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ハイズリヒメ  作者: 二束
2/7

ハイズリヒメ  -ワタシノキバ-

 その屋敷は以前と変わらず、そこにそびえ立っていた。

 茨がその枝を張り、棘を伸ばすように、天を突き刺す城とも呼べる、巨大な屋敷。

 その暗闇に浮かぶ荘厳な気配を見るだけで、お父様がどれほど偉大な夜魔であったかが窺い知れるというものだ。

 近付けば屋敷の扉は、私が血筋に連なる者と分かるのか、手を触れる前から自身で開き、私を迎え入れた。

 屋敷の中は、所々に姉の入り込んだ形跡はあるが、しかしまだお父様の影があらゆる場所に染み付いている。

 特にお父様の、皆が王の間と呼んだ部屋、その玉座には、未だお父様の気配だけが腰を下ろしているのが見えた。

 厚顔無恥に万物の支配者を振舞うあの姉にも、さすがに真の支配者であられたお父様の玉座には近付く事さえ出来なかったらしい。

 姉の匂いに侵されていないその玉座の周りで、私は手を広げ、足を踏み鳴らし、二度三度と歌うように舞った。

 私の踊りに玉座の方からお父様の視線が絡むような気がする。喜ぶでもなく、楽しむでもなく、ただ私をじっと見つめる、あの視線。

 踊り飽きると私はお父様の膝元に跪き、その手に頬擦りするのだ。細く滑らかな流水のような手に。

 だが今、私の頬に触れるのは玉座の肘掛の固い感触だけだった。


 私が椅子の固さに興を削がれるのとほぼ同時に、シュエトが王の間へと入ってくる。

「ベニ様、ご所望の針子、連れて参りました。服も幾つか持ち込ませましたので、すぐにお召しになれます」

「そう。じゃあ、早速持ってきて。あぁ、やっぱり良いわ。私が行く」

 気に入る服を出されるまで、針子がここと針子部屋を何度も往復するのを待たされるのは酷く不快に違いない。

 それならば、自ら足を運ぶ手間の方を私は選んだ。

「では、地階に針子部屋が」

「場所は知ってる。私がどれほどこの屋敷で生きてきたと思っているの? 道案内がしたければ、自分にしていれば良いわ。どうせお姉さんに聞いていただけで、実際この屋敷の中を見るのは初めてなんでしょう? 貴方のような尻の軽い夜魔では見上げる事さえ無礼とされた屋敷ですもの」

