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ハイズリヒメ  作者: 二束
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ハイズリヒメ  -アナタガキライ-

 私は、その暗い、闇の奥深くで生まれた。


 いや、言葉を正確に発音するならば、私はまた生まれた、と言うべきかもしれない。

 私は一度死に、また生まれてきたのだ。

 この世界で一人だけ、私の心に留まり、そして心の全てを傾けさせた、私の唯一の父にして無二の想い人。

 そのお父様に、私は殺された。


「また生き返ったようね、ベニメウクス?」

 暗闇の中から聞こえる私の名を呼ぶ声に目を開けば、短いが艶やかな黒髪に細面の美しい少女の姿があった。

 それは私の姉。

 お父様に疎まれ、その復讐に姦計を用いて私をお父様に殺させた、憎い姉。


 生まれたばかりの私は、まだ小さな頭に、細い胴、そこから貧弱な四肢を生やしているだけの脆い生物だった。

 裸身を冷たい土の上に横たえ、見下ろされる屈辱に震えながらも、立ち上がる力も無い。

 しかし瞳だけはもうしっかりと出来上がっているのが分かる。

 私はその瞳に威を込めて、姉を睨み付けた。


 私は夜魔だ。人間ではない。

 夜魔とは万物が闇の中で輪郭を失い、物質の制限から解き放たれて生まれる生物の事。

 心で言えば、血と精神。肉で言えば、心臓と脳。それだけが夜魔の根幹を構成し、他は全て美しさによって補われる。

 その美しさはあらゆる事象を魅了し、精神は恐怖によってそれを支配する。そして血がその存在を証明する。

 私は、そういう生物なのだ。


 ゆえに私が瞳に威を込めれば、私という存在に恐怖し魅了されている大気が、視線を模した棘となって姉に突き刺さるはずだった。

 だがその視線は、打ち払われるまでもなく、姉へと届く遥か手前で砕けて消えた。

「分かって、ベニメウクス。もう私の方が、格が高いの。貴方の邪視は届かないわ」

 私が夜魔として大気を従えるならば、もちろん姉にも同じ事が出来た。

 そして悔しい事に私よりも、夜魔としての格、血と精神と美しさで決まるその優劣に勝る姉の支配力は強く、大気は私の棘でいるよりも姉のそよ風である事を望んだのだ。

 お父様に殺される前までは、私の方が圧倒的にあの憎い姉よりも格上であったのに。

 歯噛みする私を、まるで哀しむように姉が見る。それは尚更に私の悔しさを掻き立てた。

「いい気にならないで。お姉さんが私を超えたわけじゃないわ。その格は、お父様の血に引き上げられただけ。何を当然のごとく我が物顔をしているの?」

 姉の周囲には、あの美しかったお父様と同じ雰囲気が漂っていた。

 辺りの事象は全てその偉大な夜魔の存在に平伏し、支配という完全に静止した空間が作り出される。

 あの絶対の君臨者と呼ばれる至高の存在だったお父様だけに許された雰囲気。

 それをあろう事か、目を背けたくなるほどに卑小な存在だった姉が纏っているなんて。


 私の言葉に、姉は少し辛そうな顔を見せた。

 私がお父様に殺されたならば、私のお父様を殺したのは姉だからだ。

 私達は糧を吸血によって求める夜魔だった。人間達は「吸血鬼」などと呼んでいたか。

 そして血がその者の存在を、生命を、全てを意味する事象ならば、血を吸うという事は相手の全てを己のものにするという事であった。

 何が姉をそこまで駆り立てたのかは知らない。

 だが姉はお父様を殺し、その血を奪い、万物の支配者たる力と地位をも手に入れていた。

 姉の中にもお父様を慕う心があったのか、それとも私の大切な者を奪い取った罪の意識がそうさせているのか。いくら疎んじられた娘と言っても、やはり父と妹へ微かな情があったという事だろう。

