。今、私が守るべきはベニ様です。私は主上の命令どおり、それを優先したまで」

 眉を顰めるその憂鬱そうな表情がまた私の気分を昂ぶらせる。

 その興奮はますます私の疼くような衝動を強くした。

「あぁ、堪らないわ。早くあの子が出てこないかしら? 体が熱くて燃えそうなの。今すぐ血を吸わないと、どうにかなりそう」

 高揚のためがくがくと足が震えだす様がよほど猟奇的に映ったのだろう。シュエトは顔色を蒼くし、唇を薄っすらと開いたものの、そこに言葉は乗らなかった。

 そしてようやくオペラハウスの扉が開き、あの美しい声をした少年がそこに現れた。

 私は全身に闇を纏い、人間の視界から隠れると、その少年に向け飛び降りるため、ふわりと宙に身を投げた。

「お待ちを」

 だがその瞬間、それは咄嗟の反応か、シュエトが私の腕を掴み、私の落下を阻んだ。

「おやめ下さい。ベニ様に人間を傷つけさせるわけには。今度こそ、出過ぎではないはずです」

 眼下の街路では、喝采の中を少年が歩き、彼を連れ去る馬車が既に扉を開けて待っていた。

「離しなさい。あの子が行ってしまうわ」

 速度として馬車を追う事は容易い。

 だが私は叫んだ。

 今その手を離させなければ、きっとシュエトは私が馬車を見失うまでずっと手を掴んだままでいるだろう。

「それは出来ません。どうしても人間に牙をかけると仰るのなら、以前にも申し上げましたが、私はベニ様を力ずくでも止めさせていただきます」

 そう言うと、シュエトは私を掴む方とは反対の手から、細く湾曲した刃を持つ彼女の爪牙を出した。

「へぇ、この私を力ずくで止めるのね?」

 街路に馬の蹄音が響き、馬車は少年を連れてゆっくりと進みだした。

 離れていく馬車の姿に、体内で吸血衝動が高まる。

 だが飢えは私の中でどこか闘争への意欲に似ていて、シュエトが私を楽しませてくれると言うのなら、今はその少年を逃しても構わないと思えた。

 シュエトは私を止めるため、私の右腕を掴んでいる。これは彼女にとってあまり良い事ではないだろう。

「じゃあ、やってもらおうかしら?」

 私は右腕に向けて力を込めると、その掌からぐいと牙を捻り出す。

 それは以前出した時のような刺し針程度の大きさではない。

 私の身の丈よりも優に長い、鉄扉のような大鉈である。

 その掴んだ腕の中から現れた剣刃を、シュエトは咄嗟に手を離し、身を反らして避けようとするが、きっと心のどこかで私の牙はまだ小さいままだと思い侮っていた部分があるのだろう、腕に僅かな傷口を受けた。