 彼女は微かに口惜しそうに眉をしかめる。

「失礼致しました。では、御用があればいつでもお呼びを」

 しかしすぐに頭を垂れ、従順な傍仕えを演じた。

 私はシュエトを見下ろす。

 長い銀髪は雨が頬を濡らすように肩へと流れ、凛々しくも美しい彼女の表情をいっそう際立たせる。

 すらりと長い手足には、その動作全てに、彼女の色香の虜となった風が付き従った。

 しかし姉の従順な僕となったシュエトの心では、その美しさも輝きを発す事はない。

 夜魔からその美しさを奪う姉をまた私は嫌い、そしてシュエトを残念に思った。


 夜魔は支配する、生物の最上位に位置する存在だ。

 だから森の枝葉に一言命じればそれを衣にする事も容易く、玉石に剣を差し出させる事も出来た。

 だがその代償に、夜魔は己の精気を奪われる。命令の実行に対する、相応の褒美が必要というわけだ。

 夜魔の永遠に近い生命において、多少の精気など塵にも等しい。しかし命じた瞬間には一時的に活力が衰えるのは仕方のない事で、何より面倒臭い事だった。

 そこである夜魔が人間を捕らえ、物を作らせる事を思い付いた。始めは猿のようだった人間も、次第に知恵を付け始めていたからだ。

 そして人間には、他者のために働く事をさほど厭わないという、夜魔にはない奇特な性質があった。

 命を保証さえすれば、案外に彼らは良く尽くしてくれるのである。

 もっとも、圧倒的な力を持つ夜魔を前にすれば、あらゆる事象が平伏すのだが。


 その城が枝葉を伸ばす茨のように見えるならば、地階にあたるそこは根だろうか。

 捕えた物作りの人間を住まわせるその部屋は、まるで幾つもの通路を折り重ねたような形をしていた。

 私がその扉を開くと、一人の人間が怯えた眼でこちらへ振り向いた。

「誰か、そこにいるのですか?」

 青年と呼ぶには幼く、少年と呼ぶほど未熟でもない。黒髪をまばらに短く散らし、中性的に綺麗な顔立ちではあったが、着物は粗末で見栄えは貧しい。

 いかにも技術を仕込まれ、そして使い捨てられていく、人間の世の醜さを思わせる、哀しい色をした針子だった。

 その人間はその場にべったりと座り、両手で床に触れていた。

 人間にこの暗闇は深過ぎるのである。

 闇に親しむ夜魔に見通せるその暗さも、光の下で生まれる人間には果てしない漆黒に見える。

 両手で床の位置を確かめていなければ、真っ直ぐ座っている事さえ難しいのだ。

「火よ、灯れ」

 私はテーブルの上の燭台に辺りを照らすよう命じる。

 ぼうっとその狭い部屋の中に薄明かりが漂い、その人間は恐怖を拭えないものの、明るさに僅かな安堵を覚えたようだった。

 己がどんな部屋に連れてこられたのかと周囲を見回し、そして炎に照らされた私の顔を見た瞬間、その視線が凍りつく。

 呆けたように私をじっと見つめ、炎の揺らめきが私の裸身を露わにすると微かに恥じ入るよう頬を赤らめたが、それでも視線を逸らす事が出来ずにいた。

 恐怖に引き攣っているからか。

 いや、私に見惚れているからだ。

 夜魔はいわば形を持った闇だ。人間は闇の深さに本能的な恐怖を覚えるが、同時に理性では魅入られてしまう。

 人間は夜魔を前にした時、恐怖に体を竦ませるか、その美しさに心奪われるかのどちらかなのである。

 そしてこの人間は恐れよりも美への好奇心が勝った。

 私は期待に微笑む。そういう人間の作る衣服は繊細で美しい事が多い。

 私が微笑むと、人間の方でもなぜか微笑を返してきた。

 人間ごときが私と対等に笑みを交わそうとするなど、あまり気分の良い事ではない。

「へらへらとしている暇があるなら、さっさと服を出した方が良いと思うわよ? 役に立たない人間を飼うような偏屈な趣味、私にはないから」

 夜魔の気配に当てられ、恍惚としていたその少年も、死を仄めかされればすぐに自我を取り戻した。

「ぼ、僕は貴方様に飼われるのですか?」

「そうよ。シュエトにそう聞かなかった? 貴方はここで一日中、私の着る服を仕立てるの。別に嫌なら構わないのよ。貴方を食べて、別の針子を連れてくるだけだもの」

「やはり、貴方達は魔物、」

 シュエトに攫われた時に薄っすらと勘付いてはいただろうが、それが確信に変わり、少年はその眼に絶望の色を映した。

 しかしまたもう一度私の顔を見ると、その絶望を表情の裏に隠し、小さく頷く。

 そして持ち込んだ衣装箱を開けながら、何か祈り事のように呟いていた。

「お嬢様のように美しい方に尽くせる事は、針子として嬉しい事なのでしょうか。僕の縫った袖にあのしなやかな細腕が通るのを考えるだけで、胸が躍りだしそうになる。でも僕の作った服であの美しさを覆うなど、無礼なまでに不釣合いなのではないでしょうか」