 しかしそんな顔をするくらいならば、初めからお父様に牙を剥かなければ良かったのだ。

 自分で作った不幸を自ら嘆いて見せて、それで私が気に入るとでも思っているのか。


 私の胸にざわざわと焦げるような憤怒が燻ぶった。

 すると不意に全身を内側からざくざくと切り裂かれていくような激痛が私を襲う。

 生まれたばかりの皮膚がひび割れて剥がれ落ち、肉が血を滲ます暇も無く形を崩して融け出ていく。

「ベニメウクス、心を落ち着けるのよ。生まれたばかりの今の貴方は、死の間近にいる。些細な心の揺らぎでも、容易く格を落とし、死へと転がり落ちてしまうわ」

 夜魔にとって精神は血と同様に重要なものである。精神の高潔さはあまりにも直接的に夜魔の格を左右した。

 ゆえに感情に囚われる事は格の低下を誘う。格を下げ過ぎれば、夜魔として気高く存在する資格さえ失い、霧散して闇に散るのだ。

 だが私は、まさか偉大なるお父様の娘として、清廉で美しかったこの私が、この程度の苛立ちで死に瀕すとは思ってもみなかった。

 一度死に、生まれたばかりの私はこんなにも貧弱な存在なのか。

 お父様に娘として生み出されて以来、一度たりともこれほど格を貶めた事はない。

 私は己の無様な姿に羞恥を覚え、また姉への烈火のような憎悪が湧き起こるのを感じた。

 しかしその心を荒らぶるまま自由にすれば、私は間違い無く消えてなくなるだろう。

 私は目を閉じ姉の姿を視界から隠すと、深く呼吸をし、自らの心を凍らせる。

 すぅと痛みが和らぎ、体の崩壊は止まった。


 しかし崩壊は止まったが、傷が癒えたわけではない。

 私はひび割れだらけの体をびくびくと痙攣させながら、冷たい大地に横たわり、初めて間近に感じる死の概念に内心で酷く怯えた。

 お父様に殺された時はまさに一瞬だった。お父様の絶大な力を持ってすれば、私は死を意識する暇もなくこの世から消え去れたのだ。

 生まれたばかりのまだ満足に動かせもしない手足で懸命に大地を引っ掻き、私は無様に土の上を這いずり回った。

 こんな薄暗い森は抜けて、町へ行きたい。

 町へ行けば人間がいる。人間の血を吸い、その血に宿る芳醇な精を我が身に変えて、傷を癒すのだ。

 私は激しい吸血衝動に駆られながら、一時の醜さに目を背け、そしてそれを姉に見られる羞恥心さえも今は塞ぎ、ただただ町を目指した。


 しかし数歩と進まぬ内に私の前進は阻まれた。

 その様が醜悪である事も省みず、必死に生きようともがく私の体を、まるで悪戯に遊ぶよう、姉はふわりと持ち上げ、這いずる権利さえ私から奪い取る。

