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ハイズリヒメ  作者: 二束
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ハイズリヒメ  -アナタカラモラウ-

 崩れいく私をシュエトがどこへ連れて行こうとしているのかは、考えるまでもなく分かる事だった。

 私の体は活力を失って壊れていっているのである。それを防ぐには活力を与えれば良い。単純な事だ。

 だが姉は私が人間の血から精を得る事を許さない。

 だから私はこれからまた、姉の血を飲まされ、姉の押し付けがましい恩情で生き延びるのだろう。


 姉の屋敷は、父の城の隣にあると聞いていた。

 だが私はその屋敷に気付かなかった。そこに屋敷は無かったのである。ただ暗闇があるだけで、他には何もないように見えた。

 しかしそれは目の錯覚であった。

 そこには確かに何かがあった。しかしもはやそれは屋敷とは呼べない。

 そこにあったのは世界である。宇宙である。

 大き過ぎて私の視界に入りきらなかったから、何も無いように見えていたのだ。

 一本のトネリコの巨樹を世界の背骨とし、その枝葉を一つずつ国にして動植物それぞれの種の長に治めさせている。

 そしてそのトネリコ全体を姉の発する闇が覆い隠していた。

 こんな真似をする夜魔など、私は今まで聞いた事が無い。お父様の無尽蔵な力を継承した姉だからこそ出来た驚異の技だ。

 これは馬鹿げた行為なのか。それとも偉大な所業なのか。

 それは理解を優に超えていて、ゆえに是非を判断する事は出来なかった。

 ただ、何もかもを無闇やたらに気に入っては受け入れる、姉らしい屋敷だと思えた。

「節操の無い屋敷ね」

 私はシュエトの腕の中で、驚きを噛み潰すように呟く。

 通路の向こう側から見知らぬ夜魔が歩いてきたが、シュエトは立ち止まるでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ抱えていた人間の女をその夜魔に手渡した。

 女を受け取った夜魔もそのままどこかへ行ってしまう。

 あの女はどこに連れて行かれるのだろうと、私は目で追うが、私と女の距離はみるみる離れ、すぐに見えなくなった。

 そして私が辿り着いたのは、その巨樹の頂上に位置する、全てを見渡せる部屋だ。

 これが、姉の作った王の間か。

 私はその荘厳たる空気を孕む部屋に息を飲み、その最奥で玉座に腰かける姉の威風溢れる姿に心奪われる。

 その万物に対して圧倒的に君臨する様は、まるでお父様の生き写しのようであった。

「シュエト、ベニメウクスを守ってくれて、ありがとう」

「勿体無きお言葉」

「下がって良いわ。貴方も早くその傷を癒しなさい」

 姉は微笑み、シュエトを労う。

 シュエトは私をその場にそろりと下ろすと、小さく頭を垂れ、王の間を出ていった。

「何が、ありがとう、よ? 私をこんなにしたのは、あのシュエトよ?」

 私は伏したまま石床を舐めるかのごとく悪態を吐く。

 その体勢では姉の姿は見えないが、小さな溜息と近付いてくる足音が聞こえた。

 そして私はまた姉の胸元に抱き寄せられる。

 同日に二度、死の危機に瀕し、同じように憎らしい姉の胸に抱かれるか。

 何と滑稽で無様な事かと私は自分自身に呆れ果てた。以前の高潔だった私の面影など思い出せようもない。

「シュエトが全力で抵抗していれば、言霊を唱えた瞬間に精力尽き果てて貴方は死んでいたわ。貴方を守るためにシュエトは傷付いた。それが真実でしょう?」

 姉はまるで幼子でも諭すように、私に語りかける。己に忠を尽くす者の傷を罵られた事が気に入らないらしい。

 私にも、シュエトが手加減をしていた事は分かっていた。シュエトは剣で作る反抗の壁に、わざと小さな隙間を作っていたのだ。そうしなければ言霊の全てが反動となって私を襲ったからである。