「何をぶつぶつと言っているの?」

「い、いえ、別に。ただ僕は、お嬢様に似合うような服を作った事がありません。これほど美しい方を思って服を縫う、そんな経験」

「そんな経験、人間の町では出来ないものね。人間の容姿は私達と違って、必ずどこか不完全だから」

 夜魔は闇に輪郭を解かされた生物である。ゆえにその存在は眼よりも心に映り、夜魔の姿は見る者に物質の映像ではなく、概念としての完全美を植えつけた。

「服を作り直しても良いですか? 持ってきた服はどれも、お嬢様に似合わないのです」

 少年は自らを恥じるように、瞳に涙を堪え、衣装箱の中を掻き乱す。

「それまで私に裸でいろと? 馬鹿言わないで。

 今ある中から一番良いのを出して。そしてすぐに似合う服を作り始めるのよ。私に酷い服を着せておくのが嫌なら、必死に急ぐ事ね」

 少年は苦心してようやく、一つ質素な服をその箱の中から取り出した。

 人間が稚拙な感性で綺麗と持て囃す服は、多くの場合過飾だ。人間はその身の醜さを、服を持って隠さねばならないからだ。

 だが夜魔はその身が既に美しい。ゆえに服はそれ以上夜魔を飾る必要がなかった。

 そういう服こそ、真の意味において優れた服なのである。

 少年の澄んだ瞳には、それが分かっているようであった。


 その人間は、私がその衣に袖を通していく様を、恍惚とした表情で眺めていた。人でないものに魅入られた、暗く扇情的な視線だ。

 まるで私の一挙手一投足から、その美の意味を貪ろうとするかのごとく。

「貴方、名は?」

 私の呼びかけに少年は、どこか戸惑うようにうろたえた。

「僕の名が、お嬢様の口の端に? 恐れ多い」

 その人間は、夜魔という美を具現化する存在に圧倒され、畏怖を顔に滲ませていた。

 人間である己の名が、私の可憐な唇を穢しはしないかと怯えているのだろう。

「名が分からないと、貴方に命令出来ないじゃない? 出来た服を持って来いと、呼び付けにする時、貴方の名が必要なのよ」

 だが夜魔はたかが音の羅列でしかない名などに穢されるような脆弱な存在ではない。

 夜魔を穢すのはその夜魔自身である。夜魔の高貴なる精神が綻んだ時だけ、夜魔は穢れ、格を落とし、死へと転落するのだ。

「セラン。セランと、呼んで下さい」

「そう。私の名はシュエトから聞いているわね? まぁ、貴方から私を呼ぶ事は有り得ないだろうけど。それが貴方の主の名なのだから、しっかり憶えておいて」

 私はセランに仕種で帽子を催促し、手渡されたそれを頭の上に乗せる。

 セランはそれが私の栗毛の髪に乗る事に切なく表情を歪めるが、しかしその小さな羽根飾りの付いた帽子も、中々に悪くなかった。

 そして靴まで履き終わると、もう私はこの部屋に用が無くなり、出て行こうとした。

「どちらへ?」

「町へ。お腹が空いたから」

 セランは私の魅力の虜になっていた。

 しかしやはり同族が殺されると聞けば、僅かに蒼褪め、眉間に皺を寄せた。

「本当に、お嬢様は人を食べる魔物なのですか?」

 そうだ、と答えるのは容易い。

 だがセランが真実問いたいのは、私が夜魔かどうかではなく、どうして人間の血を吸うのか、であろう。

「セランは、鹿や兎や豚を食べずに生きていけるかしら?

 もし試した事が無いなら、やってみて?