「放して、お姉さん。血が、血が欲しいの。血を飲まなきゃ、私また死んでしまう」

 私は血の渇きと死の恐怖で半狂乱になりながら、姉の腕の中でばたばたと暴れた。

 血を糧とする夜魔にとって、吸血衝動とは他に比するものの無い強い苦痛なのである。

 そして夜魔という生物が、精神を零落させなければ永遠に生き続ける存在ならば、死は私達にとってあまりに想像の及ばない概念だ。

 私はその吸血する夜魔にとって最大とも思える二つの苦しみを抱えながら、なす術もなく姉の腕の中に縛り付けられていた。

「お願いよ。手を放してよ、お姉さん。血を飲ませて。血を飲みに行かせて。でないと本当に死んじゃう」

 私は姉に抱かれながら泣き喚いた。

 一度は生き返った。

 それが自然界の法則ならば、いくら夜魔といえども法則を捻じ曲げて生き返るなど容易くはない。

 だが私は夜魔となる以前、一匹の蛇であった。私は蛇を正体、本質とする夜魔なのである。

 蛇には古く傷ついた体を捨て去り、新たな体を得る術がある。

 だから私は一度死んだ体を捨て、また新たにこうして生まれる事が出来たのだ。

 しかし今こうして姉の腕の中で死んだならば、また生き返れるだろうか。

 恐らくは無理だろう。今の体はまだ不完全だが、古いわけではない。新しい体を用意する力、自然の法則を誤魔化すに足るだけの力を、私は失ってしまっていた。

「人間を狩りに行きたいのね? でも駄目よ。それを許す事は出来ない」

 私が蛇を本質とする夜魔ならば、姉は人間の屍から生まれた夜魔だった。

 夜魔になった以上、もはや人間は別種の生き物のはずなのに、そして姉の中にもその屍を晒した人間の記憶はないはずなのに、むやみやたらと感傷的な姉は異常なほどに人間を贔屓した。

 そのまるで己が夜魔である事を拒むようにも見える姿勢が、きっとお父様に疎まれた理由だったのに、まだ理解していないのか。

 私達から見れば、人間も鹿や雉と同じように、ただ多少知恵があるだけの、食を満たす獲物でしかない。それが夜魔としての当然の感覚なのだ。

 なぜ姉が敢えてその自然の摂理に逆らうのかが、私には分からなかった。夜魔も自然の中に存在する者ならば、自然に逆らい、拒絶されては生きていけないものなのに。

「人を食べて何が悪いの? お姉さんだって、そうしなければ生きていけないはずよ。今、生きてるって事は、お姉さんも人を食べてるって事でしょう? どうして私にだけ駄目なんて言うの?」