 私はどうやら悪態が過ぎたらしい、と内心で密かに、そして微かに詫びた。

 まるで私の心の動きを読んだかのように、姉は小さく笑う。全てを統べる者と呼ばれたお父様の力を手にしているのなら、触れる者の心模様を察する事ぐらい難しくはなかった。

「それで、私をどうするのかしら? また生かすの?」

「えぇ、貴方に生きていて欲しいから」

「私が、お姉さんに飼われて生きるのは嫌だと言えば?」

「貴方を飼う気はないわ、ベニメウクス。そして、死ぬのは哀しい事だと、貴方が考えを変えてくれるよう、ただひたすらに訴えるだけよ」

「じゃあ、抵抗するだけ無駄なのね。好きにすれば良いわ。私の口に、その血を押し込み、無様に生き延びさせれば良い」

 私は諦めたように大袈裟に首を振ると、目を閉じ、薄っすらと唇を開いた。

 しかし心の奥底では激しく血を欲していた。

 抵抗が無意味である事に気付いたならば、諦めを覚えるよりも早く、生への執着が生まれたのである。

 全身を襲う、迫り来る死の激痛を一秒でも早く止めて欲しかったのだ。

 姉が再び指先を裂き、辺りには血の芳醇な薫りが漂う。

 まるで口紅を塗るように、私の唇を濡らしたその血を、私はぺろりと舐めた。


「もう少し頂戴よ、お姉さん。昔の力を取り戻せるくらいに」

 体が再生すると私は、いつまでも姉の胸の中になどいたくはなかったので、身を捩って膝から転げ落ちると、すぐさま飛び起きた。

 感傷的な姉は私の温もりが逃げていった事で、どこか物足りなそうな色を瞳に灯す。

 だが物足りないのは私の方であった。

 姉がくれる血はたったの一滴で、それではただ死を回避するのが精一杯である。

 もう私は下等な夜魔でいたくなかった。

 以前の私はあまりにも強大であったから、私にとっては他者の上に立つ事の方が当然で自然に思えたのである。

 そして私をそう育てたのはお父様だ。ただひたすらに私を高貴な夜魔へと引き上げ、私もそれに応えるように、尊厳に満ちた心を身につけてきた。

 それが今はこの有様である。栄光を知り、またそのための誇りを刻んだ身だからこそ、尚更に辛い。

 一度も格を零落させた事のない姉には分からない苦しみだろう。

「駄目よ。それ以上の血はあげられないわ」

「どうして? あぁ、分かった。私が力を取り戻すのが怖いのね? せっかく手に入れた支配を覆されないために、些細な可能性も潰したいんだわ」

「いいえ、これ以上の血は、貴方にとって毒だからよ。

 グラスにその容積以上のワインを注げば溢れるでしょう? 生き返ったばかりで安定しない貴方の体に、この血は濃過ぎるの。今飲んだ血が馴染んだ頃に、また次の雫をあげるわ」