 それでも生きていけるなら、私に教えて? 私も試してみるかもしれないから」

「そんな、何も食べずになんて」

 食物が与えられないかもしれない。

 私が戯れに、この地下室でセランを飢えさせようとすると思ったのだろう。彼は怯えるように慌てて否定した。

 私は引き攣るセランの頬をつうと指先で撫で、静かに微笑む。

「私も、死にたくないのよね」

 諦めたのか、それとも納得したのか。セランはそれ以上何も言わなかった。



 私はシュエトの眼を盗み、屋敷を抜け出す。

 あんな監視役を引き連れた狩りなど全く興醒めしてしまうと思ったからだ。

 夜の闇の中を私は人間の町に向けて走った。

 走ったと言っても忙しなく足を動かしたわけではない。私が速く行きたいと思えば、風が背を押し、土が足を押し上げてくれる。それが夜魔にとって走るという事だ。

 町に着く頃、私は周囲の闇を掴むと、それで自らを包んだ。

 人間は闇を見通す事が出来ない。そして闇に本能的な恐怖を覚え、視線が逸れる。

 そうでもしなければ、夜魔である私の姿を見る者が皆、恐怖に膝を折り、美貌に心奪われるからだ。

 私はただ町の通りを無防備に歩くだけで、人間の社会を悉く崩壊させてしまうのである。

 人間の生活を大事に思うわけではない。しかしある程度はつつがなく生きていてもらわねば、困った事に私が飢え渇いてしまう。

 もう、私に血を分け与えてくれるお父様はいないのだから。


 通りを行く人間達の顔はどれも鬱々として明るさに欠けた。擦れ違いざまに溜息を聞くのも一度や二度ではない。

 夜魔の住み着く場所は闇が濃くなり、人間は気付かぬ内に明るさを忘れていく。

 姉の屋敷が傍にあるせいだ。奪ったお父様の強大な力が、闇を呼び寄せ、この町全てさえ覆ってしまっている。もはや天高くに陽が昇っても、この町の霧がかかったような薄暗さは消えないだろう。

 人間を好むあまり、その人間を苦しめるなど、姉にお似合いの滑稽劇だと私は思った。

 そんな闇に当てられた暗い表情ばかりが過ぎ行く中、ふと暗がりに小さな炎を灯したような、明るい顔を私は見た。

 明るいというのは表情が明るい事を言っているのではない。この薄暗さの中にあっても、心を闇に曇らせない、清い心身を持つ者の眼差しの事である。

 その女は、小さくはない貴人の屋敷の二階、その窓越しに空を見ていた。闇に覆われたこの町では星の数さえ少なく見え、まるでそれを不思議がるように、じっと見上げていた。

 あれにしよう。

 私は決めた。あのような表情をする人間の血は薫り立つほどに甘い。

 夜魔は血肉によって存在しているわけではない。ゆえに、その存在の維持に血肉そのものを必要とはしない。

 私が血を飲むのは、それが生命の象徴だからだ。血を飲む事で、その者の精神と活力を己の命へと変えるのである。

 だから、そういう心の清い人間の血は、私の舌に堪らない美味となるのだ。

 私は小さく舗道を蹴ると、体を風に乗せふわりとそのバルコニーまで舞い上がった。

 目の前に立っても女は私に気付かない。私が闇に覆われていて見えないのだ。

 間近でじっくりと観察すると、獲物を探す私の勘は少しも鈍っていないらしい。なるほど、美味そうなうら若い乙女で、煌びやか過ぎるドレスがまるで健康的な肉体を隠す棺のようである。

 私は久方ぶりの人間の味を思い出し、自らを嘲笑してしまいそうなほど、興奮に鼻息を荒くしてしまった。

 そして闇を払い、私は女の前に姿を現す。

 女は当然、突如として暗闇の中から出現した少女の姿に驚き、顔を歪め、何事か叫ぼうと口を開きかける。

 私が欲しいのはその女一人であり、悲鳴を聞きつけた屋敷の家人が駆け込んでくるのは都合が悪い。

 私は邪視によってその舌に鎖を絡め、女の口を塞いだ。

「この鍵を、開けてくれる?」

 私はにっこりと微笑みながら、窓の鍵を指差した。

 女は私に怯えながらも、夜魔の振りまく恐怖と魅力に支配され、操られるように窓を開けた。その女自身、なぜ自分がそのような馬鹿な真似をしているのか戸惑っている。

 むろん夜魔の力で鍵そのものを支配し、外から触れる事無く開ける事は容易い。意識せずとも部屋の中に入りたいと思うだけで、鍵は勝手に私の前に平伏すだろう。

 だが、こうして人間自ら死の淵へと歩き出させるのが面白い。

 それが破滅への道だと分かっていながらも、歩みを止められない。その恐怖と混乱が激しい生への執着を生み出し、心をいっそう美味に変えるのだ。

 私はその昂ぶりを一気にしゃぶり尽くすのが、堪らなく好きだった。

「貴方は、誰? 何なの?」

 窓を開け、部屋に入る私を凝視しながら、女は掠れた声で問う。私が一歩進めば女も一歩退き、砕けそうな腰を必死に支えながら、せめて手の届く範囲には近付くまいと頑張っていた。