「貴方だけではないわ。私に庇護を求める者には皆、私の許可無く人間を傷付けないように言ってあるの」

 姉のその言葉に私は猛烈な苛立ちを覚えた。

 私がいつ姉の庇護下になど入ったと言うのか。

 夜魔の高潔な精神は孤高不屈のものならば、己の支配者は己のみなのである。

 それでも命を惜しんで他者の庇護を求めるなど、それは弱者の振る舞いだ。あのお父様にさえ、私は従属ではなく、ただ純粋に強く慕っていただけだと言うのに。

 力を得た姉はもう、もうこの私を支配下に置いたつもりなのか。

「己の空腹を満たすのに、お姉さんの許可を貰う必要なんてない。自分で狩って、自分で食べる。お姉さんが口を出す理由なんて一つもないわ」

 苛立ちに体がかっと熱くなったかと思えば、その熱はすぐさま激痛へと変わる。心の乱れから、また死への転落が始まったのだ。

 苦痛にのた打つ私は必死に解放を懇願するのに、姉はその手を放さず、腕の中で崩れていく私をじっと見下ろしていた。


 私は気付いた。

 これは姉の復讐なのだ。

 お父様の高貴な血を同じく身に受けながら、美しく成長出来た私と、人間にこだわり醜いままだった姉との歴然たる差。その嫉妬を今晴らしているのだ。

 そして夜魔の精神として当然のごとく醜いものを疎んじた私に、恨みを思い知らせようというつもりに違いない。

 最後にはお父様と同じく、その手に殺めようというのか。

「嫌だ」

 痛みに朦朧とする意識の中、私は呻くように声を絞り出した。

「こんな死に方は嫌だ。他の方法なら、いくらでも受けて立つから。こんな復讐は嫌」

 私の美しかった体が死に向かって崩れ落ちていく。

 私の醜態を見つめながら、姉は口の端をすぅと引き上げた。

 それは嘲笑か。


「私の血をあげるわ、ベニメウクス」

 遠のく意識に視界もぼやける中、姉は私の顔を覗き込みながら言った。

 私は自分の耳を疑う。

 夜魔にとって血はその存在の大きさ、格の高さを決める重要なものだ。それを他者に容易くくれてやるはずがない。

 私がお父様の娘として、相応しい力を持っていたのも、お父様から少しの血を分け与えられていたから。

 今の姉が神々しいほどに美しく、支配者たるに相応しい強大な夜魔であるのも、お父様の血を奪ったから。

 その血を、姉は恨むべき相手である、この私にくれると言うのか。そんなはずがない。

「父がそうして貴方を育てたように、今度は私がこの血で貴方を生かすわ。だからお願い、人を狩らないで」

 だが確かに姉はそう言っていた。

 姉は私やお父様を憎んでいたのではないのか。これは復讐ではなかったのか。

 混乱すれども、私の頭の中に答えは無い。

 ただ分かるのは、姉の細くすらりとした腕が、私の胸元を抱き、真っ白な生肌を目の前に晒しているという事だ。

「血をくれるの? お姉さん? 私、死ななくても良いの?」

「私にはもう貴方との絆しか残されていないから。父を失って、そのうえ妹まで失いたくはない」

 己でお父様を殺めておきながら、よくもそんな事を言えるものだ。

 憤りを吐き出したかったが、もう私にはそんな気力もなかった。

 いや、本当は酔っていたのだ。姉の体から薫る偉大なる生命の匂いに。

 その薄い肌を剥けば薫るであろう血の匂いに気を奪われ、私は苛立つ事も忘れていた。

 耳を澄ませば、とくとくと微かな鼓動が姉の肌の下を走る。

 私は姉の手を取り、その手の甲から指先へと伸びる滑らかな曲線をまじまじと見つめた。

 頬擦りすれば、お父様と同じ、完全なる美の甘い感触がそこにはある。

 考えてみれば、姉の中には今お父様の血が流れているのだ。血が夜魔の存在を決定付けるものならば、姉とお父様の存在感が似てくるのは道理かもしれなかった。

 ふと私はそれがお父様の手なのではないかという錯覚に陥る。

 お父様の高貴な血が、お父様の体から姉の体へと移っただけ、器が変わっただけなのではないかと。

 私はその手に仄かに口付けると、小さく牙を剥いた。

 お父様との思い出が蘇る。

 お父様もそうして指先を私に許して下さり、私はこの牙で小さな傷を付け、少しだけ血を飲んだ。

 たった一滴の血でも、お父様の高貴な血は私を大きく成長させ、強大な夜魔へと着実に駆け上がらせてくれた。

 お父様はそんな私を、表情も変えず、ただただ見守って下さるのだ。

 あぁ、またこの指先に牙を立てられる日が来ようとは。

 思い出される蜜月の日々に、恥じらいもなく私の体は打ち震えた。


「待ちなさい、ベニメウクス。その毒牙で私を貫くつもり?