 姉は、人間の屍にお父様が一滴の血を垂らす事で生まれた。

 つまりお父様の血は、一滴で命を一つ作り出せるほどの生命力に満ちているのである。

 確かに、その血を一時に大量に飲めば、その荒れ狂う膨大な生命力に私の体は内側から弾け飛んでしまうかもしれない。

 私は、何もかもが貧弱になってしまった己を呪った。

 胸の中では心臓がどくどくと激しく鳴り響き、体中の血管が熱くなっている。心臓も血管も、不相応に高貴な血が流れてきたので戸惑っているのだろう。

 その戸惑いが治まるのを待たずに血を入れる事は、グラスからワインを溢れさせる事と同じだと姉は言った。

 だが私はむしろ、溢れるワインに慌て、グラスを取り落とし砕いてしまう事に似るのではないかと思った。


「ところで、お姉さん? あの人間はどうしたの?」

 血をくれないと言うのなら、これ以上ここにいる意味は無い。

 私は姉に背を向けたが、立ち去り際ふと私と一緒に連れてこられた人間の娘の事を思い出した。

「人間の事が気になるの?」

「別に。お姉さんが人間をどうするつもりなのかを気にしているだけよ」

「ここに住まわせるわ」

 姉はにべもなく言った。

 世界を模倣したこの屋敷には、人間の住む町さえもあるという事か。

「闇に気付いた人間は、もう光のある場所には居られないわ」

 人間はこの世界に闇などなく、夜魔などいないと思っている。

 闇に対する本能的な恐怖から人間は視線を逸らすが、理性に傾き本能の存在を忘れた彼らは、ただ視線の外にある闇に気付きもせず、世界は光で満ちていると勘違いしていた。

 だが、確かにそこに闇は存在しており、確かに夜魔もそこにいる。

 ふとその事に気付いてしまうと、光と闇が一対のものである以上、人間はこれまであって当然と思い気にも留めていなかった光にさえ闇を感じ、怯えるようになる。

 すると人間は安息の場所を失い、特にまだ闇を知らない人間と馴染めなくなるのが大抵であった。

 人間でありながら人間の中に居辛くなる。

 そのような人間は孤独に狂を発して息絶えるか、街中で闇の恐怖を声高に叫び仲間を求めるかのどちらかであり、どちらも私達夜魔にはあまり喜ばしくない事であった。

 何も夜魔と人間とは反目しあっているわけでもなく、いわば他の動植物同様にこの大地で共存しているだけなのだから。

「人間だからといって、人間の社会に適応出来る者ばかりではない。私は、そういう者達を受け入れているのよ」

 普通、夜魔は人間に姿を見られ、闇に気付かれた場合、呪いによって口を封じる。闇の存在を他言しないという誓約の言霊をかけるのだ。

 だが姉はそのような人間を集めて囲った。

 人間の中に居られないのなら、いっそ摘み取って別の場所に植えてやろうという事だ。

 そして恐らくあの甘い姉の事だ。きっと闇に気付いた者だけでなく、ただ単に人間の社会から逃げ出した者も掬い上げているに違いない。

「面倒な事をやっているのね、お父様に貰った力を無駄に使って」

「きっと、無駄な事ではないわ」

「へぇ? 無駄じゃないって、どういう事? まさか人間が鶏や羊を飼うように、お姉さんも家畜の世話を始めたとでも言うつもり?」

「そういう言い方はやめて、ベニメウクス。私は彼らから少しずつ血を貰っているだけ」

 冗談のつもりが、私は真実を言い当ててしまった。

 私は少々苛立つ。

 人間などわざわざ己で飼わずとも、外に出て狩れば良い。人間を飼うために浪費する力の方が遥かに大きいだろう。

 お父様の力でこんな馬鹿げた真似をする事にも腹が立つし、何より私の見つけたあの娘もそこに放り込まれるというのが我慢ならなかった。

「お姉さん、それ、本気で言ってるの?」

「もちろん、貰う血は命に関わらない程度よ。それだけで彼らは人間の社会から零れ落ちても生きていけるし、私も人を襲い、強盗のように命を奪わずに済む。夜魔と人間、双方にとって痛みの少ない共生だわ」