「私は、何かしらね?」

 夜魔は言葉を作らない。事象を支配する性質から、全てを感覚によって正確に把握出来るため、敢えてそれに言葉を当てる必要が無いのだ。

 言葉を欲するのは、無知ゆえに恐怖し、名前を付ける事で分かった気になり、怯えを隠したがる人間の方だ。

「貴方達の言葉で言えば、夜魔、かしら? それとも、妖精の方が良い? 精霊? 魔物?」

 どうして人間は同じものに幾つも違う言葉を当てるのだろうか。そして名前を付けると、それ以上それを知ろうとはしなくなる。

 ゆえに結局いつまでも無知から覚える恐怖は消えないというのに。

「わ、私を、殺しに来たの? 私、死ぬの?」

「いいえ、血を貰いに来ただけよ。でも、結果的には同じかしらね?」

 にぃと笑う私の口元に大きな牙が見えたのだろう。女は声にさえならない吐息のような悲鳴を漏らし、へなへなとその場に座り込んでしまった。

 女は絶望したのである。

 微かでも良い、望みを探して己を支えていたが、ついに生を諦めた。だから座り込んだのだ。

 もうこれ以上、血は美味くならないだろう。

 昂ぶりの限界が案外に早かった事は残念だが、生き返って最初の吸血ならば、このくらいで十分なのかもしれないと思った。欲張り過ぎて、後で胸焼けを起こすのは面倒臭い。

 私は視線で女を縛ると、手を差し伸べた。

 私の支配は女の折れた心にするりと入り込み、女は忘我のまま引き寄せられるように私の手を取る。

 そして女を抱き寄せると、私はその白く滑らかな首筋に牙を立てようとした。

「ベニ様、おやめ下さい」

 その時、いつの間にかシュエトが背後に立っていた。

 私はその血の甘い舌触りを想像して悦に入っていたというのに、その風情を知らない一言が悉く私の興を醒ました。

「シュエト、屋敷にいたのではなかった?」

「私はベニ様の護衛です。ベニ様が離れれば気付くよう、主上に命令されていますから」

 夜魔の命令は絶対的にその者を支配する。だからシュエト自身が気付かなくとも、姉の命令がそれを彼女に気付かせ命令を行使させるのだ。

「それで? なぜ護衛風情が私の食事を邪魔するのかと聞いているのだけど?」

「主上の庇護下にある者は皆、許可無く人間を傷付けてはならないのです」

「へぇ? それで、いつ私がお姉さんの庇護下に? 無様に跪いて、泣きながらこう言った? あぁ、万物の支配者様、私を下僕の端にお加え下さい、って?

 まさかね。貴方は言ったかもしれないけど、私はそんな事を言うくらいなら、自分で心臓を握り潰して死んでやるわ」

 二人の夜魔が口論を交わす中で、人間の女は私に抱かれながら、白い首筋を晒し、恐怖にがくがくと震える。そしてその精神の構造が限界を超えた瞬間、ふっと崩れるように意識を失った。

「では、私は次の命令に移らねばなりません。ベニ様が人間を傷付けそうになったら、力ずくでも止めるよう、主上に言われています」

「チッ、結局、監視者か。低俗な奴」

 私は舌打ちし、言葉を吐き捨てる。

「シュエト、貴方にそれが出来るの? 私は至尊の人と呼ばれた、あのお父様の娘なのよ? 恥ずかしげも無くお姉さんに尻尾を振るような貴方が、力ずくだろうが何だろうが、この私を止められるわけがないでしょう?」