 残念だけど、それを許す事は出来ないわ。貴方の牙は危険過ぎる」

 姉の言葉で、今まさに触れんとしていた私の牙は止められた。

 私が姉の言葉に従ったわけではない。姉の言葉が私を支配したのだ。

 夜魔とは周囲の事象を支配する生物だが、夜魔もまた事象の一つに過ぎないからである。

 格の高い者は低い者を従える事が出来た。

 むろん、夜魔は一方で不屈の性質を持つ生物でもある。多少の支配にはなびかない強靭な心も持ち合わせている。

 だが、今の姉と私の間には、完全な支配が成立するほどの格差が出来てしまっていた。

 お父様がそうして、あらゆる夜魔を従えていたように。

 私は屈辱に塗れた。しかし死に瀕し、生を渇望する心身は屈辱を認識する余裕もなく、ただ乳房を取り上げられた赤子のように、私は懇願の瞳で姉を見つめた。

 姉がすっと手を伸ばすと、闇から誰か別の者の手がぬうと伸びてきて、姉の手に黒い枯葉のような形をしたナイフを手渡す。

 姉はその黒鋼玉のナイフで自分の指先を僅かに刺すと、そのナイフを私の口元に添えた。

 ナイフの切っ先に鮮やかな香を放つ血が一滴、つうと集まるのが見える。

 それをしゃぶれという事なのだと、聞くまでもなく理解した。

 屈辱はある。苛立ちも、憤りもある。だが、それに相応しいだけの余裕と生命力が私には無かった。

 私はそれへと顔を近付けると、唇を薄く開き、伸ばした舌先でちろりと先端を舐めた。

 その瞬間、全身を痺れるような感覚が走り抜けた。

 小さな一滴は、脳髄を焼くような刺激と共に、私の構造を内奥から作り変えていく。

 懐かしいお父様の味に良く似ていて、私は密かに喜ぶけれど、やはり僅かに違っていて、それが姉の味なのだと思うと吐き気を催した。


 ほんの僅かな一滴だったが、お父様の高貴さを継承したその血は、私を死の淵から容易く引き上げた。

 血の活力で傷は塞がれ、崩れかけていた体は忽ちにして再生する。

「それで、私を生かしてどうするつもり?」

 作り直された体の具合を確かめるように動かしながら、私は視線も合わせず姉に聞いた。

 体に漲る力、整えられていく美しさ。どれもお父様に血を与えられた時と酷似していて、それが尚更に、もうお父様はなく、姉がそれに取って代わったのだと痛感させられた。

「どうもしないわ。ただ姉妹で憎しみ合う事もなく、共に生きたいだけ」

「憎しみ合わずに? 不可能を口にするものではないわ。私のお父様を奪ったのはお姉さんよ? それにお姉さんも、私やお父様を殺したいほど憎んでいたのでしょう? 私達のどこに憎しみ以外の感情があると言うの?」

「何も憎しみだけが殺める理由ではなかったのよ。ただ私と父は共に生きる事が出来なかった。でも、貴方となら」

「私となら、何? そうまで言うのなら、私に憎しみを捨てろと命令すれば良いわ。今のお姉さんはお父様の血を奪い、私の心さえ自由に出来る強大な夜魔になったのですもの。その支配の力でたった一言、私を従順な妹に作り変えてしまえば良い」

 お父様と生きていくのが私の全てだった。

 互いの血を吸い合って生きる。人間も鹿も魚も木も草も、空や大地でさえも、お父様以外には何も必要無い、酷く小さく閉鎖的な世界。それが私の夢だった。

 だがその夢は姉に奪われた。

 もう私はこの世界に何も望んでいない。

 その上どうして、忌まわしい姉などのために心を屈してやらねばならないのだ。

「なるほど。お姉さんは、一滴の血で、私の心を買うつもりだったのね? だから私を助けたんだわ。そうすれば、与えられた血の代わりに、私が心を差し出すと思って」

 私はかっと目を見開き、姉を睨み付けた。

 しかしやはりその視線は姉に触れる事無く砕けて落ちる。

 一滴のお父様の血で、私の体はおよそ完成したようだが、まだ夜魔としての以前の力は取り戻せていないらしい。

 いや、私が本来の力を取り戻したとしても、お父様の強大な力を奪った姉に私の邪眼は到底届かないのかもしれない。

 私は口惜しさに歯噛みした。

「命じて貴方にそうさせる気もないし、血と引き換えにそれを望むわけでもないのよ、ベニメウクス。ただ私は貴方を分かりたいし、貴方に私を分かってもらいたい。そしてその結果として自然に、共に生きたいだけなの」