 人間好きな姉の考え付きそうな事だ。だが確かにそれで姉は人間を食い殺さずには済む。

 しかし私が苛立っているのは、姉の考えた夜魔らしからぬ情けない仕組みに対してではなかった。

「お姉さんがどんなつもりで人間を飼っているのかは、どうでも良い。でもね、あの人間は私が見つけた獲物なのよ? それを横から掻っ攫うような真似しないで」

 私は怪鳥が天を引き裂くような声で叫び、かっと眼を見開くと、姉に視線を飛ばした。

 むろん、姉の薄皮一枚撫でる事無く、私の邪視は姉の威風の前に霧消する。

 だが憤りを伝える合図になれば十分であった。

「貴方の好きにさせれば、貴方はあの娘が死ぬまで血を吸い続けるでしょう?」

 姉はさも無情な行いのように言うが、むしろ異常なのは獲物に情けをかける姉の方で、夜魔が人間を糧と見なす時、そこに情が無いのは当然なのである。

「狐が、兎を捕まえたわ。

 狐は言うの。兎さん、背中の肉をほんの少しだけ食べるけど、許してね。でも、殺す気は無いから安心しておくれ。

 すると兎は少しだけ背中を食べられる。

 それから狐は、背中を食べさせてくれてありがとう、と言って、兎は、命を見逃してくれてありがとう、と言うの。

 そしてそれぞれひょこひょこ、ぴょんぴょんと森の中の自分の家に帰っていくのよ。

 ねぇ、こんなのって見た事ある? ありえると思う、お姉さん?」

 姉は僅かに眉を歪め、黙した。答えれば私の方に分があると認めねばならないからだ。

「ねぇ、お姉さん? 答えてよ?」

 姉はじっと黙ったまま考え込んでいた。頷けば、即座に私が、娘を返せと言うのが分かり過ぎていたからである。

 姉を頷かせればあの娘の血を吸えると思い、私は姉の渋い顔を覗き込みながら、ひたすらに答えを催促した。

 そして姉が苦虫を噛み潰したように一際その涼やかなはずの表情を歪に曲げた時、その口から言葉が漏れる。

「ここでは私の言葉が全てよ」

 姉は私に答えを与えようともせず、問答そのものを投げ捨てた。

 何という横暴か。

 私は今すぐ飛びかかってその細い姉の首を捻じ切ってやりたい衝動に駆られる。

 だが悔しい事に、姉の言う事は正しかった。

 姉にはお父様から奪った、絶対の支配者として君臨するだけの力がある。確かに姉はルールを作る事が出来る。いや、姉こそがルールそのものだった。

 私の問いから逃げ、糧を奪ったままにする、その姉の態度は卑怯と呼ぶ事も出来る。

 だがお父様が生きていた頃も、同じようにお父様の思惑一つで様々な法が敷かれていた。何も姉が特別な権限を行使し始めたわけではない。

 ただ私が、その行為ではなく、その法の制定者が姉である事を不快に思っているだけだ。

 つまりこの苛立ちは、姉の一言によって忽ち私憤へと変えられてしまったのだ。

 ゆえにこれ以上、姉に噛み付く事は、ともすれば醜態となるだろう。

 私はぎりぎりと歯を噛み締めながら姉を睨み、そして酷く汚らわしい呪詛の言葉を投げかけると、乱暴に部屋を出た。


「屋敷にお戻りですか?」

 姉の屋敷を抜け出るとすぐ、あてつけがましく足跡を響かせながら歩く私を、シュエトが呼び止めた。

 シュエトの本質が私には見えないため、彼女が何を食する夜魔なのかは知らないが、彼女もどこかで精力を蓄えてきたのだろう。体の傷は既に癒えていた。

 まだ付き纏うつもりか、と悪態の一つも吐いてやろうかと僅かに思ったが、それはやめた。

 護衛か、あるいは監視か。どちらにせよシュエトが私の傍を離れないのは、それが姉の命令だからである。