 夜魔にとって精神の高貴さは直接的にその格の高さに関わる。そして格の高さは、すなわち力の強さでもあった。

「ベニ様より弱い者では、護衛の任は務まらないのではありませんか?」

「言うわね。シュエト、貴方、凄く不愉快」

 私は抱いていた女を投げ捨てると、かっと眼を見開き、シュエトを睨み付ける。

 蛇の視線には獲物の自由を奪う力がある。むろんそれは夜魔となった今も私の瞳にいっそう力を増して宿っていた。中にはその力を恐れるあまり、私の瞳を石化の毒とさえ呼ぶ者がいるほどだ。

 だがシュエトは大きく腕を振ると、身の内から一対の剣を取り出し、それで私の邪視を打ち払った。

「私に刃を向けるの? とんだ護衛ね?」

「ベニ様の邪眼の餌食になっては、主上の命令を果たせませんから」

 私が瞳に邪視の力を残しているように、闇によって生まれ変わった後も夜魔はその身に以前の性質を残している。

 角、爪、牙、そういった力の象徴を持つ獣だった者は、夜魔となった後もそれを使った。ただし、それはもはや角や爪などではなく、力の象徴としてより上位である剣に変わっている。

 シュエトが取り出した剣も、それが角か牙かは知らないが、すなわち彼女の力の象徴であった。

 そしてまた刃は敵意を表し、それを相手に向ける事は不服従の意思でもある。

 シュエトが私の邪視を払うために剣を取り出したのは、その刃を反抗の象徴とする事が、私の瞳の束縛に逆らう力になるからだ。

「でも、綺麗な剣ね、それ。私に向けているのは堪らなく不快だけど、貴方に良く似合ってるわ」

 シュエトが両手に握るその刃は、細く弓なりに反り、漂わす繊細な切れ味の空気が、彼女の長い手足に良く栄えた。

「己の爪牙が似合うのは、当然で御座いましょう?」

「そんな事無いわ。だって私の毒牙は大き過ぎると皆恐れ戦き、泣き叫んでいたもの」

 その一噛みは巨鯨さえ瞬時に殺す。

 剣が力の象徴ならば、私の剣はその毒牙の殺意をそのままに受け継いだ形状をしていた。

 刀身は私自身の身の丈を優に超え、分厚く、重々しく見えるが果てしなく鋭利である。大鉈と呼ぶべきなのだろうが、その余りの大きさに、皆怯えながら、『鉄扉』と形容した。

 私の毒牙はすなわち、扉のごとく巨大な刃でなければその力を象徴しきれないほど、圧倒的な恐怖の塊だったのである。

「出ておいで、私の獰猛な牙」

 私は腕に力を込めると、体の内側からその毒牙を絞り出した。

 刃が掌を突き破り、しかし傷付けはせず、ずるりと引き出されて手の中に納まる。

 だが出てきたのは、巨獣打ち倒す猛毒の牙ではなく、小指の長さほどもない、ナイフと呼ぶのもおこがましい、小さな刃だった。

「これは」

 私は驚き蒼褪め、思わず呟く。

 一度死に、また生まれたばかり私の牙はこれほどに柔らかで貧弱だというのか。

 剣が力の象徴ならば、その小さなナイフは私の衰えた力を残酷に、しかし正確に表している。

 死の淵から這い上がるために、多くの力を費やした事は理解していた。しかしまさかこれっぽっちしか、私の体に残っていなかったとは、思いもしなかったのである。

「ベニ様、主上の言葉に従ってはいただけませんか?」

 己自身の有様に狼狽する私を、シュエトは哀れむように言う。

 逆らう力はない。ならば、無理矢理に束縛される前に、己の意思で従え。

 シュエトを通して、姉がそう嘲笑っているような気がした。

「牙が駄目でもまだ、」

「言霊、ですか?」

 衰えた私を見下すようなシュエトの顔が気に入らず、私はかっと熱くなり、片手を彼女の方へ差し向ける。

 しかしそれでもシュエトは焦る様子もなく、ただ剣を反抗の意思としてしっかりと構え、僅かばかりも表情を変えなかった。

 夜魔は言葉を作らない生物である。一方で、だからこそ言葉が大きな意味を持つ存在でもあった。必要の無いものを敢えて使う、そこに意味が生じるのである。

 夜魔はその周囲の事象を支配する性質の延長として、その事象を自在に操る事が出来た。つまり支配したものに命令を下すという事だ。

 思考、視線、仕種、何もかもが夜魔にとっては命令となりうる。その中でも実際言葉として発せられる命令は他とは比にならない圧倒的な強制力を孕み、それが言霊である。

 人間達が、魔術、と呼び恐れている力だ。

 私は差し向けた手でシュエトを指定し、唇に命令を乗せかける。

「蛇」

 しかし呟くように発したシュエトのそのたった一つの単語に、私は言葉を止めた。

「何? 今、何て言った?」

「蛇ですね、ベニ様の本質は。ベニ様は、私の本質が分かりますか?」

 シュエトは私の正体を言い当てた。

 支配とはそれを掌握する事で、そして把握する事だ。

 把握とはそれを理解する事。隠されたその者の正体、本性、本質さえ認知する事である。

 シュエトには私の本質が見え、私にはシュエトの本質が見えない。

 つまりそれは私よりもシュエトの方が支配力に勝り、夜魔としての格に優れているという現実を示していた。

「ベニ様、私の本質が、見えますか?」

「嘘よ。私が、この私が? お前よりも格下?