 姉は私の悔しさに気付きもせず、あるいは気付いていても気にも留めていないような表情で、何ともあっさりと言ってのけた。

 それが夜魔にとって最も不自然な事だと、姉はまだ理解していないのか。

 孤高の心を持つ夜魔は本来一人で生きるべき存在なのだ。

 周囲のあらゆる事象を支配し、また自身の支配者は己だけである夜魔が寄り添い合えるはずがない。

 夜魔と夜魔が出会うならば、それは必ず支配と被支配の関係にならねばならないのだ。

 私の心が完全にお父様の虜とされたように。

「私にお姉さんの家族ごっこの相手をしろというわけね?」

「家族ごっこ? いいえ、違うわ」

「違わない。それは夜魔の関係じゃないわ。家族、とかいう滑稽で面倒臭い、そして脆い関係の事よ。お姉さんの大好きな人間のね」

「ベニメウクス、人間の全てを悪く言うのはやめて。確かに彼らは私達よりも劣るかもしれない。でも、優れた面もちゃんとある」

 また人間贔屓か。

 人間の作り出すものなど、どれも不安定で、不確定で、醜いに決まっている。夜魔の方が明らかに純粋で美しく、完全だ。

「お姉さん? 私、遊びは好きよ。石投げや口合わせなら、遊んであげなくもない」

 私は小石を一つ拾い、遠くに投げる。石は高位の夜魔である私の機嫌を損ねないよう、どこまでも果てしなく飛んでいった。

「でも、家族ごっこは、嫌。自分でお父様を殺しておきながら、もう私しかいない? お父様を奪っておきながら、私にそれを頼むの? 冗談じゃないわ」

 私は指で自分の胸を指し示す。

「私の心なら、ほら、ここにある。欲しけりゃ、さっさと抉り出すことね」

「ベニメウクス、」

「他のどんな遊びよりも、そんな復讐になら悦んで付き合ってあげるわ、お姉さん」

 私のぎらぎらと光る瞳に、姉は辛く寂しげな表情を見せたように思えた。

 きっとお父様から受け継いだ権力があれば、私さえも容易く支配出来ると踏んでいたのだろう。私が心を折らない事が悔しいのだ。

 そう思わねば、私に姉の表情は理解出来ないのだから、それに間違いは無い。

「今はそれでも良いわ。夜魔の時間は長い。少しずつ、少しずつで良い。諦めなければ、いつか分かり合えるわ」

「どうかしら? きっと、その前に私かお姉さんの、どちらかが消えてなくなると思うけど。憎しみってそういうものでしょう?」

 圧倒的な格の差に、私の邪視は姉へと届かないが、しかし言葉は容易く突き刺す事が出来た。

 今はまだ言葉だけかもしれない。だが力を付けいずれ、邪視に絡め、この牙を突き立てて、必ず姉の体からお父様の血を救い出そう。

 私は密やかに、それを私の新たな生きる意味とした。

 姉は私の寸鉄に刺され、美しい表情を渋く歪めると、小さく溜息を吐くように言う。

「父の屋敷はそのままにしてあるわ。貴方はそこを。私はその隣の屋敷にいる。血が欲しい時はいつでも飲ませてあげる。私の屋敷に訪ねてくるか、それが嫌なら私の名を呼んで。私が貴方の所へ行くわ」

「屋敷に、血。随分大盤振る舞いね、お姉さん? そんなに私の心が欲しいの?」

「それから、生まれたばかりの貴方は、まだ自分の身を守れるほど力を取り戻していない。だから護衛の者を付けさせてもらうわ。」

「護衛? 嘘でしょう? はっきり監視役と言ってよ」

 姉は私の言葉に眉一つ動かさず、闇に向かって手招いた。

「シュエト、来て」

 すると、先ほどナイフを取り出した時と同じように、暗闇からすぅと女が一人歩み出てきた。

「主上、お呼びでしょうか?」

 一見では、真っ白な顔にとろりと潤んだ瞳が艶やかな女だと思ったが、結局は姉の支配下に膝を屈した並大抵の夜魔だと思い直し、私はシュエトという者を遠慮もなく軽蔑した。

「ベニメウクス、彼女は護衛であって、監視者ではないわ。貴方が元の力を取り戻したなら、いつでも私に突き返して良いのよ。そしてそれまでは、身辺の雑事も彼女に押し付けて構わない。貴方の不満は、シュエトを通して、全て私に伝わるから」