 ゆえにシュエトに当たるのは筋違いであり、私はますます姉への苛立ちを強めた。

「シュエト、貴方はそれで良いの?」

「それで、とは?」

 体に姉の匂いが染み付きそうな気がして、私は早足に歩く。その歩調の荒々しさはまさに私の気分の荒れと重なっていた。

「わざわざ聞き返す?」

 シュエトのとぼけたような口振りに苛立ち、私は彼女の胸倉を掴むと、顔と顔を付き合わせ、その瞳をじろじろと覗き込む。

「シュエト、貴方は美しい夜魔だわ。以前の私には到底及ばないけれど、格も低くない。いいえ、他の雑多な者達に比べれば羨むほどに高位の者のはずだわ」

「それは、光栄なお言葉を、ありがとうございます」

 間近で微笑む私を、むろんシュエトは訝しんで見返した。

 確かにこれまで散々貶し放題にしてきた私の口が、褒めそやす言葉を囁けば、疑うのも無理はない。

 だが憤りを堪え、客観的にシュエトを見て言った私のその言葉は嘘ではなかった。

「その貴方が、他者の下に組み敷かれて、何とも思わないという事はないでしょう?」

「仰る意味が分かりかねます。主上は万物を統べるに相応しい力をお持ちですが」

 シュエトは相変わらずの澄まし顔で答えた。

 だが私は彼女がそう答える事も織り込み済みで話している。

「それはお姉さんの都合だわ。私が聞いているのは、貴方の心の方よ」

 私の真意を探ろうと、シュエトは眉を顰め、そしてまた同様の理由から演技として、馴れ合うような微かな微笑みを返した。

「私の心、ですか? 蛇眼の姫と呼ばれたベニ様らしからぬ感傷的な言葉ですね。

 ですが、夜魔ならばこう考えるべきでは? 主上の絶対的な力が、私に私自身の支配権を主上へと差し出させた。ただそれだけの事なのだ、と。」

 力ある者が全てを手中にし、力なき者は全て奪われるのみ。夜魔にとってそれが自然の法則だった。

 夜魔の言葉で語る時、確かにそこに心を割り込ませる余地は無い。

「お姉さんが純粋な夜魔ならばね」

 だが、姉は純血種の夜魔ではなかった。

 私も姉も同じお父様の血を分け与えられた娘だが、大きく異なる点が一つだけある。

 それは、私達の発生にある根本的な差異だ。

 私は、自力で夜魔になった。まず生まれ、それからお父様に血を与えられ、娘となる事を許されたのである。

 しかし姉は、人間の屍にお父様が血を与える事で生み出した存在、いわば模造された生命であった。

 夜魔が動けと命じれば、岩でも動く。踊れと言えば水でも踊る。

 その言霊の力を駆使すれば、自然の法則を捻じ曲げ生命に似た何かを作り出す事は難しくない。

 だが面倒なのは、お父様の恐るべき力を持ってすれば、その生命の完成度が純粋な夜魔に匹敵するものであった事だ。

 中でも生命の根源である血を与えられて生み出された姉は、時に純粋な者さえ凌駕し、純血種に最も近い、似て非なる者と呼ばれた。

 だが間違いなく、姉は純粋な夜魔ではないのである。

「相手が他の純血種の夜魔ならば、確かにその絶対の法則に従うのが当たり前だわ。でも、あれは被造者よ。そもそも不自然な存在なのに、貴方は膝を屈して構わないと言うの?」

 シュエトは表情を変えなかった。

 意に介さなかったのではない。痛い所を突かれたが、それを誤魔化すためにポーカーフェイスを装っているのだろう。あるいは、あまりの致命打に顔が凍り付いたかだ。

「被造者は、純血種が面倒事を押し付けるために命じる簡易な人形よ。でもまさかその被造者が主になるだなんて。そんな逆転の滑稽劇、シュエトほど美しい純血種が何も思わずいられるはずがない。そうでしょう?」