「それは――、」

「驚いた? これが本当の私の牙よ。大きいでしょう?」

「針子の血を飲み、力を取り戻したという事ですか」

「いいえ、まだほんの一部よ。それでも貴方を相手にするには十分だわ」

 シュエトは私の腕を離した事で自由になったもう一方の手にも剣を取る。

 その表情にもう油断はなく、引き締まり、凛々しさが溢れた。

 私は背筋にぞくぞくと痺れるものを感じ、剣を握る手にぐっと力が入る。

 そしてかっと眼を見開くと、シュエトを邪視に包んだ。

 シュエトは素早く両手の剣を前に構え、反抗の盾とするが、私の牙が元の姿を取り戻したように、邪眼もその力を増していた。

 放った邪視の何割かはシュエトの抵抗を撃ち貫き、本能的な恐怖から呼び起こす硬直を彼女に与える。

 その隙に私は靴に風を集めて瞬間的な跳躍を行い、シュエトの側面に回り込んで、手にした牙を振り上げた。

 むろんシュエトはすぐに邪視を振り払い、私の剣撃に対応するが、その邪視の一手分、常に私から遅れた。

 私はシュエトにも分かるよう、ちらりと横目で走り去る馬車を見る。

「どうしたの? 防戦一方じゃない? 力ずくで止めてくれないなら、私行っちゃうわよ。良いの?」

 もはや私は馬車の事などどうでも良かった。だがそういう素振りを見せるとシュエトの焦燥する顔が見られて面白いと思ったのだ。

 そして案の定シュエトは私の刃を強引に受け流し、切り返す事で私をその場に押し留めようとする。

 だが私の邪視が彼女の動きを悉く封じた。

 私の牙と邪眼と、その両方をシュエトの両手だけでは防ぎきれないのである。

「風よ、渦巻きて切り裂く刃に、」

 業を煮やしたシュエトは言霊で私を捻じ伏せにかかる。

 シュエトの言葉に応じて、私の周囲の空気がざわざわと騒ぎ始めるのだが、やはりその風も私が邪眼で一睨みすれば凍り付いて従属を願い出た。

「そんな、まさか、」

 己の言霊の力が雲散霧消した事にシュエトは酷く驚き、そして何か悟ったようにその表情を絶望で濃くした。

「やっと気付いた?」

 私はにやりと笑い、風を駆ると瞬時に彼女の背後に回る。

「フクロウ……」

 そして耳元でそっとそう囁く。

 シュエトは蒼褪め、振り返りざま剣を振り下ろすが、既に私がもう一度彼女の前方へと回り込んだ後だった。

「貴方の本質が見えるわよ。これがどういう事か、賢明な貴方なら分かるわよね?」

 言霊が容易く力を失った。それは即ち、命令を下から上へと押し上げようとしたからである。

「そう。貴方はフクロウだったのね。どうりでいつも足音無く現れるはずだわ。この世界で最も美しく静寂に包まれた翼を持つ鳥なんだもの。素晴らしいわ、シュエト」

 そして夜魔がその正体を見破られるという事は、相手に己の根源を把握されているという事だ。

 セランの血を吸い、力を回復させた私は、既にシュエトの格を上回っていたのである。

 シュエトは声も出せず、相当に驚いている様子だった。

 無理もない。数日前まではシュエトの方が圧倒的に格上であった。それをこのような短期間で追い抜かされるとは普通考えないものである。

 だが私は本来シュエトよりも遥かに格の高い夜魔であったのだ。

 力を付け、格を上げるには数十年もの時間を要し、時にはどれほど望み精気を貪っても不可能な時もある。

 しかしもともと備わっている力を取り戻すだけならば、それは容易く、多少の精気と僅かな時間でも可能な事であった。

「もう貴方に私を力ずくで止める事は出来ないわ。どうする? もう諦めて、私と一緒に馬車を追わない?」

 私の言葉に、姉に忠実であろうとするシュエトは眉を歪め、悲痛な面持ちを作る。

「おやめ下さい、ベニ様。ベニ様をお止めする事は主上の命。私の意志は関係ないのです」

「そう。それは残念ね。どうしても刃向うというのなら、私は貴方に辛い思いをさせてしまうわ。本当に残念。でも、それが貴方の選んだ事なのだから、我慢してね」

 私はにいと暗い笑みを見せると、一つ指を鳴らした。

 その途端、シュエトの右手に激痛を伴う麻痺が走り、手にしていた剣を取り落とした。

「こ、これは?」

 眩暈と悪寒に全身を震わせながら、シュエトは痛む右腕を押さえ、瞳に困惑の色を映す。

「あら、お姉さんから聞いてなかった? 私の牙には毒があるのよ? 些細な傷でも全身を蝕む猛毒が」

 それは本当に些細な傷で構わなかった。私が剣を持ち出した時に僅かに掠っただけの引っ掻き傷程度でも。

 しかしそれでもまだシュエトの眼は光を宿していた。姉の命を胸に刻み、私の甘言に落ちないよう、歯を食い縛っているのである。

 私はシュエトにゆっくりと近付き、その頬に触れた。

「必死ね。どうしてそんなに忠実さを演じたいの? 自分の中にそれが無いのが不安なんでしょう?」

 私は指先にシュエトの肌の滑らかさを感じながら、頬から首筋、そして胸へと指を滑らせる。

「貴方のここにあるのは、忠誠心ではなく、翻意だわ。でも恐れる必要は無いの。だって被造者を主に持てば、当然生まれる感情なんだもの」

 シュエトは意識も朦朧としているだろうに、気力を振り絞り、私の手を払い除けた。