 そんな事、あるはずがない。そんなの、許されるはずがない。私は邪眼の姫なのよ? 至尊の君の娘なのよ? 飼われて喜ぶお前なんかが、私より高貴なはずない。」

 シュエトに差し向けた私の手が震える。いや、手だけではない、体中が動揺と困惑に震えていた。

 命令は上から下へと流れる。それが自然の法則だった。

 その法則に逆らい、無理に言霊を下から上へと押し上げるには、尋常ならざる代償が必要となる。

 同じ言霊を発するにも、流れに沿うのと逆らうのでは、消耗する精気に数倍の差があるだろう。

 むろん、格で劣る夜魔の精気は少なく、すなわち言霊の唱え合いでは圧倒的早さで格に劣る方が先に力尽きるというわけだ。

 無情か。

 いや、強者を生かし、弱者を不要とするのは、至極当然な自然の摂理なのである。

「見えませんか? それでも、言霊を唱えますか?」

 シュエトはただ無表情に現状において当然の言葉を吐く。しかしそれが尚更、勝ち誇っているように、私には見えた。

 私はこれまで一度たりとも他人に見下された事が無い。生まれた時にはもう、他のどの夜魔よりも強い力を持っていたのである。私の上にはただ一人、お父様以外にいなかった。

 だから今初めて私は格下の夜魔が見る景色というものを実感していた。

 周囲のあらゆる事象が、私ではなくシュエトの方に傾いている。この私自身の体さえも、シュエトの支配の影響を受けているようだ。

 シュエトの瞳に己の何もかもを見通されているのを確かに感じるのに、私には彼女がまるで暗い壁の向こうにいるかのごとく、僅かばかりも見えない。

 格で劣る夜魔は、高位の夜魔に対した時、これほどまでに視界を、いや、感覚を塞がれるものなのか。

 敵うはずが無い。私は心中で呟く。

 百の眼を持つ怪物に、盲目の狐が立ち向かうようなものだ。

 牙も刺さらず、言霊も届かない。

 生まれ変わった私は、塵屑のような夜魔に成り果ててしまっていた。

「その顔は何だ? 術が無いから私が屈すると思ったか?」

 しかし差し向けた手を下ろす事はもう出来なかった。

 シュエトのそのすまし顔が弱者を見るような表情に見え、私はかっとなり言葉を荒げる。

「お前も夜魔なら忘れたわけではないでしょう? 孤高不屈の精神は、被支配の惨めな生よりも敗者としての死を喜ぶ事を。

 ましてや私は万象統べる君の娘。お父様と私自身の名誉のため、絶対誰にも膝は折らない」

 私は全身の活力を一気に唇へと寄せる。

 あまりに無謀な賭けだ。いや、私の敗北は既に確定して、もはやそれは賭けにさえ成り得ない。

 だからシュエトは私が諦めると踏んでいたのだろう。私の気勢が急速に高まるのを見て、驚き、しかしどこか唖然とするような不理解の眼差しを見せた。

 美しい瞳だ。姉の支配に任せて蕩けた眼よりも、その彼女自身の感情に色付いた瞳の方が何倍も美しい。

「私の名によって命を下す」

 私はその瞳を見詰めながら、言葉とはやや響きの違う、力ある言霊を口ずさんだ。

「ベニ様、おやめ下さい。無茶が過ぎます」