「やっぱり、監視役じゃない」

 早速の私の不満を意に介す様子もなく、シュエトは私の前に傅いた。気分が悪くなるほど、良く手懐けられた夜魔だ。

「ベニメウクス様、主上のご命令により、貴方の身辺をお守り致します」

「じゃあ、早速何か一つ押し付けようかしら。そうね、シュエト、仕立ての出来る人間を一人屋敷に連れてきて。若くて瞳の澄んだ針子が良いわ。そういう人間の作る服は嫌いじゃないから」

 シュエトはちらりと姉の表情を窺った。私に対して跪いても、それはただ姉の命令に従っているだけで、つまりは私の言葉に従うわけではないという事だ。

 私はどこか除け者にされた気分で、酷く不愉快だった。

「良いでしょう、お姉さん? 食べるのでなければ、人間一人攫うくらい。傷付けないんだから、文句は無いわよね?」

 姉は僅かに考え込んだが、さほど時間もかけずに頷いた。

 どれほど人間の振りをしても、やはり姉は人間にはなれない。

 体は無事でも親と引き離されるだけで人の子は泣く。私はそれを見た事がある。

 あの涙が悲しみだと知識で知るだけの夜魔だから、姉は頷けるのだ。

「承知しました、ベニメウクス様。直ちに連れてまいりましょう」

 シュエトは姉の同意を見てようやく私の言葉に答えた。

 針子を探しにその場を去ろうとするシュエトを私は呼び止める。

「それから、私の事はベニ様と呼んでくれる? 邪眼の姫というのでも良いのだけど」

 姉が僅かに顔を顰めた。

 姉には経験から、次に私が何を言うか分かっていたのである。

「ベニメウクスはお父様のくれた名前なの」

 私がその表情に蛇の本性を垣間見せると、シュエトは一つ大きく生唾を飲み込んだ。

「それをお前ごときがぺらぺらと口の端に乗せるな。不愉快だ」

 蛇の瞳に見竦められ、シュエトは恐怖かあるいは苛立ちから眉を歪めた。

 それでこそ夜魔の表情だ。私は密やかに小さな満足を得る。夜魔には毅然とした表情こそ美しい。他者におもねる顔など醜悪でしかない。

「分かったら、さっさと行ってちょうだい? 私が屋敷に戻るまでに服を用意させて」

 シュエトは私の視線を嫌うように、その足取りに風を孕み、ひゅうと一息に飛び去った。

「ベニメウクス、今は嫌かもしれ」

「お姉さん、私はお姉さんにもその名を許した覚えはないのよ? 何度言っても、聞こえないようだから、呆れているだけで」

 以前から、姉は私をベニメウクスと呼び続けた。何度言っても姉はその呼び方を変えず、その度に私の気を逆撫でている事に気付きもしなかった。

「私と貴方は、二人きりの姉妹でしょう?」

「同じ人の娘というだけよ。私達はお父様を介して結ばれていただけ。お姉さんは、自分でその絆を断ち切ったのよ。お父様を失った私達はもう姉妹じゃない。私はそう思うわ」

「でも貴方は私を姉と呼んでいる」

「だって私、お姉さんの名前を知らないもの」

「え?」

「そして知りたくもない。お前の名を口にしたくないからそう呼んでいるのよ、お姉さん?」

 姉は返す言葉も失っているようだった。

 夜魔は孤独の生物であり、その誕生も親の身から這い出すわけではない。その素質を持つ事象に対し、闇が命を吹き込むだけだ。

 言うなれば、闇が父であり、母なのである。

 ゆえにそもそも夜魔にとって親兄弟などという概念は無いのだ。

 ただお父様が酔狂から戯れに私達を作り、娘として観賞していたに過ぎないだろう。

 そのお父様がいない今、私はもう誰の娘でもなく、誰の妹でもない。

「それじゃあ、またね、お姉さん。次に会う時が今生の別れになる事を祈っているわ」

 お父様の血の偉大さに吹き上がっていた姉は、私が折れないのが悔しかったのだろう。

 背を向け、一瞥もくれず立ち去る私を、歯噛みするような顔で見送っていた。


次話更新11/2(金)予定



作者ツイッター https://twitter.com/yuki_anno

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