 耳元で囁く私の頬は、今にもシュエトの頬と擦れそうだった。

 いや、僅かにちらりと触れ、仄かな温もりが私の肌に伝わる。

 しかしその瞬間、シュエトは私の手を振り解き、やや怯えたように私から離れた。

「重要なのは、主上が、主上には、力がある。それだけです」

「重要なのは、お姉さんがお父様の支配を受け継ぐに相応しい夜魔かどうかよ」

「ベニ様は、私の心に主上への翻意を植え込むおつもりですか」

「いいえ、貴方は私と同じ気持ちだと、確認したいだけよ。貴方に私と同じ側に来て欲しいだけ」

 シュエトも私と同じ純血種である。

 ならば、私と同じ事を考え、同じ側に立って物事を見ているのは、およそ間違い無い。

 私はこの美しい夜魔を姉から奪い取ってやりたかった。

「ベニ様は、主上への叛意の塊ではありませんか。同じ側になど、とても行けるわけがない」

 シュエトは怯えていた。

 シュエトの支配権は今、彼女自身ではなく、姉の手中にある。

 ゆえにシュエトが姉にとって不要になれば、ただ姉の支配下から追放されるだけでなく、この世界そのものから追放される事もありうる事なのだ。

 シュエトは姉の下に膝を屈した以上、もはや忠臣であろうと必死であった。

「つまらない奴。純血種の誇りも捨てて、そんなにまで生きたいか。その綺麗な顔も手足も、今のお前には勿体無いわ」

 私はそう悪態を吐くと、足元の泥を蹴り上げる。

 シュエトはその泥を避けもせず、靴を汚されるままにし、何かしら無言の意思を見せたように思えた。

 そして私はますます苛立ちを深め、もう振り返りもせず、一人屋敷へと帰るのである。



 誰と話しても苛立たされるばかりだ。

 私は己の屋敷に戻るなりすぐ、その地階へと駆け下りた。

 この苛立ちをぶつけるのでも、癒すのでも良い。セランなら、この私をこれ以上苛立たせはしないだろうと、ふと思ったのだ。

 なぜならば、セランは何を言っても所詮人間だ。だから「これだから人間は」の一言であらゆる愚かしい事を許せるに違いなかった。

 私は姉やシュエト、そういった夜魔が夜魔らしからぬ事を言うのが気に入らなかったのである。

「私の服は出来た? もう出来上がった頃でしょう?」

 私は針子部屋の扉を開け放つなり、唐突にそう言った。いや、扉の開き方にも私の苛立ちは染み込んだので、その乱暴さ加減は相当のものだっただろう。

「うわぁっ」

 ゆえに私がその部屋に入ると同時に、セランは苦痛に歪んだ声を上げた。

「何? 情けない声を出して。まさか私への返事をそんなみすぼらしい一言にする気じゃないでしょうね?」

「お嬢様。い、いえ、まさかそんな無礼な真似は。ただ、少し指を切ってしまったので、思わず声が漏れたのです」

 見ればセランは右手にハサミを握り、左手の人差し指を深く傷付けていた。

 どうやら私が不意に飛び込んできた事に驚いたのか、そのハサミの手元が狂い、左手の指を切りつけてしまったようだ。

「そう、指を」

「僕の事はご心配なさらず。ですが、お嬢様の服の方はまだ全然出来上がっていないのです。お嬢様が出て行かれてまだ数刻ほどしか経っていません。僕の腕はそれほど早く動かないのです」

 セランは傷口を押さえながらも頭を垂れ、己の作業の遅さを詫びた。

「そう。まぁ、人間だものね。多少のろまでも責めはしないわ。それより、その指、傷は深い? 痛いの?」

「気にしないで下さい。この程度の傷、大丈夫です。お嬢様の服はすぐに仕上げますから」

「でも、凄く血の匂いがするわ。その傷は浅くない」

 私は血を糧とする夜魔である。その匂いには敏感だった。

 左手を右手で縛るように押さえるその隙間から、熱い血の香が漂ってくる。いや、香りだけでなく、良く見ればその指の隙間から溢れた血そのものも滲んでいた。

「いえ、必ず数日中には終わらせますから。お嬢様の服を汚す事もしません。間違い無く、良い物を作ってみせますので」

 服の仕上がりが遅れれば、私が機嫌を損ねると思っているのだろう。

 闇に魅了され、すっかり私の虜となってしまっているセランは、その事を酷く神経質に繰り返した。

「馬鹿ね。私が言っているのは、その事じゃないわ。人間であるお前は私に逆らえない。だから必ず服を仕上げる。私は少しも心配してないの。だから正直に傷の具合を言いなさい」

 針子でありながら、大切な指を傷付けた事を私が怒りもせず、それどころか聞きようによっては優しげな言葉をかけるので、セランはその表情に強い戸惑いを見せた。

 しかし心奪われた相手である私が気遣う風を見せるので、その戸惑いもすぐに歪なはにかみへと変わった。人間とは単純なものだ。

「いえ、本当に、大した事のない傷なのです」

 心の緩みが手にも伝わり、傷を押さえる指の隙間から小さな雫が滴った。

 床に描かれる小さな赤色の王冠。忽ちにして部屋中が鮮やかな鮮血の匂いに包まれるのを私の鼻は感じる。

 その香りの中では、傷を庇い、痛みを噛み、強がるセランの姿がどうにも歯痒かった。

「良いから、早くその手を見せるのよ」

 私は半ば引っ手繰るようにして、セランの左腕を掴み寄せた。

 露わになったセランの左手の指には、深く長い傷口がざっくりと刻まれており、まるでその溝を埋めるため無駄な努力を繰り返すかのごとく、血管の脈打つ様さえ見えるほどにどくどくと血が溢れていた。

 肉体が物質に依存しない夜魔ならば、この程度の傷も多少の精力と引き換えに容易く癒す事は出来る。

 だが人間にとっては、とても浅い傷ではないだろう。もう少し傷口をめくりあげれば、骨まで見えそうだ。

 セランがそれでも強がったのは、私に強く惹かれているためか。そしてその想いが彼の脳に違和を呼び起こし、痛みを軽くしたのだろう。

「お嬢様、大丈夫ですから」

 セランはひたすらにその言葉を繰り返す。

 だが私には、セランの痛みなど、どうでも良い事であった。

「お前が大丈夫かどうかなんて関係無いわ。私は、この赤く流れる血が見たかったのよ」

「僕の、血が、ですか?」

 鮮血を吐き出す傷口を鼻先に擦りつくほどに近付け、私はその芳醇な香りに酔う。

 セランは私の興味が己自身でない事に僅かに落胆しかけたが、一方で妖艶に微笑む私を見、またその微笑が己の血によるものだと考え、気を落とす以上に興奮し、頬に血の色を浮かべた。