 シュエトは焦りながら叫ぶ。そして両手に握った双剣を交差させるように固く構えると、その反抗を象徴する刃を私の命令に対する壁とした。

「シュエトよ、消し飛びなさい」

 その瞬間、シュエトへと差し向けた私の指先から轟とばかりに荒れ狂う力の波が噴出す。

 存在を禁じるその残酷な命令に、周囲の事象は己の事でもないのに怯えて鳴き喚いた。

 それはいくら衰えたと言っても絶対の君臨者を父に持つ者の言霊である。何の脅威も覚えさせぬほどに痩せ細っているわけではなかった。

 シュエトは押し寄せる言霊を剣の力で押さえ込もうとするのだが、それでも防ぎ切れない小さな棘が刃の壁の隙間をすり抜け、彼女の皮膚を切り裂いた。

 皮膚だけではない。力の奔流はシュエトの全身を飲み込み、皮膚を失い露わになった肉片までも剥ぎ取っていく。

 シュエトの顔が苦痛に歪み、きっと以前の私がどれほど高貴な大魔であったかを思い知っただろう。生まれ変わったばかりの私を侮っていた事を後悔しているに違いない。

 私は仄かな満足感を得る。

 しかし、もう私も限界だった。

 これほど強力な言霊を使えば、相応の精気が奪われる。しかも私はそれを下から上へと押し上げているのだ。

 私の身に宿る活力など瞬時に使い果たしてしまっていて、今はもう体を構成する根源的な存在力さえ言霊へと吸い取られている途中だった。

 己の存在が足元からぼろぼろと空ろになっていくのが分かる。

 シュエトの掠り傷と引き換えに私が差し出したものは命そのものか。

 それこそが、私とシュエトとの間にある格の差だった。

 私は満足感を表情から消し、次に自嘲を浮かべる。そしてすぐに、もはや耐えられなくなった激痛に全ての表情を隠された。

 もはや立っている事もままならなくなり、足という構造が壊れて倒れ込むのと同時に、言霊を維持する事も出来なくなる。

「私が、この私が、お前のような卑小な者に敗れて死ぬ日が来るなんて思いもしなかったわ。しかも、相手の刃に伏すわけでもない。自分自身で放った言霊に屠られて倒れるなんてね」

 その時私は融けていく氷の像の気持ちが少し分かったような気がした。このまま床の上に倒れ込めば、跡も残さず砕けて消えるところも、良く似ている。

 しかし崩れていく私の体を何かがはっしと受け止めた。

 それはシュエトの血塗れの腕であった。

「私はベニ様の護衛です。貴方の命をお守りする事が役目。死んでもらっては困ります」

 姉は、私が夜魔として誇らしく死ぬ事さえ許さないか。

 私はますますもって姉を憎らしく思った。

「好きに、すると良いわ」

 私が切れ切れの声で呻くと、シュエトは脆くなった私の体をそっと抱え上げる。

 更に私だけでなく、傍で気絶していた人間の女までも手にすると、その歩に風を帯びながら人間の町を後にした。


次話更新11/7(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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