 そして身を仰け反らせ私の囁き声の届かぬ距離へ逃れようとするのだが、それを私は邪視によって阻む。

 毒と邪眼と、その二つを用いればシュエトを完全に拘束する事が出来た。

「おやめ下さい。なぜ私を惑わすのです?」

「貴方が美しい者だからよ。被造者の下でその翼を閉じたままにしておくのは勿体無い」

 高位の純血種には、その支配力に相応の支配欲がある。

 特にシュエトのような洗練された鋭利な夜魔は私のその欲望を掻き立てるのだ。

「私は主上に膝を屈したのです。私が翼を閉じているのは、それをもがれぬため。それが夜魔の掟ではありませんか」

「翼をもがれる? いいえ、お姉さんにそんな甲斐性は無いわ。あれは何にでも情や憐れみを感じたがるから。鬱陶しいほどにね」

 シュエトはまた表情を険しくし、私の言葉に反抗の意思を見せる。

 毒で唇を動かすのも難しいのか、あるいはそれが最も強い訴えになると思ったからか。

 その気丈さは私の心を蕩けさせる。

「窮屈な奴め」

 しかし一方でそう長く焦らされる事を私は好まなかった。

「だったら、私がその翼、無理矢理にでも開かせてやるわ」

 オペラハウスの屋根を飾る装飾鉄柱。

 私がそれをもぎ取れば、鉄柱は私の意志に従属を願い出、一本の鋭利な槍に変わる。

 そして私はその鉄槍に渾身の力を込めて突き出した。

 シュエトは咄嗟に身を捻って逃れようとするが、むろん私の邪眼はそれを許さない。

 音にならない悲鳴と鈍く肉を裂く音が辺りの闇に散った。


 その瞬間、シュエトの背に一対の巨大な純白銀の翼が閃き、そしてゆっくりと萎れるようにして地を撫でた。

 闇の結晶である夜魔を殺す事の出来る刃は少ない。

 一つはより濃い闇を固めた刃、つまりより大きな力を持つ夜魔の牙。

 もう一つは、闇に反す輝きの意を持つ銀の刃である。

 それ以外の刃は夜魔の命を奪えなかった。

「思った通り。やはり、貴方の翼は美しかった。滑らかで、柔らかで、しなやかだ」

「ベニ、様、」

 金属柱に心臓を串刺しにされ、それでもシュエトが生きているのは、それが鉄だからだ。

 しかし生命の根源である心臓を大きく傷つけられている事には変わりない。

 その傷はシュエトを夜魔という存在性そのものから零落させ、彼女に本質を晒させた。

 それがその翼の出現である。

 だがその姿こそ最も美しいのである。

「シュエト、貴方には分からないでしょうね、この興奮が」

「あ、あぅ、ああ、」

 シュエトは何事か言いたいのか口を開くが、夜魔としての尊厳と知識さえ剥奪するその傷の前では言葉も嗚咽にしかならない。

 その本能的なさまに私は心乱され、堪らない興奮をシュエトに頬摺りする事で昇華する。

「貴方は手足を奪われ、地を這いずり回った事がある? その時に天高く舞う優雅な鳥の姿を見た事は?」

 シュエトの虚ろな瞳が私を見た。

 私はその瞳を蛇の眼によって見つめ返す。

「私はいつも見上げていた。道を進むために手足を欲し、道がなくとも飛び行ける翼にそれ以上の憧れを覚えた。貴方には分からないでしょう?」

 以前から、自身でもこの翼とそれを持つ者への執着心は異常だと思っていた。

 しかしそれは本能である。手足のない身に生まれた深層の意識は、夜魔となり空を駆ける力を得ても、いつまでも消える事はない。

「ね、妬み、」

「違う。羨望よ」

 それは拒絶の意思だろうか。シュエトは呻きながら、その翼を力なく折り畳もうとしてみせる。

 飽くまで姉の忠実な僕でありたいと。

 私は気分を害し、その胸を貫く鉄柱に手をかけた。

「翼を閉じる事は許さない。もうそれの所有者はお前じゃない。

 その翼は、私が自由にする。私が自由にするんだ」

 両手に力を込め鉄柱を捏ね回すと、ぐちゅぐちゅとシュエトの心臓は掻き乱された。

 シュエトは絶望の表情で天を仰ぐと、口を開き、そこからは音もなくただ悲痛が大気を震わす。

 シュエトの体はますます傷付き、本質を晒していく。その肌にはざわざわと真っ白な美しい羽毛が揃い始めた。

 私はその肌を好き放題に撫で回し、柔らかく温かな感触を楽しむ。

「あぁ、私の麗しい猛禽。今日からお前は私が飼うわ。護衛などしなくて良い。もう私の方がお前より強いのだから」

「う、うぁ、ベ、ベニ様、」

 そう、お父様もそうだった。

 お父様の好みも、力のある鳥翼の夜魔だ。お父様の配下には数多くの鳥がいて、私もそれが好きだった。

 私とお父様の感性は似ている。

 鳥の羽根とはきっと、私がお父様を思い出すためにあるのだ。

「お前はただ私のためだけに、その世界で最も美しい静けさの翼を広げ続けていれば良いのよ」

 シュエトは僅かに私を見たが、もはやその瞳は様々な激痛に蝕まれ、明確な輪郭を持ってはいなかった。

 ただがっくりと崩れ落ちる首がまるで頷いているように見え、それを私は勝手に忠誠心が砕けた表情なのだと思う事にした。


次話更新11/23(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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