 鼻をくんくんと鳴らし、私は想像する。

 生き返って以来、まだ一滴も口にはしていない、人間の血液の味。それは甘く柔らかく、ひたすらに私を満たす味を。

 想像の味は私の舌に唾液を滲ませ、私は一つごくりと生唾を飲み込むと、セランとその傷口とを交互に見つめた。

 町で見つけた娘は姉に奪われたが、今目の前にはそれと同等に、いや、それ以上に美味そうな血が流れている。

「ねぇ、セラン。お前の血、飲んでも良いでしょう?」

 私は、飢えていたのである。

 姉に邪魔をされ、絶える事のない吸血衝動に、私は苛まれていた。

 そこへ何の因果か、セランが指を切ったのだ。どうしてそれに興味を持たずにいられるだろうか。

 もはや私は恥らう余裕も無いほどに、その赤い衝動に対し鼻息を荒くしていた。

「答えなさい、セラン。でも断る事は許さない。お前の血を、私は飲みたいの。是と答えるために、覚悟を決めなさいと言っているのよ」

 傷口を強く握り締め、およそ恫喝に似た響きで私は詰め寄る。

 混乱も、興奮も、戸惑いも、不安も、セランはありとあらゆる感情を同時にその表情へ映し、血の衝動に狂い行く私を見ていた。

「僕が、僕の血が、命が、お嬢様と一つに? それは、それは何という、光栄な、」

 その思いを言葉にする事も出来ずに、セランは恍惚たる感動に身を震わせる。

 しかしふと何か思い出したように目を見開くと、僅かに悲しく寂しげな表情をした。

「駄目です」

「拒絶は許さないと言ったはずよ」

「お嬢様の衣装が、まだ仕上がっていません。せめてこれを仕上げてからに」

「そんな心配はいらない。全部は吸わない。少し貰うだけよ。私に血を半分差し出した後でまた服を作れば良い」

 本心を言えば、セランの命尽きるまでその血を貪り尽くしたい。

 だがそんな事をすれば、またあの感傷的ででしゃばりな姉が何か面倒な事をやってくるだろう。

 視界の範囲にはいないが、きっと監視者シュエトはどこかで私の気配を捉えている。

 だから私は、命までは奪わず、そのぎりぎりまで血を奪う事を思いついたのだ。

 仮にそれが姉の気に入らない事だったとしても、姉も同じ事をしているのだから、文句は言わせない。

「で、では、早く僕の血を吸って下さい。早く、お嬢様と一つに」

 私の言葉を聞いた途端、セランは忽ち頷いた。

 幼く、脆く儚いセランの心は、完全に私の放つ闇に魅入られていた。

 その興奮はどこか性的で、大人しいはずのセランの瞳にも仄かな獣の煌きが映る。

 ようやく人間の血が味わえる。

 私は暗く深い笑みで唇を開くと、ぺろりと舌を出し、その上にセランの傷口を乗せ、そのままゆっくりと咥えた。


 お父様の血で夜魔としての格を引き上げられる事を例えるとすれば、それは器そのものを作り変える、ある種の痛みを伴う快感だ。

 そして人間の血はそのグラスにワインを注ぐ事に似ている。苦痛も不安もなく、ただ純粋な満足だけがそこにはあった。

 私は舌に広がる温かな感触に打ち震え、舌先でその傷口の谷間を弄るように、セランの指をしゃぶった。

 純真な心を持っているセランの血は、想像通りに蕩けるほどに美味である。ましてや人間の血を口にしたのも久方ぶりで、その充足感たるや格別だった。

「お嬢様、もう、そろそろ」

 セランの傷口は一舐めする毎に血を溢れさせ、いとも容易く私に差し出す。

 セランはその傷口の上を私の舌が這い回る感触に強い快感を覚え、痺れた眼差しで私を見つめていたが、ふと呻くように呟いた。

「お嬢様の、お顔が霞んできました。お嬢様、そろそろやめて下さらないと、服が作れなくなります」

 気付けばセランは蒼白の顔をして、唇をがたがたと震わせていた。肌に感じる温もりも少し冷えたように感じる。

 それらの兆候は、出血量が死の際付近まで近づいている事を如実に示していた。

「まだ大丈夫よ。あと三口は吸える」

 だが私は既に血の味に酷く酔っていて、セランの訴えを耳に入れる余裕などなく、己の本能のままに喉を鳴らし続けた。

「駄目です。本当に、死んでしまう」

「私が今まで何人の人間を牙にかけてきたと思っているの? 人が死ぬ瞬間は、お前よりも私の方が良く知ってる」

 しかしセランは私がそう言っても、怯えて首を左右に振るだけだった。

 狂気の色を映す私の瞳が信用出来なかったか。あるいは、純粋に未知の死を恐れたか。ともすれば、私に命を差し出すという快感に溺れ、私の衣を縫う役目を放棄してしまいそうな己が怖いのかもしれない。

 ただ確かなのは、セランがそれ以上血の奪われ続けるのを拒んでいるという事だ。

 そしてむろん私が人間の求めなどで己の意志を変える浅はかな夜魔ではないという現実もある。

 私はセランの言葉を無視し、その指に喰らいついたまま、もはや血が溢れ出てくる事を待つのも煩わしく、血管に潜む血流さえも貪るように吸い上げた。

 その瞬間、セランの口の隙間から細く長い吐息がすうと漏れたかと思うと、全身が一際激しく、びくんと跳ねた。

 セランが死線の向こうに片足を踏み入れたのである。

 これ以上牙を立てていれば、セランは忽ちにしてその線の向こう側に行ってしまうだろう。

 そうなればきっと、あの人間贔屓の姉が黙っていまい。

 しかし姉を気にして、己の満ち足りた時間を手放すのは何とも癪な気分だ。

 いっそこのままセランを奪い尽くし、その生命力をもって姉と雌雄を決するのはどうだろうか。お父様の力を得た姉とでは、人間一人の命を取り込んだとしても、あまりに無謀。だが、悪くはない。

 しかしあの姉の事だ。また私をぎりぎりで生かし、同じ事を繰り返すに違いない。

 そうなれば、私はただ敗れ、費やした生命力も、セランの命を奪った事も、全て無駄になってしまう。

 その無駄になる、という事が私には最も癪な事であった。無駄とは、己の存在が周囲の事象に何の影響も及ぼさない事であり、夜魔にとってこれほどの辱めはない。

 しかし人間の命の脆さを考えると、長く逡巡している暇はなく、かと言ってあっさりと手離してしまえるほど人間の血は不味くない。

 私は牙を抜くための都合の良い言い訳を探した。姉の小言を聞きたくないという、下らない言い訳に勝るものを、である。


 私はそっとセランの指から唇を離した。

「早く服を作って? それがお前の仕事でしょう?」

 夜魔が人間を食わないために吐ける言い訳などそもそも存在しない。

 結局、私は姉の小言よりも、いっそう下らない言い訳に縋ってしまった。

 セランは青白い顔に空ろな目で中空を見つめ、それは死線を彷徨う痙攣なのか、何度か頷いたように見えた。

 体内にセランの血が流れ染み込んでいくのが分かる。その生命の全てを奪い尽くす吸血には遠く及ばないが、僅かに力の湧くのを覚えた。

 私は立ち上がり、血を吸い上げ潤う己の体の具合を確かめる。

 口煩い姉を黙らせたまま力をつけるには、これ以外に方法は無いか。

 あまりの面倒さに苛立ちも覚えるが、他に術が無いのなら仕方が無い。

「へぇ、ここまでは良く出来てるじゃない? なかなか良い感性をしているわ、セラン」

 傍にあった、まだ作りかけのドレスに触れながら、私は得た力の喜びと物足りなさに歪な笑顔を作る。

「あ、ありがとう、ござい、ます」

 セランは死の恐怖と興奮の狭間に揺れながら、呻くように答えた。

「明日も来るわ、セラン。服の仕上がりを見に。その時はまた、乱暴に扉を開け放って」

 セランの耳元に顔を近づけ、私はそう囁く。

「乱暴に開けられれば、また驚いて指を切ってしまうと思います、お嬢様」

 私の言葉の意味するところが分かったのだろう。セランは白く震える唇でそう答えた。

 私とセランは共謀者の笑みを浮かべた。


次話更新11/16(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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